異邦の女の信仰

2024/02/18伊東教会説教「異邦の女の信仰」

(マタイ152128

上田光正

本日のわたしどもの礼拝に与えられました御言葉は、一人の女性の素晴らしい信仰についての報告です。彼女の信仰について、最後の28節を読みますと、主イエス・キリストはこの女性に、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と最大級のお褒めの言葉を与えておられます。主がおほめになった信仰は、聖書では他に1か所しかありません(マタイ810)。その意味で、わたしどもは本日の御言葉を通して、信仰とは何かを深く学ぶことが出来ます。

また、ご存じの方もおられると思いますが、本日の聖書個所は宗教改革者のマルティン・ルターが非常に愛した聖句です。ルターは、彼女の語った最後の言葉、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」という言葉の中に、聖書の信仰の真髄がすべて含まれている、と言っています。それは、人間は自分が立派だから救われるのではなくて、ただキリストの十字架の恵みによって救われる、という信仰です。わたしどもも、本日は是非、この彼女の信仰を自分のものにしたいものです。

なお、特に本日は、受難節の第一主日です。先週の水曜日から、教会の暦では受難節に入りました。受難節とは、ご承知のように、主が十字架にお掛かりになって御復活なさる直前の40日間です。その主の御苦しみと恵みの大きさを思い、わたしどもも、自分の信仰を新しくされるための、大切な40日間として守りたいものですね。その意味で、本日の御言葉にご一緒に耳を傾けてみたいと思います。

 さて、本日の御言葉は、ある女性が主のもとに来て、自分の娘が悪霊に取りつかれて苦しんでいる、どうか癒して下さい、と頼んだ、というところから始まっています。彼女は「いやして下さい」と叫び続けます。しかし主は、不思議にも、一言もお答えになりません。女性は、すがるようの気持ちで叫び続けます。「主よ、憐れんでください。癒して下さい」、と。この女性は、一人の子の母親として苦しみ続けて来ました。親にとって、わが子が病気で苦しむ姿を毎日そばで見ていることほどつらいことものはありません。もしそれが小児喘息のようなものであれば、親でなくても辛くて見るに堪えません。親なら自分が身代わりになりたい、と思うでありましょう。彼女も、もしこの子を癒せるなら、どんな犠牲を払ってもよい、と考えたに違いありません。そこへちょうど、メシアと噂される主イエスが来られたのです。彼女が死に物狂いで癒しを求めて叫び続けた気持ちはよく分かります。しかし主は、一言もお答えにならず、振り向いてさえくれそうにないのです。

本日の物語の特長は、主がこの女性の求めに対して、最初はとても冷たくて冷淡であられたことです。この主の冷淡さは、いったい、どうしたことなのでしょうか。たった一匹の迷える小羊でも捜して救うために、野を超え山を越えてでも探し回る、憐れみ深い羊飼いであられる主の御姿は、いったい、どこに行ってしまわれたのでしょうか。

* *

初めに、そのことを皆様と御一緒に考えてみたいと思うのです。これは、主が初めて弟子たちと一緒に外国に旅行をされた時のお話しです。ティルスという町はガリラヤの北60キロぐらいにある、地中海に面した港町です。しかし実は、この旅行は、主にとってはお忍びの旅だったのです。マルコによる福音書の方には、はっきりとそう書いてあります。「イエスは誰にも知られたくないと思って居られた」(マルコ724)、と書いてあります。誰にも知られたくないと思っておられたのです。しかし、主イエスの御評判はすでに外国にまで達していて、すぐに知られてしまいました。本当は主は、誰にも会いたくなかったのです。

では、そもそも主はなぜ、この時、遠い外国にまで行かれたのでしょうか。そして、誰にも知られたくない、と思って居られたのでしょうか。その最大の理由は、主は本当は、父なる神に祈るための、静かな時間を持ちたかったからです。だから、普段の生活の場を離れ、誰にも会わず、ただ十二弟子だけを連れて、しばらくの時を過ごしたかったのです。

もう一つ、皆さまにぜひ知っていただきたいことがあります。それは、主はこの時、非常に深い失望落胆の中におられた、ということです。と申しますのも、主のこれまでの伝道は、大成功だったのです。何千、何万という群衆が、「主よ、主よ」と慕って集まって来ました。普通の宗教家なら、それで満足なはずです。しかし主は、次第にユダヤ人たちの信仰に、深い失望感を抱くようになりました。

と申しますのも、民衆は決して、純粋な気持ちで主を慕い求めて来たわけではありません。民衆はどこまでもご利益しか求めていなかったからです。主イエスのことも、ただ、どんな病気でも癒し、パンをくれ、憎むべきローマを追い払ってイスラエルに独立を勝ち取ってくれるカリスマ的な人物ぐらいにしか思っていません。主はそのことに、非常に深い失望を覚えておられたのです。そして、そういう民衆のために、ご自分がいったい、十字架にかかって、何になるのだろうか、というためらいをさえ感じておられたのです。

ですから、主のお気持ちはちょうどあの、ゲッセマネの園でのお祈りの時と同じですね。ただ自分の幸福、御利益しか求めていない民衆です。だれ一人、自分の罪を真面目に考え、主の十字架による救いを有難いとは、考えていません。要するに、だれも十字架など必要だとは考えていないのです。そんな民衆のために、ご自分が十字架にかかることが、本当に父なる神の御意志であるのかを、主は本気で、父なる神にお尋ねしたかったのだと思います。そのためのお忍びの旅であり、そして、深い失意の中での旅でした。

* * *

そういう状況で、この女性に出会われたと考えれば、主の沈黙も理解出来ます。もう一度、最初から見てみましょう。

彼女は主を捜し当てると、すぐに走り寄って、「主よ、癒して下さい」と言います。しかし主はお答えにならない。どんどん先へ行かれます。十歩も、二十歩も歩き続けられます。彼女は追いかけるようにして、叫び続けます。更にこう書いてあります。

  「そこで、弟子たちが近寄ってきて願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので』と言った」

弟子たちまで、主の深い沈黙の意味を察しかねて、主よ、厄介払いしましょうか、と余計なことまで言い出す始末です。普通なら、主はそういう弟子たちを叱り飛ばして、彼女にお顔を向けてくださるのです。いったいどうしたことなのでしょうか。

しかし、先程も申しましたように、今回の主のご旅行は、伝道や癒しのためのご旅行ではありません。その最大の目的は、父なる神と静かに語り合うことです。

そして、何分か、もしかしたら3分も5分も経っていたかもしれません。ようやく主は重い口を開かれました。その最初のお言葉は、

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」

でした。わたしはこのとき、主は彼女にお顔を向けておられたのではないか、と思います。そして、心なしか、苦しい表情をちらっと表されたのではないか、と想像します。なぜなら、主のお心はまっ二つに割れてしまわれたに違いない、と思うからです。つまり、あなたは異邦人(外国人)で、ユダヤ人ではない。しかしわたしは、「イスラエルの家の失われた羊」、つまり、神に背いた、あのダメなイスラエルの人々のために、これから十字架にかかろうとしている。それがわたしが天から遣わされてこの世に来たたった一つの使命だ、と。もう少し分かりやすく言い換えますと、《今、わたしはこの神に背いた、実に罪深い、自分のことしか考えていない、しかし、父なる神が命をかけて愛しておられるイスラエルの迷える小羊たちを探している。わたしはそのために遣わされたのだ。だから、イスラエル人ではない外国人のあなたには、わたしは遣わされていない》、となります。これは人種差別なのでしょうか。もちろんそんなはずはありません。主が人種差別をするはずはないからです。では、いったい、何なのでしょうか。

しかし彼女は、諦めて帰るどころか、急いで主の前に走り出て来て、ひざまずきます。そして、「主よ、どうかお助け下さい」、とそれこそ必死の思いで頼みました。この言葉は先ほどの、「主よ、わたしを憐れんでください」よりも、ずっと重いと言われます。「わたしを憐れんでください」はよく使われる言葉ですが、「お助け下さい」は特別な場合しか使われません。彼女はひざまずき、全身全霊で主によりすがっているのです。主のお心が、激しく揺さぶられないはずはありません。それでも主は、今度は主御自身も、必死に彼女を見つめておられるようなのですが、「助ける」とはおっしゃいません。いったい、この時、どういうことが二人の間に起こっていたのでしょうか。

確かに、主は最後には、彼女の訴えを聞いて娘を癒してくださいます。ですからある人は、これは、主が彼女の信仰を試そうとしておられたのではないか、と説明します。しかしどうでしょうか。わたしにはどうもそのようには思えないのです。苦しみ抜いて必死に助けを求めている人を見て、何かご自分は少し高いところにいて、この人に信仰があるかないかを試すというようなことを、イエス様はなさるでしょうか。傲慢な人間を試すとか、そういうことなら分からない訳ではありませんが、このような場合に、彼女の信仰を試すというようなことをイエスはするだろうか。

* *

イエスはやはりこの時、この女性の訴えを心底拒否しようとしておられたのではないかと思います。主イエスは普段なら、道を歩いている時でも、助けを求めてくる人を拒まれたことは一度もありません。ある時は御自分の衣に後ろからそっと触った人に対しても、その迷信的な信仰を受け容れ、正しく導かれたほどです(マルコ525以下参照)。

しかしこの時は拒否された。これは、衝撃的なことではないでしょうか。

 これはつまり、主イエスはいわゆる博愛主義者ではなかった、ということです。自分に来る人は、だれでも無差別に平等に愛を分配する、というのは、必ずしも本当の愛とは言えません。愛というものは、いつも具体的なものです。わたしどもが人を愛する時には、必ずそこに選別があります。今、具体的に本気で「この人」を全身全霊で愛そう、「この人」を憐れもう、としている時には、「あの人」はその次です。マルコ伝5章の時も、今、長血を患っているこの人、ご自分の衣に後ろからそっと触ったこの人を癒す時には、あちらに12歳の瀕死の病人が、それこそ今か今かと待っていたとしても、今はこちらです(あの時は、その12歳の少女はとうとうイエス様が間に合わずに死んでしまい、主イエスが蘇らせてくださいましたね)。とにかく、あっちもこっちも一緒に愛することはできません。ですから、神さまの愛にはいつも「選び」があります。神の選びというものが必ずあるのです。神さまの永遠の御計画は、まずイスラエルを救う。どんなことがあっても救う。そのためにキリストは十字架につく。そして今度は、その救われたイスラエルを通して、彼らが異邦人を救う。やはり、とことんまで救う。命にかけても救う。これが、神の選びでありまして、これは、えこひいきなどでは全くないのです。

そのように考えれば、主が今は、その異邦人(外国人)である女性の訴えを無視して、イスラエルの救いのみに全身全霊を注いで、父なる神に祈って、本当に御自分が十字架に掛からなければいけないのか、と真剣に問うておられることには、十分すぎるほど十分な理由があります。ですから主は、この時は、ただひたすら、父なる神にだけ御自分の心の扉を全開にしておられたのです。御声を聴くために、外国にまでお忍びの旅をしてこられたのです。今まで通り、ただ人々の病をいやし、パンを与えて有名宗教家であり続けてよいのか。それとも、十字架にかかって人類に根本的な癒しと平安を与えることだけを、厳しくご自分の使命とする道を歩むべきか。主イエスはただ、父なる神のみ声だけに聴き従い、右にも左にもそれたくはない、と思って居られたのです。だから、本気で彼女を拒否したかったのです。

* *

そこで主はとうとう、あの苦悩に満ちた二番目の言葉を発せられました。お顔も苦しみに満ちたお顔であったに違いありません。主の二番目のお言葉はこうでした。

 「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」

つまりこれは、神の選ばれた民であるイスラエルに先ず、十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない、という意味です。「小犬」というのは、異邦人であるこの女性のことです。思わず両耳をふさぎたくなるようなお言葉です。彼女の身も心も打ち砕いてしまいそうなお言葉です。普通では、相手を「犬」呼ばわりするのは大変な軽蔑か、侮辱になります。しかしここは、「小犬」という別の言葉です。これは家で飼っている、むしろ「愛犬」というニュアンスの言葉が使われています。軽蔑の意味は全くありません。ですが、それでも普通なら、自分は排除されていることぐらい、分かるでありましょう。こんな風に言われたら、誰でも、「そうですか。そんならあんたなんかにもう頼みません」と捨てゼリフを残して立ち去ります。

しかし、その時、とても不思議なことが起こったのです。それこそ、ただ、「聖霊なる神が働いてくださった」としか申せません。「信仰の奇跡」が起こったのです。それは、この女性がこの主のお言葉を聞いて、きちんと心のドまん中で受け止めることが出来た、ということです。彼女は答えました。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。これを聞いて、主のお顔にさっと明るさが戻りました。

まず彼女は、「主よ、お言葉通りです」と、主の言われたことをきちんと肯定しました。そして一呼吸置いてから、「しかし、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます」と答えたのでした。

つまり彼女は、あのイスラエルの民にだけ集中しようとしているイエスの深い愛を、その深い理由までは分かるはずがありませんが、主がイスラエルの哀れな人たちを命がけで愛そうとしておられる真剣な御様子だけは、それこそ直感的に感じ取ったのです。あのダメなイスラエル、何の価値もないイスラエルのために、十字架を決意しておられる。その真剣な御様子の中に、彼女は冷たさをではなくて、むしろ、限りなく深い愛を感じたのです。一人の人に集中してゆく愛です。自分の命を捨ててまで、本当に一人の人、一つの民族を愛しぬく愛は、たといそれが自分に向けられた愛ではなくても、人を感動させるものです。彼女は主の愛の深さを感じ、その中に同時に、暖かさを感じたでありましょう。そしてその暖かさの中に、溢れるほどの豊かさをも感じ取ったに違いないのです。

彼女の気持ちを言葉で説明すると、こうなります。彼女はこのお方が本当に人を愛しておられるお方だということに、はっと気づいたのです。そして、主イエスに対して、いよいよ信頼の思いを深くしました。つまり彼女は、主イエスの本物の愛に触れた時に、主を信頼するようになったのです。そしてその愛の深さだけでなく、その暖かさ、豊かさまでも、理解するようになったのです。そしてその時、自分はこのお方に、すべてをお任せすればよいのだ。主イエスの愛の深さとその豊かさに、自分はよりすがろう、そうすればよいのだ、と思ったのではないでしょうか。

もちろんこの時、彼女が主のお考えのすべてを理解したとは到底思えません。聖書に書いてある、父なる神の御計画によれば、まず、イスラエルが悔い改めて、新しいイスラエル(つまり、今日の教会)が生まれる、そしてその新しいイスラエルを通して、全世界に福音が宣べ伝えられる、というのが、父なる神の初めからの御計画でした。しかし、そこまでは、彼女に分かるはずもありません。でも何かが分かったのです。そしてそれで十分でした。

* *

彼女の言葉の後半、「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」、という言葉は、そこから理解できます。

つまりこの女性は、それならば主イエスの愛は、イスラエル人ではない、その圏外にいる自分にも、注がれるのではないか、と言っているのです。自分はイスラエル人ではない。神に選ばれた選民ではない。神の独り子の十字架の愛をいただくほどの値打ちは、自分にはないし、資格もない。全くふさわしくない女である。しかし、「子犬も、主人の食卓から落ちるパンくずは頂きます」。これは決して、開き直りや卑下ではないのです。そうではなくて、主が言われるとおり、自分も自分の娘も、神さまに選ばれて愛される値打ちはない。神の子の十字架が捧げられるような、そんな資格は自分にはない。だから、もしその自分が神さまに愛され、選ばれて主の恵みにあずかるとするならば、それはただ、「恵み」としか言えない。ちょうど、一升瓶に溢れるばかりに入った水を一合枡で受けようとするときに、水は一合桝をなみなみと満たして外にあふれ出ます。主人の小犬もパン屑はいただけるのです。

恵みはどこまでも恵みであり、ふさわしくない者に与えられるからこそ、恵みなのです。自分が救われるのは当たり前だ、当然だ、と考えれば、もうその人の信仰は死んでいます。恵みは「当然だ」となった途端、もう恵みではなくなるからです。「当然である」、「当たり前だ」という信仰からは、感謝や喜びの生活は生まれません。自分は信仰を持っているから、あるいは洗礼を受けているから、あるいは毎日曜日礼拝に出ているから、天国へ行くのは当然だ。信仰はそういうものではないのです。聖書の信仰の神髄は、ふさわしくない者への恵みです。

* *

主はおっしゃいました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」その時、娘の病気は癒されました。

主は、彼女の信仰に深い感銘を受けられました。主のお顔に、深い喜びの色が浮かびました。彼女は、主の十字架の愛を、決して当たり前だとは思っていません。むしろ額面通り純粋な恵み、ふさわしくない者にも注がれる、恵みを恵みとして受け取るという信仰です。そして主は、この時から、本当に十字架への歩みを歩み始められました。本日の女性との出会いで、いよいよ主は、ご自分がこれから十字架に向かって歩み始める、ということをきちんと弟子たちにもお告げになります(マタイ1621以下)。今日のこの異邦の女性との出会いで、主はその勇気を得られたとも言えます。この女性との出会いは、恐らく、主イエスの十字架への道のりを、軽いものにしたに違いありません。

考えてみてください。周囲の誰一人として、主のお悩みや苦しみなど、知ろうともしません。民衆はただ、御利益があればよい、としか思っていません。弟子たちでさえ、まるで分っていません。そのような状況の中で、ご自分の十字架を理解してくれる人がたった一人でもこの世に居るのなら、その一人のためだけにでも、十字架にかかることは意味がある。そのように主が思われたとしても、不思議はありません。

失意とお忍びの旅の途中で、きっと父なる神は、主イエスをこの女性に引き合わせられたるために、この外国旅行をさせられたに違いありません。

わたしどもも、キリスト者とされたのであれば、彼女のような信仰をわたしにもください、と主に切に祈り願う者とさせていただきたいものであります。