わたしはあなたと共にいる

2024/2/11 受難節前第一主日礼拝  

 「わたしはあなたと共にいる」 

創世記281022  

牧師 上田文

 

 

洗礼を受けて間もない頃、日曜日になるといそいそと教会に出かける私に、イエスさまを信じていない家族からこのように言われた事があります。「あなたが信じている方は、日曜日に家族で過ごす事もゆるされない方なのか」。このような事は、どこででも起こりえることだと思います。職場であれば、「働くことよりも、礼拝を優先させよと言われるのか」。「お金を稼がなければ、命だって繋げられないではないか」と言われるでしょう。みんな、何とかして、自分の考えを押し通し、自分が考える形に物事をおさめようとするのです。家族を通して、職場を通して、自分の考えを押し通したい、願いを叶えたいと思っているので、こちらを優先しなさいと言うのだと思います。それは、教会に集まる私たちも、同じことです。「なぜ、教会に来ないのか、家族や仕事よりも教会を優先させるべきではないか」、逆に「教会より家族と過ごす時間を大切にするべきではないか」そのように言う事があるように思います。そして、自分自身が教会と家族、また教会と職場といった、教会とそれ以外の物との板挟み状態になって、途方にくれてしまうのです。

今日の聖書箇所は、このような板挟み状況に陥って、疲れ果ててしまう私たちに、神さまとその御子であるイエスさまが語りかけてくださる物語です。神さまとイエスさまが、私たちに向かって、あなたの中心にあるものは、わたし、神でありイエスであると教えてくれる物語です。

 

ヤコブは、長子の権利と祝福を長男であるエサウから奪い、エサウから命を狙われるようになりました。2741節には、エサウが、自分が貰うはずであった祝福を、ヤコブが父イサクから奪い取った事を根に持って、心の中で『必ず弟ヤコブを殺してやる』と言ったことが書かれています。ヤコブは、このことによって、ハランという地に逃亡することになりました。ヤコブとその家族が住んでいた所は、ベエル・シェバという所です。そこからハランは直線距離で歩いたとしても、何千キロもあります。その道のりをたった一人で、しかも逃亡するのですから何も持たずに歩き続けるのです。

 

ヤコブは、なぜこのような事になってしまったのか、もう一度考えてみたいと思います。ヤコブは、エサウや父イサクを大切にしなかったのではないでしょうか。もちろん、家族ですから日常の家族の交わりはあったことでしょう。しかし、このように思います。彼は、大切な局面で自分の事だけを考えて行動してしまった。ヤコブは、長子の権利と祝福を何としてでも手に入れるためならば、家族を少々傷つけたってかまわないと思ったのではないか。きっと、家族だから、きっとまた自分のことを受け入れてくれる。時間が解決してくれるくらいに思っていたのかもしれません。そして、欲望のままに自分が望んだものを手に入れました。自分の望みを叶えるために、相手を傷つけてしまったのでした。とても自己中心的な行動をしたのです。その自己中心性が、エサウの怒りをかい、彼は逃亡しなければいけなくなったのでした。

 

自分の望みを叶えるために、相手を傷つけてしまう。自己中心的な行動や考えをするということは、私たちにもあります。この仕事を達成するためには、少しくらい誰かを傷つけてもかまわない。何かを手にいれるためには、少し罪を犯さなければならないと、小さな罪を肯定してしまう事があります。それは、自分の事だけではありません。家族を自分の思うように整えようと考える場合は、家族のためだったら、それ以外の人との交わりが薄くなるのは仕方がない。教会だって同じです。教会を自分の思う形にしたいと考える時に、少しくらい誰かが犠牲になっても仕方がないと考えてしまいます。このことは、さらに大きくなると、大きな戦争になっていきます。自国中心主義が戦争を巻き起こしている事は、私たちが良く知っている事でもあります。しかし、よく考えてみると、それは、私たちが家族や教会を使って自分の目的を達成しようとしている、その事と同じことではないかと思うのです。

 

人を少しずつ傷つけながら、自分のやりたい事を達成したヤコブは、どうなったでしょうか。人に与えた傷が積もり積もって、あんなに手に入れたかった長子の権利も祝福も全て置いて、逃げ出さなければならなくなりました。人々の交わりの中で、その間を上手に泳ぎ、人を利用し、傷つけて、自分のやりたい事や欲しい物を手に入れたヤコブは今、人も天幕も、そして欲しかった物さえ何もない、孤独の中で旅をしているのです。この孤独を経験するのは、ヤコブだけではありません。自分の事だけを考えていた結果、仲間が居なくなってしまった。家族の事だけを考えていた結果、家族以外の人との交わりを失ってしまった。教会の事だけを考えた結果、教会に来ていない人との交わりを失ってしまった。ふと顔をあげると、あの場所、この場所に帰れなくなってしまった。あの暖かな交わりを失ってしまったということが、私たちにもあります。自己中心的になり、何かを達成しようとした結果、それ以外の物を失う。ともすれば、その中心に置いていたものさえも失ってしまう。私たちもまた、ヤコブのように、家族を使って、教会を使って、自分の目的を達成しようとした結果、全てを失い、孤独の中を旅しなければならなくなることがあります。

 

そのような孤独な旅を続けていたヤコブですが、「とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」(11)と聖書にあります。もちろん、宿屋(やどや)や民家に泊まったのではありません。町から離れた野原に野宿したのです。人の間で、人を使ったり、騙したりしながら上手く泳いで生きてきたヤコブは、今、人から追われる身となりました。だから、彼は、あえて獣はいるけれども、人が居ない野原に身を隠したのです。天幕も、訪ねて来る人も居ない、だれとも交わりのない野原で、彼は一人、石を枕にして眠りについたのでした。

 

 しかし、神さまは彼が孤独になるのを待っておられました。人々を上手に動かし、自分の手に入れたい物を手に入れる。このような自分が中心になるような生き方をしている時は、神さまの声が聞こえません。自分の周りにいる人の声しか聞こえないのです。

「祈る時にも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(マタイ6:5)と、イエスさまが教えてくださいました。偽善者たちは、自分の事を良く見せるために、人々が見えるところでお祈りをしていました。上手に人を使って、自分の目的を達成させるためです。神さまは、ヤコブのことも、私たちのことも、偽善者と同じように見ておられたのです。人に良く見せたいと思い、自己中心的な欲望を達成させるために、私たちは、祈る時でさえ、人を意識します。神さまを意識するよりも、自分の目の前にいる人々を意識してしまうのです。人々がこの祈りを聞いたらどう思うかと考えるのです。どのようにすれば、人を感動させ、恵みを受けたと言ってもらえるかと考えるのです。私たちは目に見えない神さまを意識するよりも、目に見える人を意識してしまうのです。だからこそ、イエスさまは、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6:6)と教えてくださいました。神さまを見なさいと教えてくださるのです。真の神さまを信じなさいと教えてくださるのです。人々の中で、上手く生きよう、沢山の物事を手に入れようとするのではなくて、ただ神である私だけを見なさいとおっしゃいます。奥まった自分の部屋で祈る時、孤独の中で祈りを捧げる時、神さまは、私たちと真に深い交わりを持ってくださるのです。たった一人で、石を枕にして寝なければならないような夜。そのような孤独は、神さまが私たち一人一人を神さまに向かわせるために備えてくださった恵みであると言えるのかもしれません。神さまは、ヤコブに一人きりの孤独な旅をさせる事によって、神さまを信じる者に変えてくださったのでした。神さまの恵みを自分のものにしたいと願うものから、神さまを真に信じる者へと変えてくださったのです。

 

 この夜、ヤコブは夢を見ました。12節には、「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神のみ使いたちがそれを上(のぼ)ったり下(くだ)ったりしていた」とあります。階段は天から地に伸びていました。しかし、私たちは情景を読み違えてしまうことがあります。先ほど、讃美歌の320番を歌いましたが、この歌詞は少し間違っているように思います。この歌詞は、私たちが階段を一歩一歩上がって、主のみもとに近づくのだと歌っています。この歌のように、神さまに出会おうとするのならば、ヤコブは、悔い改めて、階段を上って行き、天の父なる神さまに救いを求めると考えてしまうでしょう。階段を一歩一歩上がって、主のみもとに近づくべきだと考えてしまうのです。しかし、そうであるならば、わたしたちは、息苦しくなり、神さまとの交わりなど持つ事が出来ないように思います。私たちは、孤独になったのならば、また再び自分の話を聞いてくれる人を探しはじめます。それと同じように、神さまを探すのです。自分が孤独から解放されるために、自分が神さまに救われるために、神さまに出会いたいと願うのです。だから、自分の願いを叶えるために、救われたいと言う願いを叶えるために階段を上がるのです。そして、いつになったら神さまは、私に出会ってくださるのだろうと、どこまで上がったら神さまがおられるのだろうと、階段を上がり続け、息苦しくなってくるのです。

 しかし、聖書には、階段は天から地に伸びていた。しかも神のみ使いたちがそれを上ったり下ったりしていたとあるのです。神さまと深い交わりを持つためには、神さまがいてくださるという信仰が前提になっているということです。「わたしはある」と私たちに教えてくださる神様は、私たちと共にいてくださる神さまです。だからこそ、階段は天から地に伸びているのです。神さまの方から私の所に近づいてくださり、もう既に私たちと共にあってくださるのです。だから、「わたしはある」とおっしゃってくださるのです。

孤独の中で旅を続けたヤコブは、ここにいてくださる神さまを知る事になりました。イエスさまが私たちに「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」とおっしゃるのはこのためです。奥まった誰も居ない部屋で祈るのは、とても難しい事のように思います。返事がない電話に向かって一人で話し続けるように息苦しくなると思います。そして、私たちは、また返事を求めて自己中心的になり、返事を探し続けるように思います。しかし、階段は天から地へと伸びているのです。神さまは、もう既に、私たちと共にいてくださいます。ですから、神さまは、当然、返事をしてくださっています。聞こえないのは、私たちが多くの人の中で、人々の声を聞き、神さまの声を無視して自分の望むままに生きようとするからなのかもしれません。

 

 神さまは、この夢によってヤコブに何を告げられたでしょうか。13節以下にそのみ言葉が示されています。神さまは、ヤコブに、あなたが今横たわっている土地をあなたとあなたの子孫に与える、と約束してくださいました。また、あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなって世界に広まり、地上の氏族はすべてあなたとあなたの子孫とによって祝福に入る、と約束されました。さらに、「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」と約束してくださいました。

 しかし、この言葉を聞くとき私たちは、このように思います。自分さえ良ければよい。他の人は自分の幸せのためなら騙しても、利用してもよいと考え、自分の繁栄のことしか考えなかったヤコブに、このような約束をしてもよいのだろうか。そのような約束をしたら、ヤコブはまた、自分勝手に生きるのではないだろうか。そのように思うのです。けれども、神さまは、そういう人間を選ばれ、出会ってくださり、信仰を与えてくださいます。ヤコブは、罪を犯し、家族から離れ、追い詰められて、神さまを見上げるしかないような状況になってから、やっと神さまに心を向けることが出来ました。神さまの御声を聞く時、聞く私たちがどんな人間かということは、問われません。私たちがどんな事をしたかよりも、静まって神さまを信頼して生きるとき(詩46)、神さまは私たちに語りかけてくださり、祝福を与えてくださいます。私たちが、神さまを信頼する時、神さまは私たちに生きる本当の目的を教えてくださいます。自分の力では満たされない人生を、神さまが満たしてくれるのです。自分の欲望を満足させる以外の、真の生き方です。「あなたは、地上のすべての人々に祝福をもたらすために生きるのだ」と神さまのみ心を教えてくださいます。このみ心は、私たちが、自分の力で天に上るような形で実現するようなものではありません。「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに居ても、わたしは、あなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と言われる神さまに、信頼し、聞き従うことで、叶えられていくのです。この約束は、そのまま神の民、イスラエルの子孫とされる私たちにも当てはまることです。

 

 ヤコブのその後の人生も苦難の連続でした。家族を騙した彼は、今度は親族から騙され続けることになります。なにも持たず、親族の所に身を寄せるヤコブはそれに耐え続けなければなりませんでした。また、彼の結婚生活も複雑なものになりました。主が共にいてくだるという事は、苦難がなくなるというわけではありません。苦しみの中にあっても、守られ、癒され、鍛えられながら、主に希望を持ち続けるということです。行き詰りになっても、さらなる希望が与えられるという事です。イエスさまに従うパウロは、このように言いました。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方にくれても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」(Ⅱコリ4:8-10)。神の子であるイエスさまが、神さまと私たちを繋ぐ階段となり、また階段を下って私たち一人一人の所に来てくださいました。パウロは、このイエスさまがいつも私たちの中にいて下さる。この命は、イエスさまの命となるのだと教えてくれます。わたしたちは、イエスさまが与えてくださった命を生きているのです。だからわたしたちは、神さまが与えてくださる人生に大きな希望を持って生き続けるのです。

また、私たちの中に生きてくださるイエスさまが、私たちの罪の赦しを宣言してくださり、神さまが導いてくださる祝福を告げてくださるので、私たちは、途方にくれず、打ち滅ぼされることなく、祝福を与えられた者として、神さまに与えられた人生を歩み続けるのです。

 

 眠りから覚めたヤコブはこのように言ったとあります。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(16)。ヤコブは、ここで初めて神さまに出会ったと思っていますが、神さまはヤコブが生まれる前から、ヤコブのことを知ってくださっていました(エフェソ1:4)。さらに、今まで何度もヤコブに語りかけてくださいましたが、「しかし、ヤコブよ、あなたはわたしを呼ばなかった」(イザヤ43:22)と神さまはおっしゃいました。主なる神が共におられるのに、そのことをしらずにいる、それがわたしたちです。主が共にいてくださるのに、そのことを無視して生きている。それが私たちの罪であり、弱さです。「わたしは知らなかった」と言ったヤコブは、この時初めて、自分の弱さと罪を知ったのでした。そして、そのような弱く罪深い自分と共にいてくださる神かみさまを始めて信頼し頼るようになったのでした。兄を騙し、父から祝福を奪った時、主なる神がそこにいてくださいました。自分の罪のために故郷を追われて逃亡しなければいけなくなった時、また、孤独の夜の中でも、神さまはいつも共にいてくださいました。ただ、人々と自分の欲望を満たすために生きているヤコブの目には、神さまが映らなかったのです。しかし、神さまは、彼に出会うために、孤独を備えてくださり、彼の所に降りてきてくださる階段の夢を見せて下さり、神さまが彼と共におられる事を示してくださいました。同じように、欲望のままに生き、そのために行き詰まってしまう私たちと、主は共に生きていてくださいます。共にいてくださるイエスさまと生きる時、わたしたちもまた、この方と深い関わりの中で、神さまに与えられ、イエスさまによって救われた命を生きることがゆるされるのです。

 

 神さまとの関わりの中で生きるとはどのようなことでしょうか。そのことを、ヤコブは17節の言葉で表しています。ヤコブは、恐れおののいて言いました。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(17)。ヤコブは「わたしはあなたを祝福し、あなたと共にいる」というみ言葉を聞いて、「ああよかった。これで安心して生きられる」と思ったのではなく、むしろ「なんと畏れおおいことか」と思ったのです。常に共に居てくださる神様と共に生きるということは、恐れを伴うという事です。なぜなら、神さまが共にいてくださるというのは、わたしたちの、目に見えないような罪さえも神さまが見ておられるということだからです。神さまを畏れることを知らないならば、わたしたちは、神さまを自分の望みを叶える手段の一つくらいにしか理解できないように思います。

悪霊にひどく苦しめられる娘を持ったカナンの女の信仰を思い出します(マタイ15:21-28)。彼女は、「わたしを憐れんでください」とイエスさまに叫びました。しかし、イエスさまは答えてくださいませんでした。なぜなら、彼女が本当に助けて欲しいのは、娘ではなく、悪霊に憑(つ)かれた娘を持つ可哀想な自分だという事をイエスさまは見抜かれていたからでした。あなたは、自分の望みを叶える手段として、私イエスの憐れみを利用しようとしているとイエスさまは、言われたのでした。しかし、彼女はこの時、神さまを畏れることを知ったのでした。そして、自分の隠された罪まで見抜かれるイエスさまにひれ伏しました。そして、「主よ、どうかお助け下さい」「子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」と助けを求めました。娘を愛せない自分をどうか助けてくださいと、隠された自分の罪を見抜かれるイエスさまに、恐れを持ってひれ伏し、大胆に主の御前に立とうとしたのでした。イエスさまは、彼女に言われました。あなたの信仰は立派だ。

信仰とは、生きておられる神さまの御前に恐れを持って立つことから始まります。わたしたちは、どこででも、どんな時にでも、イエスさまと共に生きて、イエスさまが私たちと繋がり、私たちの中で生きて居てくださらなければ、何も解決できず、命さえ繋ぐことが出来ないのです。何故なら、私たちは神さまを忘れる時に、目に見えない罪を絶えず犯し続けるからです。神さまとイエスさまの前に恐れを持って立ち、繋がり続ける時、私たちは、罪の赦しと祝福を受け、救いと真の命を生きる事が赦されます。板挟みになり、行き詰づまることは、なくなります。いつも、イエスさまに与えられた命を生きる事のみを求めるようになるはずです。

 

 この生ける神さまに出会った者は、神さまを礼拝せずにはおれません。18節には、「ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油をそそいだ」とあります。ヤコブは、その場所を礼拝の場としたのです。神さまが彼の傍らに立って、語りかけてくださった場所を、彼は聖なる場としたのです。そして、その場をベテル(神の家)と名付けました。たったひとつの何でもない石を立てた場所。神さまに語り掛けられた場所。この聖なる空間は、彼が何処にいよう、どんな事をしていようと、帰って来て静まり神さまと交わりを持ち、命を与えられる場所となりました。神さまが共にいてくださり、私たちに語りかけてくださり、私たちの罪を赦して下さり、祝福を与えてくださるのだという事が証される場所は、たった一つの石を立てた、それだけの場所であっても、聖なる空間、礼拝の場となるのです。この恵みは、今、神さまの独り子であられるイエスさまによって、私たちに与えられています。イエスさまは、家族の中にあっても、教会であっても、そして仕事場であっても、あなたは、わたしに繋がっていなさいと言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)と、言われました。そして、わたしたちがイエスさまに繋がるために、静まって神さまと交わりをもつ所、教会を建ててくださいました。イエスさまご自身が、私たちのために、ベテルを立ててくださったのです。私たちは、ここでイエスさまのみ言葉を聞き、イエスさまと共に祈り、イエスさまと共に生き続ける時、人を傷つけて手に入れるような恵みではなく、全ての人々が救いに与(あず)かるための真の恵みが与えられます。私たちは、ヤコブのように、聖なる場を大切にし、礼拝を捧げる者となるとき、祝福を受け継ぐ者とされ、いつでも、どこでも、イエスさまと共に、このイエスさまを証する者とされるのです。

 

 ヤコブは、「あなたがわたしに与えらるものの十分の一をささげます」と言いました。ヤコブは、わたしに与えられる全ての物は、神さまの物です。その神さまに生かされている私は、神さまの物です。神さまの物である私は、神さまの働きのために、地上の人々がすべて神さまの祝福に入れられる、その働きのために、この身をお献げしますと言ったのです。

私たちも、ヤコブのように、共にいてくださるイエスさまを畏れ、この方に与えられる愛と命に感謝をもって、礼拝を捧げ、献身し続ける者となりたいと思います。神さまはいつもわたしたちに語りかけ、導いてくださっています。

 

 イエスさまは、このように教えてくださいました。

「あなたがたが、わたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。

 イエスさまによって清くされた私たちは、このみ言葉に従いたいと願います。