互いに仕え合う教会

2024/1/28伊東教会礼拝説教

「互いに仕え合う教会」

マルコ10・35~45

上田光正


人間というものは、割と誰でも、自分が仲間からどのぐらい評価されているかを大いに気にします。できれば自分がトップに立ちたい、と考えたがる動物です。いわゆる権力闘争をしたがるのです。そしてそういう人はいつも、自分は指導者層で第何位なのかが気になります。それが一番現れるのが、共産主義社会ですね。何かの祝祭日の時に、必ず指導者たちが民衆の前に、権力がある順に,一位、二位、三位と、並んで顔を見せます。

それに対して、主イエス・キリストは先ほどご一緒にお読みしました聖書の箇所で、それと正反対のことをおっしゃいました(43節)。

 「あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」

これは、主が三度目にご自分の受難の予告を為された、その直後の出来事です。主がわたしどもを罪から救うために死ぬ、という重大なお言葉が語られた後です。御承知のように、マルコによる福音書では、主イエスはご自分がこれからエルサレムに上り、十字架にお掛かりになって三日目に甦るという予告を、全部で三回なさっておられます。三回というのは、文字通り三回という意味ではなく、何度も繰り返し、という意味です。しかし、その度に弟子たちは、何を言われているのかさっぱり分からず、ただただおじまどい、「それはどういうことですか」とあえて質問する勇気さえ、出ないほどでした。

しかもそれどころか、とんでもないふるまいをしたのです。弟子たちの中のヤコブとヨハネの二人が、こっそりと主イエスの前に行き、「先生、あなたがもし、栄光の座におつきになったあかつきには、わたしたちの一人をあなたの右に、一人を左に座らせてください」と、突拍子もない願い事をしたのです。主イエスがご自分にとって、一番大事なことをおっしゃいました。御自分が全人類のために死ぬ覚悟だ、ということです。そのときに、まるでそんなことは聞かなかったかのように、実に俗っぽい、自分たちだけ特別出世させてください、という話です。

そう言えば、二回目の受難予告の時もそうでした(マルコ93337)。主はおっしゃいました。「わたしはこれからエルサレムに上って十字架に掛かる。そして三日目に甦る」。すると聖書には、その次にこう書いてあります。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」、と。そして、あろうことか、弟子たちは、「自分たちのうち、だれが一番偉いか」という議論を始めた、というのです(マルコ934)。今日のところと全く同じですね。あまりにもちぐはぐです。実に出来の悪い弟子たち、と言うより他ありません。

主は非常に心を痛められました。一番悲しいことは、こういう、「誰が一番偉いか」という話題が、主の御受難の話の直後に出る、ということです。こんな出来の悪い12人に、「不肖の弟子たち」に、ご自分の亡き後、本当に教会を任せられるだろうか、と考えられたに違いありません。もちろん、他の10人の弟子たちも腹を立てました。自分たちを出し抜いて、いわゆる「抜けがけ」をやったわけですから。しかし主だけは、深く悲しまれたのです。

そこで、主が12人全員を呼び寄せてお話しなさったのが、本日の御言葉です。

主イエスには、十字架にお掛かりになる前に、是非とも弟子たちに教えておかなければならないことが二つありました。その第一は、御自分の十字架の意味です。十字架は決して敗北ではなく、神の愛の勝利であることを教えなければなりません。第二は、御自分の亡き後、弟子たちがちゃんとした教会を作り、全世界に出て行って御国の福音を宣べ伝えるようになることです。主が願っておられたのは、誰かが誰かを支配する教会ではなくて、お互いに仕え合う教会だったのです。これはわたしどもにとっても、非常に大事なことです。

わたしどもは、俗世間を離れて、教会に集められました。「離れて」と言っても、また帰って行きますが、とにかく、キリストの愛を知って、ここに本当の救いがあり、自分たちの生きる本当の道がある、と確信して主を信じる者とされたのです。

17世紀のイギリスに、ホッブスという有名な哲学者がいました。彼が遺した言葉に、「この世界は、万人の万人に対する闘争の世界だ」という有名な言葉があります。この世界は、一歩外に出ると、すべての人が、すべての人に対して戦っている。だれもが、自分が王様になりたい。自分だけが偉くなって世の中を思うように動かしてみたい。課長よりは部長、部長よりは役付きと、上を見たら切りがないのに、まるで「上昇志向」のかたまりです。そしてお互いがお互いの足を引っ張り合い、いどみ合い、殺し合っている。だから世界は「万人の、万人に対する戦争だ」、というのです。わたしどもはそのような世界を後にして、主イエスの御許に来ました。それは、「万人の万人に対する愛と赦しの世界」です。それが教会です。それならば、教会とはどういうところなのでしょうか。

先ほどの42節以下の主の御言葉を、もう一度お聞きしてみましょう。

「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、信仰のない人々の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。』」

本日は、この御言葉で主が何をわたしどもに語っておられるかに、静かに耳を傾けたいと思います。

 初めに一言ご注意申し上げますが、主はここで、ヤコブとヨハネの二人の弟子たちの願いを完全に否定されたわけではありません。彼らはある意味では、主イエスを信頼し、どんな困難があってもついて行きます、と言っていることになります。そのこと自体を、主は否定しておられません。しかし、彼らは自分たちが何を願っているのか、分かっていません。そこで主はおっしゃいます(38節)。

「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか」

主がお受けになる「杯」というのは、十字架にお掛かりになるという「苦しみの杯」のことです。「バプテスマ」は「洗礼」ですが、昔の洗礼式は、いったん水の中に全身が沈められて、また出て来ます。これは、古い自分に死に、新しい自分としてよみがえるという意味です。つまり主は、あなたたちがわたしについて来るのは良い。しかし、わたしが歩む道は十字架への道だ。つまりこれは、最後に殉教する、ということまで含んでいます。彼らは即座にきっぱりと、「できます」と答えました。二人はその意味がよく分かっていないまま、「できます」と答えたのです。しかし主は、誰がわたしの右や左に座るかは、父なる神がお決めになることだ、とお答えになりました。

主はわたしどもが自分に与えられた様々な能力や賜物を活用し、更にそれらを磨いて立派なものにして、世の中や教会のためにご奉仕すること自体を否定はされません。しかし、それは「万人の万人に対する闘争」という、この世の原理によってではなく、「万人の万人に対する愛と赦し」の原理によってしなさい。そして、そういう教会をつくりなさい、とおっしゃられたのです。

 それから主は、本日の御言葉を語りになりました。

本日の御言葉は、「人々から尊敬されたいなら、人々に仕える者となり、人々の僕になりなさい」と言っています。聖書の「僕」という言葉は、元は「奴隷」という言葉です。この主の御言葉を理解するためには、その次の、45節の御言葉をまずきちんと理解しなければなりません。45節の御言葉は、主イエス御自身の自己紹介です。主の歩む道について、それは「僕の道」である、と言っています。もう一度お読みします。

  「人の子(主イエスのことです、「わたしは」と読み替えてもよいです)わたしは、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」

 と書いてあります。

 これは聖書の中でも、主の十字架の意味を説き明かした、非常に重要な聖句の一つです。

「仕える」という言葉が、ここで非常に大切です。仕えるというのは、お仕えするということですから、自分が相手よりも下に立つことですね。僕となることです。人間はどんな人でも、先ほど申しましたように、他人よりも上に立ちたいという、上昇志向を持っています。そしてそれが、わたしどもの中の「罪」と結びつきますと、たちまち他人を蹴落としてでも自分が上に立ちたい、権力を握りたい、王様になりたい、となって、それが「万人の万人に対する闘争」の社会という、わたしどもの現実の世界を形づくっているのです。

ところが、主イエスだけは、正反対です。主イエスは、神であられるにもかかわらず、われわれ全人類が救われるために一人の人となって、「僕の道」を歩まれました。馬小屋の飼い葉桶の中に生まれ、人々に仕えました。その究極の行き着く先が、われわれ全人類を「罪」の力から解放し、あらゆる病や苦しみをも背負い、御自身の尊いお命をわたしどもの身代わりに十字架上で献げ、その代わり、わたしどもに御国の命を与えて下さったのです。「多くの人の身代金として」というのは、われわれが皆「自分が」「自分が」と言って自分の事ばかり考えて生きようとする、その「罪」の力から、わたしどもを解放してくださった、という意味です。

ですから、ただ今の45節は、主イエスの愛に満ちた御生涯を表した聖句です。これは主の自己紹介です。そしてそこから、その前の、43節と44節は、わたしどももそのように生きなさい、という主の諭(さと)しを理解するのが、正しい理解の仕方です。

そのように申しますと、たいていの人は早とちりして、《そうだ、みんな「自分が、自分が」と言っている権力志向がいけないのだ。それと正反対の、主イエスの愛に満ちた生き方こそわれわれの模範だ。みんながそのように生きれば、きっと世の中は明るくなる、ウクライナでもパレスティナでもすぐに戦争がなくなり、この世は天国になる。主イエスを模範として生きよう》、と考えます。この考え方の場合には、主イエスは「模範」ですね。わたしどもの鑑(かがみ)です。

しかしそれは、主がおっしゃりたかったことの半分なのです。それよりも無限に大切で重要な半分が、その前に来なければなりません。それは、わたしども自身が、その主の御愛を受けて、救われている、ということを知ることです。なぜなら、主はわたしども一人ひとりに、「僕」(しもべ)として仕えてくださいました。そのために、命をささげてくださいました。これが、すべての事の「根本」にある、根源的な事実なのです。「僕」ですから、「下」です。主が「下」で、わたしどもが「上」です。

「模範」の場合は逆ですね。主が「上」で、わたしどもが「下」です。

ですから全体はこうなります。まず、主がわしどもに仕えてくださった、十字架上で命をささげてくださった、という根源的な事実が、「根本」にあります。そしてわたしどもは、自分がその愛を受け入れた時に、初めて、罪の力から解放されます。そして、そうなったときに初めて、その主イエスを自分の生きる「模範」として――模範ですから、今度は主が「上」ですね――生きることができるようになるのです。そうでない限り、つまり、主がわたしどもの「僕」として仕えてくださった事実を受け入れ、主の尊い御愛を信じない限り、わたしどもは主を「模範」として、主と同じような愛の人として生きることはできないのです。わたしどもは罪の力にがんじがらめに縛られております。だから出来ないのです。

人間の罪というのは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という短編小説が分かりやすいと思います。こういうお話です。ある日、お釈迦さまが極楽の蓮の池のほとりを散歩して、ふと下を見ると、はるか下の方に地獄があり、犍陀多(かんだた)という男が、血の池で苦しみもがいていた。犍陀多は生前、殺人や放火など、凶悪な罪を沢山犯した大泥棒であった。しかしそんな彼でも一度だけ良いことをしていた。道ばたの小さな蜘蛛の命を思いやり、踏み殺さずに助けてやったことがある。それを思い出したお釈迦さまは彼を救ってやろうと考え、地獄に一本の細い蜘蛛の糸を垂らした。犍陀多は「何と有難いことよ」と思い、早速その蜘蛛の糸を掴んで一生懸命上へ上へと昇り始めた。途中で少し休んで、ふと下を見ると、何と、何百、何千という罪人が、自分の後から同じ糸にしがみついて上ってくるではないか。これでは糸が切れてしまうと考えた犍陀多は、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれ様のものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫んだ。すると突然、蜘蛛の糸は犍陀多がいるすぐ上でぷつんと切れてしまい、彼は罪人たちといっしょに暗闇へと、まっさかさまに落ちてしまった、という話です。

このお話は、芥川龍之介が人間の中に巣食う罪の深さを表したお話として有名です。

主イエス・キリストは、聖書によれば、ただ天国から一本の細い糸を垂らして、「ここまで昇っておいで」と言われたのではありません。御自分が一人の人となって天から降り、わたしどもの罪を身代わりに背負い、十字架上で罪を取り除いて御国の命を与えて下さったのです。だから、この神の愛を信じて受け入れれば、キリストに従うことができます。信じなければ、どんなにいろいろと知恵を尽くしてみても、この世界に「愛と赦しの世界」を実現することはできないことは、皆さまもよくご承知の通りです。

このように、主はわたしどもに御自分の命をささげてくださいました。神は、わたしどもよりも下に立って、わたしどもに仕えてくださいました。そこに、神の「栄光」があります。神の栄光とは、何か神さまが上にあって偉いというのではなく、キリストの十字架が栄光なのです。わたしどもを愛して、その御独り子をこの世に遣わし、わたしどもを罪から救ってくださることが、神の栄光です。だから、キリストの十字架が、神の栄光です。それによって、この世の一番下にいる者、あるいは一番不幸せな者までが高く引き上げられ、神さまの愛で愛される愛が、成立します。そしてこれが、神様のなさり方だ、とおっしゃるのです。神様は上へ上へと昇る上昇志向ではありません。下へ下へと降って、すべの人よりももっと下に行って、すべての人と一緒に生きて、すべての人を豊かな愛で包み、すべての人からあがめられる御方です。そしてイエス様がお造りになるのは、そういう「互いに仕え合う教会」なのです。

そうであるとすれば、教会とは、どういうところなのでしょうか。主は、教会は、互いに仕え合うところだ。上なる者が下に立ち、お互いがお互いに仕え合う。その目的は、主の栄光がほめたたえられることですそれですから、わたしどもがここに集められたのは、神の栄光が現れ、この世の人たちの誰もが、神の栄光を仰ぎ見るようになるためなのです。

そうであれば、わたしどもの伊東教会を、わたしどもはどういう教会にしたいと願ったらよいのでしょうか。もっと正確に言えば、主によってして頂きたい、と願うのでしょうか。それは、凡ての教会員が、互いに仕え合うことによって、神がほめたたえられ、神の栄光を表すような教会にして頂くことではないでしょうか。そのようにして、ここを訪れる人が誰でも「いい教会だな」「ここに自分の本当に落ち着く居場所がある」と思い、次第にキリストの愛が分かり、その十字架の御栄光がほめたたえられるような教会となることではないでしょうか。その十字架の主が崇められるようになれば、世界は平和になります。もう、人間は上へ上へと昇る必要がなくなるからです。神がここに、下に来てくださったからです。神は、互いに仕え合う人々と共におられます。そしてわたしどもに、自分にできることを通して、たくさんの人を本当に幸せにすることが、本当に価値のある、尊いことなのだ、と教えて頂いたのです。

ところで、一つの社会には、必ず全体を良い方に導くリーダー的な存在がいます。山登りで申しますと、一つの登山グループで一番ベテランの登山者は、必ずみんなの先頭ではなく、しんがりを務めます。一番しんがりについて、弱って脱落する者が居ないかどうかに気を配りながら登ります。時にはその人の荷物を代わりに背負います。あるいは、昔は、一つの家には「家長」と呼ばれる人がいました。家長は家族で一番上に立っているようにも見えますが、本日の主の御言葉に従えば、家族の中の一番弱い者に仕え、全員に仕えるのです。そのようにして、その家全体の責任を負います。彼はときには、全家族のために自分の命を投げ出すこともあります。そのようにして、家族同士、兄弟姉妹が、共に仕え合う幸せな家庭が生まれます。本日登場した、ヤコブとヨハネの二人の弟子は、実際に主イエス亡き後、その御足の跡を踏んで最後には殉教した可能性が高いようです。

これに相当する存在が、教会で言えば牧師です。この牧師について、日本基督教団では「招聘制度」を取っているので、時に誤解が起こりやすいのです。「招聘」と言うと、教会が牧師を「お招きする」ということですから、しばしば、自分たちが「雇っている」という錯覚が起こりやすいからです。また、信徒がいやになったらどんな手段を使ってでも追い出して好きな牧師を呼んでもかまわないという錯覚が起こります。しかし主は、「あなたがたの間では、そうであってはならない」、と言われました。きちんと、役員会で丁寧に知恵を尽くして話し合うことが大切です。役員会のテーブル以外のところで行ってはいけません。

牧師の方も、ともすると、自分が雇人だという錯覚に陥ってしまう危険性があります。すると、狼が来ると羊を捨てて逃げます。「羊が自分のものではない雇人は、狼が来ると、羊を捨てて逃げ去る」(ヨハネ福音書1014)のです。しかし、そうであってはいけないのです。

牧師は本来、主から遣わされた人です。主イエスから委ねられた自分の羊である信徒一人ひとりを、神の羊として愛し、御言葉によって養い育てます。牧師は一番下に立って、教会員に仕えることによって、キリストに仕えます。その最大の奉仕の場は、御言葉によって教会を養うという日曜日の説教と、そこから出て来る日々の牧会です。

わたしは先日、ある役員さんに申し上げました。役員は教会員の「いと小さき者」に仕えることによって、主に仕えるのです。その際最も重要なポイントは、牧師に仕えることによって、牧師が一番御言葉に奉仕しやすいように、仕えるのです。そのために役員会を形成します。そして、すべての教会員が、すべての教会員に互いに仕え合う。そのようにして、神の栄光を表す教会が形成されるのです。そのために、わたしどもは召されたのではなかったでしょうか。