今日与えられる解放

主を待ち望む我らの上に。


我らの上にあるように

 それぞれの福音書を見ますと、イエスさまがどのような言葉をもって宣教を始められたのか、ひもとくことが出来ます。マタイとマルコではこうなっています。「時は満ちた、神の国は近づいた」。対してルカは、こう始めるのです。「この聖書の言葉は、今日あなた方が耳にしたとき、実現した」。「実現した」という言葉と「満ちた」という言葉は同じです。つまり、ルカは、満ちて実現するのは、時ではなくて聖書の言葉なのではないか、と読む者に問うのです。時が満ちるというのは、なんのことだか直感的に分かります。しかし、聖書が満ちるというのはどういうことでしょうか。私どもは、このルカ福音書の前に立たされたときに、その問いを投げかけられるのです。

 2024年が始まりました。A.D.2024と申しまして、「主の年2024年」というのが正しい呼び方です。今日の聖書箇所から分かりますのは、もっと正しい呼び方があることに気づくべきだ、それは主の恵みの年2024年と呼ばれるべきではないか、ということです。主の恵みの年というのは、50年に一度訪れる特別の年(ヨベル)です。もともと、貧しさ故に自分で自分を奴隷として売りに出した場合、奴隷の期間は七年と決まっていまして、七年間のご奉公が終わると、解放されます。売り買いがされていても、最初は七年分の価格ですが、最後の一年は七分の一になってしまう、そして翌年には解放されるのです。最長七年という制度は他にも関わっておりまして、田畑に何かを植えて育てる場合にも七年ごとに一回休みを入れることになっていました。七年経つごとに小さな解放があるのです。そして七の七倍の翌年、つまり五十年ごとに大豊作が期待できるというので、そして大解放が期待できるというので、人々は喜びにあふれます。

 主の年、いえ主の恵みの年2024年がやって来ました。私どもが「また来た新しい年」と消極的に考えるのか、それとも「解放の喜びを迎える年」と期待するのかは、年の始まりに当たって大きな違いにつながると思います。解放の喜びを期待するような年の始まりを迎えるために、一体何が必要でしょうか。それは、この宣教の始まりの部分と、そしてルカ福音書における終わりの部分を比較したときに分かります。終わりの部分とはどこかと言えば、主イエスが十字架にかかって言葉を述べる、その部分が終わりです。なんという言葉で宣教を、つまり十字架にかかる前のご生涯を終えているのかに注目をすればよいでしょう。すると分かるのが、今日の箇所でいうと「解放」、そして十字架上の言葉でいうと「赦す」、両者は聖書の元の言葉では同じ言葉なのですが、これがルカ福音書における一貫したテーマであることが分かります。解放というと、誰かが誰かを支配している、というニュアンスがあります。そしてその支配は理不尽なので、不当な支配から解放されなければならない、というニュアンスになります。赦しという言葉もまた、不当な支配から解放されねばならない、という意味合いがあるのは間違いありません。ただそこでは、今自分を支配しているのは、目の前にいる人間ではなくて、罪である、ということがはっきりしています。つまり、イエスさまの宣教とは、最初から最後までずっと解放のことなのですが、最初は人間関係だとかお金関係、名誉欲や祖先から引き継いだ迷信だとか集団心理とか、そんなものからの解放のことなのかな、色々まとわりついていると面倒くさいものをイエスさまが取っ払って下さるというのはなかなかありがたいことだな、そんなつもりでルカ福音書を読んでいる人が、あるところまで読み進めたときにハッと気が付かされるのです。そして十字架上の最後の言葉によってはっきり思わされるのです。私どもを縛っていたのは目に見える色々なしがらみではなく、実は罪なのであり、そして私どもはこのお方の十字架によってそこから解放されたのだ、と。

 1970年代以降、解放の福音というものが流行り始めました。目に見えるものからの解放を強く打ち出した福音理解です。目に見えるものといえば、例えば黒人奴隷が問題になっていた時代の白人だという場合、白人を打ち倒すことが「解放」です。あるいは貧困が問題になっていたときに、お金持ちから財産をぶんどって貧しい者に分配することが「解放」だという主張もあるでしょう。いやいやそれは過激すぎるから、お祈りをしよう。祈ってお金持ちになったら、貧困からの「解放」は実現する、そういう風な「解放の福音」もあるのかも知れません。尤も、それらのような形での解放は結局の所「お金」あるいは「暴力」によって支配されることになるのではないか、ということも指摘されます。

 私どもの伝統である宗教改革は、「ある一つのもの」からの解放こそが、結果的に本当の意味の罪の赦しにつながるのではないか、そういって、「聖書」を掲げた教会です。それまでの教会は、人間、具体的には祭司であったり教皇であったりといった、えらい人に従うことこそが信仰であると説いていました。それに対して宗教改革者達は、聖書を解き明かす人、説教者に目を向けるのではなくて、聖書に目を向けたときに、私どもは本当の意味の信仰の目覚めを経験できる、まさに本当の意味の解放の福音、すなわち罪の赦しを経験できる、と主張するのです。結局それは、人間に目を向けている限り、人間同士の交わりのグロテスクさやエゴイスティックさに目がいって、本当の信仰に目を向けることができないのではないか、という宗教改革者達の人間理解が背景にあるのではないでしょうか。

 私自身、20年以上前になりますが、以前に仕えておりました教会において、ある時に役員会でふと年輩の役員が漏らした言葉が忘れられません。その教会は、紛争を繰り返しながら、しかしそれでも福音を信じ続ける者が集められ、なんども開拓伝道に挑戦をしていた教会です。私もそこにおいて多くを学びました。しかし開拓伝道を通じて学んだことよりももっと深い問いを、ある時の役員会で投げかけられたのです。その方はこうおっしゃったのです。「教会は結局人間の集まりで、争いが絶えないところになっているではないか、私たちは争いを避けることは出来ない『宿命』を帯びているのではないか」。私は考えさせられました。牧師として、この方になんと言えるだろうか。どんな教会形成をすれば、そのような誤解からその人を、いえ私ども自身を、解放できるのか、ずっと考え続け、また現在でも試み続けています。

 実は今日の箇所は、人間がそこから解放されなければならない課題はここにある、といって、ある一つの問題、あるいはある一つの誤解を宣教の始まりにおいて扱っているのです。それは何かといえば、「故郷」についてです。今風にいえば「地元意識」となるかも知れませんし、「選民思想」といえばピンと来る方もおられるかも知れません。今日の箇所に出て来て、そしてイエスさまを崖っぷちにまで追い詰めあわや第一巻第一話にしてジ・エンドを迎えそうになってしまう原因になっているものが、この「故郷意識」です。預言者エリヤはシドン地方のやもめ、つまり異邦人の女性の所に遣わされ、エリシャの時代にはシリア人、つまりやはり異邦人だけが癒された、というイエスさまの言葉に注目します。ルカは、「故郷意識」に対して挑戦をするイエスさまの姿から宣教の出来事を書き起こすのです。実はこれは同じルカが編集をした使徒言行録でも同じで、どちらも、ユダヤ人伝道から始まって、最後は異邦人伝道へ、という流れにあります。従って、今日の宣教記録第一巻第一話においては、まだ人々がユダヤ人意識、つまり選民意識であり同時に地元意識に凝り固まっていて、その地元意識には染まろうとしないイエスさまを排除しようとするところです。今回はその排除はうまく行きません。しかし色々なものがたまってきて、そしてついにイエスさまは排除されてしまうのです。繰り返し繰り返し様々な形で人々は排除を試み、ついに十字架に至る、というのが福音書の筋立てです。つまり、自分は自分たちのことだけ見ていればいいのだという意識は、あるいはその後形を変えて、例えば自分が生き残るためには他の人を蹴落としていいのだという意識になったり、あるいは自分には暴力を受けた経験があるから、多少の暴力を他人に加えることは許されるという意識になったり、様々な形で福音書には現れます。そしてそのことは本当に残念ながら、現代においても社会や生活の身の回りで常に起こり続けています。私どもは、主イエスが十字架について復活された後の時代を生きているのではなく、主がそのように様々な罪によって浮き足立ち、自分で自分を制御できなくなっている、復活前の時代を生きているかのような思いさえ持ってしまいます。

 違う言い方をしてみましょう。イエスさまは、弟子たちを召して、一つの集団を作りました。やがて教会となるその群れは、しかし最初の段階で、ユダヤ教に比べると著しく見劣りしていました。というのは、ユダヤ教には七十人の議員によって作られた最高法院というものがあり、組織がしっかりしていたのです。それに比べると、一人の指導者によって作られた組織というのは、危うく感じるのです。12人の弟子たちは、イエスさまが捕まるまではあれほどに意気盛んに、自分たちも十字架につこうとか言っていたのに、いざ捕まると逃げてしまいました。その理由を考えますと、自分たちの命が惜しかったのだとなるのが普通かも知れません。大体ことが起こると、今まで熱心だった人が正気に戻って逃げ出してしまうということはよくあることです。しかし、トマスのように、自分一人であっても着いていこうと言っていたのに逃げ出した弟子がいたのは説明がつきません。命が惜しくて逃げ出した弟子も確かにいたことでしょう。しかし、自分たちの宗教と、もう既に単独支配型の段階を脱していて、何人かの優れた信仰者によって全体を指導する体制が出来上がっていたユダヤ教とを比較して、自分たちの宗教がみすぼらしく貧弱で、弾圧されるに値する宗教だと思ってしまったからこそ、逃げ出したという弟子もいたのではないでしょうか。

 実はルカ福音書は、イエスさまの弟子たちの中には、自分たちの宗教をもっとよくするためにと言って、もっと頭を使った弟子がいたことを、ルカ福音書は記録しています。少し解説します。イエスさまの宗教も、時間をかけてイエスさま単独支配型の宗教から弟子たちによる教会型の宗教へと成長していきました。言ってみれば、自分たちのDNAを大事にしながら姿を整えていく改革型の宗教として成長する可能性があったのです。しかし、ある弟子は違う理解をした。出来上がっている大きな宗教の前に心が揺れたのです。そしてこんな改革をちまちまとやっていてもらちがあかない。いっそのこと革命をした方がいい。クーデターを起こすためにユダヤ教と協力をしよう。そう考えた弟子の名前は、イスカリオテのユダと言います。

 結局どういうことか。イエスさまを十字架にかけたのは直接的にはユダヤ人でしたが、そこに自分の命を守るために正気に戻って逃げ出したペトロと、ユダヤ教の集団指導体勢の持つ宗教性の高さに圧倒されて身を潜めたトマスと、そして敵対勢力の力を借りることで革命を起こそうと考えたイスカリオテのユダがいた。そのような三種類の弟子たちに対してイエス様はおっしゃるのです。「私は、あなた方のために十字架にかかる」と。


 私どもに対してもまたイエスさまは「私はあなた方のために十字架にかかる」とおっしゃっておられるのではないでしょうか。今日の箇所にはこうあります。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。「聖書が満ちる」のは、その言葉を耳にした「今日」である、というのです。新しい主の恵みの年の始まりの日に、「今日」という言葉を強調する聖書箇所が与えられることは幸いです。

 今日の聖書は、他人の罪によって動揺し、浮き足立ち、おもわず一緒に罪に自ら進んで染まってしまう日々のことを、「昨日」と呼んでよい、ということを私どもに促しています。例えばルカ福音書は、他の福音書にはない独自のイエスさまの言葉として、次のような言葉をとどめています。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」。

 主イエスは、昨日の苦しみから解放されきっていない私どもに対して、「信仰がなくならないように祈った」とおっしゃって下さる。そして福音の言葉を聞いて目を覚ますときがくる、いやもう来ている。それが「今日」なのだ、とおっしゃる。先ほどの主イエスの言葉は、こう続きます。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。この言葉は、「今日」解放を迎え罪から赦された者たちには、「明日」の課題がある、ということを告げています。かつて主イエスを崖から突き落とそうとした集団心理に駆られた人々にも、「今日」御言葉を聞いて目を覚まし、そして「明日」は兄弟を力づける側に回ることが出来る。そのような「明日」を私どもがどのように迎えたら良いのか、祈りをさらに深めたいと思います。

 ルカが使徒言行録を福音書に続けて記した理由は、主イエスが天に昇られた後に、聖霊の力によってどのように弟子たちが教会を導くかということまで記さなければ、キリストの福音は完結しない、と考えたからに他なりません。私どもが、キリストにお任せしておけばいいだろう、その感覚の延長線上で、偉い政治家にお任せしておけばいいだろうといって政治そのものに無関心である間に、事態は悪い方に行ってしまう、そんな出来事が新聞上をずいぶんと賑わしています。そのようなときに、「信仰がなくならないように祈った」お方の「昨日」の祈りがあり、「今日」福音の声を聞いて目を覚まし、そして「明日」は兄弟姉妹達を力づける側に回ることが出来る。これが、本当の意味の解放の福音です。罪の赦しの福音です。かつては子どもとして、大人からお世話をしてもらうことをよしとしていた、やがて成長し、お世話をする側に回るなら、それは普通の意味における「成長」と呼べるでしょう。そしてそのことと重なるけれどももっと意義深いのが、罪を赦されることによって集団心理から目覚め、人間的権威によってではなく聖書の言葉によって人を力づけることが出来るようになる、そのような「福音的成長」です。ここにいる一人一人が、伊東の地域においてまさにこの役割を果たすことが、地域の福音的目覚めにつながるのです。受け身だった自分が支える側に回ったときに、社会には大きな力が与えられることでしょう。そんな「明日」が近づいているのではないでしょうか。期待をしたいと思います。

 主の恵みの年2024年が今日始まりました。大きな課題があります。そして同時に聖書の言葉が実現する、大きな喜びの年とすることが出来ます。