人の策略、神の計画

2024/1/21 公現後第三主日礼拝 

人の策略、神の計画」 創世記27117節           牧師 上田文

 

 20世紀にある意味で最も重要な本があります。それは、「我が闘争」という本です。これを書いたのは、ヒトラーという人物です。あの有名な総統ヒトラーです。この本には、数多く出て来る言葉があります。それは、「イッヒ」「私」という言葉です。大不況が起こり、不安に駆られたこの時代、ヒトラーの叫ぶ「イッヒ」という言葉は、魔法の言葉となっていきました。この言葉は、人々に快感を与える言葉となりました。それがどうしてだったのか。今日の聖書はその事を教えてくれるように思います。

 

今日の物語は、アブラハムの子であり、アブラハムの家督と祝福を受け継いだイサクが、双子の息子の兄エサウにそれを与えようとする話です。アブラハムから続く、この家督と祝福を受け継ぐということは、世界を祝福するという神さまのご意思を受け止めて生きる使命を継承することと言えるかもしれません。当時の習慣から考えると、長男が家督の多くを継ぐことは、当然の事でした。しかし、25章で神さまはこのように言われました。「兄が弟に仕えるようになる」(25:23)。神さまは、イサクに与えた家督と祝福の継承者として既に弟ヤコブを選んでおられました。また、25章の後半には、エサウが、一杯の煮物と引き換えに、長男としての権利をヤコブに売り渡してしまったことが語られていました。兄エサウではなくて、弟ヤコブがイサクの後継者になることが神様の御心であると示す記述がちりばめられています。では、なぜ弟ヤコブが選ばれたのか。その理由について聖書は触れていません。けれども、聖書を読んでいますと、神さまは私たちが当然だと思い込んでいる事を打ち壊されることがしばしばあります。私たちが習慣のように行っている事を打ち壊して、神さまのみ心を知らせてくださるのです。

 

 このようなことが、イサクにも起こったのでした。イサクは祝福を与えるにあたって、あくまで当時の習慣に従い、兄に与えようとします。習慣に従った当然のことなのですから、妻や家族に相談するのでもなく、そのことを進めようとするのです。このことは、家長であり、族長となっていたイサクが、家督と祝福を継ぐ者は、それを自由に扱っても良いという高慢な思いを抱いていたことを伺い知る事ができます。聖書には、イサクがエサウを呼び寄せて、このように言ったとあります。「わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい」(4)。祝福は神さまのものです。イサクはその祝福の媒介者であって、祝福の与え手ではありません。「私自身の祝福をお前に与えたい」という言葉からは、イサクが、神さまから与(あずか)った祝福を、高慢に、自分勝手に扱っている事が分かります。もし彼が、神さまを畏れ敬い続けていたのならば、このように言うのではないでしょうか。「神が喜ばれる捧げものをここへ持って来てほしい。死ぬ前に、それを神に捧げて、神の祝福をお前に与えたい」。年老いたイサクは、自分好みの息子であり、長男であるエサウと彼が取って来る美味しい肉に心を囚われるようになっていました。彼は、神さまの御心ではなく、神さまが与えてくださる恵み、例えば、愛する息子や美味しい肉といった物にのみに繋がるようになっていたと言えるかもしれません。そのことは、イサクを益々神さまから引き離し、祝福を我が物顔に扱う、高慢さ繋がったのでした。

 信仰者として、神さまのみ心に従って生きている、生きようとしている私たちですが、しかし人生の大切な場面において、神さまから与えられた祝福を、自分勝手に使おうとしてしまう。神さまのみ心に従うのではなく、神さまが与えてくださる、自分好みの恵みだけをより分けて、その恵みだけを見て行動してしまうということが私たちにもあるように思います。そして、イサクのように言うのです。「私の気に入る事をしなさい。私の気に入る料理を持って来なさい」「私の気に入る就職先を見つけて来なさい。」「私の気に入る、結婚相手を見つけて来なさい。」「あなたが、私の気に入る事をしているのを見て、私は喜び、私はあなたを祝いたい」。このように、私たちもイサクと同じ間違えを起こすように思います。神さまが一人一人の人間に与えられた、霊的な賜物を見るのではなく、自分にとって都合の良い人間的な条件によって家族や隣人を見ていることがあるように思います。「わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい」と言った、イサクの言葉には、「神」という言葉が一つも入っていません。「私」という言葉だけでした。祝福を与えてくださった神さまに従っているのは、自分にとって本当に些細なことにおいてであって、自分にとって大切な事柄においては、その祝福を自分勝手に使う。自分の思いを、神さまの思いにすり替えてしまう。そして、神さまが与えてくれる、自分好みのおいしい肉のみを求めて生きてしまう。そのような生き方を私たちもまたしているのではないでしょうか。自分の思いに執着するとき、私たちは神さまご自身、神さまのみ心に繋がることを忘れてしまう。年老いたイサクの姿は、そういう人間の現実を描き出しているのです。

 

「わたしの好きなおいしい料理を作り、ここへ持って来てほしい。死ぬ前にそれを食べて、わたし自身の祝福をお前に与えたい」このイサクの高慢な言葉を妻リベカが聞いていました。そして、イサクと同じように双子の息子の弟ヤコブを呼びつけました。そして言うのです。「わたしの子よ。今わたしが言うことをよく聞いてその通りにしなさい」。神さまの祝福が、兄エサウではなく、リベカのお気に入りの息子である弟ヤコブに与えられるように策略を巡らせるのです。

しかし、彼女は策略を巡らせる必要などなかったはずです。「兄が弟に仕えるようになる」という神さまのみ心を聞いたのは、彼女自身でした。彼女は、そのみ言葉を受け止めて神さまに従えばよかったはずです。しかし、彼女は、息子ヤコブを偏愛するあまり、ヤコブがなんとしてでも祝福を得られるように策略を企てるようになるのです。

リベカの姿からは、神さまの御声を聞いたものとしての謙虚さが失われていました。お腹に二人の息子がいる時に「主のみ心を尋ために出かけ」(25:22)、祈りによって、主なる神さまと繋がっていたリベカの姿はありませんでした。神さまの御前で謙虚にそのみ言葉に従う事を忘れてしまったのでした。

もし、彼女が神さまの御前での謙虚さを失っていなければ、ヤコブにこのように言うはずです。「わたしの子よ、神のみ心に従いなさい」。「わたしの子よ。神があなたを神の子として招いてくださっている。神のみ言葉をよく聞いてその通りにしなさい」。しかし、リベカはこのように言う事ができませんでした。彼女の言葉もまた、「神」という言葉が一つもなく、あるのは「私」だけなのでした。

 リベカが息子を思う愛。神さまを忘れてしまった愛。「わたしの子よ。今、わたしが言うことをよく聞いてその通りにしなさい」と言う愛。このような愛を、私たちは、真の愛であると勘違いしてしまう事があるように思います。その偏愛の象徴であるような言葉が、13節にあります。「お母さんがその呪いを引き受けます」という言葉です。これは、「私があなたの事を分かってあげる」「いいよ。人は弱いのだから。大丈夫だよ」という正しくない癒しの言葉に似ています。隣人や家族に毒をもるような言葉です。この言葉を聞くと思い出す物語があります。エデンの園で、女エバを誘惑した蛇の言葉です。

園の中央に生えている木の果実を食べると、死んでしまうと神さまがおっしゃったというエバに向かって蛇は言います。「決して死ぬことはない」。蛇の言葉は、「大丈夫だよ」「何かあったら私が助けてあげる」「私はあなたの事を分かってあげる」と、私たちが大切な隣人や家族に言う言葉に似ています。けれども、この言葉は、蛇と同じように人を神さまから引き離す無責任な言葉になります。人を神さまに結び付けるのではなく、人、つまり「大丈夫だよ」と言っている蛇のような自分自身に結び付ける言葉となるのです。主なる神さまではなく、自分が、ヒーローやヒロインとなって威張り散らすような言葉です。その言葉は、正しくない私たちを、それでも正しいと言ってくださる神様とイエスさまの十字架の愛に支えられる言葉ではありません。

 隣人をそして家族を救うことの出来る愛。それは、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と、神さまの御前で、謙虚に祈られ、御心のままに十字架に架けられたイエスさまの愛だけなのです。十字架を通して、人の罪の代価を払ってくださったイエスさまの愛だけなのです。この正しくない者を正しい者としてくださる、「義」を通した愛だけが人を救う。このことを、忘れた時、私たちは「私」「私」と自分の思いばかりを語り、無責任で高慢な自己愛に浸ってしまいます。それは、ヒトラーが、「イッヒ」「イッヒ」と言って、人々に話しかけ、それを聞いた人々が、神の愛にではなく、自己愛に浸るようになったことに繋がります。私たちは、神さまの前で跪き、祈ることを忘れたときに、神の義へと互いに高め合い、神さまへと隣人を導く愛を無くしてしまうのです。

 

 さて、最後にヤコブの言葉を見てみたいと思います。彼は「エサウ兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌はなめらかです。お父さんがわたしに触れば、だましているのが分かります。そうしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます」(11)と言いました。

そこでリベカは、「イサクが年をとり、目がかすんで見えなくなってきた」(1)ことをいい事に、エサウの晴れ着をヤコブに着せ、毛深いエサウに見せかけるために毛皮をヤコブの腕や首に巻き付けてエサウに成り済まさせます。ヤコブは母が、神さまの御前で与えられる謙虚さと祈りを失ってしまっている事が分かっていました。しかし、彼は母のこの策略を止める事はしませんでした。むしろ、この策略に乗ります。もともと、一杯の煮物で兄から長男の権利を奪ったのはヤコブでした。彼もまた、神さまのみ心よりも先に、自分が後継者になりたいという思いを強く持っていたのでした。そして、母の策略に乗り自分の思いを優先させたのでした。

 母と自分の罪が分かっている。しかし、辞められない。自分の罪が分かっているのに、それを辞めることが出来ない。自分が神さまに喜ばれない事をしているのに、神さまが悲しまれるような事をしているのに、それを辞められない。そのような時、私たちはどうするでしょうか。その罪を隠し始めます。神さまから自分を隠すようになります。エデンの園で、神さまが食べてはいけないと言った木の実を食べたアダムとエバのようにです。聖書には、アダムとエバが「主なる神の顔を避けて、園の間に隠れた」(8)とあります。罪を犯した彼らは、生まれたままの姿で神さまの御前に立つ事が恥ずかしいと思ったからです。それは、滑らかな肌のままで、素直に神の御前に立ち、神の祝福を受けようとしないヤコブに似ています。彼は、主なる神さまを信じて、「なめらかな肌のまま」で、父から主が備えてくださる祝福を継承されれば良かったはずです。しかし、自分の思いを優先して、父から祝福を奪い取ろうとしている、それが辞められない。罪に気づいているのに辞められない。そして、彼は、母にされるがままに、毛皮を腕と首の周りに巻きつけ、神さまの御前で、罪深い自分を隠したのでした。造り主であられる神さまの御前で、心の欲望によって自分を知恵があるもと装い、神さまの栄光の御前で、自分こそ神さまであると、自分という偶像を造りあげたのでした(ロマ1:21-25)。

 

結局、リベカとヤコブは、父イサクを騙して、イサクの祝福を受ける事に成功しました。ヤコブはエサウに成りすまして、父から、祝福を騙し取りました。けれども、結局、このような人間の策略の中にあって、本当に実現したのは、「兄が弟に仕えるようになる」という神さまのみ心だけでした。長子の権利を売り渡したエサウは、祝福も与えられることがありませんでした。神さまの祝福を手に入れたヤコブは、兄から命を狙われる身となり、逃げ惑う人生を送りました。リベカとイサクはこの後、エサウの嫁たちと苦しい人生を送る事になりました。リベカはその後どうなったか記されていません。「いつ死ぬか分からない」と言ったイサクは、この後20年も生き続ける事になります。誰も、幸せな人生を送る事は出来ませんでした。誰の企(くわだ)ても、成功しなかったのでした。ただ、神さまの御計画のみが進められたのでした。

 

聖書には、自分が祝福を与えた相手がエサウではなく、ヤコブであると分かったときのイサクのことが書かれています。33節です。「イサクは体を震わせた」とあります。彼は、この時、主なる神さまの御業を見たのでした。まさに驚天動地(きょうてんどうち)の震えです。イサクは、自分がやってしまった罪に気づいたのだと思います。神さまのみ心を尋ねませんでした。自分勝手思いを、神さまのみ心とすり替えてしまいました。神さまを蔑(ないがし)ろにしたのです。しかし、彼は結局、ヤコブに祝福を与える事になり、神さまの御計画が実現しました。人間の策略の中にあって、ある時、神さまが介入してくるのです。人間の策略に、神さまが介入される時、私たち人間は、自分のやってきたことの罪深さ知り、震えながら、神さまの御前に跪く事になります。そして、さらにのちに、その策略も含めた形で神さまの御計画があった事を知り茫然とするのです。イサクを襲った震え、それは神さまの介入を知らされた、恐れによる震えです。

 

 人間のいろいろな思惑や策略が渦巻くなかで、神さまのみ心が実現する。このような経験を私も与えられました。私は、韓国で洗礼を与えられました。教会に行ったのも、韓国が初めてでした。しかし、何故か分からないけれども、全く言葉が分からない韓国語の礼拝に、毎週欠かさず出席するようになりました。私の韓国語は、教会の説教で育てられたと言っても良いくらいです。韓国語が上達するのと一緒に、信仰が何かということも分かるようになりました。牧師も、そのような私の姿を見ていたのでしょう。洗礼を受けるように導いてくれました。語学が出来るようになると、大学院で、キリスト教教育学を学ぶようになりました。その学びはとても楽しいものでした。けれども、この学びは、私が教会に不信感を持つきっかけともなりました。キリスト教教育学という学問は、神学ではない、他の学問を用いて、教会に問いかけをする学問です。わざと批判的な問いかけを教会にする事によって、教会を成長発展させようとする学問です。この学びをするのに、一番苦しい事は自分の教会への信仰を絶えず問いただされる事です。信仰がなければ、教会を批判して出て行く事に繋がります。つまり、神さまに恵みとして与えられた学問だけを見つめてしまうと、神さまご自身に従う事を忘れてしまうのです。この事を忘れると、自分自身が、学問という恵みを与えられたスーパーヒーローのようになり、その恵みを自由に使えるようになると勘違いしてしまうのです。この勘違いによって、何百年と続いた教会の伝統を無視する事も可能になります。そして、人を神さまではなく自分に引き寄せる事も可能になります。何故なら、神さまのみ言葉を語るのではなく、人が喜ぶ言葉を語れるようになるからです。

洗礼を受けて、4年目くらいの事でしょうか。私は、大学院での学びの恵みを、完全に自分勝手に使い始めるようになりました。教会の信仰ではないものによって、外側から批判する事を沢山覚え、それが、真の信仰なのだと勘違いするようになっていました。つまり、神さまのみ言葉に謙虚に耳を傾けることが出来なくなってしまったのでした。しかし、不思議なものです。このような、私に賛同してくれる人が現れはじめました。私の言葉は、信仰の言葉でないと分かっていても、それに引きずられる人が出てきたのです。この人たちのヒーローになった私は、完全に信仰者としての道を踏み外し、教会にいる居場所を無くしてしまいました。こうなると、礼拝で聞くみ言葉が、神さまのみ言葉として聞こえてきません。牧師が、聖書のみ言葉で、人々を叩きのめしているように聞こえてくるのです。私は、ついに、礼拝中に席を立ちあがりました。

しかし、礼拝堂をとび出した私を、神さまは、それでも繋ぎとめてくださいました。それは、牧師婦人との会話です。私は、これまで積み重ねて来た学問を武器に、牧師婦人にありとあらゆる疑問と批判を投げかけました。そして、最後に私はもう二度とこの教会には来ないと言いました。私は、自分の思いを優先させることを辞めることが出来なかったのでした。そして、神さまの恵みとして与えられた学問を、自分の罪の姿を隠す毛皮のように使い、私のしている事は正しいと叫び続けたのでした。「私」「私」と叫び続けたのでした。

私の話を聞いた牧師婦人は、ある聖書の言葉を私に持たせてくださいました。そして、教会から出て行っても良い。でも、この言葉は覚えていて欲しいと言いました。ルカによる福音書2232節の言葉です。イエスは言われた。「わたしは、あなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。私は、この言葉を聞いたとき、とても腹がたちました。聖書の言葉を借りて、人を罪人扱いし、人の口をふさぐような事をしていると思ったからです。

結局、私はその教会を離れ、別の教会に行くようになりました。そして、日本に帰り神学校に進学し、この伊東教会に赴任しました。神学校の最終学年から伊東教会に来たので、もう、8年目になります。韓国の母教会をとび出して10年以上にもなります。伊東教会で、伝道師として、また牧師として育てられて、私は、今、「わたしは、あなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言ってくださる、イエスさまの御言葉をやっと理解出来るようになりました。やっと、この言葉に立たされる日が来たと感じています。

 

 私たちは、アブラハムやイサクやヤコブのように、何故か分からないけれども「選ばれ」「祝福」を受け継ぐものとされました。頭に手を置かれ、私たちは「洗礼」を授けられました。洗礼を授けられた私たちは、神さまの独り子イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しにあずかり、その復活の命に与り、神さまによって与えられた命をいかに生きるかということを最大の課題として生きる事を求められています。神さまの御前に留まって、イエスさまとの交わりに生きて行く、それが私たちの歩みです。そのようにして、私たちは教会の一員とされて、神さまの祝福を受け継ぐ者とされています。その祝福を受け継ぐ私たちに、いつも新しい命を与えてくださるイエスさまが言われます。「わたしは、あなたのために、信仰がなくならように祈った」。イエスさまは、私たちが躓くことを十分承知でいてくださるのです。イスカリオテのユダが、自分を裏切ることも、ペトロが「イエスのことなど知らない」と言う事も、そして私が、教会の中で躓き、教会の人々を傷つけ、とび出していく事もご存じでいてくださったのです。だから、イエスさまは、前もって私たちに「あなたのために、信仰がなくならないように祈った」と言ってくださいます。そして、十字架に架かってくださいました。私たちが、自分が犯した恥ずかしい罪の体を毛皮で隠して生きて行かなくても良いようにです。罪を隠して、神さまから隠れなくてもよいようにです。イエスさまが、私たちの罪を全てになって十字架に架かってくださったのです。

だからこそ、私たちは、イエスさまがおっしゃった事が出来るのです。「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。躓いた時に、イエスさまが祈ってくださっていた。そして、その罪を全て引き受けてくださり、御国を目指す者として、主イエスの衣を着させてくださった。この恵みを知るときに私たちは、イエスさまがしてくださったように、躓いている兄弟たちのために祈ることが出来るのです。その祈りは、兄弟姉妹を、そしてまだ、主なる神を知らない隣人を、神さまに繋げる事が出来ます。このことにより、神の国は前進していくのです。この神さまの御計画を知るとき、私たちもまた、イサクのように激しく体を震わすことしかできません。

 

「ヤコブよ、あなたを創造された主は  イスラエルよ、あなたを造られた主は 今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの。私の目にあなたは値高く(あたいたかく)、貴(とうと)く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」。イザヤ書43章のみ言葉です。

 

 神さまが、イエスさまが私たちのために祈ってくださいます。私たちは、装うことをせず、滑らかな肌のままで。失敗を繰り返す、この罪深い体で神の前に跪きたいと思います。主は、十字架の衣を私たちに備えてくださっています。その十字架の衣、義の衣を着せていただき、兄弟姉妹のために祈り続け、神の国をめざしたいと願います。