この方のなさったことは、何もかもすばらしい

20231231伊東教会説教

「この方のなさったことは、何もかもすばらしい」

(マルコ7・31~37)


今日は1231日、大みそかです。今年最後の日で、様々なことがあった2023年が今日で終わろうとしています。わたしどもは来る年も来る年も、様々な思いで年の瀬とお正月を迎えます。子どもの頃は、お正月というものはだれにとっても特別に意味の深い、楽しいものであり、それだけに、待ち遠しいものでした。子どもの夢というのは、お正月には何を着て、誰を訪ねて何をして遊ぼうかということで一杯で、夢が限りなく膨らんだものでした。ですから、1365日、毎日がお正月だったらどんなに良いだろうに、と真面目に考えたものでした。

それが、大人になるにつれ、次第に感激や感慨が薄くなります。ただ時の流れで、一つの年が終わって新しい年が始まる、というだけになります。2023年が終わり、2024年が来る。ただせわしい思いに追い回されるだけです。礼拝が終わったら家に帰って、年賀状も書かなければならない。おせち料理も作り、家の中も掃除し、せめて玄関だけは綺麗にしなければならない。

そして何よりも、まだ何かをしていないまま、色々なことが未解決のまま、新しい年を迎えなければならないという、一種の焦りのような、諦めのようなものが、心のどこかにあります。ただ単に、2023年は過ぎ、2024年が来るという、時間だけが流れて行き、自分はその時間に流されて、歳を一つとるだけだ、という感覚です。そのような時に、わたしは思うのですが、あの子供の頃のお正月の楽しさや待ち遠しさは、いったい何処へ行ってしまったのだろう、と。「光陰矢の如し」と言いますが、自分の持ち時間がどんどん少なくなってゆく、という気持ちが年々強くなって来たように思うのです。

ある神学者が言っていました。人間は皆、ある限界づけられた時間の間をしか生きられない。誰でも子どもの頃は、時間は無限にあるものと考えているが、それは錯覚である。実は子供は、「始まりつつある時間」を生きているに過ぎないのだ。反対に、年を取ると、「終わりつつある時間」を生きている、と。ですから、子供と大人とでは、時間の感じ方が違うのです。

それからもう一つ、とても大事なことだと思いますことは、誰にとっても、人生は未完成で終わる、ということです。彫刻で言うと、トルソーですね。

わたしも実は、あと8日ほどで82歳ですが、最近自分は、牧師としてどれだけのことをしてきたのだろう、と思うことが少なくありませんでした。特に、日本のキリスト教が今こんなにも振るわなくなってしまったことに対して、自分は責任がないと言えるだろうか、と考えたり、いや、自分はこんなにも熱心に祈ったのに、どうして神様は祈りを聞いてくださらなかったのだろう、と考えたりして、ほら、伊東の町にパッと聖霊を送って下さればよいのに。イスラエルにパッと聖霊を送ってくだされば、戦争なんかすぐに止むのに。プーチン大統領にも御霊を送ってくだされば、きっと猛反省するのに、と。本当に大声で泣きたいような気持でした。わたしは愚かにも、自分のことはすっかり忘れて、世の中のことや、神さまのことばかり批判していたのですね。

しかしある時、はっと気が付きました。それは、自分が一生の間に犯した罪のあれこれのことを考えたのです。すると、すーっとすべてのことに納得が行き、たちまち平安な気持ちになったのが不思議でした。それは、神さまはこんな罪人であるわたしをなお一生伝道者としてお用いくださった、神さまの方こそ、わたしどもが忍耐しているよりもその何十倍も忍耐してわたしどもを見守っていて下さるのではないか、と気づいたのです。

* * *

わたしどもは、「わたしの一年はこれで良かったのだ」という言葉を、どこで聴くことが出来るでしょうか。また、自分が一生を終えるときに、「お前の一生は、これで良かったのだよ」、という言葉を、どこで頂くことが出来るのでしょうか。

わたしどもは、大みそかという、一年で一番忙しい時に、こうして教会に来て礼拝を守っています。暇だからではありません。それは、群衆の中の一人として、年の暮れからお正月へとただ時間だけが流さて行くのではなくて、群衆の一人であることを止めて、礼拝の場で、主イエスの御前で、この一年の終わりの時間を守りたいからであります。信仰者にとっては、どれだけ成功を収めたとか、失敗したとか、未完成であると言ったことではなくて、神さまが、わたしどものこの一年の歩みをどう御判断なさるか。わたしの一生を良しと言ってくださるかどうかが、はるかに大切だからです。

ですから33節に、「イエスはこの人だけを、群衆の中から連れ出し」と書いてあります。群衆の中からたった一人、彼だけを、群衆から少し離れたところに連れ出されて、それから癒しの業を為されたということが、記事としてたいへんユニークです。

わたしどもも同じように、群衆の一人であることを止めて、神の前に額ずいて、この終わりの時を静かに過ごしているのです。それは、わたしどもは、神様との関わりにおいてしか、この一年の歩みを総括できないからです。今晩、紅白歌合戦を聞いて、大勢の人たちと一緒に、新しい一年を迎える気分になるのも良いでしょう。あるいは、ベートーベンの第九の、あの最後の「歓喜の合唱」を聞いて、もう一度生きる元気を取り戻して新年を迎えるのも良いでしょう。それは少しも悪いことではありません。

ただ一つ、注意すべきことは、それだけで十分だと思ってしまわないことです。そうでないと、2023年が過ぎて2024年が来た、というようになってしまうからです。わたしどもは、自分の一年はこれで良かったとか悪かったとか、そういうことを、いつも他人の目で判断しようとします。おせち料理もちゃんと作った、大掃除もした。とりあえず年は越せそうだ。だから、これで良いのだ、というのでは、何か、他人の目や他人の評価ばかりを気にしているようです。信仰と言うのは、常に神さまの前で問うものです。人がどう考えてくれるかではなくて、あるいは自分がどう思うかではなくて、神さまが、それを喜んでくださるかどうかを、大事にするのです。「お前の一年はこれで良かったのだ」「お前の一生は未完成だったけれども、何もかもすべてが良かったのだ」という言葉を、わたしどもは神さまからいただくことが、大事なのです。

* *

 その意味で、本日のわたしどもの礼拝に主から与えられました、マルコによる福音書731節以下の御言葉は、終わりつつある時の中に生きている我々人間にとって、慰め深いものがあります。

ある一人の、耳が聞こえず、口のきけない男が居た、と言うのです。人々はその男を憐れに思い、主イエスが再び自分たちの村にお帰りになったというので、早速彼を主の御前に連れてきました。どうか、せめてお手だけでも置いてやってください、とお頼みしたのです。

この男は恐らく、生まれつき口が利けなかったわけではなかったでありましょう。「耳が聞こえず、舌の回らない人」、とありますが、幼い時から耳がよく聞こえなかった人の場合、言葉が入って来ません。だから、しゃべれなくなるのです。両親がそれに気づかなかった。そしていつの間にか、言葉の世界と縁が切れてしまい、舌がよく回らなくなった、という場合が多いのです。

いずれにしても、彼は耳が聞こえず、口もきけないということで、外界とは交わりを持たない、自分だけの世界で生きていました。他人が心の中で思うことが分からず、表情から勝手に想像するより他ありません。その上、自分が心で思うことも伝えることが苦手です。「舌の回らない人」は原文では、「骨を折って話す人」という意味の言葉です。話すのに、舌の動かし方が分からず、えらく骨が折れるのです。この男にとって、言葉の世界、交わりの世界は次第に縁がなくなります。

画家のゴッホという人は、元は炭鉱の町で牧師をしておりましたが、この人の絵を見ると、自分の魂の中にある感動を、何とかして絵で表そうという、そういう激しい気迫のようなものを感じます。そういう世界を、この男は知らなくなって、すでに久しいのです。

人々はこの男のことを、哀れに思っていました。そして、主イエスがもう一度ガリラヤ湖に戻ってこられたので、真っ先に彼を連れて来たのです。

* *

33節からもう一度お読みします。

「そこで、イエスはこの人だけを群集の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である。するとたちまち耳が開き・・・」

とあります。

情景がありありと描かれています。この主イエスの癒し方は、現代では全く意味が分かりませんが、当時の癒し方としては、まともな方法でした。口がきけない原因は、耳が聞こえないからですから、主は耳の癒しに全力を注いでおられます。また、唾には癒しの力があるとされていましたから、指に唾をつけて、その男の舌を濡らされたのです。

ところで皆さん、主イエスはこの癒しを為さる時に、両手の人差し指を彼の両方の耳に差し入れ、そして、天を仰いで深く息をつかれた、と書いてありますね。その情景がご想像できますね。この時主は、ちょうど、この男をこのように、両手で抱き抱えるような姿勢になられます。少なくとも遠くで見ていた群衆には、そのように見えたに違いありません。また彼自身も、一瞬、主イエスのお体のぬくもりのようなものを感じたかもしれません。

そして次に、主は「天を仰いで深く息をつかれた」とあります。「深く息をつく」という言葉は、かなり強い言葉です。他の箇所では「うめき声を発する」と訳されています。主がため息をつかれたというのは、聖書の中でたったここ一か所しかありません。神の御独り子、主イエスの御心の奥深くから、思わずうめき声が漏れたのです。これはどういうため息だったのでしょうか。「天」というのは、聖書では、父なる神の居ますところです。主は目を天に向け、父なる神の方を御覧になって、とても深いため息をつかれたのです。

これは主がこの男の全生活を思い、彼に対する深い愛のこもった憐れみの気持ちを持たれたからに違いありません。

しかし、それだけではため息にはなりません。可哀そうだ、という気持ちはもちろんあったでしょう。しかしもう一つ、主は、《神との交わりを持っていない》一人の男を、胸の中に抱いたわけであります。そしてその男のことを、主は憐れに思ったのです。ですからもう一つ、主はこの時、同時に、まだ神の国の福音のことを知らない、「この世の人々」のことをも、深く思ったのではないでしょうか。御自分は今まで、苦労して福音を伝えてきた。雨の日も風の日も病める者、悩み苦しめる者を訪ねては癒し、慰め、福音を語って来た。しかし、世の中の人々はまだ神の国のことが分からないで、悩み苦しんでいる。耳があっても聞こえず、神の国のことが分からない。だから、口があっても神を讃美することが出来ない。つまり主は、この時、同時に、《神との交わりを持っていない》「この世」の沢山の人々のことを、一緒に思ったのではないでしょうか。そしてその時、深いうめき声が出てきたのです。それは、ご自分がその一人ひとりのために、これから十字架に上らなければならないご使命のことを、深く思われたからではないでしょうか。だから、天を仰いで深いため息をつかれたのではないでしょうか。

ですからそれは、深い愛情のこもったため息です。そして主は、わたしどものことを思われたのです。主の溜息は、ただの同情の溜息ではありません。この耳が聞こえず、口が利けない男を、神の御独り子が、ご自分の胸の中に抱いた時に――あるいは抱きしめたいとさえ思われたその時に――、その御独り子の御心の中に起こった、神の御子だけがお持ちになる、この罪の世を深く憐れむため息だったのではないでしょうか。

わたしども人間は、何のために、「耳」を与えられているのでしょうか。神はなぜ、耳をおつくりになったのでしょうか。神さまの御言葉を聴くためだったのではないでしょうか。ところが、耳がありながら、御言葉が聞けない。何のために、「舌」や「唇」を与えられたのでしょうか。神さまをほめたたえるためだったのではなかったでしょうか。それだのに、わたしどもの舌や唇は、他人の陰口や悪口を言う時にだけ、一番面白がって生き生きとしています。神さまを讃美することなど、めったにないのです。何とつまらない使い方でしょうか!!主イエスの母マリアは、「マリアの賛歌」の中で、「わが心、主を崇め、わが霊は、わが救い主なる神を喜び奉る」(ルカ146)と謳っています。あのマリアの清らかな賛美の歌を、わたしどもの「唇」はとうに忘れ、なかなか歌えなくなっているのではないでしょうか。

 * *

さて、主はこの耳と口の不自由な男を抱きながら、彼に向かって、「エッファタ」と大声で叫ばれました。この「エッファタ」という言葉は、主が日常使っておられたアラム語で、「開きなさい」という意味です。この「エッファタ」という言葉だけは、この情景を遠くで見ていた群衆にも、よく聴こえたのです。マルコはよく、このように、人々の心を深く捉える出来事が起こったときに、主がお使いになったままのアラム語をそのまま伝えてくれています。例えば、今しがた息を引き取ったばかりの12歳の少女を生き返らせなさったときに、主は少女の手を取って、「タリタ・クム」(マルコ541)と言われました。「少女よ、起きなさい」という意味です。また、主が十字架上でお亡くなりになった最後のお言葉、「エロイ、エロイ、ラマ・サバクタニ」(「わが神、わが神、何ぞ我を見捨て給いし」、マルコ1534)は、特に大きな声で、弟子たちの耳にはしばらくこびりついて離れなかったと思いますから、これもそのまま記されています。

さて、主がそのように語られた時に、この男の耳が開け、舌のもつれもほどけて、はっきりと話すようになりました。

今まで、自分一個の世界しか知らず、外の世界との交わりを持たなかった男です。形あるものしか見えず、その奥にある本当のものが見えなかった男です。他人の心の暖かみにじかに触れたことのない男です。その男が、外界との交わりを持つようになりました。そしてそれは同時に、主イエスの深い愛がこの男にも通じた瞬間でした。神の御言葉が分かり、神を讃美する舌を与えられた瞬間でもありました。主が「エッファタ」「開きなさい」と言われた、この神の言葉によって、この男の魂が、初めて生きる者となったのです。

皆さん方は、ローマにあるシスティーナ礼拝堂の天井に描かれた、ミケランジェロの「天地創造」という天井画を写真か何かでご覧になったことがおありの方もおられるかもしれません。わたしも見ました。神が今お創りになったばかりの最初の人アダムを指さし、アダムの名前を呼ぶと、アダムが生きる者となった、という絵です。あれは、創世記2章(7節)に書いてある、人間は神に自分の名前を呼ばれることによって、初めて生きた者となった、というミケランジェロ自身の信仰を表しています。人間にとって、何よりも大切なことは、神の言葉を聞けるようになることです。自分の名前を呼んでもらえて、初めて、人間は本当に人間として生きられるようになるのです。それと同じように、この男の魂も、神の「開きなさい」という言葉を聴いて、初めて生きる者となったのです。

ですから、36節以下を読みますと、人々はこの奇跡に深い驚きを覚え、口止めをされても、されればされるほど、ますます言い広めた、と記されています。「この方のなさったことは、何もかもすばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。

これは主の伝道の業が一段落ついたころのことです。マルコ伝7章はこの福音書のほぼ真ん中です。これから8章に入って、いよいよこの福音書のクライマックスの一つである、ペトロの信仰告白の記事があります。そのすぐ前です。群衆は、今までに主がなさった御業のすべてを振り返って、「この方のなさったことは、何もかもすばらしい」と語った、というのです。

* *

一年の終わりの時に、わたしどもがこの年を振り返って口にする言葉も、このような言葉であってほしいのではないでしょうか。そして、自分の一生を終えるときも、願わくば、この言葉を口にして終えたいものであります。「この方のなさったことは、何もかもすばらしい」、と言って、神を讃美して終えたいものです。

わたしどもがこの2023年を自分一人の生活と考えれば、変わり映えのしない一年です。2023年が過ぎて、新しい2024年を迎えるだけです。人間の一生というものも、たいていの場合、皆そのようにして、あっと言う間に過ぎてしまいます。

しかし、わたしどもはその群衆の中から連れ出されて、ここで神を礼拝して、主イエスと共に一年の終わりの時を迎えています。ですから、一つだけ、確かに言えることがあります。それは、この一年も、神が、御業を為さってくださった、ということです。神がわたしども一人ひとりを愛してくださいました。わたしどもは大したことはできませんでした。でも、主が働いてくださいました。まだ、わたしどもの目には見えない、沢山のことをしてくださいました。この方のなさったことは、何もかもすばらしかったのです。「耳の聞こえない者が聞こえるようになった」。神を信ずる信仰など、持てるはずがないし、持つ資格さえないこんな自分が、持てるようになった。主の二つの指が、わたしどもの耳に入れられ、御霊が注がれた。主がわたしどもの名前を呼んで、御許に引き寄せてくださった。主がこの教会をお建てくださり、わたしをこの教会に連なる者の一人として下さった。そして、「口の利けない者」。すなわち、神を讃美することなど出来ないはずのこの自分が、そんな資格すらないこの自分が、神を讃美し、人生を喜びと感謝をもって生きることができるようにしてくださった。わたしどもの失敗や破れの多い業を通しても、神の業が為されていった。それによって、わたしどものこの一年は、感謝して終えることが出来るようになったのです。

わたしどもは、終わりの日に墓の中から甦らされる時にも、キリストはわたしどもに向かって、この「エッファタ」「開けよ」という御言葉を語ってくださいます。わたしどもは心を合わせ、声を合わせて主を讃美することが出来ます。「この方がなさったことは、何もかもすばらしい」、と。そのような感謝と讃美をもって、この一年を終えて、また新しい年を、ご一緒に迎えたいと思います。

祈ります。