わたしたちとあなたがたの声が響き合う

「いのちとゆるしに満ちた生き方」(2024/1/7)

出エジプト記21章12から14節、

マタイによる福音書5章21から26節

説教 上田彰牧師

 

 今日の聖書個所は、二つの大変にシンプルな命令を私どもに示しています。殺すな。和解せよ。ずいぶんに響きの異なる命令です。殺すなと言われて、ドキッとする人はあまりいないと思います。和解せよと言われてドキッとしない人もまたあまりいないのではないでしょうか。しかし、その二つの命令には相通じるものがある。そのことに気づいたときに、私どもの生き方はもっと命に満ちたものとなる。そしてもっと赦しに満ちたものとなる。

 

 順を追って説明をするために、まずは出エジプト記を紐解いてまいりたいと思います。出エジプト記にはご存じの通り、あなたは殺してはならないという命令が十戒という形で出てまいりますが、その命令を深め、より具体的にしているのが今日の箇所です。簡単に言いますと、わざと殺した場合には十戒に背いていますから死刑になります。しかし、わざとではない場合、例えば森で木を切るために斧を振っていたらすっぽ抜けて人が死んでしまった場合などは、死刑にはならず、追放刑になる、という話です。その行先として、具体的に六つほどの町が当時はそのために設けられていて、そこに追放されることになっていました。ここでいう追放というのは、実はこういう意味です。すなわち、あなたが偶然的に手をかけて結果的に死んでしまった被害者に家族や身内がいる場合、その人が復讐したがっているかもしれない。復讐を法律で禁じるというのは近代ヨーロッパの価値観です。復讐をするのは国家だけだから、あなたが突然復讐されることはないというのは限られた地域と時代だけの話で、それ以外のところでは、あなたは自力で逃げなさい、その復讐が正しい理由か間違った理由かはわからないが、とにかく命を狙われているのなら、自力で逃げるしかない、という話なのです。旧約聖書の時代には身内を殺された家族が、その犯人を追いかけ報復するということがあったのです。実は今でもあり、ガザ・パレスチナ紛争は終わらないと言われています。

 考えてみれば、悪いことをした人を田舎に移す、というのはその人の命が狙われているかもしれないので、命を守り、保護する、ということでもあるのです。例えば日本の中世の法律によれば、島流しというものがあって、それぞれ町や村、島の中で人口の1割以下になるように配分されていました。そうやって伊東には源頼朝や日蓮上人が来ます。言ってみれば、町の中に罪人(ざいにん)を受け入れる不思議な雰囲気がある。そしてそのような雰囲気は、単にお上が送り込んだ罪人を受け入れる雰囲気だというだけではなく、様々な意味の訳ありの人を受け入れる土壌がありました。聖書の時代にもまた、逃れの町というのはそうやって、追放され、あるいは逃げ出してその地に仮住まいができる場所でありました。

 逃れの町。それは、場所と形を変えながら、今でも存在しているのかもしれません。例えば過激な反社会的グループに名を連ね身を投じていた人が抜け出す場合、身を隠す町が必要です。よそ者をこっそりかくまってくれる町です。

 一つの町にとどまり続けることはできない身の上の人もいることでしょう。見つかりそうになってきたと思ったら、別の町に移る。しかしやがて、逃れの町を渡り歩くだけでは逃げ切ることが難しくなってくる。相手は何年もかけて追いかけてくる、復讐心に燃えた刺客です。何年かけてでも、一生かけてでもよいから捕まえたい、そう思って息を荒くして追っている。逃れの町を一つ一つ当たって調べていく。

 逃げ回っている側で申しますと、もう少し逃げる場所の選択肢が欲しいわけです。今日の出エジプト記をよく読みますと、逃れの場所というのは町単位であるばかりでなく、実は逃れの場所がもう一つあることを示しています。それが礼拝堂であったのです。つまり、逃れの町に行くか、すべての礼拝堂という逃れの場所に行くか、それらを渡り歩いて逃げていくのです。

 礼拝堂は聖なる空間です。礼拝堂に逃げ込んだ犯罪者は、もはや誰からであっても守られます。武装をした者が、いわゆる国家権力つまり警察であっても、あるいは身内を殺されて報復を胸に誓った暗殺者が刃物を忍ばせてやってきても、「ここは聖なる場所であるぞ」という言葉によって、武力を行使できなくなる。殺したい、捕まえたい相手には礼拝堂の中ではたどり着くことができない。

 どんな時代にもそのような形で礼拝堂に逃げ込む人が出てまいります。礼拝堂に身を隠す人はやがて、祭壇の前で祈りをささげるようになります。そしてやがてその元犯罪者は、祭壇の前で捧げる祈りを自らの呼吸のリズムにしてしまいます。かつては何かに追われて息を弾ませていた人が、礼拝堂から礼拝堂へと渡り歩く間に、いつの間にか息をするように祈り、祈るように息をする、そのようなリズムを会得できるようになる。思わされるのです。人はみな、祈り続ける限り、その命を長らえるものであることを。決して犯罪者だけが祭壇前での祈りによって呼吸を整えるわけではありません。すべての信仰者には、復讐に燃えまた逃亡する際の荒い息から回復し、祈りの呼吸を整えるための、祭壇前という聖なる空間が必要です。

 

 今日の新約聖書の箇所は、祈ることによって生きながらえる、そのような生き方を知る私どもが、主イエスによって姿勢を正される個所でもあります。主は一つの問いかけを私どもに投げるのです。人と和解をしないままで祭壇に向かっているとしたら、祈りの呼吸はまだ乱れたままなのではないか、という問いです。和解せよという言葉を聞いたときに、鼓動が早くなっていたことを思い出せる人は幸いです。

 もう少し詳しく今日の箇所を見てまいりましょう。イエス様は山上の説教において、十戒を前半の神様の前での戒めと後半の人間同士の戒めと分けた場合のうちの、後半の戒めを解説しています。山上の説教を聞く者はだれでも、イエス様の、これらの戒めを厳しく解釈し、戒めを守り切ることができる者など誰もいないといわんばかりの厳しい言葉に、最初は戸惑いを覚えます。例えば、今日の箇所も、十戒の殺すなを引用しながら、殺すというのは命を取るということばかりでなく、悪口を言うことを含むのだ、だから、命を奪ってはいないのだから悪口程度は許される、というのではなく、あるいは陰で言いさえすればいいでしょう、本人に伝わりさえしなければいいのだといって、祈りによって呼吸を整えるのではなく悪口によって息を弾ませるようになっているようなことがもしあるとするならば。それは結局、私どももまた自分の、そして共同体の、命を奪っていることになるのだ、というわけです。

 殺すなという言葉によってはあまりドキッとしない私どもも、悪口を言うなと言われると、ドキッとしないわけにはいきません。イエス様もお人が悪い。私どもをドキッとさせるためにそのような警告を発されたのでしょうか。今日の新約の箇所をもう少しよく読みますと、全く違う事実に気づかされます。主イエスは、私どもを共同体の命を損なう者として告発するためにこうおっしゃっているというわけでは全くないのです。むしろ、私どもがついうっかり人の悪口を言うことについて、十分ありうることだ、という前提でおっしゃっておられるのです。悪口を言ってしまうことそのもので自分を責める必要はない、というわけです。

 この言葉には、続きがあります。「和解をしなければならない」というのです。悪口を言ったのと同じ回数だけ和解のために出向きなさい、とおっしゃるのです。一体私どもにとって、悪口を言うなと言われることと、悪口を言ったら、それと同じ回数だけ和解をしなさい、という言葉と、どちらの方が難しいでしょうか。おそらく難しいのは、同じ数だけ和解をすることなのでしょう。しかし同時に教えられ、主イエスキリストから促されることがあります。私どもが、悪口を言うことによって傷つけられる、柔らかな魂、それは自分の魂であれ、相手の魂であれ、そして共同体の魂であれ、それらの魂が、和解をすることでまた癒されるようになる、そんな可能性をもっと信じてもよいのではないか、という促しです。

 

 かれこれ7年前に、マタイ福音書を説教する中でこの箇所を説教いたしました。その時の説教原稿を今回の準備のために読み直しました。ああ当時はどういうことを思いながら、この和解せよ、というみ言葉を聞いていたのだろう、そして説教していたのだろう、と思いました。和解せよという言葉は、私自身にどれだけ響いていただろう、と思うのです。読み直して気づかされたことがあります。その時には、和解という言葉はまだ想像だけの出来事でした。その七年前の説教の中で上田彰という説教者は、和解しなさいという主の命令について、「和解がなされていないから和解しなさい」という意味で受け止めて説教をしているようなのです。今その説教を読み返して、正直違和感があります。なぜあの当時、私どもの共同体には、私どもの地域には、すでに赦しと和解のわざが始まっている、小さな群れだけれども、小さな試みではあるけれども、教会は現実として和解の共同体なのだ、ということをなぜ言っていないのだろう、不思議に思いました。もちろんなされている和解のわざは、当時から現在に至るまで、小さなわざにすぎません。和解などということはあやふやなものだという声の方が強いかもしれません。実際この七年の間に、自分の身に、教会に、伊東の地に、日本社会に起こった出来事を思い出してみても、和解ということがどこにあるのかと思わされます。どの人々が、和解ということを本当に求めているでしょうか。どんな団体も、人間が作り出した規則を持ち、そこに集まる人同士が折り合いをつけて、お互いを傷つけないようにしているにすぎないように見えるのです。

 しかし今日の説教を山上で語る主イエスは、よく読むと、和解という「理想」を語っているのではなく、和解の共同体の現実の中を生きてごらんと促していることに気づかされます。そういう共同体のことを、教会と呼びます。教会は、ただ和解するということを努力目標とするような団体ではなく、赦しの事実の中を生きる共同体だ、そのことに気づきなさい、と促しておられるのです。私どもの共同体は、ささやかな共同体です。伊東教会ということに限らず、日本の教会は実にささやかな存在であり、吹けば飛ぶような小さな存在に見えています。しかし、そのように小さな共同体において、和解という価値観は脈々と生き続けている。教会共同体の価値は、和解のわざが廃れない限り、決して減じることはありません。どんなに小さな群れであっても、和解が志され続けている限り、教会としての価値は失われることはないのです。そして、そのような和解を信じ続ける限り、その人々は祈りの呼吸の中を生き続けることができるのです。

 和解を必要としているところはもっとたくさんあることでしょう。私どもが、教会の敷地を超えたところで起こっている争いについて、思わず見て見ぬふりをしてしまうこともあるかもしれません。武器によって愛する家族を失い、悲しみのうちに一生かけて復讐してやろうと心に誓いつつある人々が今日もまた一人また一人と増えていく現実を知っています。復讐に燃えている人に実際に出会うことさえあるかもしれない。しかしそのような人に出会った時でも、あるいはまさにその復讐の炎を自分に向けようとしている相手に対しても、和解の花束を差し出したいと思います。その人が直ちに憎悪の炎を消して互いに抱きあうことはできないかもしれません。しかし後になって、復讐心で早まる心の鼓動によって心臓が破れそうになっていた時に、花束を渡してくれた人がいたことは、必ず赦しの息吹となって現れることでしょう。

 

 新年最初の聖餐の食卓が備えられています。和解の食卓です。この食卓に進み出るときに、まだあの人と和解していないではないか、そんな思いが互いに与えられ、主によって促されるならば、私どもはここでいただくパンとブドウ汁によって、本当に生かされるものとなります。感謝して食卓へと進み出ることとしたいと思います。