偉大な者が宿るところ

2023/12/24 降誕祭主日聖餐礼拝 「偉大な者が宿るところ」 ルカによる福音書2819節 牧師 上田彰

*福音に立錐の余地無し

 クリスマスのメッセージの中心は、「飼い葉桶に寝かされている乳飲み子こそが救い主である」、と今日の聖書箇所は強調します。全く無力な者が、地上に誕生した。そして、飼い葉桶という、およそ救い主には似つかわしくないものの中に収まって、すやすやと休んでいる。主なる神の偉大な力が、もっともその力を収めきれないと思われているものに収まって、そして安らかに寝息を立てている。クリスマスに与えられた福音のメッセージです。

今日の箇所を読みながら、一つの建物の思い出が絶えず頭の中を駆け巡っています。八王子にあります、大学セミナーハウスという建物です。神学校の最終学年になって卒業間際の1月頃、牧会の現場に出ている先輩牧師に混じって、教職セミナーという会に参加することが許されます。会の中身もさることながら、印象的なのが、日中の学びの会や宿泊に使う建物なのです。こんな建物なのですが、60年近く前に建てられたもので、世代によっては「ウルトラマンの科学特捜隊基地」というのでご存じの方もおられるかも知れません。三角形が地面に突き刺さっているようなデザインです。「大地に知の楔(くさび)」というのがコンセプトのようで、ある意味で時代を感じさせます。東神大がここを借りて泊まりのセミナーをしていたわけですが、主催者側である教授の一人が、いたくこの建物のデザインを気に入っておられ、後にご自身で本を出されたときに、表紙絵としてこの建物のデザインをキリスト教的に翻案したものを作家に作ってもらって掲載したほどです。三角形が地面に突き刺さっているのは、大地が知性という名のくさびを打ち込まれるというものであると同時に、福音が大地に突き刺さり、あるいは十字架が大地に突き刺さっている様子である、というわけです

もう一度聖書に戻りますと、飼い葉桶に寝かせた赤子、なぜそのような事態になったかについて、今日の箇所の直前の7節には次のようにあります。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」。救い主と、その両親を受け入れる余地が宿屋には無かった、というのです。それは同時に、地上全体に救い主を受け入れる余地が無かった、ということをも言おうとしていると考えられます。受け入れる余地など全く無いところに、くさびを打ち込むかのように御子が寝息を立ててすやすやと休んでいる。少し不思議な光景です。そしてこの光景を巡って、人々は少しずつ変えられていくのです。今日は眠る赤子を巡る人々について、二つの反応を見て参りたいと思います。

 

 *羊飼い

 まず一つ目の反応は、羊飼いを巡る反応です。羊飼いとは何であるのか、ということについて確認をしておきたいと思います。

 羊を飼う仕事というのは、色々な意味で差別を受けやすい仕事です。羊の世話をするわけですから、曜日を問わず働かねばなりません。安息日を守ることが出来なかったことから、ユダヤ教社会の中でさげすまれ、周辺民族によって担われる事もある仕事でした。ユダヤ教の中でも特に、ラビと呼ばれる律法の教師からは、強盗やならず者と同等に扱われる表現が、書かれたものによく出て参ります。

 ところが他方、聖書自身の中には、羊飼いが肯定的な意味合いで使われることが多くあります。有名な詩編23編は主なる神ご自身を羊飼いにたとえるものですが、モーセ、また特にダビデが羊飼いであったということが羊飼いというものの信仰者の間での印象をぐんと高めています。またイエスさまが、ご自身を「良い羊飼い」とおっしゃっていることが決定的と言えますが、今日のように赤子であるイエスさまに初めて会ったのが羊飼いであったということも、関係しているのではないでしょうか。

 社会的には差別されているが、聖書自身は肯定的に扱っている。羊飼いには二つの側面がある、といえるのではないでしょうか。

これまた、一つの思い出が駆け巡ります。ドイツ留学も後半に入った時期、一人の親しいドイツ人牧師が出来、クリスマス前のアドヴェントパーティーに招かれていました。その直前に私が見学をした、ある教会の話をしたのです。その教会は、教会の塔を上ると、最上階には鐘を突くための部屋があるのですが、その部屋は縄ばしごでないと上がれないようになっていました。そして縄ばしごを通してある穴があり、そこにははしごとは別に滑車があり、お盆がくくりつけられているのです。そのお盆はなんのためにあるかというと、鐘突役の人の食事のためだというのです。つまり、毎食食事を階下の人が作り、それをお盆に載せ、上の鐘突役が取って食べる。構造的に考えて、鐘突をするのは、教会奉仕で良くありがちな輪番で、一日やったら次の人がやるというようなものとは考えられません。また鐘の音が耳のすぐそばで聞こえて、外出もしないというのは、健康的とは言えません。独身の人がするのかと思ったら、家族でそこに住むということもあったのだそうです。一体どういう人が鐘突を引き受けるのか。小説『』では、不幸な生い立ちで教会に引き取られた一人の男性がこの仕事を任じられていました。いわゆる訳ありの人が務めるというのは間違いないようです。そういった想像を、鐘突部屋から滑車で吊り下げられたお盆を見て思ったのが、パーティーの数日前です。私はそのパーティーの主宰者である友人に、その時の話をしました。そして次のような感想を述べたのです。「教会の中で一番尊敬されるのが牧師だとして、次に尊敬されるのは鐘突男なのではないか。他の誰も引き受けられないことを引き受け、一日の決まった時間帯に必ず鐘を突く。一方で、この鐘突男は、社会的には必ずしも尊敬されていない。自分の子どもを医者か裁判官か牧師にしたいという家庭はヨーロッパではごまんとあるけれども、鐘突男にしたいとは、よほど信仰的な家庭で無い限りは言わないはずだ。そこに教会の価値観と社会の価値観が、ここヨーロッパにおいてもずれているのではないか」。そう伝えたのです。普段はその牧師も、ヨーロッパにおいて教会が市民社会の重要な位置にあり、そのことによって社会が健全になっている、そういって胸を張っていました。なにしろ村や町の中で、一番大きな家に住むのが村長や町長で、次に大きな家に住むのが牧師です。必ず町の真ん中に教会があり、そのことを教会に行く人も行かない人も例外なく意識せざるを得ない。そのような社会で牧師として仕えていることに誇りを隠さない友人が、その話をしたときに少し微妙な表情を浮かべたのです。そして言うのです。確かに、社会の価値観と教会の価値観は、厳密には一緒ではないかもしれない。

そのやりとりからかれこれ10年が経ちました。今でもその時のやりとりを時々思い起こします。日本で教会に仕える牧師として、時々地域の名士であることを目指すタイプの牧師もいるようですが、もう少し現実を見る必要があるように思います。他方で、教会において、牧師はどういう位置付けにあるのでしょうか。そして信仰者一人一人はどうでしょうか。えらいとかえらくない、という言い方が教会においてふさわしくないことは、誰でも本能的に分かっています。今日の聖書箇所の中から、牧師や信徒といった、教会に仕える者たちを言い表すのにふさわしい表現はあるでしょうか。14節、「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」。このうちの、御心に適う人、というのが教会における人々の呼び名になるのではないでしょうか。平和が御心に適う人にあるように。これは教会に集う全ての人々の願いでもあります。

 私たち羊飼いは、一方でさげすまれ、他方で栄光ある平和の務めを担っています。そのどちらも真実の姿であり、時折一方がもう一方を圧倒しそうになります。栄光ある務めという教会的価値観が稼ぎが十分ではない仕事というもう一方の価値観を圧倒するのは一体どういうときでしょうか。

 その様子について、13節を見てみたいと思います。こうあります。「すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を讃美した」。ここに、天使が先導して、先に讃美を始め、天の大軍がそれに加わった、という関係が見て取れます。天の大軍というのは、もともと天使ではなかった、その意味でどちらにも転びうる存在が、天使に加勢した、ということがわかります。それはあたかも、さげすまれるかも知れない存在であった羊飼いが、御心に適う栄光ある務めに転じるのと似ています。

 

 

 *心に納め、思い巡らす

 ある神学者が、クリスマスを巡るエッセーを記す中で、今日の出来事に登場するマリアの姿に注目します。マリアが主語となって登場するのは、最後だけです。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。この、「心に納め、思い巡らす」というのがマリアの役割です。そしてそのエッセーの書き手は言うのです。マリアはこれらの出来事を理解しようとはしなかった。これらの出来事は不思議に包まれており、完全に理解することは出来なかった。理解は出来ないが、しかし心に納め、思い巡らすことは出来る。

 改めて考えさせられます。私どもは、聖書の言葉を理解することが出来るのだろうか。説教の言葉であっても同じかも知れません。完全に理解出来るのだろうか。もちろん理解出来るに越したことはありません。しかし、私どもが地上の権威でもってものをなお考えているときに、そこには信仰という名のくさびが打ち込まれる必要があるのです。そして、理想的に言えば、信仰的な知性で聖書の言葉や説教を理解出来れば一番良いと思います。しかし少なくともマリアには、そのような意味の知性があったわけではなかった。その代わりに、彼女は「心に納め、思い巡らす」ことが出来たのです。もし私どもがマリアに倣うとするならば、この態度ではないでしょうか。理解出来なくても良い。しかし心に納め、思い巡らす。

 

 考えてみれば、主イエスは大地にくさびを打ち込むようにして、また受け入れられる余地の無い宿屋の、それでも片隅に陣取るようにして飼い葉桶の中に、生まれたのです。地上には主イエスの居場所はなかった。にもかかわらず、マリアは御子を巡る出来事を、それでも心に納め、思い巡らすのです。本来一人の心の中に収まる出来事ではありません。にもかかわらず、マリアは心に収めた。

私たちはこれから、聖餐の食卓を守ります。この食卓には、パンとぶどう酒に収まることの出来ない主イエス・キリストの栄光が満ちています。