2023/12/24 降誕祭主日聖餐礼拝 「偉大な者が宿るところ」 ルカによる福音書2章8~19節 牧師 上田彰
*福音に立錐の余地無し
クリスマスのメッセージの中心は、「飼い葉桶に寝かされている乳飲み子こそが救い主である」、と今日の聖書箇所は強調します。全く無力な者が、地上に誕生した。そして、飼い葉桶という、およそ救い主には似つかわしくないものの中に収まって、すやすやと休んでいる。主なる神の偉大な力が、もっともその力を収めきれないと思われているものに収まって、そして安らかに寝息を立てている。クリスマスに与えられた福音のメッセージです。
もう一度聖書に戻りますと、飼い葉桶に寝かせた赤子、なぜそのような事態になったかについて、今日の箇所の直前の7節には次のようにあります。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」。救い主と、その両親を受け入れる余地が宿屋には無かった、というのです。それは同時に、地上全体に救い主を受け入れる余地が無かった、ということをも言おうとしていると考えられます。受け入れる余地など全く無いところに、くさびを打ち込むかのように御子が寝息を立ててすやすやと休んでいる。少し不思議な光景です。そしてこの光景を巡って、人々は少しずつ変えられていくのです。今日は眠る赤子を巡る人々について、二つの反応を見て参りたいと思います。
*羊飼い
まず一つ目の反応は、羊飼いを巡る反応です。羊飼いとは何であるのか、ということについて確認をしておきたいと思います。
羊を飼う仕事というのは、色々な意味で差別を受けやすい仕事です。羊の世話をするわけですから、曜日を問わず働かねばなりません。安息日を守ることが出来なかったことから、ユダヤ教社会の中でさげすまれ、周辺民族によって担われる事もある仕事でした。ユダヤ教の中でも特に、ラビと呼ばれる律法の教師からは、強盗やならず者と同等に扱われる表現が、書かれたものによく出て参ります。
ところが他方、聖書自身の中には、羊飼いが肯定的な意味合いで使われることが多くあります。有名な詩編23編は主なる神ご自身を羊飼いにたとえるものですが、モーセ、また特にダビデが羊飼いであったということが羊飼いというものの信仰者の間での印象をぐんと高めています。またイエスさまが、ご自身を「良い羊飼い」とおっしゃっていることが決定的と言えますが、今日のように赤子であるイエスさまに初めて会ったのが羊飼いであったということも、関係しているのではないでしょうか。
社会的には差別されているが、聖書自身は肯定的に扱っている。羊飼いには二つの側面がある、といえるのではないでしょうか。
そのやりとりからかれこれ10年が経ちました。今でもその時のやりとりを時々思い起こします。日本で教会に仕える牧師として、時々地域の名士であることを目指すタイプの牧師もいるようですが、もう少し現実を見る必要があるように思います。他方で、教会において、牧師はどういう位置付けにあるのでしょうか。そして信仰者一人一人はどうでしょうか。えらいとかえらくない、という言い方が教会においてふさわしくないことは、誰でも本能的に分かっています。今日の聖書箇所の中から、牧師や信徒といった、教会に仕える者たちを言い表すのにふさわしい表現はあるでしょうか。14節、「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」。このうちの、御心に適う人、というのが教会における人々の呼び名になるのではないでしょうか。平和が御心に適う人にあるように。これは教会に集う全ての人々の願いでもあります。
私たち羊飼いは、一方でさげすまれ、他方で栄光ある平和の務めを担っています。そのどちらも真実の姿であり、時折一方がもう一方を圧倒しそうになります。栄光ある務めという教会的価値観が稼ぎが十分ではない仕事というもう一方の価値観を圧倒するのは一体どういうときでしょうか。
その様子について、13節を見てみたいと思います。こうあります。「すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を讃美した」。ここに、天使が先導して、先に讃美を始め、天の大軍がそれに加わった、という関係が見て取れます。天の大軍というのは、もともと天使ではなかった、その意味でどちらにも転びうる存在が、天使に加勢した、ということがわかります。それはあたかも、さげすまれるかも知れない存在であった羊飼いが、御心に適う栄光ある務めに転じるのと似ています。
*心に納め、思い巡らす
ある神学者が、クリスマスを巡るエッセーを記す中で、今日の出来事に登場するマリアの姿に注目します。マリアが主語となって登場するのは、最後だけです。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」。この、「心に納め、思い巡らす」というのがマリアの役割です。そしてそのエッセーの書き手は言うのです。マリアはこれらの出来事を理解しようとはしなかった。これらの出来事は不思議に包まれており、完全に理解することは出来なかった。理解は出来ないが、しかし心に納め、思い巡らすことは出来る。
改めて考えさせられます。私どもは、聖書の言葉を理解することが出来るのだろうか。説教の言葉であっても同じかも知れません。完全に理解出来るのだろうか。もちろん理解出来るに越したことはありません。しかし、私どもが地上の権威でもってものをなお考えているときに、そこには信仰という名のくさびが打ち込まれる必要があるのです。そして、理想的に言えば、信仰的な知性で聖書の言葉や説教を理解出来れば一番良いと思います。しかし少なくともマリアには、そのような意味の知性があったわけではなかった。その代わりに、彼女は「心に納め、思い巡らす」ことが出来たのです。もし私どもがマリアに倣うとするならば、この態度ではないでしょうか。理解出来なくても良い。しかし心に納め、思い巡らす。
考えてみれば、主イエスは大地にくさびを打ち込むようにして、また受け入れられる余地の無い宿屋の、それでも片隅に陣取るようにして飼い葉桶の中に、生まれたのです。地上には主イエスの居場所はなかった。にもかかわらず、マリアは御子を巡る出来事を、それでも心に納め、思い巡らすのです。本来一人の心の中に収まる出来事ではありません。にもかかわらず、マリアは心に収めた。
私たちはこれから、聖餐の食卓を守ります。この食卓には、パンとぶどう酒に収まることの出来ない主イエス・キリストの栄光が満ちています。