神の『然り』の実現

2023/12/17 待降節第四主日 神の『然り』の実現

コリントの信徒への手紙 二 11822

(ガラテヤの信徒への手紙435                         牧師 上田彰

 

*時が満ち、時代は二つに分かれる

 少し前に世間を騒がせたのが、熊でした。人間の生活の場所が熊の縄張りまでせり出してしまったことが、冬眠できない熊の機嫌を損なってしまった。熊よけのスプレーなるものまで売られるようになりました。

今回はたまたま熊がクローズアップされましたが、もともと獣・動物と人間との共生というのは難しい課題です。伊東でよく聞くのは、鹿が道路に出てしまう、というものです。それで肉を食べるという話もありますが、そもそも人間と動物の共生のために知恵を働かせるとしたら、どのようなものがあるのでしょうか。

 日本に古来からあるもので「ししおどし」というものがあります。細かい説明は必要ないと思いますが、道路に鹿が出るのは防げないにせよ、鹿、それから猪が田畑を荒らすのを防ぐために仕掛けるのがししおどしです。ある程度水がたまったら、音を立てる。その情景は私どもの心のうちに染み入ります。そのうち、ししおどしは田畑よりもむしろ庭園に設けられるようになって、現代に伝わります。ししおどしは、私どもに時が到来する音となって響きます。

 到来する音を、「満ちる」と言い表すのがガラテヤ書です。今日の礼拝への招きの言葉として読みました。キリストが地上においでになる様子を、パウロは思い浮かべ、そして万感の思いを込めて「時が満ちて」と書き表します。世界の歴史は、キリストがおいでになる以前と、おいでになってからの二つの時代に大きく分かれる。そして以前の時代については、私たち人間が律法によって支配されている時代であり、時が満ちキリストがおいでになってからの時代を、キリストのもとで私たちが神の子とされる時代である、というのです。もし御子がおいでにならないのなら、歴史はずっと続くことになります。しかしキリストの到来は、歴史を二つに切り分けます。その様子は、一枚の紙を刀で二つに切り分ける様子にもなぞらえられるかも知れません。

*然りと否――教会の事情

 キリストの到来を告げる箇所として、今日のメインであるコリントの信徒への手紙に入っていきたいと思います。興味深いことにここでは、むしろパウロは霧分かたれてしまっている二枚の紙を、手品のように元の一枚に戻しています。

 

 パウロは、コリント教会に設立から関わっています。色々なところで伝道のわざを進める傍ら、時々コリントから入ってくる消息に耳を傾けます。どうも教会で内紛が起きているようだ、しかも相当に事態が進んでいるので、すぐに来てほしい、というのです。

 内紛の中身については正確には分かりません。この手紙、第二コリントに先立つ第一コリントを見る限り、その材料は山ほどあって、そのどれであるかが分からないのです。コリント教会からパウロに宛てられた質問リストを見ますと、まあこれはなかなか勢揃い。結婚の問題、市場で売られている肉を食べて良いか問題、礼拝形式や説教に関する問題、礼拝中の帽子の着用に関する問題、聖餐に関する問題、などなど。いずれも、いわゆる倫理の問題です。

 一つ取り上げてみましょう。肉を食べることに関して、という質問にパウロが答えています。背景はこうです。動物の肉を食べることがなぜ信仰問題になるかというと、先ほどのように交通事故に遭って死んでしまった鹿の肉なら全く問題が無いのですが、どこかの宗教で神殿に献げられた肉が市場に出回っていて、それを食べることが信仰的な問題が無いのか、というようなことです。この問いが、当時ユダヤ人系のキリスト者とギリシャ人系のキリスト者の間で論争になっていたようです。まだ少しピンとこない場合は、次のように考えれば現代的かも知れません。それは、神社の鳥居をくぐるか、という問題です。ある信仰者はそれを問題なく行い、べつのある信仰者は鳥居を見てもそれをくぐらずに脇を通る。パウロはこういった問題について第一コリントで答えるにあたって、「どちらの立場に立つにしても、相手を尊敬しなさい」と調停をしています。一方に、鳥居もくぐれないとはといって信仰深い人をばかにして、他方で、無神経にも鳥居をくぐるとは、といってリベラルな人をばかにする、それは不幸なことではないか、とパウロは調停を行います。「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」(ロマ14)とパウロが語る時、教会は神さまへの思い故に切り裂かれた二枚の紙から、一枚の紙へと修復されていきます。

 しかしそれでもコリント教会では問題が山積していて、お互いを尊敬するというような心持ちの問題では済まないところまで事態が進んでいる案件があったようです。その際のキーワードは「確信犯」です。具体的なことは分かりませんが、あるテーマに関して、暴走して、過激な形で実践を始めた。悪意は全く無いのです。むしろ善意で、事柄を進めていく。「確信犯」という言葉を調べますと、「悪いことであると分かっていながら犯罪がなされる、という意味ではなく、それが宗教的・思想的信念で正しいことだと確信をして犯罪を犯す人」である、となっています。今回の場合、すでにあるテーマについて二つの立場に分かれていた。どちらも自分が正しいと思っている。そして不幸にも、相手の立場についての深い理解がなかった。それで、相手の立場を軽んじて、自分の立場を推し進めてもいいだろうと突っ走ってしまった。しかしそれが悪い結果を生んでしまい、収拾がつかなくなった。

非常に不幸なことに、私どもはそんな現実をニュースを通じて知っています。悲しみの中でアドヴェントの時期を過ごします。

 こんなことわざがあるのです。「地獄への道は善意で敷き詰められている」。11世紀の言葉ですが、要するに、良かれと思ってやったことが悪いことにつながるということは、実は身近で頻繁に起こっているのではないか、という問題提起として受け止めたいと思います。(「ローマに通じる道」の写真はwikipediaより転載)

 

 コリント教会の話です。ここでは、切り裂かれた紙は、二枚ではなく、少なくとも三枚、場合によっては四枚とかそれ以上、と多かったようです。

 恐らくパウロの所に来た報告では、教会内部の人間なのか、教会を渡り歩く巡回宣教者なのかは分かりませんが、一種の暴走を始めてしまった。確信犯ですから、突っ走ってしまう。その結果、何らかの問題が実際に起こってしまった。それに対して、なんらかのけじめをすぐにつけないとならないと言い出す人が一方でいた。ところが他方で、すぐにけじめをつけるのではなく、パウロが来るまで待とう、という人もいたようです。彼が来たら、きっと皆が納得できる案を提示してくれるに違いない。

それでパウロが来ることを皆が待ちました。予定ではすぐに来る、ということでした。この場合のすぐ、というのは12週間、というところでしょうか。ところが1ヶ月、2ヶ月、祈って待っているのに、パウロが来ないのです。そろそろ何か雲行きが怪しくなってきました。

 

*然りと否――パウロの事情

 パウロは当初、アジアのエフェソ(現在のトルコのイズミル県)から直接船でエーゲ海を横切って渡ってコリントに行くという計画を立て、そのようにコリント教会側に伝えたようです。ところがその後事情が変わり、船で行くものの陸路沿いに行き、フィリピ(現在のカバラあたり)などを経由してからアテネ近くのコリントに入ります。それで時間がかかってしまう、そういう事情があったのです。ところがそれは、コリント教会側では不都合があった。先ほど申し上げた、パウロが来てから事態の解決を図ろうと主張していた人たちが攻撃され、パウロは誠実ではないという噂が広がってしまった。余計に急がないといけないわけですが、しかしまだすぐにはたどりつけない、そこで、自分の代わりに先に手紙を書いて送ったのです。

 パウロが嘘をついていたわけではありません。すぐに行かなければならない、という思いが一方ではあった。しかし他方で、すぐに行かない方がコリント教会のためになるのではないか、という思いもあったようです。コリント教会は一つの神の教会であって、彼らには自発的な判断が本来はできるはずだ、いやまだ出来ていないのだけれども、出来るようになってほしい。そのためには自分がしゃしゃり出るのではなく、少し控えた方が良いのではないか。そういう迷いがありました。すぐに行くと返事はしたものの、実際には流動的だったのです。コリント教会の中だけでなく、パウロの中にもまた切り裂かれた二枚の紙があったのです。

 ところが実際に船で出立する際に、違う目的地にたどり着くのに絶好の季節風が吹いてきた。エフェソからフィリピに行く際に、一年に一度だけ、普段は一週間近くかかる道のりを、一日でいけるというチャンスです。使徒言行録を見ると、パウロは以前にもこのタイミングでフィリピに行っています。そうであれば、コリントを尻目にしつつ先に訪ねておきたい教会があるではないか、ということになった。今でいえば、自分が講演の講師になったのであれば必ずその時間に会場にいるために、何があってもたどり着こうとします。しかし当時のことですから、そういった厳密なアポイントメントは取れません。それで結果として遅れることになった。

 パウロの予定変更が、それ自身で非難に値する物であったとは言えません。むしろ、パウロを呼んでから決めようと主張した人の立場を弱くするためにパウロは嘘つきだと宣伝した可能性があるように思います。

 

*然りを然りに――御子の到来

 ここまで今日のパウロの言葉の背景になる事柄を見てきました。どのような感想を持たれたでしょうか。率直に言って、それぞれの立場から、自分の正義だけを主張している、そんな印象を持たれたのではないでしょうか。どの理屈も時機、つまりタイミングを逸している。例えば、問題の発端でもあった、暴走した信仰者がいたことについても、本人はよかれと思って行動したのです。そしてその熱意は、きちんとタイミングを心得たものであったなら、きっと実を結んだに違いありません。ただタイミングだけが悪かった。そしてすぐにその行動を止めに入ったのもまた信仰者で、そこにも正義があった。さらに行動を止めるのを抑止し、パウロはすぐに来るからと申し出たのも信仰的な振る舞いであったといえるでしょう。これらのいずれも、タイミングを巡る判断の問題です。当のパウロが遅れたことにもまっとうな理由がある。それぞれの立場からの正義が、しかし共通の正義としては実現しない。これはコリント教会という一つの教会の中で実際に起こった出来事であり、またそれぞれの正義を貫こうとして悲劇が起こるという歴史的な宗教戦争の背景ともいえるでしょう。切り裂かれた紙は元に戻りそうにありません。

童謡で、あんまりいそいでこっつんこ、という歌があります。「おつかいありさん」に出てくる蟻たちの様子は、上から見る人間にとって、正面衝突を繰り返す、ユーモラスな姿です。しかし自分たちが観察される側に回るとしたら、私たち人間の姿もまた「ありさんごっつんこ」なのではないでしょうか。世界の歴史の中で繰り返された宗教戦争をも思い起こすとしたら、「おもしろうてやがてかなしき」という風にもなるかも知れません。

 

 パウロは今日の箇所を書きながら、そんな様子を思い浮かべていたのではないでしょうか。あの人のタイミングとこの人のタイミングとあなたのタイミングと私のタイミングが、どれもうまくかみ合わない。タイミングさえ良ければそれらの善意はすべて皆の役に立ったのに、タイミングが悪いものだから人々を不幸にする。

 そういった、間合いの悪さゆえに生まれる軋轢や、悲しみを、すべて引き受ける仕方で、神さまは、時を支配しておられるお方は、「真実な方」であって下さる、そうパウロは今日の箇所で記します。「真実な」というのは、アーメンであるお方、ということです。人間から見るとあっちとこっちの両方は立たないから、両方を立てようとしたら矛盾が生じるように思うのです。ありとありがごっつんこし、熊と人間が鉢合わせになるのです。

 両方を立てることなど出来ない、ということを現に身を持って痛感させられているパウロが、それでもこう知るすのです。神は真実な方である、と。神がアーメンのお方であるとはどういうことでしょうか。それは、あの人の思いやこの人の思いやあなたの思いや私の思いが、そのままだとバラバラだけれども、神さまが引き受けて下さる、ということです。むき出しになっている様々な思いが、人を傷つけ、殺す。しかしそんな悲しみを引き受けて下さるお方がいる。

 先ほどの、「地獄への道は善意で舗装されている」ということわざですが、11世紀に活躍した神学者でクレルヴォーのベルナルドゥスの言葉から来ています。人間が良い志を持っていながら人を傷つけ、自分もまた傷ついてしまうという矛盾した存在であることをよく言い表していることわざです。罪の自覚と悔い改めの必要性について私どもに示す鮮やかな言葉であるとも思います。カトリックがこの人を、教会博士という、歴代の重要な神学者ベスト10ぐらいの存在に数えているのも、分かる気がします。他方で現代の私どもがベルナルドゥスの生涯を見ていてぎょっとさせられるのは、彼が十字軍の第二回の志願兵を募るときに大きな役割を果たした、とあることです。どんなに優れた神学的著作を残していても、流石に十字軍を肯定した人を教会博士に認定したらまずいでしょうとカトリック教会に言いたくなる思いが一方でします。他方で思わされるのは、十字軍の罪深さをカトリック教会自身が深く知っているからこそ、あえて教会博士にベルナルドゥスを数え上げているのではないか、ということです。頭がいいから教会博士と呼ぶのではなく、人間の罪深さと、そしてそこから救って下さる神の偉大さを知っているからこそ、人は彼を教会博士と呼ぶのではないか、そうも思うのです。

 

*時が満ちた

 パウロは記すのです。時が満ちた、それは律法の下にいた人々が、神の子となるためであった、と。然りと否が混在する人間同士が生み出す悲しみを一手に引き受けるお方が、時間を越えたお方としてではなく、時間の中にお生まれになった。このお方がスーパーマンのように、あっちの矛盾とこっちの矛盾を一気に引き受けて魔法のようにすべてを解決して下さる。そんなことを私たちは神さまに期待してしまいます。そのようなお方が、時間の苦しみを打ち破る仕方ではなく、自ら時間の中に入って下さることによって、私たちを救って下さる。それは、切り裂かれ、破られた時間を、その裂け目、破れ目にご自身を縫い合わせるような仕方で一枚の紙に戻すのに似ています。歴史はこのようにしてキリストを編み込んで地続きに戻り、歴史全体がキリストによって救われるようになります。

 熊が人里を荒らすという報道は、この二週間で一気に減りました。人間の都合と、熊の都合が不幸な鉢合わせを起こすことは、今年に関してはもうあまり心配しなくて良いのかもしれません。しかし、来年からはもっと頻繁に起こることを覚悟しないといけなくなりました。感染症や水害もまた、人間と動物の境目がかち合うようになったことが原因であると言われています。人間のタイミングと動物のタイミング、あるいはあの人とこの人とあなたと私のタイミングは、今後も悲しいすれ違いを続け、不幸な鉢合わせを生み続けるでしょう。時は悲しみを刻み続けているのです。しかし、そのタイミングをすべてまとめ直し、悲しみと不幸を引き受けて下さるお方が、一度この歴史の流れを切り裂くようにしておいでになり、そして縫い直して下さる。私どもの分断が、キリストによって一つとされることをアドヴェントの時に感謝したいと思います。