天の国は近づいた――悔い改め

2023/12/10 待降節第三主日礼拝 天の国は近づいた――悔い改め 







 (マタイによる福音書3117)               牧師 上田文

 

最近、インターネットを通じて韓国の大学で話をする機会を与えられました。話をしながら、私は自分に与えられた救いについて確認をする機会を得る事が出来ました。なぜ、私がイエスさまを信じるようになったのかというと、イエスさまが私を愛してくださり、神さまの御前で良い者とされるために、変えてくださるという事を信頼できたからです。実は、私は浄土真宗の寺の娘です。だからでしょうか、自分の煩悩や罪について、気がつく機会が多くあったように思います。しかし、その事に気づけば気づくほど、また、生きれば生きるほど、私はここにいて良いのだろうかと思うようになりました。なぜなら、自分の煩悩や罪に気づいても、そして、そのことをいくら悔いても、改めることが出来ないからです。自分の力では、何をしても改めることが出来ない。そのことが積み重なった時に、私は、こんなに迷惑ばかりかけている自分は、生きていて良いのだろうか。何故生きているのだろうかと、自分が生きる意味を失ってしまいました。そんな時に、生きる意味を与えてくださったのが、イエスさまでした。

アドベントの3週目になりました。「天の国が近づいた」と叫ぶ声が聞こえてくるように思います。今日は、クリスマスに誕生してくださったイエスさまが、改める事が出来ない私たち人間に与えて下さる「悔い改めの実」の恵みについて、聖書に耳を傾けたいと思います。

 

洗礼者ヨハネは、このように呼びかけました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。天の国が今まさに接近している。こちらに迫っていると呼びかけたのです。この呼びかけは、ヨハネが、一人で慌てふためいて叫んだ言葉ではないようです。イエスさまもこれとまったく同じ言葉を言われるのです。4章15節には、「悔い改めよ。天の国は近づいた」とイエスさまが呼びかけられた事が書かれています。また、イエスさまは、ご自分の弟子たちを伝道旅行に派遣する時にも「行って『天の国は近づいた』と述べ伝えなさい」(10:7)と教えられました。弟子たちによって「天の国は近づいた」と述べ伝えられたという事は、弟子たちが建てた教会に続く、私たちの教会でも、今なおこの言葉が告げ知らされているということです。また、「天の国は近づいた」と言われたイエスさまは、このようにも言われました。天の国は「あなたがたの間にある」(ルカ17:21)。近づいている天の国は、私たちには、はっきりとは分かりませんが、しかし私たちの間で少しずつ実現されているという事なのかも知れません。

 

 では、神さまが私たちの間で実現してくださる「天の国」とはどのような国なのでしょうか。マルコやルカによる福音書では「天の国」ではなく「神の国」という言葉が使われています。また、「国」というのは、「支配」という意味を含む言葉です。「天の国」とは「神のご支配される国」という意味になります。ですから、「天の国が近づいた」というのは、神さまの御支配される国が、いよいよ迫って来たという、緊張と喜びを持った言葉として聞く事が出来るのです。

しかし、「支配」という言葉は、恐ろしいように感じる言葉でもあります。今日の聖書箇所の前の章である、二章には、イエスさまがまことの王としてお生まれになった時の事が記されています。東の国から来た学者たちが、ユダヤ人のまことの王の誕生を告げました。それを聞いた、ユダヤの王であり、支配者であったヘロデは不安を覚え、自分の王位を奪うかもしれないその新しい王を殺そうとし、この頃に生まれた幼い子どもたちを虐殺しました。この章には、まことの王としてこの世にお生まれになった幼子であるイエスさまを抹殺しようとしたヘロデ王と、まことの王の誕生を喜び、その御前でひれ伏した東方の国の学者たちの事が対照的に記されています。今日の聖書箇所は、「そのころ」と書かれて始まっています。それが、どのころかは、聖書には具体的に記されていません。今日の聖書箇所は、お生まれになったイエスさまが、青年になり活動を始められた「そのころ」とも読めますし、ヘロデの権力的な支配下があった「そのころ」とも読めるのです。しかし、このようにも読めます。相変わらず、恐ろしい権力者による支配が続いていた「そのころ」に、ヨハネが「権力者による支配ではない、神のご支配が近づいた」と述べ伝え、ヨルダン川で洗礼を与え始めたということです。ヨハネは、洗礼を受けに来る人々にこのように問うたのだと思います。「あなたは、権力者と神さまと、どちらの支配を受け入れますか」。この質問は、イエスさまのご誕生を待つアドベントを迎えた私たちにも向けられている質問です。私たちが生きている今も、相変わらず、神さまの御支配が分かりにくい世の中です。実際に、世界では多くの権力者がその支配を広めるために戦争を起こしています。そして、私たちの生活の中ででも、いつも力のせめぎ合いがあると思います。私たち自身も、いつ間にか神さまが支配される国を待望するのではなく、自らが王として生きるために力を振るう、ヘロデのような生き方をしている事に気づきます。そのような私たちに、ヨハネは聖書を通して「あなたは、この世の支配者を受け入れますか。それとも、神の支配を受け入れますか」と、聞いているのです。

 

しかし、私たちは神さまの御支配がどのようなものなのか、はっきりとは知りません。だからでしょうか、ヨハネは、10節でこのように説明します。「斧(おの)は既(すで)に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。少し怖いように思います。神さまは、良い実を結ばない者は、みな殺されてしまうような支配をされるのだろうかと思います。また、良い実を結ぶ者と、そうでない者を分け隔てするような支配であるのならば、この世の権力者の支配と神さまの支配は、何ら変わらないのではないかとも思います。けれども、イエスさまをこの世に送ってくださった神さまの事を知るとき、私たちは、神さまの御支配が、権力者の支配とは全く違うものである事を教えられます。神さまが支配してくださる神の国、天の国は愛が土台となる国です。そのために、神さまは、その御子であるイエスさまを人としてこの世に生まれさせてくださいました。この、救い主であるイエスさまは、私たち一人一人を愛して仕えてくださり、木を根元から切り、再び新しい芽を育てるように、私たち一人一人を内側から、根本的な部分から変えてくだいます。イエスさまの愛によって造り替えられた私たちは、このイエスさまを礼拝し、信仰し献身出来るようになります。イエスさまの愛によって根本的に造り替えられた者の献身によって、全世界は包まれ、天の国が近づくのです。イエスさまが、天の国は「あなたがたの間にある」(ルカ17:21)とおっしゃったのは、イエスさまによって造り替えられた者が、神さまを礼拝するその中に、天の国が広がるのだということです。

 

  この天の国に生きる者とされるために、ヨハネとイエスさまは、人々に「悔い改めよ」と教え始められました。そして、この言葉を聞いた人々が、罪を告白し、ヨハネから洗礼を受けるために集まってきました。ところが、ヨハネは、自分の所に集まってきた、ある人々に向かって厳しい言葉を投げかけます。ファリサイ派やサドカイ派の人々に向かってです。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免(まぬか)れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(7-8)。

ヨハネは、なぜ教えを聞いてやってきた人々に、「おまえたちは神の怒りを免(まぬか)れることはできない」と語ったのかと思います。その理由が、8節にあります。「悔い改めにふさわしい実を結べ」とあります。つまり、ファリサイ派やサドカイ派の人々は悔い改めにふさわしい実を結んでいない。悔い改めにふさわしい実を結ばないものは、天の国に生きる者とはされない。あなたがたも、悔い改めの実を結んで、天の国に生きる者となりなさいとヨハネは、諭(さと)したのでした。しかしこれは、ファリサイ派やサドカイ派の人々のみに語られていることではありません。私たちも同じように言われていると思うのです。

私たちは、「悔い改めにふさわしい実を結べ」という言葉をどのように理解するでしょうか。神さまを王とするのではなく、自らを王としてしまっている自分、また隣人を愛せない自分を反省するだけでは駄目で、実際に神さまと人を愛する行動をしなければならない。人のために尽くす愛の業を積極的にしなければならない。そのことが「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」ことに繋がると考えてしまうように思います。けれども、ヨハネはそのような事を言っているのではありません。実際に、ヨハネのもとにやってきた、ファリサイ派やサドカイ派の人々は、何よりもそれを実行していた人たちでした。彼らは、神さまの掟である律法を、厳格に守って実行し、清く正しい生活を誰よりも志していました。しかし、ヨハネはこのファリサイ派やサドカイ派の人たちを「蝮(まむし)の子ら」と呼ぶのです。蝮とは毒をもった蛇です。毒を持った蛇というと、創世記でエバを誘惑した蛇を思い出します。創世記で、毒を持った蛇は、人間を誘惑して罪に落としてしまいました。相手に噛みつき、毒により人を惑わせて、罪に落とすのです。ファリサイ派とサドカイ派の人々は、毒蛇と同じような事をしている。自らの持つ毒によって、噛みついた相手に死をもたらしてしまうような事をしていると、ヨハネは言ったのでした。ファリサイ派やサドカイ派の人々は、当時の宗教的指導者でした。そして、清く正しい生活をしながら、このような生活をしている自分たちは「アブラハムの子」となれるが、清く正しい生活が出来ない一般の人々はそうではないと、人々を見下していたのでした。指導者に、あなたたちはアブラハムの子とされない、神の民とされないなどと言われると、一般の人々は、生きた心地がしなかったことでしょう。ヨハネが、彼らに「悔い改めにふさわしい実を結んでいない」と言ったのは、律法に従う善い行いが足りないからではなく、あの人はダメで、自分は良い人間だ。自分は神さまに救われて、あの人は救われないと、他者を裁き、他者を苦しめていたからでした。

また、清く正しい生活を志ざす自分は、神さまに救われていると考えているファリサイ派やサドカイ派の人々にとって、ヨハネの悔い改めと洗礼はただの飾り物になっていました。自分の救いをさらに完璧なものにするための手段となっていたのです。この事を知っていたヨハネは、あなたたちのしていることは、真の悔い改めではない。「悔い改めの実を結べ」と指摘したのでした。

 

しかし、私たちはこの事を笑って見ているわけにはいきません。自分は正しくて相手は駄目だと裁く事が私たちの中にもあるように思います。自分の努力の一つとして「悔い改め」を行い、謙虚さを持つことによって、信仰深い正しい人になろうとする事があるように思います。それは、結局自分の力によって、救いを獲得しようとしているのと同じです。私たちは、悔い改めによって、自分の救いをさらに完璧なものにしようとするサドカイ派やファリサイ派の人々となんら変わらないのです。

このように考えると、私たちは、何をしても罪を犯してしまうことに気づきます。自分の力では、悔い改める事も出来ない私たちは、自分の力で「差し迫った神の怒りを免(まぬか)れる」(7)ことなど出来ません。私たちは、自分の力では何も出来ない石ころと同じです。私たちが、神さまの怒りを免れ、神の国で生きるようにされるためには、やはり、神さまによって根本的に新しくされる必要があるのです。

 

そんな、石ころのような私たちに洗礼者ヨハネは、裁きから逃れることのできる唯一の救いの道、私たちが、根本的に新しくされ、神のものとされる道を教えてくれます。11節にはこのようにあります。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る人は、私よりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(11)。ヨハネの洗礼とイエスさまの洗礼の事が述べられています。ヨハネの洗礼は悔い改めに導くものであると書かれています。そして、イエスさまの洗礼は「聖霊と火」によるとあります。私たちが、教会で受ける洗礼は、水が用いられますが、その事柄としては「聖霊と火」による洗礼だとヨハネは教えてくれます。「聖霊」とは神さまご自身が私たちの所に来て下さる、その霊です。「火」というのは、根本的に綺麗にするという意味を持ちます。焼き尽くされるのです。古い自分が完全に焼き尽くされてしまうということです。私たちは、洗礼を受ける時に、罪を犯してしか生きられない自分。悔い改めの実を結ぶことが出来ない自分は、完全に焼き尽くされて死に、イエスさまと共に天の国をめざす新しい命を生きる者とされるのです。

 しかし、そんな事はただの精神的な話ではないか。私たちは、洗礼を受けたって死んでなんかいないではないか。実際に死んではいないけれども、そのように思う事によって、新しくされたように感じて、心が軽くなるだけではないかと思う事があります。だからでしょうか、ヨハネは私たちに「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがお出来になる」(9)。石のように頑なで、石のように動かない、何も出来ない私たちでも神さまは私たちを「アブラハムの子」とする事が出来るのだと教えてくれるのです。これは私たちにとって大きな慰めです。

 

 私たちは実際には死んでいないのに、本当に新しくされるのは、イエスさまが、私たちの所に来て、大勢の人々と一緒に洗礼を受けてくださったからです。何の罪もない、神さまの子であるイエスさまが、「悔い改めの実を結ぶ」ことができない罪人に交じって、ヨハネから洗礼を受けてくださったからです。イエスさまは、このヨハネの洗礼を受けて、「悔い改めの実を結ぶことの出来ない」私たちと同じ者となってくださり、私たちと共に歩んでくださるのです。イエスさまは、お生まれになったクリスマスの時、「インマヌエル」という名で呼ばれました。123節には、このように記されています。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」。クリスマスにお生まれになったイエスさまは、神さまの子であり、本来ならば、悔い改めの洗礼を受ける必要などない方でした。しかしイエスさまは、罪人である私たちと共に歩み、私たちを助けるために、あえて洗礼を受けてくださいました。罪人である私たちが受ける洗礼を受けてくださり、罪人の中に加わってくださり、罪人の一人となってくださったのでした。

 

 洗礼を受けるために自分のところにやってきたイエスさまにヨハネはこのように言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(14)。ヨハネも、自分自身が罪を赦していただかなければならない罪人である事をよく自覚していたのでした。本当に罪を赦してくださり、天の国を目指す者として変えてくださるイエスさまが、目の前にいるのですから、ヨハネはこう言ったのだと思います。このヨハネの言葉に対して、イエスさまは、「今は止めないで欲しい。正しいことをすべておこなうのは、我々にふさわしいことです」(15)といわれました。それほどまでに、イエスさまは、ヨハネから洗礼を授けられ、私たち人間と共に歩む事を強く願ってくださったのでした。それは、「正しいことを全て行う」(15)ためです。「正しい事を全て行う」という言葉は、「すべての義を満たす」と訳すことが出来きます。イエスさまは、悪や罪が満ちたこの世を義で満たすために。そして、罪から逃れられない私たちを「義」とするために、私たちの所に来てくださったのでした。その始まりが、この洗礼でした。洗礼が「すべての正しいことを行うため」の出発点でした。神の子であるイエスさまは、私たちの罪が赦され、天の国に生きる者とされるために、まず神さまの子であるご自分が罪人と一緒に洗礼を受けてくださいました。そして、私たちの罪を全て背負い十字架に架かって死んでくださいました。だから、私たちはイエスさまから洗礼を授けられることにより、罪が赦され、天の国、神さまがご支配してくださる国に生きることが許されるのです。イエスさまが私たちと同じように洗礼を受けてくださったので、私たちはイエスさまの洗礼を受ける事によって、信仰と献身に生きるものと変えられるのです。そして、このイエスさまの洗礼を与えられる者が現れ続ける事によって、天の国が近づくのです。イエスさまは、罪から逃れられない、神さまの怒りから免(まぬか)れない私たちを、洗礼によって救ってくださり、天の国を前進させてくださるのです。

 またイエスさまは、ヨハネから洗礼を受けるのは「我々にふさわしいことです」(15)ともおっしゃいました。我々とは、ヨハネから洗礼を受けるために集まった人の事であり、その後に続く、弟子たちや、教会に集まる私たちのことです。イエスさまは、「あなたがた」ではなく、「私たち」と言ってくださり、すべての人をイエスさまの救いの道に招き入れてくださるのです。あなたも、「私たち」の所に来なさい。共に神さまの救いに与ろうではないか。共に神さまの国を目指すものとなろうではないかと招き入れてくださるのです。

 

 聖書には、イエスさまが洗礼を受けられた時に、天がイエスさまに向かって開いた。そして、神の霊が鳩のようにご自分の上に降(くだ)って来るのを御覧になった。そのとき「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という事が天から聞こえた(16,17)と記されています。天の神さまが、イエスさまが受けられた洗礼を認めてくださったという事です。そしてこの神さまが「あなたは良い」「あなたは義である」と言ってくださったのです。洗礼をお受けになり、神さまの言葉を与えられたイエスさまが、私たち罪人を招き入れて「我々」と言ってくださったのですから、罪から逃れられない私たちも、同じように、洗礼を受け神さまから「あなたは良い」「あなたは義である」と言っていただける者になるのです。罪が赦されるのです。悔い改めの実を結ぶものとされるのです。罪はもう赦されている、だからあなたは新しく生きることができる。私のもとで生きなさい。そして、悔い改めの実を結ぶものとなりなさいと、イエスさまは呼びかけてくださっているのです。私たちに与えられる悔い改めとは、このイエスさまを信じる事です。

 

「『お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」エゼキエル書18章の言葉です。

 

私たちにとって、新しい心と新しい霊を造り出す、救いへの道は、イエスさまが教会で与えてくださる洗礼です。クリスマスに「インマヌエル」として、その大切な独り子をこの世送ってくださった、神さまの恵みと、イエスさまの愛を信じて感謝し、イエスさまに洗礼を与えられる事によって、私たちは新しい命を生きさせていただけるのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。この言葉は、裁きを待つ緊張した、脅(おど)しの言葉ではありません。天の国を期待する言葉です。今にもはじけて膨らみ始めるポップコーンを待つように、喜びと期待を持って、天の国、神さまの国が完成する事を待つ言葉なのです。アドベントの日々、私たちはこの神さまとイエスさまの恵みの御力を信じて、この方にのみ希望を置いて歩みたいと思います。そして、悔い改めにふさわしい実を結ぶ者とされ、イエスさまと共に天の国を目指すものとされたいのです。