輝く明けの明星

20231126伊東教会礼拝説教「輝く明けの明星」

(ヨハネの黙示録221621

上田光正

 

わたしは今から63年前、18歳の時のクリスマスに洗礼を受けました。それ以来63年間、毎年11月の声を聞き始めますと、もう、何とはなしに心が.喜びに満たされ、早く12月がこればよいのに、という気持ちになります。本日与えられました聖書の御言葉は、「アーメン、主イエスよ、来てください」です。

人間が生きる上で、「希望がある」ことほど、大切なことはありません。ただ今ご一緒にお読みしました御言葉の、最初の第16節というところを御覧ください。

「わたしはダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である」

とあります。

「ダビデのひこばえ」とは、ここでは「ダビデの子孫」という意味です。つまり、主イエスはご自分が神さまが旧約聖書でお約束くださった、救い主、メシアである、と言っておられます。そして主は、「わたしは輝く明けの明星である」とおっしゃっています。つまり、わたしどもの人生の最後には、「わたしは輝く明けの明星である」とおっしゃるお方が、両手を広げてわたしどもを待っていて下さる、という意味です。

人生に希望があるということは、最後が明るい、ということに他なりません。これは、わたしどもの人生の終わりは、薄暗くてあまり希望のない時間がだらだらと十年ぐらい続いて、最後にみんな死んで、暗闇の中に落ちて行くのではない。終わりの日の死人の中からの甦りにあずかるということを、語っています。旧約聖書のゼカリヤ書147節に「夕べになっても光がある」とありますように、年が老いて最後になっても希望があるのです。

「明けの明星」は、ご存じの通り、金星のことです。暗い夜空が明けそめる少し前に、東の空に一番明るく、ひときわ美しく輝き出る星です。明るさもマイナス1.4等星で、太陽と月に次いで宇宙で三番目に明るい星です。昔の、まだ電気も蛍光灯もなかった時代、人々はこの「明けの明星」が現れることを心待ちに待っていました。夜回りはこの星を見て家に帰り、農夫は畑に出ます。鶏が鳴き、太陽が姿を現し、旅人は再び元気に歩き始めます。「明けの明星」は希望のしるしなのです。そして、新しい一日が始まる合図でもあります。

 ここで聖書が語っている終わりの日の希望という問題は、老いと死をどのように迎えたらよいのか、という問題と直結致します。もちろんそれは、単に老人だけの問題ではありません。若い人でありましても、そもそも自分の人生が何の目的もなく、最後は死で終わるのか、それとも、その先にこそ、死も悲しみも憎み合いもない、ほんとうの命の世界が待っているのかについて、無関心でいられる人は一人もいないはずです。そのようなわけですので、本日は、わたしどもの老いや死について、そして、その向こうにある希望について、ご一緒に聖書からお聞きしたいと思います。

聖書はもちろん、死などない、などということは言っていません。むしろ、死は厳粛な事実として受け止めるべきだ、と言っています。「メメント・モリ」(死を覚えよ)という言葉は、聖書から出ています(詩9012)。しかし、わたしども人間の命と死を握っておられるお方は、決して死ではなく、全能の父なる神であります。ですから、死は決して、最後のものではありません。死は、単にこの地上の生命の終わりに過ぎません。そこでわれわれの地上の人生の総決算が為されます。そして、この世界と宇宙全体が幕を閉じる日になると、キリストが再びおいでになり、わたしどもを墓の中から甦らせ、御国に招き入れてくださるのです。

さて、主が「わたしは輝く明けの明星である」とおっしゃられたということは、裏を返せば、わたしどもが今生きているこの世が、まだ夜明け前の状態にあることをも意味します。ですから、まだ辺りはうす暗いのです。もちろん、現代でも様々な善い事や明るいニュースもあり、小さな希望の星かげが見えないわけでもありません。しかし、全体としては、やはりまだ「夜」であり、「闇」なのです。毎日の新聞をご覧になるまでもなく、この世界には悩みや悲しみが満ちており、暗いニュースは後を絶ちません。ウクライナでもパレスチナでも戦争があり、憎しみが、いつ第三次世界大戦の勃発につながらないとも限りません。悲観的な考え方をする人なら、世の終わりには核戦争が起こり、地球は炎上してしまうのではないか、と心配なさるかも知れません。これは、特にこの21世紀に入って、世界がだんだん暗くなっている、希望も少なくなっている、ということではありません。そうではなくて、わたしどもが待ち望んでいる来たるべき世と較べれば、この世はまだまだ、ほの暗い夜明け前の状態である、ということなのです。その中で、もちろんわたしどもキリスト者は、世の中を少しでも明るくしたいと願います。しかし、キリストが「明けの明星」として既に来られたということは、夜明けがもうすでに来つつあり、現在の世界の闇には、いずれいつか必ず終止符が打たれる、ということを意味します。

ここに一軒の家があります。この家が地球であると致しますと、この家は既に、朝の太陽の光にすっぽりと包まれているのです。しかし、この家の窓という窓には、分厚いカーテンが降りていて、この家の住人たちはまだ、自分たちは暗闇の中にいる、と思い込んでいます。夜は深く、朝は永遠に来ない、と思い込んでいます。ただ、キリスト者だけが、そのような現実の中で、カーテンをほんの少しだけ開けさえすれば、家が朝の太陽の光ですっぽりと包まれていることを知っているのです。だから、絶望はないし、死の恐れも不安もありません。むしろ、希望を持って生きられます。「夕べになっても光がある」のです。

さて、教会生活の長い方は、教会の暦では、今日から新しい一年が始まることをよくご存じでありましょう。きょうが、「アドベント(待降節)第一主日」と申します。(「アドベント」とはラテン語で、「到来する」という意味です)。教会の暦は、主イエスを待つことから始まります。ですから、クリスマス(降誕節)から始まるのではなく、クリスマスを待ち望む一カ月前から始まります。そして、待降節第一主日、第二主日、第三主日を経て、4週間後の日曜日、1224日に一番近い日曜日が降誕節(クリスマス)で、今年は24日です。主イエス・キリストは、一年で一番太陽が照る時間が少ない日に、馬小屋の飼い葉桶という、世界で一番暗い場所にお生まれになりました。わたしどもの暗い心に「希望」という火を灯して下さるためです。それがクリスマスです。

ところがまた、この待降節は、主の御降誕を待ち望む一カ月であると同時に、クリスチャンにとりましては、終わりの日に再び主がおいでになること――これを、「キリストの再臨」と申します――その主の御再臨を待ち望む時でもあります。イエス・キリストは、今から2千年前にベツレヘムにお生まれになり、十字架によって人類を罪と死からお救いになった後、三日目に死人の中からご復活され、弟子たちの前で天に昇られ、父なる神の御許に帰られました。その直前に、「わたしはすぐに来る」と約束されてから、天に昇られたのです。ですから、世の終わりに再びおいでになる、というお約束があるのです。「わたしはすぐに来る」と20節にも書いてあります。それに対して、最後に、「アーメン、主イエスよ、来てください」という言葉があって、この分厚い聖書が閉じられているのです。

ある方が、アドベント(待降節)のことを、結婚前の婚約期間に譬えています。婚約をした人は、婚約指輪をはめ、いつかお互いに結ばれる日をひたすら胸を膨らませて待ちます。人生で一番楽しい日かも知れません。クリスチャンの生涯全体も、主と再びお会いする日を喜びをもって待ち望む時となっているのです。

では、わたしどもは今、どこに立っているのでしょうか。そして今、どこに向かって歩いているのでしょうか。この問題は、もっと大きな問題、人間はいったい、どこから来て、どこへ行くのか、という問題として、考えてみる価値があります。

わたしはドイツに留学しておりましたころ、ある、禅宗の悟りを開いたという人と親友になりました。現在は高崎経済大学の名誉教授ですが、その頃はまだ二人とも若い青年でした。彼は、「人間は土から生まれ、土に帰るのだ」、と言うのです。わたしは「なるほど」と言いました。彼は「土」という言葉で、仏教のいわゆる「無」を、表現したかったのでありましょう。「土から生まれ、土に帰る」。では、キリスト教はどうか。わたしは答えました。確かに聖書にも、人間は土の塵から造られた、という御言葉があります(創27)。しかしこれは、人間は卑しい者だ、という意味でしかありません。わたしは彼に、「人間は神から来て、神に帰るのだ」、と答えました。これが聖書の基本ですので、少しご説明します。

この黙示録の最初をお開き下さい(452頁)。1章8節に、

「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」

これは主イエスのお言葉です。「神である主」とはイエス様ご自身のことです。「アルファ」というのは、ギリシア語のアルファベットの最初の文字で、英語で言えば「A」ですね。つまり、この世の始めにも、そしてまた、一人ひとりの人生の始めにも、主イエスが立っておられます。わたしどもは、自分が偶然に、ただ運命のいたずらか何かでこの世に生まれた、だから人生には何の意味もない、と考えがちですが、そうではないのです。ちゃんと神さまの愛に満ちた御計画によって生まれた。主は生まれる前に、母の胎の中にあるときからわたしの名前も何もかもをご存じで、わたしが歩むべき日々は既に主の「命の書」に書かれていた。これが、イエスがアルファである、という意味です。そして、「オメガ」は最後の字です。英語で言えば「Z」ですね。主は死んで甦られ、今は天に昇られて父なる神の右に座して居られますが、世の終わりに再びおいでになり、わたしどもを御国に迎えてくださる。ですから、わたしどもの人生の終わりにも主が立っておられます。

イエス・キリストは、世界の初めにおられて、父なる神と御一緒に天地万物とわれわれ一人ひとりを慈しみをもって造られました。天体の運行の法則も、生命の法則も、すべてをお定めになられて造られました。そして終わりの日に、もう一度おいでになって、天地創造の御業を完成されます。これが、主がこの世界の初めであり、終わりであり、わたしどもの人生を支配しておられる、という御言葉の意味です。

ただし、人間は皆、造られるとすぐに神に背いて罪を犯しました。神にろくに感謝もせず、礼拝もせず、お互いに憎み合い、殺し合うようになりましたので、楽園を追い出されました。それ以来、世界は今のように悪がはびこり、暗くなったのです。

しかし、神の御子イエス・キリストは今から2千年前、父から遣わされて天から下り、馬小屋の飼い葉桶の中にお生まれになりました。そして、すべての人を罪から救うために十字架にかかり、復活されて天に昇られました。今はわたしども人類が、その神の尊い救いを感謝をもって受け入れ、悔い改めて神に立ち帰るべき時なのです。それですので、人間は土から生まれて土に帰るのではなくて、神によって造られ、神に帰るのです。その時まで、世界は神さまに背いたままですから、暗くて希望がどこにもないようにも見えます。しかし、この馬小屋の飼い葉桶の傍らに立ちますと、神さまのわたしどもに対する無限の愛が分かり、人生に希望が持てるようになります。「輝く明けの明星」であられるキリストは、既に飼い葉桶の中にお生まれになったからです。そして主は、必ずもう一度おいでになり、この破れと悲しみに満ちた世界を修復し、わたしどもをもう一度、御国に連れ戻してくださると約束されました。神さまがお造りになったから、神さまが修復なさるのです。

 実は、主イエス・キリストはわれわれの人生の始めと終わりにだけ立っておられるのでなく、真ん中にも立ち、わたしどもと一緒に人生を共に歩んで下さいます。わたしどもが今歩いているのと同じ、悩みや悲しみの道を、主はわたしどもと一緒に歩んで下さるのです。これが、ヨハネの黙示録のみならず、聖書全体が根本的に告げているところです。

 皆さんの中には、パワーズという人の作った、「足あと」という信仰の詩をご存じの方も多いかと思います。こういう詩です。

 「ある夜、わたしは夢を見た。

 イエスさまと二人並んで

   海辺の砂浜を歩いていた。

・・・

イエスさまと出会ってから、砂の上にはいつも二組の足あとが続いていた。

一つはイエスさまの、

そして一つはわたしのだった。

・・・

しかし最後に

わたしが振り返って見たとき、

ところどころで

足あとが一組だけしか見えなかった。

・・・

 わたしは言った。

『なぜ、わたしが一番苦しいときに、

わたしがあなたを一番必要としていたときに、

あなたに一生懸命助けを求めていたときに、

足あとはたった一組だけだったのですか』。

すると主はお答えになった。

『わたしの愛する子よ。

わたしは決して

お前の傍を離れたことはなかった。

お前が最も苦しんでいたとき

砂の上にたった一組の足あとしか見えなかったのは、

わたしがお前を

  抱きかかえていたからなのだよ』」

とても良い詩です。自分が、一番苦しんで、たった一人でとぼとぼと歩いていると思っていたときに、実は、主イエスがわたしを両手で抱えておられた、と言うのです。わたしどもは、主が馬小屋の飼い葉桶の中にお生まれになり、わたしどものために、十字架の御苦しみに遭われたことを信じられますので、そのことが信じられるのです。

この一年も、お互いに色々なことがありました。大きな悲しみに出会われた方もおられましょう。家族を亡くされた方もおられます。世界の歩みも決してパッとしたものではありません。しかし、この一年も、本当は、主が全世界の罪の重荷をたった一人で背負っておられた一年だった、と言えるのではないでしょうか。

しかし、ある牧師は、この詩を作ったパワーズという人の信仰は素晴らしいが、それだけに留まっていてはいけない、と申します。もう一つ、わたしどもは、「キリストのみ足の後を踏み従う」という面もある、と仰っています。その通りだと思います。主は「だれでもわたしについて来たいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従いなさい」(マルコによる福音書834)、ともおっしゃられたからです。わたしはこの両方ともとても大切だと思うのです。一番大変なところでは、主が背負っていてくださる。死ぬ時がまさにそうですね。死の瞬間、そして墓の中で朽ち果てるときにも、主はわたしどもを抱きかかえ、その御手がわたしどもを闇の中に捨て置かれることは決してありません。しかもそれだけでなく、わたしどもは、生きている限り、主のみ栄えのために、主を愛し、隣人を愛し、主の御苦しみに共に与ることを、喜びとして与えられているのです。

それですから、終末待望は、人間が自分勝手にするのではありません。「わたしはすぐに来る」と主がお約束くださったから、それを待つのです。わたしどもキリスト者は、なぜ、終わりの日に主が再び来られる日を待ち望むのでしょうか。俗に、「天国や地獄は、来世にではなく、人間の心の中にある」と言われます。これはしかし、半分の真理にしか過ぎません。「心に天国を持つ人」は、自分は幸福かもしれません。しかし、自分だけ幸福になって、世の中の人々の不幸を、黙って見ておれるでしょうか。ウクライアやパレスチナの出来事を、他人事として見ておれるでしょうか。「神の国」とか、「天国」はただ、人間の心の中にさえあればよいのでは、決してありません。では、わたしどもキリスト者はなぜ、終わりの日を待ち望むのでしょうか。現実の生活が辛いから、あるいは苦しいから、早く世の終わりが来てほしい、と願うのでしょうか。それとも、人間があまりにも欲ボケしすぎて、「生きとし生ける者は必ず死ぬ」という宇宙の大法則を、すっかり忘れてしまったからでしょうか。あるいはもっと率直に言って、死が怖いからでしょうか。あるいはもっと単純に言って、人間には宗教心があり、天国のようなものが欲しいからでしょうか。

これらの考え方は全部、間違っています。

あくまでも、主イエス・キリストが『わたしはすぐに来る』とお約束くださったから、待てるのです。主が信じられるから、待つことが出来るのです。

もしもそうではなく、主が十字架で死んでそれでおしまいだったとしたなら、どうでしょうか。もし主が甦りもせず、天に昇る前に弟子たちの前に現れもせず、「わたしは必ず来る」とお約束なさることもなかったとしたら、果たして教会は、2千年もの長い間、主を待ち続けたでしょうか。いいえ、決してそうしなかったでありましょう。その信仰のために、何千、何万の人たちが迫害に遭い、殉教の血を流したりは、決してしなかったはずです。しかし主は、「わたしはアルファであり、オメガである」「見よ、わたしは必ず来る」、と言われたので、わたしどもは心を高く挙げて、「主イエスよ、来りませ」と祈るのです。

そこで最後に、では、そのような信仰を持っているわたしどもは、今の世をどのように生きたらよいかについて、考えてみたいと思います。

わたしどもはよく、「終末待望に生きる」と申しますが、本当に終末待望に生きた人がいます。その中の一人は、19世紀のドイツの牧師さんであった、ブルームハルトという人です。この人は一冊の神学書も書きませんでしたが、当時の教会に深い影響を与えた人です。例えば、まあ、何世紀(何百年)に一人現れるか現れないかと言われるくらいの、大神学者のカール・バルトという人などは、ブルームハルトから非常に深い影響を受けた人です。バルトは1度だけこの人に会っていますが、その時に受けた強烈な印象は彼の全生涯に影響を与えました。それをバルトは一言でこう言っています。「わたしはこのブルームハルトから、神は生きておられることを知った」、と。当時は、神さまはもう死んでしまった、だからイエスの再臨などはみなただの嘘っぱちで、この世界には本当の希望などどこにもありはしないのだ、という無神論がはやり出した時代です。しかし、ブルームハルトの信仰は一種独特です。彼は毎年、年の初めには、「今年こそは主が来られるに違いない」と祈り、牧師館の隣りには、まだだれも乗ったことのない一台の馬車が用意してあったそうです。「何のために?」と人が訊くと、「主がおいでになったときに、わたしはこれに乗って真っ先に主にお会いに行くのだ」、と真面目に答えたそうです。

「ずいぶん変わった人だな」、とわたしどもは思うでしょうが、この人の信仰は、決して、「足が地に着かない、浮ついた信仰」ではなかったのです。

わたしは彼が語ったという次の言葉を聴いて、「これは本物だな」と思いました。彼はこう言ったそうです。「わたしは天を深く愛し、慕うがゆえに、この大地を深く愛する」、と。天を愛し、慕うというのは、イエス様を愛し慕う、という意味です。しかしだから、何か変な、熱狂的な信者になるのではありません。「天を愛するゆえに、この大地を深く愛する」とブルームハルトが言ったその大地とは、まさにこの暗い世の中のことです。現代の、空しさや悲しみや悩みに満ちたこの世を「つまらない」とは思わない。むしろ、隣人を愛し、責任と望みを持って生きるのです。

皆さんはこれによく似た言葉を、宗教改革者のマルティン・ルターからも聞いたと思います。こういう言葉ですね。「明日、世の終りが来るとしても、今日、わたしはこのりんごの苗を植える」、という言葉です。明日終末が来るとしても、「今日、このりんごの苗を植える」。普通はそんなことはしませんね。何年後に実を結ぶか分からないのに、たとい明日が世の終わりであっても、「このリンゴの苗を植える」、という信仰です。明日終末が来るのなら、選挙に行ってもしょうがない、という投げ遣りの生き方ではなく、本当にこの世に責任を持ち、隣人を愛し、いつも希望と喜びを持って生きる信仰です。それが、本当の、キリスト者の信仰なのです。

実は、わたしどもの住んでいるこの地上には、既に平和の君である主イエスがお生まれになったのです。ただほんの少し、分厚いカーテンを開けさえすれば、太陽の光が既にこの地球を包んでいるのが見えるのです。わたしどもは、日曜日の礼拝の度に、そのカーテンを僅かばかり開けて見ることができます。主イエスと共に生きるならば、見ることが出来ます。しかし、普通はそうせず、皆欲ボケし、お互いに心を開かず、神さまに対しても心を閉ざしています。だから、お互いにほんのちょっとした行き違いにすぎないのに、誤解し合い、憎み合い、殺し合っています。しかし、主の十字架の愛を知っている人は、本当の平和があることを知っています。そして、主イエスが愛してくださった、まだ平和が来ない、問題だらけのこの大地を愛して生きることができるのです。主イエスがこの大地を愛し、その救いのために十字架に掛かるほどに深くわたしども罪人を愛されたから、わたしどももこの世に生きる隣人を愛し、隣人の幸福を祈るのです。

主は、「見よ、わたしはすぐに来る」と言われます。代々のキリスト者たちも、心を高く挙げて言うのです。「アーメン、主よ、早く来てください」、と。