波乱か栄光か――運命の向こう側に (義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる)

2023/11/19 終末主日(特別伝道礼拝)波乱か栄光か

                                                               ――運命の向こう側に 

(義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる、マタイ56

                                                                                     説教者 牧師 上田彰

 

*ハプスブルク王家・オットー大公のこと

日本では、第二次世界大戦の終了を「終戦」と呼びます。ドイツでは同じものを呼ぶときに「解放」と呼ぶということをあるドイツ人から教えてもらいました。こう説明してくれました。「なぜならば、ドイツはその時までナチスによって支配されていたが、その支配から解放されたのが戦争終結の意味だからだ」。興味深いと思いました。というのは、普通、その言い方は、「私たちは戦時中のナチスの犯罪には関係ありません」という言い訳の一環として使われるからです。しかし、ご存じのように、戦後のドイツはナチスの起こした犯罪に対して積極的に賠償を行い、途方もない額の保障をユダヤ人などナチスの犯罪被害者に今でも支払っています。現在のイスラエル共和国の、明らかに野放図な蛮行に対してアメリカのみならずドイツも目をつぶる理由がこのことと関係しています。今のイスラエルの蛮行と、かつてのドイツのユダヤ人に対する蛮行の狭間で苦しんでいると言えるかもしれません。

 日本では終戦、ドイツでは解放と呼ぶ出来事を、「あの人」ならどう呼ぶだろう、それが今日の聖書箇所を特別伝道礼拝の聖書箇所として与えられたときに思ったことでした。「あの人」とは、オットー・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン、世界史に名を残すハプスブルク王家の末裔です。1912年に生まれた彼は本来、オーストリアの皇帝になるべく生まれてきた人物でしたが、6才の時にその国はなくなってしまい、皇太子ではなく「元皇太子」となってしまいます。しかし、彼は王家の血筋を生かして、国際政治に携わり続けます。オーストリアという国はナチス支配下にあるドイツに併合されてしまいますが、ずっとそれに抵抗し続けた人物として身柄を狙われ続けます。逮捕されれば収容所に送られる可能性が高かったのですが、時には秘密警察に体当たりをすることで難を逃れて、主にアメリカに亡命、時の大統領であったルーズベルトと個人的に親しくなり、オーストリアを「ナチスに協力する国家」と見なすのではなく「ナチスに無理矢理支配され、そして抵抗をした国家」として、戦後には戦勝国の一員になるように画策した人物でもあります。

 [AI描画:ウィーンの故郷]
少し想像ですが、オットーは戦争が終わるまで自分の祖国であるオーストリアの土を踏むことは出来ませんでした。その意味で、彼にとって戦争の終わりとは、敗戦でも終戦でも解放でもなく、故郷への帰還である、と言えるかもしれません。そして不思議なことに、彼はオーストリアに永住することはありませんでした。彼の活動場所はヨーロッパ全体に及ぶからです。これは、ヨーロッパ全体を故郷として愛した一人の人物の物語と言えるかもしれません。

伝記(『ハプスブルク帝国、最後の皇太子』)のひとつを読んだのですが、歴史上の人物と次々と知り合いになっていくのがある意味で痛快な伝記でした。治めている土地も人民も全くないのに、なぜ当代の政治家達は彼に会い、彼のアドバイスに従うのだろうか。それは、国として存在していないオーストリアを、その国が解放されたら治めるかも知れない一人の人に頼らざるを得ないという、政治家それぞれの打算もあったでしょう。しかしそれ以上に、この存在しない国のために日夜交渉を続ける一人の若者に、周りの人が感心と共感を持つようになっていくのではないか、そんなことを想像しました。自分と同じようにドイツ統治下のオーストリアを脱出し、ヨーロッパを逃げ惑う亡命オーストリア人達のリストを現地の外交官に示し、この人たちにビザを発行せよと迫るオットー。それに対して外交官はこう尋ねます。「あなたの分はもうビザが発行されています。他の人のことはいいから、自分だけ逃げればいいのではないですか?」それに対する答えはこうです。「沈没する船から最後に脱出するのは船長なのだ」。彼は亡命者を助けただけでなく、アメリカに移ってからも、関係各所に働    (AI描画:ビザ)

きかけることによって、オーストリアに対する空爆を行わないようにさせることに成功します。最もオーストリアを愛するのが国王であることは、不思議なことではないのかもしれません。ただその国王が国内にいない、ということだけが普通と異なるのです!

 

*歴史の激動の渦の中で

 正義感がやたらと強そうなこの人物ですが、ここまでスケールが大きくなると、逆にどこまでこの姿勢が貫けるのか、興味が湧いてきます。ひとつ私自身が感心したのは、彼が新しく知り合いになった政治家と、プロイセン・オーストリア戦争という、19世紀に起こった歴史的な戦争について、自分が生まれるよりもはるかに前であったにも関わらず、その戦争に負けたのは自分自身の責任であるかのような口ぶりで説明している、ということです。自分の家の祖先が犯した過ちは、自分の過ちである、という責任の取り方は、潔いと思いました。しばしば私たちは、歴史に対して責任を取るということを忘れて、個人で生きているかのような思いに囚われてしまうことがあります。しかしかのオットー大公は、一人の人間が、歴史の中で傍観者であってはならないということを私たちに思い出させてくれます。

 少し時間軸が変わりますが、彼は戦後においても政治家であり続けました。ハプスブルク王家の王位継承者としてではなく、今でいうEU議会の議員として、人々から選挙されて政治活動を続けました。彼は、議員に選ばれてすぐに、次のように主張しました。「全ヨーロッパ問題に関する議論の場には、必ずひとつ空席を設けるように」というものです。ヨーロッパ共同体の一員として、国ごとに議員が選ばれているが、その国の中で少数民族であるが故に、会議に加わることが出来ない民族がヨーロッパには大勢いる。だから今いる議員の数だけ席があったというのでは足りない、少なくとももう一つ必要だ、というものです。この提案は受け入れられたようです。「祈りの精神」を思わせます。

 この、見えないものを見ることが出来る才能に長けた一人の人物は、1989年にどでかいことを成し遂げます。当時のヨーロッパ情勢は大きく変動しつつありました。ソビエト連邦の影響下にあった、いわゆる東側の国家が揺らぎ初め、東ドイツからの亡命者が相次ぎ、これ以上国境を閉ざし続けて良いのかということが問題になっていました。当時東側の国々と西側の国々は物理的な壁によって隔たりが設けられていました。特にそれは東側の国々からの亡命を防ぐためのものでした。

そこで既に70代後半であったオットー大公たちは、「ヨーロッパはひとつである」という意味の、パンヨーロッパ運動のひとつの金字塔と呼ぶべき活動を行ったのです。それは8月の暑い盛りに、ハンガリーの領地内で、オーストリアと国境が接している町へと「ピクニック」をする、というものでした。ハンガリーからオーストリアに行きたい場合、オーストリアのパスポートをもっている人たちはそれを国境警備隊に見せればゲートを通ることが出来ます。しかし、ハンガリーなど東側の国のパスポートでは国境を越えることが出来ません。しかし、ピクニックをして国

境を越えてしまおう、というのです。(wiki写真:「ピクニック」現場の現在)

                                                                      

 噂を聞きつけて東ドイツからハンガリーに飛行機で来た人もいて、1000人ほどになりました。そしてピクニックに乗じてオーストリアに入ってしまえば、そこから西ドイツに抜けることが出来ます。時代は既に、東西の対立は雪解けの方向に向かっていました。ハンガリーはフェンスを維持するのにお金がかかる、といって、既に取り去り始めていました。ゴルバチョフはこのハンガリーの動きを黙認することにしていました。

 当日までの準備の過程で、オットー大公はハンガリーの当局の中の最も信頼できる関係者に打診をし、東ドイツには極秘のままで、ハンガリーからの入国者に対して国境ゲートを全面開放するように根回しをしました。この日のピクニックで国境を越えた東ドイツ人は600人程度であったといいます。しかし、噂が噂を呼び、東側の国から西側へ亡命したいという希望者がその後各国の国境に殺到します。西ドイツは彼らを人道上の理由で亡命者として受け入れると表明、東ドイツは当初この流れを食い止めようとしたのですが、ソビエトが黙認していることを理解し、諦めます。この数ヶ月後、有名なベルリンの壁の崩壊が起こります。

後から見れば、東ドイツがどれだけ抵抗しても流れをせき止めることは出来ない、と分かりますが、ピクニックを実行した当日は、本当にハンガリーが確実に協力してくれるのか、もしかすると1000人のピクニックの参加者全員が国境警備隊に銃殺されても文句は言えない立場です。しかし、オットーは、自分が持っている政治的ルートが確実なものであることを確信していました。そして、ただ政治的信念を生真面目に実行するのではなく、ユーモアをもって実行するところにスケールの大きさを感じさせます。(写真は「ピクニック」当時のオットー(wiki)

*「義に飢え乾く人々は幸いである」

「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」。主イエスの言葉です。思いっきりかみ砕いて翻訳し直すと、こうなります。色々なことの狭間におかれて苦しみ、そして神さまの正義がどこにあるのかと今日探し求めている人は幸いである。なぜなら、その人たちは、明日神さまの正義を見つけて満たされることになるからだ。

義に飢え乾く人とは、先ほどの話の中で言っても、オットー大公だけではありません。戦争という矛盾の中で、あるいは社会主義国家と資本主義国家の体制の違いによって、苦しめられているのは、政治家であり、一人一人の人間であり、また国家自身もまた苦しめられているのではないでしょうか。そのようなときに、神さまの正義を求めるのであれば、なんと幸いなことでしょうか。オットーは一人の人間として卓越した眼で以て流れを見極め、活動しました。そのオットー大公がキリスト者であったのは、突き放して言えば偶然に過ぎないのかも知れません。オーストリアの人口のほとんどはカトリックですし、彼はカトリックを家の宗教とするハプスブルク家の人間です。しかし、それだけの理由であるならあえて説教で取り上げる必要は無いことでしょう。どんなに優れた生き様をした人であっても、だからといって説教の題材になるわけではないからです。

 しかし、彼の死に様を紹介することは、説教で取り上げる価値があるのではないかと思います。

(画像は共に「狭間」をテーマにしたAI描画)

*あるキリスト者の葬儀にて

 今から6年前になりますが、キリスト者であり、医師として有名な人物であった日野原重明という方の葬儀に参列をしました。自身が率いていた病院の病院葬として行われ、病院のチャプレンの一人が説教をしました。おおむね次のような話です。話を絞るために、オットー大公の葬儀の部分だけ紹介します。

 

彼は2011年に逝去した。葬儀はウィーンの町中で行われ、荘厳な式が営まれた。その後、遺体を墓地に運ぶことになっていた。墓地は教会の修道院が管理をしていて、修道院に遺体を運ぶ手はずになっていた。修道院の門の前で、遺体を運ぶ者達が門をたたく。中から、「入ろうとしている者は誰か」、と問う声がある。「この方は、ヨーロッパ中に王や王妃を輩出した名門ハプスブルク家の出身で、EU統合や様々な外交場面で活躍をしたお方である」、と答える。すると中から修道士が答える。「私たちはそのような者に心当たりはない」。そこでもう一度遺体を担ぐ者が門をたたく。中から、「入ろうとしている者は誰か」、と問う声がある。「この方は、ヨーロッパの様々なところに大きな土地を持ち、大きな資産を持っている者である」。すると中から修道士が答える。「私たちはそのような者に心当たりはない」。もう一度門をたたく。中から、「入ろうとしている者は誰か」、と問う声がある。「この者は一人の罪人で、ただキリストの憐れみによってのみ救われる信仰者である」。中からの答え。「私はその者を知っている。中に入れさせなさい」。

 

 今日の礼拝を私たちは、特別伝道礼拝として守っています。教会の門を初めてくぐるという方をお招きする礼拝です。その意味は、私たちは親からの信仰の継承によるだけではなく、新たに一世キリスト者が生まれなければならないという思いを持ち続けたい、ということです。一方で私たちがしばしば陥りがちなのが、親がキリスト者だから子もなった、というのはなにかスケールが落ちるという思いです。ヨーロッパは確かにキリスト教の伝統を守ってきた。でもそれも今は落ち目でしょう。本物の信仰を持ち続けていれば落ち目になどなるはずは無いではないですか。伝統などにあぐらをかいていてはいけない。それが少なからず特別伝道礼拝を持ち続けるということの意味です。しかし他方で思うのです。私たちは、奥ゆかしい伝統から、まだ何をか学ぶことができるのではないか。

 

 葬儀の話しに戻ります。当日の説教者はアメリカ出身の司祭であったのですが、この方は数年前に行われた葬儀に実際に出席をしていたそうです。説教者は次のように続けます。「日野原先生は大変に多くのことを成し遂げた人であったが、そのこと故に救われるのではありません。私たちはどんなに素晴らしいことをしたとしても、そのために救われるのではありません。ただキリストの憐れみによって救われるのです」、と。

短い説教でしたが、有名人、そして病院にとっても大事な方の葬儀の説教を担当することは、相当の気苦労があったと思います。ベテランの日本人司祭ではなく、日本語も完全ではない若い司祭が説教を担当したところに主催者側の苦労の一端を垣間見た気がします。しかし、会衆はその真意を見抜いたのではないかとも思います。ハプスブルク家の末裔と一人の病院長。その二人が、たとえどんな名声を得て、またどんな偉業をなしえたとしても、その二人が救われるのは、ただイエス・キリストの憐れみによるしかない。

 

*「その人たちは満たされる」

 義に飢え乾く人々というのは、「不正義に慣れ親しんでしまい、そこに安住することがない人々」、という意味があるように思います。オットーでいえば、自分の父親が国を治めることを放棄した時点で、一生亡命生活を続け政治と関わりを持たないという選択肢もありました。日野原重明氏は、若い頃に結核を患い、人生に絶望してしまっても不思議ではないという過去がありました。どんな人であっても、自分の人生はこんなものではないか、という風に見切りをつけることがありうると思います。それを人は運命と呼び、運命とうまく付き合うことが人生の処世術であるかのように思い込んでしまうことさえあると思います。しかし、かの人たちは、いえ信仰者は、希望を捨てることがありません。それは単に楽観主義的であるから、というわけではないのです。信仰者は、ただキリストの憐れみによってのみ、人は救われるということを知っているからです。義に飢え乾く人々は、幸いである。その人たちはキリストの憐れみによって満たされるのです。