井戸を掘り続ける者

2023/11/12(終末前主日 「井戸を掘り続ける者」 

創世記26132                                   牧師 上田文

 

「宗教二世」という言葉をよく耳にするようになりました。インターネットで調べてみると、「宗教二世」というのは、特定の親や家族のもとに生まれ、本人も誕生時や幼児期からその宗教に入信させられている人々の事を指すそうです。この事を調べながら、私は、キリスト教でいう二代目信仰者という言葉と「宗教二世」という言葉は、随分違うのだなと思いました。なぜなら、キリスト教の信仰者は、たとえ何代目であったとしても本人の信仰の自覚が問われるからです。今日の話は、父アブラハムから信仰を受け継いだ二代目信仰者のイサクの話です。イサクは、父アブラハムに与えられた神さまの祝福の約束の下に生まれた子どもでした。しかし、それだけでは「あなたの子孫は大いなる国民となる。またすべての民の祝福の源となる」と言われた、神さまの約束を受け継ぐ者とはされませんでした。先ほどの、「特定の親や家族のもとに生まれ、本人も誕生時や幼児期からその宗教に入信させられている」というふうには、神さまが見なしてくださらなかったのです。しかし、そのようなイサクを神さまは育ててくださいました。神さまの祝福の恵みに、自覚と確信を持ち、それによって命を与えられる信仰者へと成長させてくださいました。この神さまに、信仰者へと成長させていただく恵みは、今教会に集まる私たちにも与えられています。自分は、二代目信仰者ではありません。家族の中で信仰者は私だけですという方がいるかもしれません。しかし、アブラハムを信仰の父と仰ぐ私たちは、アブラハムの時代から何千年と続く、信仰の継承者の中に入れられているのです。それだけではありません。伊東教会の先達に与えられた、伊豆のアンティオキア教会になるという神さまのビジョンを受け継ぐものとされています。そのビジョンと信仰を受け継ぐために、私たちはいつも神さまに成長させて頂いています。今日は、その神さまが与えてくださる成長の恵みついて、聖書に耳を傾けたいと思います。

 

 1節にはこのようにあります。「アブラハムの時代にあった飢饉(ききん)とは別に、この地方でまた飢饉があったので、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクの所にいった」。イサクは、遊牧の生活をしていました。そのため、飢饉になり、牧草が無くなってしまうと、それを求めて移動しなければなりません。彼は、同じように遊牧の生活をしていた父アブラハムが、かつてそうしたように、ナイル川があるために比較的飢饉が少なかったエジプトに移動しようとしました。イサクは、父から教えられた命を守るための遊牧民特有の知恵を受け継いで、生活していたことが分かります。聖書には、その前に彼がゲラルの地方のペリシテ人の王アビメレクに会ったことが書かれていますが、彼は、ゲラルを通って、南エジプトまで行こうとしました。これもまた、父アブラハムに教えられた知恵であったかもしれません。

 ところが、その時、主がイサクに現れてこう言われました。「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」(2-3)。父アブラハムに与えられた祝福の一つの実現として生まれて来た息子イサクです。彼は、生まれた時からアブラハムに与えられた祝福の下で生活していました。イサクにとって、神さまの祝福の中で生きる事は、空気をすうように当たり前の事になっていたのかもしれません。だからでしょうか、イサクは、この神さまの言葉を深く考えることもせず、そのまま受け入れました。そして、そのようなイサクに、神さまは、更に「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」と約束してくださいました。

ところが、次の6節では、「そこで、イサクはゲラルに住んだ」とだけしか書かれていません。不思議に思います。神さまがアブラハムに与えられた祝福の約束を、再びイサクにも与えてくださったにも関わらず、イサクはアブラハムのように、感謝の捧げものを捧げたり、礼拝をしたりはしないのです。ただ神さまに言われた通りに「ゲラルに住んだ」としか書かれていないのです。それほどまでに、イサクにとって、神さまの祝福の中で生きるのは当たり前で、自覚的なものではなかったのでした。

そのことは、彼のゲラルでの生活からも良く分かります。「その土地の人々(ゲラルの人々)がイサクの妻のことを尋ねたとき、彼は、自分の妻だと言うのを恐れて『わたしの妹です』と答えた」(7)とあります。なぜなら、「リベカが美しかったので、土地の者たちがリベカのゆえに自分を殺すのではないか」(8)と思ったからです。この辺の地域には、このような悪い習慣があったのかもしれません。ソドムの人々の事を思い出します。神さまのみ使いがソドムの町で一晩過ごした時、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」とわめきたてた話がありました(19:4-5)。このような習慣を知っていたイサクは、自分の命が奪われるのを恐れて、妻を「妹だ」と偽ったのでした。このような話はアブラハムの物語にもありました。アブラハムは、人生で二度も妻を「妹」だと偽って、命を伸ばそうとしました。一度は、飢饉でエジプトに移動するとき、もう一度は今イサクが滞在しているゲラルの地でアビメレクに対してです。これと同じことを息子イサクはするのです。それもまた、父アブラハムから教わった遊牧生活の知恵かもしれませんし、遊牧民の生活をしている内にイサクが自然と身に着けた知恵かもしれません。どちらにせよ、イサクは神さまの祝福による支えではなく、自らの知恵によって、生き延びようとしました。このことからも、イサクが神さまの祝福に対していかに無自覚なのかが分かるような気がします。

 

しかし、イサクの嘘は、すぐにペリシテ人の王であるアビメレクに見破られます。アビメレクは、「あなたは何ということをしたのだ」(10)と言ったとあります。

「何ということをしたのだ」。この言葉は、神さまがアビメレクを通しておっしゃった言葉のように思います。「何ということをしたのか」という言葉は、エデンの園の話にも出てきます。神さまが決して食べてはいけない。食べると必ず死んでしまうと言われた、木の実を食べたアダムとエバに神さまが言われた言葉です。「何ということをしたのか」。この言葉は、人間が、神さまから与えられる物によって生きる事から離れた時に神さまが言われる、嘆きの言葉です。この時から、罪が全世界に広がりました。自分の力で命を伸ばさなければならなくなった人間は、互いに争うようになりました。神さまから与えられた命を奪い合い、罪に罪を重ねるようになりました。それは、イサクも同じです。幸いにもアビメレクは、神さまの導きにより、リベカがイサクの妻だと知り、民たちが罪を犯すまえに、それを食い止める事ができましたが、イサクは、自分の命の事で恐れ、命を伸ばすために嘘をつき、その嘘のために他者までも罪に巻き込もうとしたのでした。神さまによって生かされている事を忘れ、その神さまから離れてしまう時に、私たちは「何ということをしたのか」と言われるような、取り返しのない罪を犯してしまうのです。

 

 アビメレクは、すべての民に「この人、またはその妻に危害を加える者は、必ず死刑に処される」(11)と命令を下しました。また、「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。イサクが主の祝福を受けて、豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つように」(12)なりました。罪を犯し、罰を受けなければならないのは、イサクのはずなのに、神さまは、アビメレクを動かしてくださり、イサクの命を守られたのでした。ただ守られたのではありません。多くの富を与え、再び神さまの祝福の中で生きていける恵みを与えてくださったのでした。イサクはこのことを通して、少しずつですが、自分の力では命を伸ばすことも出来なく、命は神さまによって与えられ支えられているのだという事を知り始めたのでした。祝福の下にしっかりと踏みとどまることが出来ず、自らの力で命を伸ばすために、他者に対して恐れを抱き、自分も隣人をも罪に陥れてしまうイサクでした。しかし、神さまは、尚も恵みを与え続けてくださり、祝福の中を生きるとはどのような事なのかを、イサクに教え続けてくださったのでした。

 

 このようにして、イサクは多くの召し使いまで持つようになりました。しかし、そのことは逆にペリシテ人のねたみを買うようになりました。そして、ついにこの地の支配者であるアビメレクも「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい」と言うようになりました。「我々と比べて」と言う言葉は、アビメレクが、自分の持つ資産や名誉とイサクの持つ資産や名誉を比べた事を表しています。アビメレクは、人間社会の価値観により、イサクと自分を比べて、自分が弱く小さな者に見られてしまうと心配したのでした。富や名誉といった、人間社会の評価によりこの地の王となっていたアビメレクは、その評価を得られなくなった時に、命さえ取られるような恐れを抱いたのでした。そして、イサクにこの地から出て行くように言ったのでした。しかし、イサクはゲラルに踏みとどまります。「出て行っていただきたい」というアビメレクの事よりも、「わたしが命じる土地に滞在しなさい」という神さまのみ言葉を覚えていたからでした。イサクは、罪を犯したのにも関わらず、それでも祝福の中に置いて下さる神さまの事を知り始めていました。そのため、「わたしが命じる土地に滞在しなさい」と言われた神さまの言葉を、以前とは違った形で、意識して受け止めるようになっていました。

 

神様のみ言葉に忠実に生きるようになったイサクは、ゲラルの谷の方に移動し天幕を張って住みました。そこには、昔、父アブラハムが掘った井戸が幾つかありましたが、ペリシテ人がそれらをふさいでしまっていました。イサクに対して、嫌がらせをしたのです。イサクは、その井戸を掘り直して、水を得ようとします。けれども、井戸を掘り直し、水が出るとゲラルの羊飼いたちがその井戸を奪いに来ます。それが何度も何度も続きました。イサクはその度に、争わずに、井戸を明け渡し、次の井戸を掘り続けた事が聖書に書かれています。なぜ、何度も井戸を取られているのに彼は争わず、その井戸を明け渡す事が出来たのかと思います。ある人は、イサクは父アブラハムが掘った井戸の場所を覚えていたから、ペリシテ人に寛容であり続ける事が出来たと言いました。つまり、イサクは、どこを掘れば必ず水が出るかを知っていたので、安心して井戸を明け渡し、移動し続けることが出来たのだというのです。水は命そのものです。イエスさまも井戸の傍らで、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」(ヨハネ4:14)と教えてくださいました。イサクは、父アブラハムが掘った井戸を掘り返しながら、父アブラハムが神さまとの関わりの中で渇く事のない水を与えられて生きた、その信仰を掘り返していたのでした。父アブラハムの残してくれた物により、神さまの恵みの信仰を知ったイサクは、自分の命を伸ばすために争うのではなく、命そのものを与え、養ってくださる神さまを信頼して、次々に井戸を掘り続ける事が出来たのでした。それは、信仰を受け継ぐ者とされた、二代目の信仰者であるイサクの強さであったかもしれません。神さまの祝福の中で生まれたイサクは、祝福があることが当然のように生きていました。まるで、息をすうように祝福の中を生きていました。まるで、小説に出て来るお金持ちのバカ息子のようにです。それは、彼の弱みとなっていました。信仰的な自覚がないままに、生きていたイサクは、苦難の中に陥れられるとたちまち、神さまの祝福から離れ、罪を犯してしまいました。妻を妹だと言い、自分の命のために他者を恐れ、嘘をつき、人々を罪に陥れようとする者になりました。しかし、その罪を塗りつぶすくらいの、神さまの祝福を知ったイサクは、自覚的に神さまを信頼して生きるようになっていました。イサクが争いを避(さ)けて、井戸を掘り続けることが出来たのは、父が掘った井戸から、命の水が与えられるという確信があったからでした。彼は、祝福の水は、渇く事がない事を彼は、父が残してくれた井戸と、自らの経験を通して教えられていたのでした。祝福の中に生きる事を当然としていたイサクの弱みは、いつの間にか、強さに変えられていました。彼は、今までよりも更に安心して、命の心配をすることなく、祝福の中で井戸を掘り続けていたのでした。祝福の中で、ただ彼が出来る事を精一杯やり続けたのでした。祝福を空気のように吸い続けて育ったイサクは、たとえただの井戸掘りであっても、それを神さまが良い物として見て下さり、喜んでくだっていることを自覚したのでした。そして、ついに争いが起こらなくなったとき、「イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、『今や主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった』と言った」(22)と聖書に記されています。

この地に留まるために、周囲の妬みや嫌がらせに耐えてきたイサクは、ついに戦いを挑(いど)まれる事もない平安の地を見つけたのでした。その夜、主なる神さまはイサクに現れて言われました。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫をふやす。わが僕アブラハムのゆえに」。「恐れるな」という言葉は、命のために恐れるなと言い換えることが出来るように思います。私たちは、命が無くなるのを恐れて、その命を伸ばすために嘘をつきます。争いを起こします。まだ分からない、明日のことを心配します。そしてその恐れは、私たちが豊かになればなるほど、富めば富むほどに大きくなるように思います。しかし、この命は神さまによって与えられた祝福の命であり、神さまはこの命を養い守ってくださると信頼して生きるようになった時、私たちから、この恐れが取り去られます。「いつまでも枯れる事のない命の水を私が与え続ける。だから、恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる」そのように神さまは、イサクと私たちに語りかけてくださるのです。

 

 神様のみ言葉を聞いたイサクは、「そこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した。イサクの僕たちは、井戸を掘った」(25)とあります。イサクは、神さまを我が主、我が神として信頼し、井戸を掘るという唯一自分が出来る最高の事を神さまに捧げて礼拝する者となったのでした。

 

 26節からは、そのようなイサクにアビメレクが契約を求めて来たことが記されています。アビメレクは、イサクに「主があなたと共におられることが良く分かった」(27)と言います。富や力といった人間社会の評価を追い求めていたアビメレクは、争わずに、井戸を明け渡し、また次の井戸を掘り続けるというイサクの事が初めは、よく分からなかったと思います。ただ、父アブラハムに与えられた、井戸という財産を掘り、それを食いつぶす事しか出来ない人間に見えていたと思います。しかし、そのような人間の目線を全く気にせずに、井戸を掘り続けるイサクの姿は、アビメレクに変化を与えました。あの余裕、あの自分の財産に執着(しゅうちゃく)しない生き方、すべては神さまが与えてくださったものとして感謝する心、そして、自分の最高の捧げものとして、ただ唯一彼が出来る井戸掘りをする姿、その一つ一つをみて、彼はイサクが本当に神さまに祝福の中に生きる人だと感じたのでした。アビメレクは、イサクから神さまの約束のみ言葉を信頼して生きる信仰者の姿を見たのでした。神さまの約束を信頼して歩む信仰者は、平和を作り出す者とされていきます。アビメレクはイサクとの間にお互いに危害を加えないという契約を結ぶことを求めました。きっと、全能の神さまを味方につけているイサクを、敵するよりも、良い関係を結んでおいた方がよいと考えたのでしょう。しかし、イサクは以前自分のことを追い出そうとしたアビメレクを迎え入れて祝宴を設けました。そして、翌朝、誓いを交わして安らかに送り出したとあります(31)。イサクが担っている神さまの祝福がこうしてアビメレクにも及んだのでした。イサクと契約を交わしたアビメレクは、イサクを通して、恐れる必要のない、争(あらそ)いのない平安の内に生きる者とされていたのでした。

 イサクがアビメレクと契約を交わしたことは、神さまの祝福がすべての国民に及ぶように、イサクが「祝福の源」として役目を果たし始めたことを表しています。32節には、「その日に、井戸を掘っていたイサクの僕たちが帰って来て『水が出ました』と報告した」とあります。神さまは、井戸を掘る事しか出来なかったイサクを、「祝福の源」として「命の水をもたらす、井戸を掘る者」に成長させてくださったのでした。

 

 このように、神さまに成長させていただく恵みは、今ここに集められた私たちにも及んでいます。私たちは今、信仰の先達が立てたこの教会を修繕しています。信仰の先達たちに与えられた、伊豆半島のアンティオキア教会になるというビジョンを実現するためです。イサクが父アブラハムの息子として祝福の内に生まれたように、伊東教会に集められた私たちも、教会の先達の信仰の祝福のビジョンの内に入れられました。しかし、イサクがそうであったように、私たちにも、さまざまな試練が与えられていると思います。私たちは、イサクのように恐れを抱き、他者を罪に陥れてしまうような失敗をするかもしれません。また、教会のために自分が出来る事は何もないのではないかと思う事もあります。けれども、神さまは、このような試練を通して、イサクを成長させてくださいました。その信仰を確かなものとし、神さまの祝福を担う、祝福の源としてくださいました。それは、私たちにも同じです。私たちも神さまに与えられた場所に踏みとどまって生きることで、本当に安心して神さまを信頼し続ける信仰者へと成長させていただけるのです。そして、どのような時にも、神さまを信頼し、自分の出来る最高の仕方で神さまを褒めたたえ、その祝福を証し、周囲の人々に祝福をもたらす者とされるのです。

 

「平和を実現する人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5:9)。弟子たちに与えられたイエスさまの言葉です。

 

祝福の中を生き、日々成長させていただいている私たちは、イサクのように神さまに感謝と賛美の歌を歌いながら、この地で「命の水をもたらす井戸を掘り続ける者」となりたいと願います。そして、神さまが与えてくださったこの教会を立て続け、今祈りに覚えているあの人と、そして教会の兄弟姉妹と共に、天の国に入れられる者となりたいと願います。