留まる

2023/11/05(終末前々主日 留まる 

使徒言行録(58回)18111節 牧師 上田彰

 

 *御子が地上に到来し、愛する、留まる

 教会は一年の暦を通じて、主イエスが地上においでになる時から世界の終わりまでの様子を思い起こすことになっています。年の始まりはアドヴェント。主イエスの到来を待ち望む人々の様子を思い起こしながら一年が始まります。アドヴェントはもう今月末、今は年の、いえ歴史の終わりを思い起こし始める時期となりました。

 クリスマスのメッセージは聖書の様々な箇所で、少しずつ角度の異なることが伝えられていますが、その中でヨハネ福音書は次のようにクリスマスの意味と意義を語ります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。その内の、「宿る」という言葉が重要です。もともと言葉なる神は、父なる神のおられる天をふるさととしていた。しかし、ふるさとから離れて、私たちの所においでになり、そしてお宿りになった。英語で言えばステイした、ということです。ふるさとではないところ、もっと言えば都上りをするかのように華やかな憧れの場所に引っ越すというのでもなく、ただそこに救わねばならない人々がいるという理由で訪れる、それがステイ、宿り、留まるということの意味です。ただちょっと顔を出してよそに移るのではなく、そこに長くとどまる。その場所を愛していなければ出来ないことです。しかもその愛は、父なる神に求められるような仕方で愛する愛であって、み子なる神は父なる神に使わされて、この地上の世界を愛され、そして留まられた。

 今日、同じようにしてコリントを愛し、コリントに留まった一人の伝道者について見て参ります。彼もまた、神さまに命じられるような仕方でコリントを愛するようになりました。ではその命じ方とはどのようなものだったのでしょうか。

 

 *アテネからコリントへ

 パウロがギリシャの町を巡り歩き、キリストの福音を宣べ伝えています。先日はアテネ、今日はコリントです。使徒言行録を丁寧に読んで参りますと、それぞれの町におけるパウロ達の伝道の成果と申しましょうか、どのように信じる人々が起こされ、洗礼を受ける人が出現したかということが分かるようになっておりまして、その視点で申しますと、今日のコリントはずいぶんたくさんの人が洗礼を受けたということが分かります。いってみれば伝道の成果が出た場所である、という事になります。

 しかし、量というか数字の観点で伝道が進んだ、あるいは進まない、という風に一喜一憂することは、時折教会の信仰を足元から救うことにもなりかねません。数字にこだわる考え方が教会に害を及ぼす事例について、私どもも知らないわけではありません。

 今日の箇所を読みますと、「多くの人々が洗礼を受けた」と8節で語ってから、11節でパウロがこの町に長くとどまるに至った、と報告するまでの間に、重要な転換点と申しましょうか、長い「間合い」がある事に気づかされます。この町ではパウロが伝道に成功した、だからパウロはこのように成果が出る町が好きになって、だから長くとどまった、というわけではないのです。

 今までのパウロの新しい町を訪問しての伝道のやり方からすれば、むしろこの町は短期滞在にとどめて次の町に行きそうなものです。それが16ヶ月に及ぶ滞在となった。他のところが数週間の滞在ですから、五倍から十倍に及ぶ、突出して長い滞在です。

 恐らくそれまでのパウロの伝道は、新しい町において福音伝道のとっかかりを作る、つまり伝道の拠点地として教会を作り、その中心的なメンバーが生まれてきた段階で、細かい教育や面倒見はシラスなどの仲間に任せて、自分は次の町に行く、というやり方でした。たくさんの受洗者が出る段階まで留まるのではなく、そのような伝道の方策状況が予見できるようになったら、次の町にもう移っていたのです。今風にいえば、自分の着替えを旅行鞄から出し入れするような仕方で生活するか、桐のタンスを備え付けて着替えをそこから出し入れするか、という位の違いがあって、彼はこの町以前では旅行鞄から着替えを出し入れしていたのが、ここでは桐のタンスを自室に設けるようになったのです。

 彼の態度を決定的に変えたのが主イエスの幻であったことは言うまでもないことで、それが今日の結論ということになるのですが、もう少し丁寧にコリント教会の端緒を見て参りたいと思います。

 

 *コリントにて(前半)

 このコリントという町において、最初に出会ったのがアキラとプリスカという夫妻でした。度々パウロの手紙の中にも出てくる夫妻で、教会において大きな役割を果たしていたようです。時々プリスカとアキラ、という風に妻の名前が最初に出てくることがありますので、当時の女性が教会で大きな働きをなす、そのリーダー的存在であったことが推測できます。この二人が協力してくれることで、伝道が大きく切り開かれました。彼らはもとからコリントに住んでいたわけではなく、生まれはポントス、つまり黒海の南岸であり、そして直前に住んでいたのはローマでした。地図で見ると、当時のヨーロッパ・地中海世界の右端から左端への大移動を果たしていることが分かります。ところがローマにおいて、時の皇帝がユダヤ人をローマから追放するという命令を出しました。すべてのユダヤ人、という中にアキラとプリスカが含まれていました。当時の世間のまなざしでは、キリスト者はユダヤ教の一派だという理解がまだまだ強かったようです。そこで彼らはコリントに移ってきた。そしてパウロを受け入れる前にコリントで生活の拠点を築いていたのです。かつてフィリピでは、パウロはユダヤ教の集会を探すのにも一手間で、いろいろな人に尋ね回ったあげく、結局集会は町の門の外の河原でやっていた、そこでリディアに出会えた、ということがありました。ここコリントでは、夫妻が信仰者であることは知られていたようで、パウロは彼らの所にすぐにたどり着いているように読めます。

 そして彼らは同じ職業でした。テント作りがパウロの職業だと分かるところは、聖書の中でここだけではないかと思いますが、テント作りには専門的な技術が必要で、しかもどこに行っても通用するという類いの技術です。今はリモートワークと言って、世界中どこにいてもデザイナーの仕事などのように出来てしまう世の中になりましたが、一昔前で言いますと、旅をしながら自分の腕で稼ぐとなると、仕事は限られています。例えば床屋の技術を持っている人は、はさみと櫛を鞄に入れて旅に出て、旅先で人々の髪を切って日銭を稼ぐというようなことが考えられます。同じように、テント作りは旅と相性の良い職業であったのかも知れません。

 

 しかしパウロが日常生活の大半をテント作りに用いる、というのはこれまでにはあまりないことでした。彼はアンティオキア教会から派遣され、またフィリピ教会にはリディアのように、パウロの伝道活動を経済的に支える志を持っている人がいました。そういった経済的援助によって、パウロは伝道活動に専念することが出来ていました。ところが、以前いた町にパウロは仲間をおいていて、彼らが持参するはずの援助が届かない状態がコリント来訪以降続いていたようです。

 今日の箇所から、お金に困って元の仕事をした、というようなニュアンスは窺えません。むしろ同信の友と共に仕事が出来ることをパウロは喜んでいるように読めます。ただし、時間は無くなりました。安息日にユダヤ人の会堂の内外で人々に信仰を伝えるのがやっとでした。聖書によりますと、その時に信仰を伝える相手はユダヤ人とギリシャ人であった、と書かれています。

 

 *コリントにて(転換点、ネヘミヤ記について)

 そしてそこについにシラスとテモテがやって来ました。やっとパウロは御言葉を語ることに専念できるようになりました。この「御言葉を語ることに専念する」というのは解釈が難しい表現で、古い写本を見ると、「説教に専念」ではなく「聖霊に専念」するという風に置き換えられているものがあります。そこで一つの想像が成り立つのですが、ここでいう「説教に専念する」というのは、「説教壇での業に専念する」という意味で、その際の説教壇はユダヤ人の会堂の中にある、つまり「シラスとテモテが来たのをきっかけに、パウロはユダヤ人会堂における礼拝の中での説教に力を入れるようになった」という風に読む可能性があります。当時の会堂における礼拝は、今で言う讃美歌と聖書朗読、それに祈祷が中心でした。礼拝に接続する形で、誰かが前に出てその朗読された聖書箇所についての解説をすることがありました。恐らくそこで、ユダヤ教の中のファリサイ派の人はファリサイ派らしい説教をし、サドカイ派らしい説教もまた聞かれる中で、パウロはキリストの福音を語った、ということのようです。

 パウロ自身がこれほどに自分の宣教活動をユダヤ教の位置活動だという風に考えていたのか、むしろキリスト教がユダヤ教の一派だという考え方はルカ自身の独特なものではないか、という風にも考えられます。ただそのルカも、このコリントにおいて一つの転換がパウロに生まれていることに気づいています。それは、パウロが行う説教が多くのユダヤ人には届かず、却って反感を生んでしまった、そのことをきっかけにパウロがユダヤ教イエス派ではなくキリスト教という独自の宗教としての伝道活動を始めた、そのきっかけはコリントにある、という風に見なしているのです。

 さてそのパウロのユダヤ人への決別の言葉がこうです。「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く」。ここでパウロが行う、服の塵を払っての捨て台詞というのが、イエスさまの弟子たちへの伝道の際の指示と似ていることにはすぐに気づきます。イエスさまの言葉はこうです。「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」(マタイ10)。

 これらの箇所は、いわゆる「伝道に向いていない場所である、として見切りをつける」ということを言っている箇所ではありません。そういう誤解を明らかにするために、今日はネヘミヤ記の言葉を聞きました。ネヘミヤ記は、エズラ記とあわせて、バビロン捕囚から解放されてから、エルサレムに新しい神殿を建てようという気運が盛り上がり、神殿が建てられた次第について報告します。その際、ただ新しい城壁や建物が出来た、これで民族結集のシンボルが出来上がった、という形で喜ぶのではなく、神殿再建を通じてユダヤ人としての精神そのものの再建を図る、というのがネヘミヤ記の趣旨です。例えば、ネヘミヤ記が問題にしていることの一つに、神殿再建に熱心であった人々と、そのことに関心が持てずにいた人々との、意識の温度差ということがありました。意識の格差があるままでは、神殿は本当の意味で信仰的な結集にはならない、と考えたのです。そしてそのことに間接的に触れるような形で、今日お読みした箇所の言葉があるのです。そこで語られている「格差」は、直接的には神殿再建に熱心な人と不熱心な人の格差ではありません。そうではなく、埋められなければならない格差は、借金を巡る格差である、というのです。当時は、借金のカタとしての人身売買が公然と行われていて、特に異邦人に奴隷として売られてしまうことを避けるために、一方ではお金を出して身請けをする、つまり買い戻すことをユダヤ人共同体として行っているのに、性懲りも無く奴隷の取引が行われている。まずはお互いの借金を帳消しにすることで、人身売買を根絶の方向に持っていこうではないか、というのがネヘミヤの今日の箇所で示されている神さまの言葉です。それに対して人々は同意し、アーメンと唱えた、とあります。本当に奴隷取引容認意識を克服することが、神殿再建への意識格差克服とつながるのか…、その筋道を考えることは今日の説教では出来ませんが、しかし、神殿再建を願うネヘミヤにとって、形ばかりの再建ではなく、その中身が大事だと考えていることは分かります。

 

 *コリントを愛するパウロ、その苦悩

 使徒言行録の今日の箇所に平行移動して考えてみますと、パウロの言葉は、そしておそらくはイエスさまの弟子たちに対する指示の言葉も、「主の言葉を受け入れない人はその場で見切りをつけて良い」というような話ではありません。そうではなく、共同体の信仰的な結びつきが、奴隷取引を容認する経済的な結びつきに負けてしまってもいいのか、そのことを容認するかどうかというのと同種の問いが背後にあることを、パウロの引用は示唆しているのです。

 

 パウロとユダヤ人との間のやりとりには、いつも誤解がつきまとっています。パウロに反対するユダヤ人の側では、ユダヤ教で救われるのかキリスト教で救われるのかという、「選択」の問題だと考え、パウロはキリスト教で救われるという、別の選択肢を持ち込もうとしている不届きな輩だ、いわゆる分派主義だ、といってパウロを排除しようとしているのです。それに対してパウロは、パウロは自分では分派活動をしているつもりは全く無いのです。そして選択の問題を持ち出しているのでもない。むしろ、こう言うのです。共同体が成熟するということを願っているという意味では、あなた方と同じ立場ではないか、と彼は強調するのです。

 あるときまではルカの視点によれば、パウロは福音を信じる者たちがキリスト教として独立することを目指していたのではなく、つまりキリスト教が分派のようにして大きくなることを目指していたのではなく、ユダヤ教イエス派としてユダヤ教の傘下に留まってユダヤ教の健全化、ユダヤ社会の健全化を目指していた。しかしどうしても健全なユダヤ教共同体がキリストを信じる福音によって回復する、という思想がユダヤ人に理解してもらえない。そこでやむを得ないので、教会はキリスト教として独立し、異邦人に向けて伝道をし、異邦人と共に共同体を築き上げて行くしかない、という方向転換を行うようになる、と記すのです。

 色々考えさせられるのではないでしょうか。新聞によれば、今紛争に関わっているある国では、突撃のための兵士が足りないために、囚人が戦争兵として志願すれば残りの懲役を免除するという制度を取っていたのですが、それでも足りなくなって、囚人は自動的に兵士としても登録されるという風な制度改正が図られるそうです。それとは別に、借金で困っている人に対して兵役志願を勧める手紙を行政から送ることが始まっています。そのような手紙の発送が倫理的であるかどうか、また先ほどの法改正の動きについて、反対意見も多く議論されているのだそうです。私たちはどうしても今あるユダヤ教を念頭においてしまいますから、今のユダヤ教のように賢い人やお金持ちは多いが人数としてはとても少ない宗教を考えてしまい、そこにパウロが加わっていても大したことはないのではないか、と思ってしまいますが、ここでのパウロとユダヤ人達とのやりとりは、その後のキリスト教の、そして世界の運命の分かれ目になったことはなんとなく分かると思います。

 その当事者であるパウロは、この悲しいユダヤ教世界との離別をどのように考えていたのでしょうか。彼の伝道のターゲットはその後異邦人に向けられるようになり、そして少なくない成果が得られた、ということが分かります。パウロの周りにいてパウロを支援していた人々からすれば、これはいいことだとも考えていたのではないかと思います。つまり、ユダヤ人から異邦人へと伝道のターゲットを帰ることで、実はユダヤ人も洗礼を受けるようになった事例もあり、総合的に見て表面的には「離別が功を奏した」ということにもなるのです。

 

 しかしパウロの心中はどうであったのか。かつてネヘミヤは、神殿再建に不熱心な人がいることを気にかけて、奴隷の人身売買をたとえにした演説を行います。売られてしまった奴隷を見捨てないのと同じように、再建に不熱心な人を切り捨ててしまうことがないようにしていました。同じようにパウロも、服の塵を振り払って捨て台詞のようなことを言ったユダヤ人達のことを、ずっと祈りのうちに覚えていたのではないでしょうか。

 

 *祈るパウロに現れた主の幻

 そのような祈りを夜に一人で献げているときに、パウロは幻を見るのです。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。ここでいう「危害を加える」というのは、パウロに暴力を加えて痛めつけるという意味ではありません。他の箇所では「迫害する」「扇動する」という風に訳すこともある、「共同体を破壊する」という意味合いの言葉です。「単なる暴力」と考えると、その後の「この町には私の民が大勢いる」という言葉が分からなくなってしまいます。ここでいう「危害」とは、「教会というキリストの結びつきの共同体」を「別の種類の結びつきの共同体」に置き換えてしまうような危険性、ということです。例えばパウロは、このコリントには、教会の外だけではなく教会の中にも経済的結びつきを強く考える人がいることについて後に心を痛め、そのような人々が「パウロは私たちの教会から報酬をむしり取ろうとしている」という悪口を言っていることに対して、「私はあなた方から報酬を受け取ったことはない」と述べています(第二コリント11章)。先ほど少し触れたように、共同体の交わりを信仰的なものから他の原理へと置き換えようとする動きは、現代でも存在します。その最たる例が経済的結びつきであるのは確かですが、他にも他の民族への憎しみによって結束しよう、というゆがんだ愛国主義も見られるかも知れません。そしてそこには、切り捨てられてしまう人々への愛も、また祈りも、ありません。

 共同体を切り崩そうとしている人をも愛し、また祈っている、しかしその愛や祈りに限界を感じてもいるパウロに対して、主イエスは現れました。「語り続けよ。この町には、わたしの民が大勢いる」。「いる」という言葉が重要です。「私は民を与える」という風にも言って良いのではないかと思います。人間がそこにただいるというのではなく、またパウロが探すというのでもなくて、神さまが与えて下さる、その神の民を見出すのです。自分がしゃかりきになって神の民を作るのではなく、あるいはどこに神の民がいるのだろうと悲しみながら色々なところを探し続けるというのでもなく、主の民は主ご自身が私に与えて下さるのだ、というのです。

 この幻を見た一人の伝道者が、18ヶ月の間この場所に留まった理由は、分かる気がします。彼自身が伝道の場所を探して、あるいは伝道の対象となる民を探して伝道をするのではなく、伝道をする民も、伝道をする場所も与えられる。ここに主の民が大勢いる、そう考えられるようになった伝道者は、自ずから腰を落ち着けて、鞄にしまってあった着替えを取りだして桐のタンスに入れ直すのです。コリントは、自分に与えられた伝道の地である、そう信じて愛するようになり、留まるようになった、一人の伝道者の姿がここにあります。

 

 聖餐の食卓が備えられています。私たちもまた生きる道を探してさまようことがあったかも知れません。しかし今はここに救いの場所がある。主ご自身がここにやってきて下さることによって与えられているこの交わりを、感謝して受け止めたいと思います。