二人の目は遮られていた

2023/10/15 三位一体後第19主日礼拝(信徒伝道日) 

「二人の目は遮られていた」 ルカによる福音書241316節                                                                                                        上田照子姉妹

 

 私は本日のお話の題を「二人の弟子の目は遮られていた」としました。それは、この二人の姿に、ある親しみを感じているからです。この二人はとぼとぼと歩いて田舎に戻っています。後ろから復活したイエスさまが近づいてきたのに、気が付いていませんでした。イエスさまは死んでしまった、もう会えないと、すっかり信じ込んでいて、嘆いています。

 私はイエス様の復活を信じて洗礼を受けました。その時から、イエス様にお会いしたい、と強く願ってきました。本当は、イエスさまの方からは私に何度も会っていて下さったのだと思うのですが、私の方ではまだお会いしていません。そのしょぼくれているところが、自分の姿と重なるように感じるのです。

 わたしは戦後、高知県の安芸という町に住んでいました。そして小さい頃、友だちに誘われて、すぐ近くにある安芸教会の教会学校に通い始めました。そこに、尊敬する小学校の担任の先生も行っておられて教会員であることを知りました。私はあんな大人になりたい、私も先生になりたいと憧れを持ちはじめました。

 高校生の頃、洗礼を受けないままで教会学校の分級の教師をしていたときに、ペトロの信仰告白の箇所に行き当たりました。「あなたは私を誰と言うか」という問いは、私にも向けられているように思いました。分級の途中で、子どもたちには帰ってもらって、この問いに一人で立ち向かいました。私はこのまま教会学校の教師をしていていいのかどうか、迷いました。

 一旦は洗礼の決心をしながら、実際の受洗までには二年かかりました。その道のりは目が遮られた状態であった、といってもよいと思います。

 一番大きな理由は、「人間は罪人である、とはどういうことか」、自分は別に、お縄をかけられて白洲に引いて行かれるようなことは何もしたことがない、と思っていたからです。さらには「人間の悲惨ということがピンとこない」という思いからです。それで洗礼受けるのが二年ほど遅れ、受けたのは高校卒業の直後、野村穂輔先生からした。

 厳密に言うと、私が受洗前に「目が遮られていた状態」というのは、もっと先まで続きます。私は地元の大学を卒業して、大阪・守口の公立中学校に教員として赴任しました。教会は高知教会から大阪・天満教会に移りました。教会は変わりましたが、一つの変わらない思いが密かにありました。それは「父に会いたい、父の復活はどうなるのだろう」という問いでした。父はすでに死んでいたのです。しかも、洗礼を受けていたのにすでに教会から離れていました。そのことにこだわる自分に苦しささえ感じていました。

 しかし聖書を読むと、主は、旅人のお姿をもって現れて下さり、隣を歩いて下さる、と書いてあります。そのことにある時、牧師の説教をお聞きして気づきました。それと共に、私の中に発展的な問いが生まれました。それは、私の隣人とは誰だろうか、という問いです。復活の問いが消えていないのに新たな問いが重なってつぶされそうになったかといえば、そういう事はありません。むしろ、自分が苦しみから解かれたことを感じました。丁度その時、一週間に三時間だけ担当させてもらっていた学習遅進児(知恵遅れ)の生徒のことが気になるようになっていました。最善の指導方法を学びたいと思うようになりました。内地留学の機会が与えられ、今でいう京都教育大に通うことになりました。教会は京都・世光教会に移りました。

                                                              

結婚をするためドイツに行く決心をしました。ドイツには三年おりました。ドイツでこういうつらい経験をしました。

それは、最初の子どもを流産した、という経験です。自分の母から、二人の子どもを失った苦しみ・悲しみについて十分聞いておりました。しかし、まだ顔も見ていない子どもを失うことがこれほどに悲しいことなのか・・・。私はなかなか立ち直れず、子どもに「安」という名前までつけて一人で悲しんでいました。しかし、これは、わたしにとって非常に大事な経験になりました。人の悲しみ、人間が生きる悲しみを知ったことで、わたしは牧師夫人としては何一つ修業をしたこともなかったのですが、これが、イエスさまが私に与えてくれた、牧師夫人として生きるための非常に貴重な体験となりました。

 その時主人から大事な言葉をもらいました。「十字架の恵みが生きる希望だ、復活の希望が生きる力の源だ」、と。私は時間がかかりましたが次第に元気になりました。

帰国しての主人の最初の任地は安芸教会でした。わたしにとっては懐かしい自分の母教会でした。太平洋沿いの明るいところでした。そこで彰が生まれました。次の任地は石川県の若草教会でした。初めて日本海側の、雪のある風景に出会いました。彰はそこで小学校にあがりました。それから東京に移り、3番目の任地は渋谷の美竹教会、そこで30年を過ごし、それから最後が、墨田区の下町の、曳舟教会でした。多くの困難な時に、隣にいて公私ともに、また物心ともになくてはならぬ助け手が与えられました。神さまの御配剤だったと感謝しています。

 牧師夫人という立場にあって、経験した話を二つほど致します。一つは、渋谷の教会にいたときのことです。春先のことでしたが、教会総会の日です。総会では大変に激しい議論がなされ、厳しさを感じるままに、教会総会が終わったという日がありました。皆解散して帰ってしまい、がらんとした礼拝堂に一人で入りました。その日の総会のことを思い出しながら、「あの人の意見はこうだった」、「この人の意見はこうだった」と思いながら、それぞれの人の座っていた位置にあちこち移動してそこに座りながらその人のことを思いました。あの人はどんな気持ちであの意見を言ったのだろう・・・そのように思い起こしていたのです。

 その時、ふと、「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(出エジプト記)と言われた主の御声がかすかに聞こえたような気がしたのです。私は慌てて本当に靴を脱ぎました。そして足の裏が熱くなるような思いでそこに文字通り立ち尽くしました。

 神さまの声と言えるものはそれだけでしたし、それがイエス様にお会いしたとはまだ言えませんが、そこから色々な広がりを感じたのです。反省すべき事が自分の内側にもある、と思い始めたのです。自分の好きな意見と、きらいな意見・分からない意見をより分ける、それは結局他人を裁くことなのではないか、という反省が思い浮かんできたのです。教会堂はイエスさまを頭とする祈りの家であったはずだったのに、私は自分の思いが先行していたのではないか。そこで教会は祈りの家、主の教会だということを強く思うようになりました。神さまのお声と言えるものはそれだけでしたし、それがイエス様にお会いしたこととは言えませんが、イエスさまのお顔がぼんやり浮かんできたような感じでした。

教会生活に困難はつきものだけれども、そのことを通じて神さまは私自身の信仰の偏りを糺(ただ)して下さる。そのことに気づいたとき、私は元気に歩けるようになりました。

 先ほどの話は今から30年ほど前のことになりますが、その頃、私にとって大きな二つの変化がありました。彰が神学校に入って牧師になるという、いわゆる献身の志を持っているというしらせが伝わってきました。地方の大学で学んでいたのですが、卒業が間近になり、その後の進路を考えているようでした。主の導きを祈りました。主人、つまり息子にとっての父が最も苦難の多い歩みを教会においてしているときでした。それを傍で見ていて多分よく知っているはずなのに、自分から牧師の道を選ぶということに息子を導いておられる神の摂理の深さ、不思議さを思いました。

 息子が地元である東京の大学に進まなかった理由も、単に親元を離れたいというだけでなく、地元であれば父親の教会に通うかどうかがどうしても問題になってしまうので、それを避けるという意味もあったのではないか、それほどに子どもに対して牧会のことで気を遣わせてしまっては本来いけないのだけれども、そうさせてしまっていた・・・という思いもありましたので、まさか息子が通っていた大学地元の京都の教会での交わりが、信仰の養いから始まって献身に至るまで導いてくれたとは、感謝の他はないという思いでした。

 もう一つは、北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの母、横田早紀江さんを囲む「祈り会」に参加するようになったことです。横田早紀江さんは娘さんが行方不明になった不安の中で、「ヨブ記」を読んで救いに導かれたそうです。お父さんは「こんな哀しみの中で神も仏もあるものか。私は酒を飲む」と言って家の中で讃美歌を歌うことも許さないほどにキリスト教嫌いだったそうです「祈り会」は拉致からの解放にはまだ至っていませんが、父の滋さんの心に霊的な変化が生じ、生きている間は娘に会えないが、復活を信じて洗礼を受け、天国で会えることを確信して逝去されました。

 先日の文先生の礼拝での祈祷を通じて、ウクライナのことばかり目がいく私たちが、エルサレム・パレスチナのことにも目を向けなければならないということを教えられました。どんな戦争にも被害者としての悲しみ、加害者としての心の鈍さという、二重の意味での目が塞がれているということがあるように思います。

さてこの教会でのご奉仕は30年、そこで山の手の教会から下町の曳舟教会に、主人の奉仕の最後の場は移りました。そこはある新興宗教が活発で、近所の人は「自分が教会に通うと家の商売に差し支える」といって教会の門をくぐることを嫌がるほどでした。伝道の手がかりはどこにあるのか・・・。ここで私は、伝道をどうしたら良いか、せめて自分が出来ることは週報を配ることだ、と思い、毎週のようにきちんと週報を配りました。

 年の瀬の押し迫った夕飯時に、近所で火事が起こったのです。道へ飛び出てみると、悲鳴を上げながら家に飛び込もうとするお嫁さんがいます。火元の家屋にお母さんがいると言って、助けに入ろうとしているのです。近所の人と一緒にそれを止め、毛布でぐるぐる巻きにして教会の玄関石段に無理に一緒に座りました。道幅が狭く消防車による消火活動が、消防ポンプ車による消火活動しかできない中での出来事でした。そのまま翌朝になりました。煙のにおいが立ちこめる中、バケツに弔い花を手向けました。お母さんが召されたのです。しかし、昨日の火事はどうしてだか分かりませんが、冬の風にあおられて炎は高く燃え上がり、住宅密集地だったにもかかわらず、延焼せずに火元の家だけで消えました。町の人々は、「教会さんがここにあったから、その先は火から免れたのだ」、と言われました。私は教会がそこに建っていることが町の人の励ましや慰めになっているということを知りました。教会が地域にあるということを実感しました。私は牧師の家内として教会のお世話をするつもりでいましたが、地域に関わっていたことに気づきました。自分が週報を配った小さな業に、神様はこういう形でそれをお用い下さったのだ、と思い感謝と共に少し安堵しました。

 今伊東教会では、機関紙の発送を引き受けておられます。これは地域のみならず日本全国に配っているものですから、スケールが大きい業です。そこに少しだけですが関わらせて頂いていることに感謝しています。

ところで私は小学生の頃から体育の時間が一番好きでした。もし給食があればそちらがもっと好きだったでしょうが、当時はまだ給食の時間はありませんでしたから。

このような元気だけが取り柄で80年以上生きてきましたが、数年前から老いを感じるようになっていました。二階にあった当時の牧師館の狭い階段の上り下りが困難になりました。

膝の痛みが原因で、リハビリを始めたのですが、膝に水がたまるようになってうまく行きません。そこから伊東へと移ることは、牧師夫人として教会に仕えてきた立場としては、まるで「敵前逃亡」のような思いさえしたものです。

彰先生ご一家との間で、伊東に移り住む話が進み、主人はまだ牧師としてがんばるからというので一人東京に残ってもらうこととし、私は最低限の手荷物だけ持参して迎えの車に載せてもらいました。彰先生は途中で中古の洗濯機を引き取って車の後ろの部分に載せたので、私は洗濯機と一緒に伊東に運ばれたことになります。伊東に着くとマンションへ早速案内されました。文先生が冷蔵庫と冷凍庫いっぱいに食べ物を満たしておいてくれました。その日の晩は、孫に手を引かれて温泉宿に行きました。これが私の伊東生活の始まりです。

二年間の伊東生活の中で、ずいぶん健康が回復し、肩が回せるようになって包丁も持てるようになったかなと思った矢先、今年の元旦礼拝の時だったでしょうか、咳払いをしながら讃美歌を歌っているような違和感がありました。それがコロナの患いの始まりでした。一週間の隔離静養期間を終えても調子がよくならず、呼吸の違和感が続きます。医療相談を主人の妹(医師)に持ちかけたところ、即座に救急車を呼ぶことを提案。到着した救急隊員は血圧が異常に高いことを確認し、病院へ搬送となりそのまま入院し二晩集中治療室に。

                                                              

これまでは牧師夫人として幾度か付添として救急車に乗ったことはありましたが、自分が載せられたのは初体験でした。わずか10日ほどの入院生活でしたが、その時に、「主の祈り」が出来なくなるという体験をしました。「天にまします」と祈り初めて、息継ぎをすると次が分からなくなる。もう一回元からやり直そうとすると息継ぎからまたもや次が出てこない。「今日は主の祈りは出来ない。お祈りが出来なくなった」。初めてぼんやりした意識の中で教会での執り成しの祈りにすがる自分を発見しました。牧師夫人として自分が祈る側にいたのに、自分が祈られる側に回ったのです。洗濯機と一緒に車に載せられ、救急車に載せられた自分が、今度は他者の祈りによって運ばれるようになった、というわけです。

 エマオ途上の二人の弟子は、見知らぬ旅人(実は、復活のイエスさま)から道々聖書お話を聞いて心が熱くなった、とあります。メシアは必ず苦しみを受け、それから復活する、という聖書のお話を聞いたのです。心が熱くなり、もっとお話を聞きたい、と思って、旅人を強く引き留めて、一夜の宿を共にします。

 夕食の時にパンをさいているその手つきで、イエスさまだ、と分かります。するとイエス様のお姿は見えなくなった、とあります。暗い顔をして嘆きながらトボトボと歩いていた二人が、喜んで、力を得て、元来た道を大急ぎでエルサレムに向かって戻ります。そこには、元居た仲間が既に大勢集まっていて、「イエス様は本当にお甦りなさって、シモン・ペトロに現れなさった」、と語り合っていた、とあります。

私はこれまでいつもエマオ途上の二人の弟子たちの「目が遮られたまま」の落ち込んでいる姿に親近感を抱いていましたが、これほど身近に感じたのは初めてです。

 私は今、入院生活の体験を通してエマオ途上の二人の弟子たちに旅人の姿をして後ろからやってきてくださったイエス様のまなざしが自分のこれまでの道のり全部に注がれているような気がします。今、私は自分に与えられた幸いを思い、必要な助けが教会内外から与えられて今日に至ったことを感じています。

そしてこういう形で今までの自分の歩みを顧みる機会が与えられました。併せて皆様の前で主に感謝をしたいと思います。

最後になりますが、エマオの道行きの中で皆様にお勧めしたいことがあります。

 まず一つは、水曜の午後、聖書祈祷会への出席のお勧めです。レジュメも配ってくれますが、参加する方が断然面白いです。60年ぶりに姉と同居することがかないました。姉は92歳になりました。姉は「面白い」と言って出席を喜んでいます。「面白い」と表現すると不謹慎かも知れませんが、何か自分でも分かっていないことでも口にすると、彰先生がそれを解きほぐして問いとして受け止めて下さって、そして答えて下さるのです。人生の色々な苦労によって目を遮られても、私たちには問いを発することができます。そして神さまは、その問いに対して、更なる問いによって答えて下さいます。実はそういうやりとりが、聖書の中にはあちこちにあり、今でも私たちは人生を通じてそういうやりとりに出くわしていると思います。ですから、私たちは聖書の中の人がどういう風に問いに向かい合っているのか、それを彰先生がどういう風に現代的な問いに置き換えているのか、私自身がどういう風に問いに立ち向かうのか、考えさせられます。そのやりとりはとても面白いものです。

次に礼拝へのご案内を申し上げます。

 今、申しましたように、人生は破れや痛み、苦しみがあって、それらは絡み合って私たちにまとわりついてきます。しかし、今、目の前にある難題を解決しようと一所懸命努力し工夫しても、困難な時があります。それはいわば、目が遮られていて、とぼとぼ歩いている状態なのかも知れません。しかし、もっと大きな望みを持って考え解きほぐそうとしている内に、目が開かれるかもしれません。どうか、日曜日の礼拝においでください。神様のお言葉を聴いてください。復活のイエス様とここでお会いできるからです。

 最後にわたしは、感謝して、聖徒と共に使徒信条の一節を唱えて私の話の締めくくりと致します。

 「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体の甦り、永遠の命を信ず」。

 お祈りします。