神がなさったこと

2023/10/08  三位一体後第十八主日礼拝 

神がなさったこと」 創世記251934節            牧師 上田文

 

 

「はないちもんめ」という遊びがあります。5人くらいのグループを二つ作り、相手グループの「あの子が欲しい」とグループで相談しながら、相手グループと自分のグループのメンバーをやりとりする遊びです。私も、小さい頃によくこの遊びをしました。しかし、最近では、あまりこの遊びがされなくなったと聞きます。なぜなら、最後まで「〇〇ちゃんが欲しい」と言って、選ばれない子が出て来る可能性があるからです。実は、私も何時までも選ばれない子の一人でした。当時は、楽しく遊んでいたのですが、選ばれないという悔しさはあったように思います。そして、選ばれるように、大きな声で歌を歌ったり、前に出す足で、相手のグループの友だちの足を突ついて見たりと、自分をアピールするために、随分努力をしたように思います。

今日の物語は、アブラハムの息子であるイサクと、その妻リベカ、そして、イサクの双子の息子の話です。神さまは、不思議な仕方でこの夫婦と兄弟を選び、そこから全ての人たちを神の国に招きいれるという計画を立ててくださいました。そのご計画の中には、「はないちもんめ」のように、選ばれなかったと感じ、寂しい思いをする人々もいたかも知れません。しかし、今日の聖書箇所は、神さまの選びというのは、神さまが私たち全ての人間を愛して、すべての人を祝福に入れるためにあるのだ。つまり、選ばれない人などいないのだという事を教えてくれます。今日は、この神さまの不思議な恵みについて、み言葉に耳を傾けたいと思います。

 

説教で、アブラハムの物語をたどり始めてから1年と少しが立ちました。アブラハムは、神さまの約束を受けて旅立ちました。その時から、神さまによる救いの歴史も始まりました。神さまは、アブラハムにこのように約束してくださいました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて私が示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(12:2,3)。この約束を信じてアブラハムは旅立ちました。

 

 今日の話は、この祝福を受け継いだアブラハムの子イサクと、その息子たちの話です。イサクは、神さまが約束してくださった息子でした。20節を読むと、イサクは40歳で妻リベカと結婚したとあります。先日、神さまが、リベカとリベカの家族、そしてイサクとその僕を神さまと共に生きる者としてくださった話をしました。そして、イサクの伴侶としてリベカを与えてくださいました。けれども、リベカには、子どもがなかなか与えられません。今日の聖書箇所には、「イサクは、妻に子どもができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった」(21)と書かれています。これだけを読むと、イサクの祈りが直ぐに聞かれたように思います。しかし、26節には、リベカが息子エサウとヤコブを産んだ時、イサクは60歳になっていたと書かれていますので、彼は20年もの間、祈り続けた事が分かります。20年間というのは、人をあきらめさせるには、十分な歳月かもしれません。しかし、父アブラハムが40年近い祈りの中で、約束の息子を与えられたことを、イサクは知っていたと思います。そして、約束を信じて旅する父の姿を彼が一番近くで見ていました。神さまは、私たちに本当に必要なことをご存じでいてくださり、必要な時に与え、実現して下さる。その「必要な時」というのは、20年後かもしれないし、一秒後かもしれません。そのことを、知っていたイサクは、20年近く祈ることが出来たのでした。彼もまた、「地所の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫(イサク)によって祝福を得る」(22:18)という、まだ見ることのない約束を信じて旅する者となっていたのでした。

 このようなイサクの願いが、ついに聞き入れられ、リベカは双子を身ごもりました。しかし、双子は胎内でひどく押し合います。リベカは、堪(たま)らなくなり、神さまのみ心を聞くために出かけていきました。そこで、神さまはこのように言われたと聖書にあります。「二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。兄が弟に仕えるようになる」。ここから、この双子の不思議な物語が始まります。兄弟は争い、そのうちのどちらかが強くなり、しかも兄が弟に仕えるようになるというのは、穏やではありません。私たちの知っている秩序に反する事のように思います。しかし、神さまのみ心を聞くために出かけたリベカは、この言葉を神さまから与えられた言葉として受け取ったのでした。

 先に出て来た子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けられました。そして、弟は兄エサウのかかと(アケブ)をつかんで出てきたので、ヤコブと名付けられました。兄のかかとをつかんで出て来たというだけで、この弟はとてもひねくれ者であることが、ここから推測されるように思います。

 

けれども、この物語を読んで、何とも納得しにくく、穏やかでいられないのは、ヤコブとエサウの誕生の話だけではないように思います。27節からは、成長したエサウとヤコブの話が書かれています。「二人の子供は成長して、エサウは巧な狩人で野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とあります。エサウは狩人で野の人となったとありますが、狩人というのは、目の前の獣(けもの)をいかに首尾よく捉えるかを目的として生きる人と言えます。それに対して、エサウは穏やかな人であったとあります。穏やかな人とは、聖書の言葉で、堅実で几帳面な人と言い換える事が出来ます。29節にはヤコブが煮物をしていたとあります。料理をするというのは、これから作る料理を想像し、計画立てて作る作業です。ヤコブは、几帳面で、自ら立てた計画を着々とこなす人であったようにも思います。このような事からも分かるように、兄エサウと弟ヤコブは正反対の性格なのでした。もし、二人に与えられたこの賜物を合わせる事が出来たなら、素晴らしい力となったかもしれません。けれども、両親の個人的な偏愛がこの二人を関係をも破壊していきました。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛したのでした。神さまからの賜物として与えられた息子たちでしたが、イサクもリベカもいつの間にか、自分の価値観によって息子たちを愛し始めていたのでした。そして、この事が家族の大きな問題となって行きました。双子の兄弟のどちらがイサクの跡継ぎになるのかという問題です。

 

ある日、エサウは狩りをして野を走り回り、空腹になり、疲れきって帰って来ました。きっと、獲物は取れなかったのでしょう。このような事は良くあったのかもしれません。兄が空腹になり疲れて帰って来るのを、弟ヤコブは知っていました。それを知っていた彼は、レンズ豆の煮ものを作って待ち構えていました。ヤコブの予想どおり、エサウはヤコブに願います。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤い物を食べさせてほしい」(30)。するとヤコブは言います。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください」(31)。長子の権利とは、イサクの跡継ぎになる権利です。ヤコブは、双子の兄エサウから、それを奪い取ろうとしたのでした。エサウはヤコブの計略にとても簡単に乗ってしまいます。「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」と言い、誓いを迫るヤコブに対して、とてもアッサリと長子の権利を譲ってしまいました。この物語の最後、34節には「エサウは飲み食いしたあげく、立ち去って行った。こうしてエサウは長子の権利を軽んじた」と書かれています。

何とも言えない、引っかかりを覚えたまま物語が終わってしまいます。何故、私たちは、心に引っかかりを覚えるのでしょうか。エサウが、神さまから与えられていた長子の権利と、たった一皿の煮物を交換してしまったからでしょうか。狩人であるエサウ、目の前の空腹を満たしたいと願ったエサウは愚かで、神さまからの賜物である長子の権利を得たいと願ったヤコブは堅実で賢かった。そのような事をこの物語は、私たちに伝えたいのでしょうか。そのようには思いません。そのように理解するのなら、ヤコブはむしろ陰険な陰謀家であると言えるでしょう。エサウから長子の権利を奪い取ろうと着々と狙っていたのです。しかも、彼は生まれた時からそのような人でした。兄のかかとをつかみ、何とかして引き落としてやろう、自分が前に出ようとしていたのです。何とかして兄エサウを出し抜こうとしていたのです。そして、遂にエサウを陥れることに成功し、長子の権利を奪ったのです。もしも、この事によってヤコブがイサクの跡継ぎになったのだとしたら、聖書を読む私たちは、後味が悪く、どうしたらよいのか分からなくなります。しかし、聖書はそのような事を私たちに伝えたいのではないように思うのです。確かにヤコブはイサクの跡継ぎになりました。この話を、人間の側に焦点を置き、そのあり方や資質を問うてしまうと、今の私たちのように、何とも言えない後味の悪い話になります。しかし、神さまの側に焦点を置いて見るとどうでしょうか。長子の権利という制度は、神さまの約束の言葉の中には何も含まれていませんでした。人間がその文化と社会の中で安定をもたらすために決めた制度です。しかし、人間が造った制度など、上手くいくはずがありません。実際、聖書では、その制度によって、ヤコブを愛する母リベカと、エサウを愛する父イサクの思いとのせめぎ合いが起こっています。イサクとリベカは、「あなたの子孫(イサク)によって祝福を得る」と言われた神さまの約束の、「あなたの子孫」とは、自分たちから生まれた長子であると勘違いしているのです。このことは、さらに兄弟喧嘩まで引き起こしてしまいます。神さまは、このような人間の思い込みによって造られた制度を破壊する事を、願われたのでした。ヤコブがエサウのかかとをつかんで出て来るよりも前から、エサウが一皿のレンズ豆のスープと引き換えに、長子の権利を渡してしまうよりも、ずっと前からです。だからこそ「兄は、弟に仕えるようになる」とおっしゃったのでした。

 

 この「兄が弟に仕えるようになる」という言葉をパウロはこのように説明しました。「その子供たちがまだ生まれもせず、良いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟につかえるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした」(ロマ9:11,12)。これは、パウロがイスラエルの選びについて論じながら、話した言葉です。この言葉は、ローマの信徒への手紙にある言葉ですが、この手紙が書かれた当時、ユダヤ人と呼ばれていた人々がいました。そして、このユダヤ人こそが神さまに選ばれたイスラエルの民、つまりアブラハム、イサク、ヤコブの子孫だと思われていました。しかし、パウロは、このユダヤ人たちが、罪によって、神さまの前で躓いてしまっていると言いました。そして、ユダヤ人は、神さまが、ユダヤ人の救い主として地上に送ってくださったイエスさまを、救い主だと信じることが出来ず、むしろ敵対している。そして、神さまが送ってくださったイエスさまの教えではなく、律法の規範守り、生活している自分たちユダヤ人こそ、救われる。自分たちこそ、契約の民、律法の民であり、自分たちには罪がないと思い込んで、罪を犯していると批判しました。そのような中で、一部のユダヤ人と異邦人と呼ばれるユダヤ人でない人々が、ユダヤの救い主と考えられているイエスさまを受け入れるようになりました。そこで、人々に疑問が出てきます。神さまの約束の民と言われるユダヤ人は、そのまま、神さまに見捨てられてしまうのか。そうならば、福音はどうなってしまうのか。神さまは、自分を受け入れない人を見捨ててしまわれる方なのか。また、神さまは、ユダヤ人の先祖であるアブラハムたちに与えられた祝福の約束を無効にされるのではないか。もし、そうならば、イエスさまを受け入れた異邦人にも、救いは与えられないのではないか、という疑問です。この疑問に対して、パウロは、祝福はただ神さまの恵みの選びによって与えられる。神さまの選びは、神さまの自由なご意志であって、人間の側の条件によらない。人が何をしても、何を選んでも、その前に、常に神さまの御意志と御計画があると教えたのでした。神さまの祝福を受け継ぐ者になるということは、人間の血統や資質や性格や信心深さなどではなくて、ただ神さまの恵みよるのだと言うのです。そして、ユダヤの多くの人々が、イエスさまを受け入れる事が出来ないのは、神さまがどのような人でも憐れんでくださり、用いて下さるという事を人々に告げ知らせるご計画の為であると教えました。神さまは、全ての人を愛し、その救いのみ心のために用いられるのです。

ヤコブがイサクの跡継ぎになるのは、彼が長子の権利を奪う事が出来たからでもなく、また、陰険と見なされるほど几帳面な性格であったからでもない。ただ神さまの恵みの御心であったからなのです。神さまのみ心、ご計画は、何よりも神さまが私たちを思って立ててくださった計画です。その計画は平和の計画であって、災いの計画ではないはずです。何よりも、神さまが私たちに将来と希望を与えてくださる計画のはずなのです(エレ29:11)。その恵みのご計画の中に、ヤコブがイサクの跡継ぎとして選ばれる計画があったという事です。

ジョルダーノ  イサクへのヤコブの申し入れ  17C アルゼンチン国立美術館 

Luca Giordano Presentation of Jacob to Isaac "

この神さまの選びの計画は、洗礼を受ける時に私たちも経験する出来事です。洗礼式の式文には、このような言葉が出てきます。恵み深い主、「あなたはこの兄弟姉妹を世の造られる前から選び分かち、世の誘惑から救い出し、信仰の道に進ませ、今ここに主イエス・キリストの死に与るバプテスマを受けさせてくださいました」。この言葉は、洗礼を受けて神の子とされるのは、神さまの恵み以外の何ものでもない。私たちが、その恵みに似合う何かを持ち合わせていたという事ではない。ただ、なぜか神さまが招いてくださっている。神さまの祝福を受け継ぐためには、全く相応しくない、罪に満ちた、問題を沢山もっているこの私が、それでも、この方によって救われた。ただそのことを信じるということを意味している言葉です。私たちが何故神さまに招かれ救いの中に入れられたのか。その理由は、私たちの中には全くなく、ただ神さまが一方的に私たちを愛してくださったので起こった出来事です。私たちは、自分たちがどのようにして救われたのかを説明することは、不可能なのです。

 

しかし、教会に集められる私たちは、この神さまの選びをいとも簡単に歪曲させてしまいます。今日の聖書を読んでも、引っかかりを覚えてしまう私たちです。神さまのみ言葉を聞き、その神さまに感動したり、感謝したりするくせに、すぐにその感動を無くしてしまいます。神さまに対する感謝よりも、疑問が生まれてきます。また、神さまに与えられた奉仕を、いつの間にか自分の功績であるかのように思う事があります。神さまの選びと救いを、自分だけの特権であるかのように考え、誤解してしまうのです。

けれども、神さまは、このような私たちの歪曲した考えを「兄が弟に仕えるようになる」というやり方で、また、「後の者が先になる」ようなやり方で、そして、「ユダヤ人の中のユダヤ人であったパウロが、キリストの使者となるような」やり方で、正してくださるのです。神さまの選びは、人間が、個人的な幸せを追い求めるためにあるのではなく、神の国が前に進むためにあるのです。そして、教会に集められた私たちもこのご計画の中に立たされています。洗礼を与えられた私たちは、本当に「何故か」「どういうわけか」選ばれたとしか言う事は出来ません。私たちには、選ばれる理由がないからです。私たちが、この神さまの選びに疑問や、不安を覚えるのならば、それは、神さまの自由な選びによって起こる、壮大な救いのご計画を、自分勝手な都合の良い、個人的な選びと計画に引き寄せて考えているからです。神さまは、ご自分の自由の選びを、ひたすら私たちを愛するために用いてくださるのです。

 

今、教会に集められている私たちは、その神さまの愛をいつでも確認する事を赦されています。それは、イエスさまを見つめることによってです。神さまは、私たちを愛するために、ご自分の独り子であるイエスさまをこの世に送ってくださいました。この神の独り子であられ、神さまそのものでもあられるイエスさまが、神さまと同じように私たちを愛し抜かれて、私たちの罪を全て背負って、十字架に架かって死なれました。なぜなら、私たちの罪は、神さまの怒りを引き起こすからです。そこには、祝福ではなく呪いが生まれるだけです。私たちは、罪のために、神さまが与えてくださる良い物、価値のあるものを見分ける事が出来ません。罪ある私たちは、いつも自分たちが分かり安い幸福と救いを求めてしまいます。それは、エサウにとっては目の前のレンズ豆スープでしたし、ヤコブにとっては長子の権利でした。また、ユダヤ人たちにとっては、律法の行いそのものでした。私たちの罪、それは自分が分かり安い、安価な幸せのために、神さまの救いを取り間違えてしまう事です。それは、神さまを見ていない事と同じです。そして、それは、神さまを捨てることと同じです。

イエスさまは、このように教えてくださいました。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(マタ21:42)。私たちが無価値だと思い、捨てた石を神さまは中心に据(す)えると言われるのです。私たちが捨てたもの。それは、イエスさまご自身の事です。自分の分かり安い価値あるものや、幸せを追い求め、イエスさまを捨てたのです。しかし、このイエスさまは、神さまの自由な愛を持たれる方でした。この方は、私たちによって最後まで捨てられ続け、私たちの罪と、それによってもたらされる呪いを全てご自分の身に引き受けて、十字架の上で死なれました。十字架の上でイエスさまは、このように叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)。神さまもまた、この方を見捨てられたのでした。罪ある私たちを救う為にです。そして、このイエスさまの愛による十字架の死によって、私たちは受けるはずの呪いが取り去られました。また、神さまはこの方を復活させてくださいました。イエスさまの十字架によって、罪と呪いを取り去られた私たちを、新しい命に生きさせ、祝福を与えるためにです。イエスさまの十字架の死を通して、神さまの憐れみと、招きが全ての人に与えられるようになりました。イエスさまを捨てた罪人である私たちが、神さまの祝福への招きを受けるようになったのです。わたしたちの常識では考えられない、神さまの不思議な御業です。この神さまの御業を見つめる時、私たちは神さまがご自分の自由を、私たちを愛するために、そして、私たちに祝福を受け継がせるために用いて下さることをはっきりと知る事ができます。この神さまが、今もその果てしない自由で壮大なご計画によって私たちを選び、語りかけ、恵みを与えてくださっています。それは、無価値で、無益な私たちが、今、こうして礼拝に招かれているということ、そして、洗礼を与えられるということ。また、教会が立てられ、洗礼を受けようとする者が一人また、一人と立てられていく事からも分かります。神さまがその愛によって、何も持たない私たちを探し出してくださり、招いてくださっているのです。

 私たちもまた、詩編の詩人のように驚きと感謝を込めて、神さまを讃美する以外にありません。

「主の慈(いつく)しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ」(詩117)。