神さまの最高のもてなし -わたしたちは主のもの

2023/09/24 三位一体後第十六主日 

創世記244267節「神さまの最高のもてなし -わたしたちは主のもの」          

牧師 上田文

 

 

 「手がかり」という言葉があります。これは、茶道から来た言葉のようです。お茶会が開かれる時に、亭主が玄関の戸やふすま、障子を手がかけられる程度に開けておくことをさします。手がかりは、到着したお客さんにそこから先におすすみくださいという、無言の知らせです。あなたを迎えるための用意が出来ていますという、無言のメッセージなのです。戸やふすまを引くための手がかりが、亭主がお客さんを迎える準備の完了の手がかりとなるのです。

 今日の聖書箇所は、神さまが私たちを神の国に迎えるためにさまざまな準備をしてくださる話です。物語には、アブラハムとアブラハムに繋がる5人の人物が出てきます。彼らは、それぞれの仕方で神さまに招かれ、神の国を目指すための、手がかりを与えられます。そして、神さまが、一人一人に最高のもてなしを準備してくださり、手がかりを頼りに、次の部屋へ次の部屋へと無言の案内をしてくださるのです。5人がそれぞれの仕方で、神さまのもてなしを受けながら、アブラハムの信仰を受け継ぐ者として変えられていきます。そして、神の国を目指す者とされていきます。神さまが準備してくださった、手がかりを頼りに、最高のもてなしを受けながら、この神さまを「我が神、我が主」として受け入れ、感謝しながら次の部屋に繋がるふすまを開けるのです。その事によって、彼らは、今までとは違う、新しい人生を歩み始めました。この地において、天を目指す旅をする人生です。彼らは、亭主である神さまが準備してくださった、一つ一つのもてなしを受けながら、それを祈り味わい、神さまと共に天を目指して旅を始めたのです。その事により、神さまの歴史も前進しました。

この神さまのもてなしは、今ここに集う私たちにも与えられています。神さまが私たちに準備してくださるものてなしが、どのようなものなのか。今日の聖書は、そのことを教えてくれる話です。

 

今日の聖書箇所24章はとても長い物語です。始めの方には、アブラハムの話が出てきます。妻のサラが死にました。そして、自分の死もまた近い事にアブラハムは気づいていたのだと思います。アブラハムは、これからどうしたらよいのか、今まで共に歩いてくださった神さまに祈ったことでしょう。そのような、彼を神さまはいつものように慈しんでくださり、息子の嫁を探すように導かれます。神さまの導きを与えられたアブラハムは、家の全財産を任せている年寄りの僕を呼んでこのように言いました。

「手をわたしの腿の間に入れ、主にかけて誓いなさい。あなたは、わたしの息子の嫁をわたしが住んでいるカナンの娘からとるのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って嫁を息子イサクのために連れて来るように」。

僕が手を主人の腿に入れるというのは、主人が最後の別れをする時に、これだけは守って欲しい、どうしても実行して欲しいという遺言を告げる時の行動です。アブラハムは、イサクの嫁は、今住んでいるカナンの娘であってはならない。そして、自分の一族のいる故郷へ行って、嫁を連れて来てほしいと言いました。この言葉を聞くと、アブラハムは自分の民族や血族にこだわっているように聞こえます。しかし、この言葉には、アブラハムの信仰が現れていました。アブラハムは、神さまのみ言葉を聞いて、故郷を後にしました。その時から、神さまの導きを受け入れて歩むアブラハムの信仰が始まりました。ですから、後にした故郷の家族たちは、アブラハムの信仰のことを全く知りません。この事を知っていたアブラハムは、わざと僕を故郷に送ったのでした。息子と共に信仰に生きる嫁は、神さまからの促(うなが)しに従って、すべてを置いて、見知らぬ土地に旅立つことが出来るような人でなければならない。そのような、宗教的な感覚を持っているような人でなければならないと考えたのでした。このことは、天に故郷を置き、この地では寄留者として生きるアブラハムの信仰には、無くてはならないものでした。イサクの嫁は、今住んでいるカナンの娘であってはならない。そして、自分の一族のいる故郷へ行って、嫁を連れて来てほしいという言葉は、アブラハムに与えらえた恵みの手がかりであったようにも思います。この手がかりを頼りに、神さまの導きに従って生きたアブラハムは、息子イサクに、この地で責任を果たしながら寄留者として生きる、信仰者の恵みを証したのでした。アブラハムは、神さまから与えられた、息子の嫁を探すという事を手がかりに、今までの旅によって与えられた、神さまの祝福を、家族に伝えたのでした。アブラハムは、この事を伝えて地上での使命を終えたと考えられます。アブラハムは、最後まで、神さまの祝福に包まれながら、この世を去ったのでした。

 

僕はアブラハムの思いを受けて、アブラハムの言葉通り、アブラハムの故郷に向かいます。しかし、僕は何の手がかりもない広い土地で、どのようにして娘を探し出せばよいのか分かりません。彼は、主人アブラハムが、いつもしていたように祈り始めました。その僕の祈りの言葉が聖書に詳しく書かれています。神さまは、僕の祈りの言葉を通じて、僕と10頭のらくだに水を飲ませてくれる人という手がかりを僕に与えてくださいました。らくだ10頭に水を飲ませるというのは、とても大変なことです。聖書には、「泉の傍ら」(42)と書かれていますが、この泉は「井戸」の事です。この地方の井戸は、私たちが知っているようなバケツを落として綱を引いて汲み上げるものではなくて、大きな井戸の穴の周囲に階段をつけて、その階段を巻くように井戸のそこに降りていくような造りになっています。神さまは、神の国に入る人とは、この井戸の階段を何度も上り降りして、見知らぬ旅人とラクダ10頭に水を汲むような人である、つまり隣人を惜しみなく愛す事が出来る人であると教えてくださったのでした。それは、イサクの嫁探しの基準ではありません。僕を含めた、神さまの招きを受ける全ての人がそうあって欲しいと、神さまが教えてくださった祈りの言葉なのでした。そして、そのような娘であるリベカが現れました。僕は、何度も井戸の階段を往復するリベカを見て、神さまの国に生きる者の姿を知りました。僕自身が、祈りによって、神の国に生きる者と変えられていきました。リベカのように、見知らぬ隣人を惜しみなく愛する者と変えられるにです。また、リベカは、アブラハムの兄弟であるナホルとその妻ミルカの子であるベトエルの娘でした(47)。リベカは、まさにアブラハムの願っていた通りの人でした。僕は、神の国はこのように、自分にも押し寄せてくるのだ。神さまは、主人アブラハムの神さまだけではなく、僕である自分をも慈しんでくださる神様であるのだという事を知りました。彼は、「ひざまずいて主を伏し拝んだ」(48)とあります。彼は、この神さまのもてなしに、感謝と賛美を捧げずにはいられなかったのでした。

 

しかし、僕が、いくらリベカが神さまの導きによって出会った人であると分かったとしても、結婚はリベカとその家族の了解がなければ成り立ちません。そこで僕はリベカの家族に行き、主人であるアブラハムの事、そして神さまの導きによってリベカがアブラハムの息子イサクの嫁として選ばれた事などを話しました。それらの事を話終わって、僕は「あなたがたが、今、わたしの主人に慈しみとまことをしめしてくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退(しんたい)を決めたいと存じます」(49)とリベカの家族に告げた事が聖書に書かれています。リベカを主人の息子イサクの嫁に下さるつもりがあるのかないのかを聞いたのです。それに対してリベカの兄ラバンとリベカの父ベトエルが答えました。「このことは主のご意志ですから、わたしどもが良し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れ下さい。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になってください」(50,51)。彼らは、僕の話を聞いて、これらの事が神さまの導きである事を知り、リベカとイサクの結婚が神さまのみ心である事を受け止めたのでした。しかし、この物語を読んでいる私たちは、違和感を覚えるのではないでしょうか。本当に、ラバンとベトエルは、「神さまがお決めになったこと」としてこれを受け止めたのだろうか。そんなに簡単に神さまの事を信頼する事が出来たのだろうかと思うのです。しかも、アブラハムの僕は、客人としてリベカの家に招かれる前に、すでに高価な鼻輪や腕輪をリベカに着けた(47)と書かれてあります。この結婚を決めたリベカの兄や両親は、この事を良く知っていたはずです。考えようによっては、両親たちは、自分たちの家の繁栄や安泰(あんたい)といった損得を考えてリベカの結婚をあっさりと決めてしまったのではないか。そして、口先だけで神さまの事を「神さまがお決めになったこと」と言ったのではないだろうか。そんな風に思うのです。けれども他方で、贈り物を兄たちが「神さまからの手がかり」と見なしたとしたらどうでしょうか。話は全く変わってきます。

 僕は次の朝にこのように言いました。「主人のところに帰らせてください」(54)。今すぐ、リベカを連れて主人のところに帰らせてくださいと言うのです。これは、当時の習わしに反する事であったそうです。僕がそのことを知らないはずはありません。これは、神さまが多くの人を救い、神の国に向かわせるために、僕に与えた知恵のように思います。僕の言葉は、リベカとその家族を、神さまの国に向かわせる、手がかりとなりました。僕の言葉は、リベカの家族を、自分たちのルールが全く通用しない、自分たちの経験と知恵だけでは何ともならない、神の国へと押し出したのでした。

けれども、リベカの家族は、それを拒みます。自分たちのやり方で、娘を送り出したいと願いでます。つまり、自分たちのルールが通用しない、未知の世界に突然飛び出すことは出来ないと言うのです。リベカの兄と母は、もうしばらく、十日ほど娘と一緒に過ごしたい。それから行かせるようにしたいと言いました。しかし、僕はなお、直ぐに帰ると強く言い張ります。僕には、このやり方が神さまのやり方であるという確信がありました。直ぐに立ち上がり、神さまの示された所に行くというのは、僕が今まで見て来た、神さまとアブラハムの関係における行動なのでした。56節には、「わたしを、お引き止めにならないでください。この旅の目的をかなえてくださったのは主なのですから」という僕の言葉が書かれています。彼は、神さまが準備してくださったもてなしと手がかりを着実に受け止めながら、祝福の中を歩む者へと変えられていきました。神さまを「わが主、我が神」として受け入れ従う者へとされたのでした。彼自身が信仰者として立たされる者となったのでした。

だからこそ、僕はこの恵みを証する者とされます。神さまが、あなた方をもてなすために、最高の準備をしてくださっている。そのことをリベカとその家族に伝えようとするのです。もし、自分たちの知らない神の国を目指す事に恐れがあるのならば、神さまが与えてくださる手がかりを求めればよい。口先だけで、「神さまがお決めになったこと」と言い、神さまの最高のもてなしを、ことわらないで欲しい。神さまが示してくださる、手がかりを信じて、神さまのもてなしを受け入れて欲しい。手がかりは、神の国の亭主である神さまの所に繋がっているのだから。神さまのものとなった、僕はリベカの家族をこのように導いたのでした。

リベカの家族は、リベカを呼んで、その口から返事をさせることにしました。リベカは、「お前はこの人と一緒に行きますか」という家族の問いに、「はい、参ります」と即座に答えました。リベカは、僕が教えた、この手がかりをもとに、会ったこともない男を、神さまに与えられた夫として受け止め、神さまと共に希望に満ちた未知なる旅をする決心をしたのでした。それは、彼女のために最高のもてなしを準備してくだっている神さまが待つ部屋に向かって、彼女が手がかりとなるふすまを開けたという事かもしれません。彼女もまた、神さまのまだ実現されていない約束をはるかに見て喜びの声をあげ、旅を続ける者とされたのでした(ヘブ11:13)。

聖書の最後の部分には、リベカがイサクに出会うシーンが、美しく描かれています。夕方暗くなる頃、イサクは野原を散策していました。両親を亡くした彼は、失意の中で、悶々とした思いを抱え、下を向いてうろつき回っていました。どうしてよいのか分からず、うろつき回り、祈っていました。今までついて歩いた背中が突然なくなり、歩くべき道を失ってしまったのです。生きて行く手がかりを失ってしまったのでした。しかし、彼は何かを示されるように顔を上げました。遠くにラクダに乗った人影が見えました。彼は、その人影にむかって歩みだします。下を向いた顔をあげ、何かを見つけたかのように、顔を上げて歩き出すのです。彼もまた、リベカという手がかりを神さまに与えられたのでした。リベカは、らくだから降りて、ベールをかぶりました。最後の67節には、このように書かれています。「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」。 

全ては、神さまの慈しみとまことによって起こった事でした。神さまは、祈り求める私たちに、いつも手がかりを与えてくださり、神さまの待つ国に案内してくださいます。神さまの御業は、このようにして、この地に生きる私たちの中で実現されていくのです。顔を上げ、リベカにむかって歩きだしたイサクは、もう両親の信仰の後ろをついて歩く少年イサクではありませんでした。神さまの導きを受け止め、神さまを「我が主、我が神」と従い、この地において成し遂げられる神さまの約束と御業に、希望を置き、我が事として喜ぶ者となったのでした。そして、リベカを神さまの導きの中を共に歩む人として、大切に迎え入れたのでした。イサクもまた、このようにして神さまのもてなしを受け、神さまの待つ茶室に向かうふすまを、一つ開けたのでした。

 

このことは、ただ単なる物語の出来事ではありません。私たちは、人生のさまざまな事を通して、神さまと新しく生きる機会を与えられています。神さまの準備してくださった、もてなしのふすまを、一つずつ、感動と喜びをもって開ける機会が与えられているのです。イサクとリベカは、両親との別れと結婚という手がかりを通して、神さまの約束を信じて生きる信仰が深められました。アブラハムの僕は、主人の神さまを信じる信仰から、自らをも招いてくださる神様を信頼して生きる信仰へと導かれました。リベカの家族も、神さまに聞き、従い、神さまの祝福を受ける者とされました。この恵みの出来事は、今も私たちの生きる中で起こっています。不可能とされた隣接地を与えられ、今、祈りによって始められた教会将来計画の一つである改修工事が行われています。神さまが、私たちの信仰の旅に、手がかりを与えてくださっているのです。私たちは、この手がかりを頼りに祈り続けたいと願います。この手がかりは、必ず、全ての人々が神さまの最高のもてなしを受ける神の国に繋がっています。

 

 神さまは、どのような時でも、私たちをその御手の中に置いてくださいます。私たちがどこを向いて歩けば良いのか分からなくなった時にも、その事は変わりません。私たちは、神さまのみ心を聞き、祈り、感謝して従う恵みを与えられています。そして、多くの人々と共に神さまの国を目指し、神さまの国を前進させる使命と祝福が与えられています。

「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。」「曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、身てをもってわたしを導き、右の見てをもってわたしをとらえてくださる」。詩編139編の御言葉です。私たちもこの讃美を共に歌いながら、神さまの最高の祝福を受ける茶室に向かいたいと願います。