野の百合、空の鳥

20230917説教「野の百合、空の鳥」

(マタイ62534

上田光正

わたしがまだ神学生であったころ、「夏期伝道」と称して、上級生になると、夏休みの間の約一カ月、教会に泊まり込んで伝道の実習をします。その教会の牧師の指導の下に、実際に説教をしたり、聖書研究、家庭訪問をするのです。その年は滋賀県にあります、「近江サナトリウム」という結核の療養所に遣わされました。メンソレータムを製造している「近江兄弟社」というキリスト教主義の会社が建てたサナトリウム(結核療養所)で、病院の中にちゃんと礼拝堂もあります。

とにかく60年前の話しですから、結核は今の癌よりもずっと恐れられていました。すべての患者さんにとって、サナトリウムはまさに生きるか死ぬかの戦場でした。たいていの人は前の日までぴんぴん働いていたのに、突然会社のレントゲン検査で「胸に影があります。即刻入院してください」と言われて、着の身着のままで送られてきます。ですから、どんな大の男でも最初の1週間ぐらいは不眠症に罹ります。自分の病気のことよりも、今晩のご飯はみんなちゃんと食べているか、子供はちゃんと学校に行けたか、自分は会社をクビにならないか、心配で心配で夜も眠れなくなるのです。一言でいえば、この世の縮図のようなところです。

そういう方々に新約聖書を配りますと、たいていの方がとにかく一度は開けます。そしてまず最初に一番感動するのが、本日のマタイ伝6章の「思い煩うな」という御言葉です。

今でも覚えておりますが、ある病室の、隣同士で仲良くなった若い奥さんと娘さんが聖書をむさぼるように読んで感動していました。「先生、このマタイ伝6章はとても良いですね。読んでいるととても心に安らぎを覚えます」と仰います。ところが次の週にその部屋を訪れると、異口同音にこう仰るのです。「このマタイ伝は読むととても心が休まるのですが、時々、幾ら読んでも少しも平安が得られません。先生、ここはどのように読んだらよいのでしょうか」と訊かれました。

そうだと思います。この箇所は、素直に読みますと心が落ち着きます。そうだ、神様は空の鳥をさえ養っていてくださる。わたしも空の鳥のように、野の花のように、ただすべてを神さまにおまかせすればよいのだ。明日のことは心配しなくてもよいのだ」と考えれば、心に安らぎを覚えます。ところが、また別の機会に読んでみると、とてもそんな気持ちにはなれないのです。これはなぜなのでしょう。

信仰を持っておられない方にこの聖句が理解しづらいのには、ちゃんとした理由があります。それは、唯一のまことの神が居ますということと、神様がわたしどもを愛し、神の御独り子、主イエス・キリストをお遣わしくださって、その主がいつも共にいてくださることが分かっていないからです。

本日は、この聖書の御言葉から、信仰生活についてご一緒に考えたいと思います。

早速、最初の25節をお読みします。

 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また、自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」

わたしども人間は考える動物ですから、悩みや心配ごとは、恐らく一生尽きることがないでありましょう。前の口語訳では「思い煩(わずら)う」と訳されていました。ただ「思う」だけなら良いのですが、「煩う」というのは、必要以上にあくせくし、取り越し苦労をし、不安や恐れに苛まされてしまうことです。人間にとって悩みはつきものです。ほんの小さなことでも、夜中にふと考え出しますと、そのまま朝まで眠れなくなります。悩んでも仕方がないと思っても、やはり悩んでしまいます。

そういうわたしどもに対して、主は「空の鳥を見なさい。野の花を見なさい」という説教をなさいました。

もちろんわたしどもは、空の鳥や野の花ではありませんから、同じように生きることは出来ません。計画を立て、人生設計をするのが人間です。ですから、主は決して、ヒッピーのような生活を勧めておられるのではありません。そうではなくて、空の鳥や野の花の生きざまをよく見て、彼らから信仰のことを「よく学びなさい」、と仰っているのです。言い換えれば、野の花や空の鳥は、わたしどもに「信仰」を教える教師として立てられています。人間は空の鳥ではありません。しかし、空の鳥の様子をじっとよく見、よく観察してみなさい。そしてそこから、神を信頼して生きるとは何であるかを学びなさい、と仰っているのです。

 そこで先ずわたしどもは、初めに空の鳥に目を注ぎたいと思います。26節をお読みします。

 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」

 もちろん主は、空の鳥が食料を得るために、片時も休むことなく働いていることは、よくご存じなのです。渡り鳥が冬になると餌を求めて何千キロの旅をすることもご存じなのです。

しかし、空の鳥には「思い煩う」ということがありません。たとい四六時中餌を求めて飛び回っていても、また事実そうなのですが、思い煩いはしません。

鳥はどういう意味で、信仰の教師として立てられているのでしょうか。

第1に、鳥はわたしどもにとって、神への「信頼の教師」である、と主は言われます。実際、空の鳥たちは、手元に許されている僅かなものだけで満足します。一生懸命働いて食料を得ますが、明日のことまでは心配しません。必要以上のものは持たないのです。そして彼らは、神に信頼して喜び、そのさえずりは、まるで神を讃美しているようにも聞こえるのです。

主は別のところで仰っています。「市場では、二羽の雀が一アサリオンで売られている。だが、その一羽さえ、父の御許しがなければ地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛の数までも、数えられている」(マタイ102930)、と。「あなたがたは、鳥よりもずっと価値ある存在ではないか。思い煩うな」、と主は言われるのです。

第二に、空の鳥は「服従の教師」でもあります。それは、空の鳥が飛んでいる様子をよく観察してみるとだんだん分かって参ります。実に軽やかで、自由です。例えば、ひばりやつばめを見ますと、実に自由に大空を駈け巡り、右に左に飛び翔り、真っすぐ上昇し、空高く舞い上がったかと思ったら、急に真下に向かって急降下したりします。まことに自由に、大空を我が家のように駆け巡っているのです。

鳥はわたしどもに、神を信じて生きる者の自由さを教えてくれるのです。なぜなら、空の鳥は全く自由でいて、実は、決して我がまま勝手という意味で、自分勝手ではないからです。素直に、完全に風の法則に従っているのです。ほんの僅かでも、風の法則から外れた飛び方はしません。自由というのは、勝手気ままということではないのです。鳥は絶対に風の流れに逆らわず、従順であることによって、自由なのです。このことは、わたしどもが神の御心に従う時に、また、御心に従えば従うほど、人生で本当の自由を得られるという、「信仰の法則」を教えている、と言えるのではないでしょうか。そういう意味で、空の鳥は「信仰と信頼の教師」であり、「服従と素直さの教師」です。もう少し言えば、本日はそこまで十分にお話しする時間がありませんが、空の鳥は生きることの喜び、「喜びの教師」でもある、と言ってよいのかも知れません。

では、野の花は信仰について、どのようなことを教えてくれるのでしょうか。野の花については、28節以下をお読みします。

「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ」

 パレスティナ一帯は、春の一時期、美しい、おびただしい種類の花が辺り一面に咲くことで有名です。「野の花」は昔の聖書では、「野の百合」と訳されていました。しかし、どうもユリではなく、むしろアネモネの原種のようです。

それはともかくとして、主はここで、昔のソロモン王の栄華を極めた時の有様と、野の花の美しさとを比較しておられます。野の花は、たった一日の命です。まァ、長くても数日で、あの地方特有の「シロッコ」という熱風が吹くと枯れてしまいます。きょうは生えていて、あすは炉に投げ込まれるはかない命です。しかし神は、そのような、たった一日の花をも深くいつくしみ、栄光を究めたソロモンでさえ及ばないほどの装いで飾り、愛してくださる。それに比べると、人間は、どんなに栄誉栄華を極めた人でも、あのソロモン王でさえ、この花の一つにも及びません。また、野の花は、たとい途中で折れてしまっても、父なる神はその傷を癒し、再び立ち上がらせ、更に美しく装ってくださいます。醜いものを美しくし、卑しいものを高く引き上げてくださいます。そして、もう一度神に向かって微笑むことが出来るようにしてくださいます。

皆さんはこういう御経験をしたことがないでしょうか。山道などを歩いていますと、美しい一本の花が、例えば百合の花や、あるいはもっと小さな、すみれやききょうでもよいのですが、たった一本で咲いています。思わず立ち止まって、ハッとさせられます。なぜならその花は、山奥の誰にも見られないような路の傍らに、誰に見られるためでもなく、誰に見せるためでもなく、咲いているからです。ただ一心に、あるがままに、自分の短い命を燃焼しています。百合は百合なりに、野菊は野菊なりに、皆自分自身を生きていて、決して自分以上のものになろうとはしないのです。しかし父なる神は、そのたった一本の花をさえ慈しんで、この世の王にまさる、最高の衣装をまとわせてくださる。そのことを、よく考えて見なさい、と主はおっしゃるのです。

オーストリアの国花(国の花)はご存知のように、「エーデルワイス」という小さくて白い花です。小さくて白く、気高い花です。「エーデルワイス」の歌がありますね。昔、「サウンド・オブ・ミュージック」という映画で、トラップ大佐が歌った歌です。その歌詞はこうです。

「エーデルヴァイスよ エーデルヴァイスよ

朝毎に君はわたしに微笑みかける

ちさくま白で 楚々として輝き

君はそんなにも喜びに満ちてわたしを見てくれる

雪のように白いつぼみよ 花咲き育て

花咲き育て とわにとわに

エーデルヴァイスよ エーデルヴァイスよ

わが祖国をとわに祝福せよ」(私訳)

イエスさまはとても詩人なのですね。

イエス様は野の花を通して、ずばりクリスチャンの生き方を教えておられます。神様がわたしを見て微笑んでくださり、わたしが神さまを見てほほえむ。神さまと人間とは、本来そういう関係にあるのです。人間の一番美しい姿は、神に愛され、神を愛し、そして隣人を愛して与えられた命を燃焼して生きる姿です。わたしどもが神に対して、聖書が教えてくれるようなこのような関係に生きられるならば、どんなにか素晴らしいことでしょうか。

しかし、残念ながら、人間の現実はそうではありません。いつも自分を他人と較べては、劣等感に苛まされたり、その裏返しに過ぎない、優越感に浸ったりしています。お互いに足を引っ張り合い、いがみ合い、ねたみ合い、まるで少しでも他人よりも上に立つことが人生最大の目的ででもあるかのようです。男子であれば、出世をして他人を見下し、尊敬や称賛を勝ち得たいと願います。しかしそれは、決して神から与えられた命を感謝し、人生を喜んで生きている、と言えるものではありません。女子であれば、少しでも美しく身を飾り、人からの愛情を勝ち得たいと望みますが、やはり人生を素直に感謝し、喜んで生きているとは言えません。だから、野の花をよくよく見て、彼らから信仰を学びなさい、と主はおっしゃるのです。

さて、ここまでで主がお語りになろうとしていたことは、神に愛され、「神の子」として――つまり、神が父であり、わたしどもがその「子」とされている関係の中で――、神を愛し、神に従うキリスト者の生活とはどのようなものであるか、ということです。空の鳥と野の花とは、わたしどもの教師でした。

それでは、わたしどもはどうしたら、そのような信仰を持ち、あるいは、信仰をもっと深めることが出来るのでしょうか。どうしたら、「いつも喜べ。絶えず祈れ。すべてのことに感謝せよ」(第一テサロニケ51618)という聖書の御言葉どおりに生きることが出来るのでしょうか。

そこで注目したいのが、この部分全体の締めくくりになっている、31節以下の御言葉です。お読みします。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる

とあります。

「異邦人」とは、この場合、「まだ信仰を持っていない人」という意味です。信仰のない方は、自分が神の御独り子、イエス・キリストの十字架の愛によって愛され、神の「子」とされていることを知りません。だから、神に信頼する生活が出来ず、自分を頼りにしてしか生きられません。そしてそういう方が、切に求めているものがあります。単に食べ物や着物のことではないのです。「空の鳥」で問題となっておりましたのは、わたしどもの命、健康、そして、平安な生活のことでした。それに対して、野の花はどうかと申しますと、そこで問題となっておりましたのは、わたしども自身の、人間としての輝き、美しさ、そして、本当の意味での生き甲斐のある人生、神に愛されて生きることでした。

これらのものは皆、誰でもが人生で求めているものです。「食べ物を得る」というのは、ただ今申しましたように、自分や自分の家族が生きるために働くことです。信仰のある人もない人も、皆働きます。しかし、信仰を持たない方々は、それらのものを結局、自分の力や才覚だけで手に入れようとします。そして、思い煩いに陥ってしまいます。それは、心の拠り所と申しますか、心の支えがいつも自分にしかなく、いつも、自分のことを全部自分で心配しなければならないからです。そして、自分をいつも他人と較べます。隣の家が日産を買うと、自分はもっと良い、ハイブレット車を買おうとしてあくせくします。いつも他人の評価や他人の思惑ばかり気にしているのです。神に感謝し、神に向かって生きるということが出来ないのです。

それに対して信仰生活というのは、信仰が深まれば深まるほど、すべてを神に委ねる生活です。そして、神に向かって生きる生活です。それは、人間が真面目な礼拝生活を続ければ必ず与えられます。もちろん、信仰のある人だって、明日癌の手術を受けるということになれば、少しは悩むに違いありません。しかし、無制限に悩むことは致しません。なぜなら、どこかで、わたしどもと共にいてくださる主イエスがわたしどもの野放図な想像力にストップをかけてくださるからです。そこに、主イエスを信ずる信仰の奥義があるのです。

では、信仰の奥義とはどのようなものなのでしょうか。別の言い方をしますと、どうしたら、なかなか神を信じられないわたしどもが、信ずる者となることが出来るのでしょうか。その答えが、実は、本日の箇所、25節のすぐ前の、24節に書いてあります。そこをお読みしますと、

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どうちらかである。あなたがたは、神と冨とに仕えることはできない」

とあります。

この24節の御言葉にすぐ続いて、25節の「だから、思い煩ってはいけない」と続いてゆくわけです。ですから、ポイントは神と富とに同時に仕えることはできない、というところにあるのです。ここに、信仰の最も大事な奥義が教られています。今から5百年前に、宗教改革者のルターが最初に聖書をドイツ語に訳しました、いわゆる「ルター訳聖書」では、ここだけ太字で印刷されていたほど、ここは重要な聖句です。

人は神と富との、二人の主人に同時に仕えることはできない。つまり、人間は神によって平安を得るか、自分の力でお金を稼いで、何とか思い煩いのない、幸福な生活を手に入れるか、二つに一つしかない。二股はかけられない、と主は教えておられます。ここで言う「富」とは、単にお金や財産のことではありません。自分の健康、才能や才覚、生まれや学歴や財産、それに、権力や地位を含めて、いわゆる聖書が「偶像」、あるいは、「偶像を神とする」という言葉で言い表している事柄です。「偶像」というのは、昔は木や石で人間が作って拝むもののことでしたが、本当は神以外ならどんなものでもよいのです。だれでもが持っている、自分が頼りにする一切のものです。その代表格が、主イエスの時代から現代に至るまで、いつもお金、富だったのです。諺にも、「地獄の沙汰も金次第」と言われるではありませんか。つまり、唯一のまことの神の代わりに、こっそりとお金や権力を神とし、拝むことです。しかし、偶像を神とする人は、たといこの世の富をエベレストよりも高く積んでも、決して思い煩いから解放されることはない、と主は仰るのです。

そこで主は、本当のもの、人間が求めるべき最も必要な、たった一つのものが何であるかを、お示しになられました。それが33節の御言葉です。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」

 分かりやすく申しますと、わたしどもは正真正銘「神の子」とされているのだから、ただ神のみを心のよりどころとして、神を求めなさい。神に愛され、神を愛する生活をなさい。そうすれば、神はあなたに必要なものをすべて与えて下さる、という意味です。それは、お金ではなく、神を礼拝し、神に従い、神を喜ぶ生活です。そして、隣人を自分自身のように愛する生活です。

 ここで一つ、わたしの注釈を付け加えますと、人間にとって、見えないものに自分を「ゆだねる」という行為ほど、難しい行為はありません。ですが、何かを「求める」という行為なら、ずっと簡単です。人間とは、何かを求め、何かを得たいと努力をする生き物だからです。それならば、神様がお喜びになる「神の国」を求めればよいのです。神に向かって生きればよいのです。そうすれば、すべての思い煩いから解放されます。

この主イエスのお言葉は、主がわたしどもキリスト者に与えた「マグナ・カルタ」、自由の大憲章である、と言われます。

「マグナ・カルタ」という言葉は、全く聞きなれない言葉ですが、日本では「自由の大憲章」と訳されます。これは、13世紀のイギリスの王様ジョンが、貴族たちの自由と人権を保証した憲法です。たとい王に刃向かうような貴族であっても、いきなりその領地を没収したりはしない、という約束です。世界で最初にキリスト教の精神で決めたもので、人間が人間らしく生きるための人権や自由を保証するものとして今でも世界のあらゆる憲法の原型として尊重されています。

 クリスチャンが、神を信じ、その真実な愛に対して真実にお応えして、本当に空の鳥、野の花のように、人間らしく、隣人を愛して生きられるためには、このマグナ・カルタを大切にする必要があります。すなわち、「思い煩うな」「ただ神の国と神の義とを求めよ」という主のお言葉を、モットーとする必要があるのです。そうすれば、わたしどもは喜んで、神を愛し、隣人を愛して生きることが出来ます。主はすべての人にそのような意味で、神の子とされるために、御自身はわたしどもの背きの罪を御自身が身代わりに背負い、十字架にお掛かりくださいました。それですから、本日の御言葉はすべての人に語られています。自分にだけは語られていない、と考えてもよい人は、ひとりもいないのです。

最後の34節は、まことに深い慰めに満ちた主の御言葉です。

  「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは、明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」

 神を信ずる人は、一日の終わりにこの言葉を聴いて安らかに床に就くことができます。一日の苦労は、その日一日だけで十分なのです。このようにお語りになった主は、わたしどもの人生の毎日が、「苦労」の多いことをよくご存じのお方です。そして、今日一日の苦労は今日するけれども、明日のことまでは思い煩わなくてもよい、と仰るのです。

と同時に、この御言葉には、何か主イエスのユーモアのようなものが感じられないでしょうか。「ユーモア」という言葉は、元々は、「ヒューマン」、「人間らしい」という言葉から来ています。クリスチャンとして生きることは、人間らしく生きることです。自分のことだけでなく、隣人のことを思いやる生活であり、本当のユーモアと喜びを知っている人の生活です。主がわたしどもに賜りました、感謝と喜びに満ちた人生なのです。

 祈ります。