命の言葉を生きる

2023/09/10 三位一体後第十四主日 

マタイによる福音書222333節「命の言葉を生きる」 牧師 上田彰

 *詩編23編について

 今日の礼拝では、詩編23編を交読しました。交読というのは、キリスト教に長く伝わる、共に祈るやり方の一つです。そして様々なものを祈り上げる対象として参りましたが、なんと言っても詩編の交読はポピュラーなスタイルです。ルターは詩編のことを「聖書の中の小さな聖書」と呼びました。詩編23編は、150ある詩編の中でも屈指の、有名なそして印象的な歌、つまり祈りです。丁度来週、この詩編をこよなく愛した教会員を天に送る納骨式を予定しています。

 改めてこの詩編を味わっていたときに、一つの表現に気づきました。それは、最後の節ですが、「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う」という表現です。ある人がこの言葉を、「幸せが猟犬のように追いかけてくる」と訳して出版しました。幸せが私の猟犬となって私を追う。伴う。

 私が幸せを追いかける、という話はよく聞きます。書店に行けば、「幸せの求め方」という類いの本は、山ほど見かけます。今でいえば、インターネットで「幸せになるために」と検索するのが似ているでしょうか。

 ところが聖書は語るのです。幸せの方からあなたを追いかける。あなたのあとを着いてくる、だから振り返ってご覧。そこで主なるお方に出会うことが出来る。「私が幸せを追う」ということから、「幸せが私を追う」ということへの転換が、信仰者となると起こるというのです。特に来週お送りする兄弟のことを思いながら、「恵みと慈しみが私を追う」という言葉の意味をかみしめたいと思います。

 さて、この節をさらに深く読んで参りますと、実はもう一つ、私たち信仰者の発想に対して転換を迫る表現があります。それは、「命のある限り」という言葉です。この言葉は普通、「私たちが地上において呼吸をしている間」という意味で取るのではないかと思います。現在の翻訳はそういう意味に取っていると思います。しかし、この節を訳すときに、もう一つの訳し方があることに気づきました。それは、「幸せが私を追いかけ続ける限り、幸せが私の猟犬として私を追いかける限り、私は生き続ける」。つまり、振り向くと神の幸いに気づくことの出来るような生活。その生活が続いている限り、私は主なる神によって生かされ続ける。そして仮に明日自分の呼吸が止まって地上での命が取られるとしても、それでも私は生かされ続ける。幸いが私に伴い続けて下さるからだ。

 そのような訳し方があることに気づいたときに、反省させられました。私は、信仰というものを自分の心の問題だとか、あるいは自分が生きている間だけの問題だとかいう形で、自分で小さくしてしまっていたのではないか。実は今日の新約聖書において、イエスさまはそのような告発をサドカイ派の人たちに向けて、またその場にいた人たちに対して行っているようなのです。私たちも、主イエスの問いかけに耳を傾け、また心を開いてみたいと思います。

 

 *コロナから何を学ぶか

 もともと今回の急な説教者交代で、一度だけであれば以前の説教の焼き直しが許される(2020726日、マタイ106回「主は生きておられる」)と考えまして、ではどんな説教が今の伊東教会に必要なのか、何年か前の説教で、今の伊東教会が聞いたらさらに前に進める説教箇所といえばどこだろうか…。

 そんなことを考えながら、最終的に決めた理由は別にあります。今回コロナに感染したわけですが、この3年半かかってこなかったのが今回に限ってかかったのは、ひとえに体力切れだろうと思います。この夏は何人もの教会関係者を天に送りました。その度に体力を使います。もちろん猛暑もあります。先週の日曜の礼拝説教と役員会の準備の時に、夏バテを感じていました。それでも月曜からは白樺湖で教区の研修会があり、献金パンフも配らないといけませんから、行きました。実は事故にも遭うのですが、これはお互いに怪我もないし、010で決着がついていますから、センターラインのない車線では珍しいケースなのだそうですが、今日はその話はしません。

 帰って参りまして妻が具合が悪いと言っております。月曜にコロナとインフルエンザの検査をしてもらったが反応はなく、寝て過ごしたそうです。水曜になって念のためにもう一度検査キットを買ってきて調べたところ、コロナが陽性だとのことです。あわてて手持ちの検査キットで私も調べてみると陽性ではありませんか。お互いにこの夏は大変だったね、といって娘の帰宅を待ちます。娘にも検査をしたところ、こちらは陰性で、この一ヶ月以上は不調を訴えたためしがないので、こちらは無罪放免、学校にも行き続けました。結局、かかった種類にもよるのでしょうが、ウィルスにさらされたときの体力がものをいうということです。若い方が体力的には有利ですから、ひいてはコロナと戦うためにも有利です。

 そこで、「若返り」ということについて問題にしている聖書箇所はどこだろう、と考えました。可能であれば、若さを取り戻したい。これは願いとして、誰もが持っていて不思議はない願いなのではないでしょうか。

 

 コロナに関してはもう一つ考えた箇所がありまして、昨日から色々なところで、もう抗原検査で陰性です、と言いまくっています。それとそっくりなのが、私は病気で汚れていますと大声で言わなければならないと律法で定められていた病気があります。それがハンセン病です。つまり、「いわゆる癩病というのは昔の病気で、今は治療法も確立して偏見もなくなっています」、と言って脇に積み上げおきざりにしていい問題ではなく、何らかの意味で現代にも通じる事象が含まれています。しかしそれは、また別の機会に考えてみたいと思います。

 

 *「復活はない」と言うサドカイ派の論証

 今日の箇所はサドカイ派の人が来てこう尋ねることから始まっています。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」

さて、この問いは結局何を問うたことになるでしょうか。私たちの文脈に置き換えれば、こうです。今身近にいる人と、復活した後も一緒になると言われたら、喜びますか、いやですか。一人一人に聞いて回ったら、ある意味で面白いかも知れません。説教の代わりに早速してみてもいいのですが、そしてそれはある程度興味深い問いとなりそうだと最初は思います。意外とあの人が今の生活をもう一度したいと言ったり言わなかったり…。つまり、いつの間にか「生まれ変わったら同じ人生を歩みたいか」という問いにしかなっていないのです。それでももしその問いを実際に聞いて回ったとして、途中まで進めたら最初持っていた興味が完全に失せていることに気がつくことになるでしょう。「生まれ変わったら」、そしてその延長線上で、「若返ったら何をしたいですか」ということを考えていっても、そこからは救いが見出せないのです。救いとは何か。復活というのを生まれ変わりだと固く信じて疑わないサドカイ派に、イエス様はどのようにして救いを示されるのでしょうか。若返りの薬を求めてしまう現代のマッドサイエンティストに、聖書は何を語るでしょうか。

 

 *「復活」を巡る小さな誤解

 サドカイ派の問いが、救いを求める水準に到達していないものであることは、こう考えれば気がつくことになります。サドカイ派の問いは、「戻る」ことに主眼があるのです。復活する。その際、過去にいた七人の夫のうちの、一体誰と結婚していたときの状態に「戻る」のか、という風に考えているのです。

 少し現代風に言いますと、整形手術をした人が復活した場合、整形手術をする前に戻るのか、後に戻るのか、という問いと似ています。7人の夫の内の誰と結婚したときに戻るのかと尋ねるのなら、最後の夫が死んだ後の状態に戻るかも知れないし、誰とも結婚していない状態の時に戻るかも知れないのです。イエスさまではなくこの登場人物である女性そのものに、あなたは誰と夫だったときに戻りたいですかと尋ねたとして、どう答えたとしても喧嘩が起こることでしょう。生別離婚があり得る現代では、もっと話は複雑になります。

その複雑になり得る、喧嘩になりうる問いを敢えてしているサドカイ派には、動かしがたいある本性というか、傾向があるのです。それは、「今がベストだ」という強い信念です。ユダヤ教のいくつかあるグループの中でも、強烈な「現状肯定派」なのです。そしてそのことが、23節冒頭にもあるように、「復活否定」につながっています。自分たち以外のグループで、例えばファリサイ派が復活を肯定している。これはけしからん、彼らは現状を肯定しようとしていない。現状を肯定できないとは、かわいそうな人たちだ。結局の所、復活というのは、過去のノスタルジーに浸りたいという願望に他ならない。今度出てきたナザレのイエスというグループは一体どうなんだろう。彼らもファリサイ派の仲間なら、この質問を浴びせかけてやれ。

 

 *「現状肯定」を巡る大きな誤解

 ある説教者は、この問いに現れている女性は「呪われた女性」ではないか、と言いました。何しろ、この女性と結婚した兄弟は次々と死んでいくからです。昔でいう「ロス疑惑」も真っ青な女性です。

 しかしこの問いの中に潜む呪いは、さらに深いのです。この女性は、好きかそうでないかにかかわらず、一族の弟と次々結婚していかなければならないからです。サドカイ派の人たちの問いは、期せずしてもっと深い呪いが社会全体にかけられていることを明らかにしているのです。兄に先立たれた妻は、その弟と結婚することで、家庭を守らねばならない、女性は一人の男性と結婚するのではなく、一つの家と結婚しなければならないのです。
こういったことは近代以前にはキリスト教以外では広く見られていたことで、いくつかの宗教が実質的には現代においても複数の妻との結婚を認めています。それは、男性と女性との社会的・経済的な格差が壮絶に大きかった時代に、女性を保護するために整えられた制度です。弟と次々と結婚せねばならない当時の制度もまた、女性を保護するという意味で価値はありました。夫に先立たれたら経済的後ろ盾を完全に失うという自由恋愛結婚制度がもしあるとしたら、そっちの方がもっと呪われている、と言う訳です。

 私たちにとって自由恋愛結婚制度があまりにも当たり前なので、少し冷静に考えにくいのかも知れませんが、同じようにサドカイ派の人たちにとっても、女性を守るために家に縛り付けるという制度は、当たり前すぎて疑う余地が無かったのかもしれません。いつの間にか、この制度に潜む、男性と女性の格差の問題に全く疑問を抱かず、この制度をただ無条件に肯定して、夫が死んだ妻は、当然弟と結婚しなければならない、そういう常識の中に一人の女性を封じ込め、そして自分たち自身をも封じ込めているのです。ここには愛はありません。愛は目に見えないものだからです。

 サドカイ派というのは、当時の社会の支配階級に多かったといいます。自分たちが社会において有利な立ち位置にいる。そしてその立ち位置を確かなものにするために、今の世の中を肯定する。今の世の中の目に見えるものがすべてだと信仰的に位置づけてしまう。だから復活はいらないのです。復活だって、元に戻るタイプの復活、いわゆる生まれ変わり、医学の用語でいうならば「蘇生する」、というものしか考えつかないのです。

 

 *復活とは

しかし、主イエスは、サドカイ派の人たちが考えたのとは異なる「復活」を示しました。31節、32節は、そのまま読むと理解が難しいところなのではないかと思います。こうなっています。

 「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」。

 これは結局、先ほどの詩編23編で分かるように、アブラハム、イサク、ヤコブはまだ主の恵みに伴われ続けることによって、生き続けている、何か死んだ信仰の先輩を追悼したり時々思い起こすような仕方で祖先を敬うのではなく、天国において生き続けているアブラハム達に直接出会って話が出来たりする信仰を思い起こしなさい、というのです。その関連で、30節の「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」という言葉も理解出来るようになるのではないでしょうか。

 

 福音書の終わりにある主イエスの復活の記事を見ますと、墓の前に陣取る二人の天使がこう告げるというところがあります。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」(ルカ245)、と。この言葉は、墓の中という、死者たちが収められている場所の中に、復活した方がいるはずがないではないかという意味の言葉です。

 そして、この言葉を聞かされた者たちは気づくのです。私たちが暮らす地上という、死が隣り合い、死が満ちている場所もまた、もし恵みが私たちに伴い続けるというのでなければ、実は「墓の中」なのではないか、と。そして、復活したお方は私たちをここから導きだして下さる。だから私たちがここに留まり続けるはずはない。私たちは恵みによって押し出されて生かされている。だから、この場所に戻ってきて下さいとイエス様に願うのではなく、この場所から先に進もうではないか、ということです。

復活の命を私たちにも分け与えようとして下さるお方が、地上の生活の延長線上に、地上の生活に舞い戻り、繰り返すような形で救いをお与えになるはずがないのです。繰り返し続けるような生き方に終止符を打つために、主は十字架にかかられ、よみがえられたのです。イエス様の復活によって、私たちはまた天の神様につながるものとされる。復活したイエス様は、天と地上の敷居を打ち破り、突き抜けてくださる。

 この信仰に立つ者は、歴代の信仰者と共に告白します。「墓は空だった、ハレルヤ」、と。

 

 それで行きますと、この地上での生活を全面的に肯定し、その制度によってみんながいつまでも幸せだと信じて疑うことのないサドカイ派の人たちは、ある意味で恵まれていたのだろうなあと思います。また、昔の思い出にふけっていては駄目だと促すのも、また興味深いなあ、と思います。しかし、そんなサドカイ派に対して、「本当の希望は将来にある」ということを主イエスが語っておられることに、思いを向けねばなりません。

 

 *見えるものがすべてなのか

 最初のサドカイ派の問いは、結局こうです。「イエス様、あなたは予告をされました。十字架にかかって死に、復活して王の座に着くと言っておられますね。しかしもう王位の座についておられる方がすでにおられるのです。それはローマ帝国に忠実であられるヘロデ王様です。あなたはその王位の座を狙っているのかも知れませんね。でもそれは、今ある秩序をひっくり返すことを意味しています。そんな、ファリサイ派のような幼稚な革命論のまねごとのような言い草はおやめなさい。今ある秩序こそがすべてなのです。それ以外のものはすべて幻想です。死んだ者は土になるのであって、蘇生したりはしない。神殿で高いお金を出して礼拝をして、皆すっきりして家に帰っていくのだ。これで皆幸せではないかですか。これが信仰でしょう。結婚の話題を出しましたが、これとて愛とか恋とかいう、あやふやなものを喜ぶよりも、ずっと確実な議論をしたつもりです。どうでしょう。間違っていますか、イエス様。」

 先ほどご紹介したイエス様の答え(出エジプト36の引用)を、教会は「使徒信条」の形でもっと鮮明にしています。それは、「私たちは聖徒の交わりを信じます」という一節です。その言葉の意味は、例えば聖ペトロという人が昔いて、その人が設立に尽力をした教会に私たちは連なっているというような、昔話に属する教会の信仰ではありません。その言い方でいうならば、聖ペトロが今もまた恵みという名の猟犬に追われるような仕方で生きており、私たちはやがて彼に主のみ国で会うことが出来る。その信仰があるから、私たちの教会は古びることがない。私たちが復活によって新しく「され」、前へと進むことが出来る。私の命が地上にあるときにも、そして息を引き取るときにも、神の恵みは私たちに伴っている。

 そして私たちはこのお方の恵みによって生かされて、ある。今も、そしてとこしえに。復活の主は、今の時から私たちとともにいて下さり、そして私たちとともに新しい世界へと突き抜けてくださる。

 

 私たちの教会には、389名の召天会員がいます。その中のお一人で、最近亡くなった牧師がいて、その方の最終任地の牧師と連絡を取り、私たちの教会がその牧師のことを覚える教会であることを伝えました。私たちの教会は50名足らずの教会員だけれども400名近くの召天会員を抱えているのだ、と話したら、その牧師がこうおっしゃったのが印象的です。「天国の人数は減ることなく、増える一方ですね。恵みです」。

 私たちは天の御国に向けて前進を続けます。主の恵みにしんがりを支えてもらうことによって、私たち聖徒の群れは前へと進むのです。

 

「猟犬のように追いかける幸せ」をAIで描画させたところ、ほとんどの絵が「後ろ向き」になった。後ろを守るのが神の幸い、ということか。

 

(今回の説教スクリプトのイラストはすべてAI描画)