命の言葉を生きる

2023/09/03 三位一体後第12主日聖餐礼拝 「命の言葉を生きる」 使徒言行録説教第56回 17章1014 牧師 上田彰

 今日はベレアという町におけるパウロ達の伝道について見て参りたいと思いますが、まずその前に、前回のテサロニケにおける顛末について触れておきたいと思います。

 テサロニケにおいてパウロが語った言葉は、大きな反響を呼びました。一方では、パウロが語る、イエス・キリストこそ神の子という宣言は、テサロニケ教会の礎とも呼ぶべき信仰者を生み出すに至りました。他方で、この言葉に、あるいはその言葉を通じて起こった出来事に嫉妬をした人たちがいて、それはユダヤ人であったと聖書は記すのですが、彼らがならず者を巻き込んで町で暴れ出します。そしてテサロニケの当局に通告するのです。この暴動の原因はパウロ達の説教にある。なにしろ彼らはローマ皇帝以外を皇帝と仰ぐ新しい国を設立しようと言っている。今テサロニケの町の中で暴れている「心ある人たち」は、このパウロの説教がテサロニケの、いやローマ帝国の安寧秩序を脅かすものであることに「正しく」気が付き、「やむを得ぬ愛国心」から暴れているに他ならない。これ以上彼らが暴れなくてもよいように、テサロニケ当局の賢明な方々は、是非パウロを取り締まっていただきたい。すでに私たちはパウロとシラスを捜索している。見つけたら連れてくるから、準備をして待っていてほしい。

 ところがテサロニケ教会の核となるヤソン達は、パウロ達を隠しきることに成功しました。そこでユダヤ人達は、きっとパウロをかくまったに違いないヤソン達を捕まえて、当局に引き渡しました。いわゆる犯人隠匿罪で訴えようというのです。

もともと、ユダヤ人の宗教であるユダヤ教と、ユダヤ教から生まれたキリスト教が争っているというだけであれば、それはごくローカルな話です。テサロニケはギリシャ二番目の大きな都市で、元々ユダヤ人が多いわけでもない。いわゆる宗教問題について、当局が介入する余地など全く無いのですが、(1)実際に暴れている人がいることと、(2)本当にローマ帝国の権威を否定して別の国を設立する話を具体的に進めているのであれば、無視は出来ないと考えたのでしょう。そこで縄で縛られてお白州に連れてこられたヤソン達に対して、お奉行様ならぬ当局の護衛官は、「保証金」を彼らから取り立てることを提案します。その意味は、もしヤソン達が本当にパウロ達を隠しているのであれば、その保証金は当局に没収される、ということです。とりあえず次の日の朝一番に本格的な家宅捜索をするから今晩はおとなしく帰って寝ておきなさい、などと言われ、分かりましたと言って彼らは帰ってきます。そして、アジトに戻りまして、「お名残惜しいかも知れませんが、殿、次の町に行くでござる、保証金も安くないし」、と言ったかどうか分かりませんが、急いでパウロとシラスを他の町に送り出します。テサロニケからベレアまでは直線距離で50km、もし仮に馬で行くのであれば、一晩で送り届けることが出来ます。

 実はテサロニケには大きな港があり、アテネに行くのであればここから行くのが一番良いのです。しかしやむを得ず、一旦小さな町であるベレアに退避するということになります。ところがこれが瓢箪から駒でした。ここで、パウロ達は新しい伝道の可能性に気が付かされるのです。

 パウロ達は、ベレアの町のユダヤ人達が、信仰者のある特質を示していたことに気づいたからです。日本語の聖書では、「素直」という言葉が使われていますが、英語の聖書を見ると、「フェア」という言葉が使われています。ベレアの人はフェアな心を持っている、というわけです。考えてみると、フェアというのは、かならずしも「素直」ということは意味していません。おそらく新共同訳の翻訳者は、例えば直前のテサロニケにおいて、あまのじゃくな反応であった、それに比べてフェアな心というのは、素直な心を意味する、という風に考えたのでしょう。しかし、使徒言行録の著者は次のように続けます。「非常に熱心に御言葉を受け入れ、その通りかどうか、毎日聖書を調べていた」。彼らはパウロの言うことそのものに対して素直であったというわけではないようです。むしろ聖書の言葉に信頼を置き、その聖書の言葉からずれたことを今自分たちの目の前にいる伝道者は言っていないか、今風に言えば「チェック」をしたのです。従って、ベレアの人たちが「素直」であるとしたら、それは「パウロの語ること」に素直であるというよりは、「聖書」に対して素直であるということになります。

 *フェアな信仰とは――生ける神の言葉を生きる

 一体どんなチェックを行ったのでしょうか。今日の説教題は、「命の言葉を生きる」としていますが、英語で言えば"live the living Word"となります。これは二重の意味があります。

 1)まずは、「私たちを生かす言葉を私たちは生きる」という趣旨です。世の中に、人々を生かす言葉が色々あって、キリスト教でも生かす言葉を提供しております、というのではなく、まさにキリストの言葉によって私たちは生きるのではないか、という意味合いです。

 (2)もう一つは、「生ける神の言葉によって私たちも生かされる」という意味合いがあります。旧約聖書の中で、「神は生きておられる」という言い方が時々出て参ります。敢えて砕いて訳せば、「どっこい神さまは生きておられ、私たちを苦難から救って下さる」という意味合いです。ペトロがイエス様に対して、あなたこそ生ける神の子キリストです、と告白する際も、「生ける子」ではなく「生ける神」の子、という意味合いです。

そういたしますと、ベレアの人たちが「フェア」であるというのは、二つの意味合いがあって、「パウロの説教は聖書のメッセージと同じことを言っているか」という聖書研究の意味合いと、「説教、そして聖書は私たちを本当に生かすものになっているか」という自己吟味の意味合いがあることになります。

 パウロの説教は本当に聖書に合致していて、そして自分たちを生かすものであるか。恐らくパウロはテサロニケでしたのと同じ説教をしているはずです。主イエス・キリストは苦しみを受け、死者の中から復活する、これは聖書に合致していて、そして自分たちを生かす言葉であるか、フェアな調査を始めようというのです。

 テサロニケのユダヤ人達は、「これはローマ皇帝の権威を覆す発言だ」と考えたようですが、それはどちらの意味においてもフェアではない、ということです。

 改めてキリスト教のメッセージとは何であるかということを考えますと、それは「主イエスの十字架によって救われる」ということです。「主イエスは、神の御子なのだから苦しむことなく天にお戻りになる」というのではなく、苦難をお受けになる、これは外すことが出来ない、というのがパウロの説教の趣旨の一つです。ですからベレアの人たちは、救い主が苦しむというのは聖書の中のどこに出ているのか、そして苦しむ救い主による救いは私たちにとって本当に救いか、ということについて吟味を始めました。

 そして結果として、ベレアの人たちの中で少なくない人たちが信仰に入った、とあります。

 

*成長の場を求める伝道者

 このベレアにおける信仰者達の誕生は、パウロやシラス、それから遅れてやって来たティモテに対して、大きな転換点となったようです。一方では、テサロニケからはユダヤ人達が追いかけてきます。ここでもまた3人で逃げるという選択肢があったはずです。安全だけを考えるならその方がいいはずです。しかし、ベレアにシラスとティモテが残る、という選択を彼らはするのです。この地にいるフェアな精神を通じて生まれた信仰者達と共に、シラスとティモテはやるべき事がある。いやもっと正確にいうならば、彼らのフェアな精神が生み出す信仰共同体が目に見える形で現れるようになるプロセスをシラスとティモテも経験することによって、伝道者として、信仰者として成長することが出来る。いつまでもパウロにだけおんぶに抱っこで異邦人伝道を進めるわけには行かない、シラスやティモテもまた独力で伝道が出来るように成長をしなければならない。成長をする場は教会における伝道の現場です。

 私自身、牧師になってから四半世紀が経ちました。その間、色々な牧師を見て参りました。もう天に召された方も大勢おられます。その中で感じるのは、聖書を読むことを通じて、伝道の現場を通じて、成長を続ける牧師が残るということです。有能ではあるが、マネージメントをするような感覚で牧師をしている人が、ある段階で行き詰まってしまう、というのを見てきました。そういう状況に陥りかけている仲間を見るにつけ思うのは、ああ、その人が教会の現場で癒されればいいなあ、ということです。今日の言葉でいえばフェアな教会において、救いを見出そうという姿勢を持つことにおいて素直である人々との交わりによって牧会者も元気になる。生かされる。

 尤も、聖書を見る限り、そのような交わりがうまく機能していない例もまた多くあったことが分かります。例えば十字架にかけられたときの弟子たちがそうです。弟子たちは、イエスさまのところに集まってくる人々の世話をするという役割を担っていました。その中で、天国に行ったら自分こそが主イエスに一番近いところに座ることが出来る、というような話に明け暮れるという場面があります。今風にいえばお客様によりよいサービスを提供することによって出世競争に勝ち抜く、という意識の弟子たちがいたというのです(マタイ18章)。フェアな精神から遠いところにまで来てしまった弟子がいることが分かります。世間的にいえば、出世競争も、勝ち組にのこり続けることが出来るならば正義ということになるでしょう。しかし、キリスト教的にいうならば、出世競争に勝ち続け、成功する側に残り続けるということは本当に意味のある人生か、「神の言葉によって生かされる生き方」をしているのか、という問いがあるように思います。

 

*苦難の主に出会う

 そういう問いは、主が十字架にかかって墓から姿を消したという段になって、より鋭く問われることになります。エマオの道すがらの出来事について思い出してみます。

 先ほどの出世競争に出馬した弟子と一緒であるかどうかは分かりませんが、エマオへ至る道をとぼとぼ歩く二人の弟子がいました。その彼らに話しかける者がいます。絶望で胸がいっぱいになっている二人の弟子は、話しかけてくれたのが自分の愛する師匠、主イエスであることに気づかないまま話を進めます。している話は、直近のパウロの説教と内容は全く同じで、救い主が苦しみを受けてから栄光を受ける、これは聖書に出ていることの実現なのだと語ります。しかしこの二人は、今語っておられるお方が、この救いの出来事の当事者であるということになかなか気づかない。出世競争に毒されてしまうと、なかなか心の目が開かれることがありません。やがて宿にたどり着き、そのお方と食事をする。パンを割き、二人に渡したときにやっと気づく。このお方は主イエスではないか。主イエスを、自分たちは知っているはずでありながら知らなかったのではないか。苦難を受けてから栄光を受ける救い主、というイザヤ書53章のメッセージを、自分たちは右から左に聞き流していたのではないか。救い主が苦しむはずがない、そして苦しんでいる私たちのためにわざわざご自身が苦しみを経験して下さるはずなどない、そういう思い込みに自分たち自身が囚われていたのではないか。

 すべての牧会者が、そしてすべての信仰者が、エマオ途上の出来事を通じて、またベレアの信仰者の態度を通じて、フェアな精神を学ぶことが出来ます。

 

 私たちの前には聖餐の食卓が備えられています。エマオの道すがらで弟子たちを説得し続けたあのお方ご自身がご準備下さった食卓です。感謝して食卓に向かいたいと思います。

注:エマオ途上で出会った弟子に女性がいたら、と思

ってAIに命令をしたのですが、AIの方で偏見が強いらしく、どうしても男性三人で出力されます

主イエスの栄光、そしてそれを悟る光によって輝く