責任と希望

2023/08/27 三位一体節第 12主日

創世記231~20節「責任と希望」

説教者 牧師 上田文

先日、娘がお店屋さんの友だちに、店に貼るポスターを書いてプレゼントしました。すると、そのお返しに、「キリストのあゆみちゃんがやさしい」と書いたポスターを持って来てくれました。キリスト教を信じる人は、やさしくなるのだと宣伝してくれたのかもしれません。

今日の聖書には、神さまの事を知らないへトの人々が、アブラハムに向かって「神に選ばれた人」と呼びます。なぜ、このように読んだのか、聖書には説明が書かれていません。しかし、イエスさまの教えを知らない、娘のお友だちが、「キリストのあゆみちゃんがやさしい」とポスターに書いたように、アブラハムに出会った人々は、アブラハムが「神に選ばれた人」だと感じたのだと思います。アブラハムは、さまざまな失敗を重ね、その中で恵みを与えられながら、長い年月神さまと共に旅をしました。そして、その人生の終盤に入り、彼は「神に選ばれた人」と呼ばれるようになりました。今日の聖書の物語は、神さまと旅を続け、神さまに成長させて頂き、「神に選ばれた人」と呼ばれるようになったアブラハムが、どのように生きるようになったのかを教えてくれます。それは、アブラハムを信仰の父と呼ぶ私たちがどのように、信仰の旅を続ければ良いのかを教えてくれるものでもあります。


今日の聖書箇所は、アブラハムの人生がいよいよ終わりへと向かい始めた部分です。彼は、自分の人生の終わりを迎える前に、妻サラの死を経験します。アプラハムとサラは、ずっと一緒に旅を続けてきました。二人で、苦難を乗り越えた事もあれば、深刻に対立した事もありました。また、深い喜びを共にした時もありました。彼らは、互いに自分の半身として相手の事を思い、その歩みを続けて来ました。その伴侶が死んだのです。聖書には、「アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」とあります。アブラハムは、深く嘆き、愛する者の死を悲しんだのだと思います。私たちもまた、この夏に悲しみの中で、多く兄姉妹の葬儀を致しましたが、その時、私たちはこのように祈りました。「わたしたちはその臨終に際して、いくたびか祈りをささげ、またできるだけの手だてをつくして、地上における

いのちがひとときでも長いようにと望みました。しかし、ついにみもとに召されましたのは、あなたの深いみ旨によるものと信じて、ただ主の御慈愛にお頼りいたします」。この祈りは、日本基督教団の式文の一部分の祈りですが、この祈りを聞くとき、私たちの人生には、嘆いたり踊ったり、黙したり語ったりと様々な時があるけれども、その全ての時は、神さまに与えられているのだと気づくように思います。そして、サラを失ったアブラハムは今、嘆き悲しむ時を与えられたのだと気づかされるように思います。何故、神さまはアブラハムや私たちに死の悲しみの時をお与えになるのだろうと思う事があります。何故なら、死者の復活を私たちに説かれる神さまなら、悲しみの時を与える必要はないのではないか。寧ろ、天に仲間が一人増し加えられたと、喜ぶ時をお与えにあるのではないかと思うのです。

しかし、神さまは死の悲しみの時を与えられます。それは、この地上での別れと悲しみも

また、神さまを信じる私たちにとって大切な事だからなのかもしれません。私たちは、愛する人の死を通して、天も地も全てを支配される神様の御心と御業を受け止めることが出来るようになります。そして、その神さまの導きによって、この世における自分自身の死を見つめ、備える信仰が深められるように思うのです。アブラハムは、嘆き悲しんだ後、「立ち上がった」(3) とあります。彼は、嘆き悲しむ時を過ごし、神さまの導きの中で、死への備えをする時に入った、死への備えをするために立ち上がったのでした。

しかし、立ち上がったアブラハムは直ぐに大きな問題に直面します。サラを葬る墓をどうするかという事です。

アブラハムは、この地で「一時滞在する、奇留者」(4) でした。彼は、この聖書箇所の前の22歳ではベエル・シェバに住んでいましたが、サラが死んだ時には、2節にあるように、ヘブロンに居ます。このように、アブラハムはあちこちに移動しながら、旅を続けて、寄留者としての生活を続けていたのです。奇留者というのは、その地に住み続ける人々から、何らかの許可を得なければならない立場の人です。何をするにも、その地に住み続ける人々と交渉や取引が必要な立場にあります。その地で生きるために必要な権利や資格を持っていないという事です。その地で住み続け、なんとか平安な暮らしを確保しようとしている人々からみれば、奇留者は、とても不安定な生活をしている人です。しかし、この旅人、寄留者としての生き方は、信仰を持って生きる私たちの姿であると聖書は教えてくれます。アブラハムは、この地を生きるための権利や資格といった、地上の頼みを一切捨て、ただ神さまだけを頼みとして生きるように、神さまに召されました。この世に自分が生きる根拠を置かないで、神さまのみに生きる根拠を置く事を、神さまは、アブラハムに教えられたのでした。それは、私たちにも同じです。信仰に導かれた私たちは、地上のどこかに自分の生きる根拠や、ふるさとを持つのではなく、真の命を与えて下さる神さまに生きる根拠を置き、その神さまのもとにある真のふるさとである、神の国を目指す者とされています。しかし、だからといって、この世での生き方がどうでも良い物になるはずはありません。私たちの信仰の父であるアブラハムが、神さまに召されて旅を続け、寄留者としてどのような生活をしたのかを聖書が描くのは、私たちが、この地でもそして天においても、真に神さまと共に生きる者とされるためです。それは、聖書を通じて、神さまが今も私たちを導いてくださっているという現れでもあります。

その神に選ばれた奇留者として生きているアブラハムが、墓地を得ようとします。なぜ、墓を持とうとしたのでしょうか。それこそ、先ほど言いましたように、天に新しい命が加えられたと喜んで、終わりにし、基地など作らなくても良かったように思います。それとも、アブラハムは、ここで旅を群めて、落ち着く事に決めたのでしょうか。そうでは、ありません。アブラハムは、あくまで神に選ばれた旅人、寄留者としての生活を質こうとしています。

だからこそ、彼は丁寧に「わたしは、あなたのところに一時滞在する寄留者です」と説明し、


「あなたがたの所有する墓地を護ってくださいませんか」と、お願いするのです。

このアブラハムの申し出に対して、その地に住んでいたへトの人々は、このように答えます。「どうか、ご主人、お聞きください。あなたは、わたしどもの中で神に選ばれた方です。

どうぞ、わたしどもの最も良い基地を選んで、なくなられた方を葬ってください。わたしどもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません」。

一時滞在の寄留者に過ぎないアブラハムに向かって、その地に住む人々が「神にえらばれた方」と呼ぶことに、驚かされます。22章で、アブラハムがペリシテの国に寄留した時にも、同じような事がありました。その地の王であるアビメレクが、寄留者に過ぎないアブラハムに向かって「神は、あなたが何をなさってもあなたと共におられます」と言い、七ひきの羊を契約の印として、井戸をアブラハムに渡しました。きっと、アブラハムは、どの地に行っても、その地の人々に独特の印象を与えたのでしょう。そこに住む人々とは違う人間、神さまがいつも共にいて特別に守っている人間という印象を人々に与える何かを、アブラハムは持っていたように思います。そして、そのアブラハムが自分たちの土地に滞在することは、自分たちの土地が神さまに守られるように感じる事に繁がったかも知れません。

人々がアブラハムに対して持つ印象は、私たちが人々に対して与えている印象かもしれません。イエスさまを信じる私たちは、「神に選ばれた人」とまでは言われませんが、少し感じが違う人。ちょっと変わった人くらいの印象は持たれていると思います。また、キリスト教という、外国の宗教を信じる、外国人のようであり、地域の信仰に馴染まない、寄留者のような印象を持たれているようにも思います。そのことを考えると、私たちが福音を述べ伝え、この地に教会を立て続けるという事は、ヘトの人々がそうであったように、地域の人々が「ここに教会があることで、自分たちも神さまに守られている」という感じる事に繋がるのかもしれません。

アブラハムにこのような印象があったからでしょうか、ヘトの人々は敬意をこめて、大変好意的な提案をします。自分たちの土地の中で、最もよい墓地を使って良いと言うのです。

しかし、この提案にはヘトの人々の主張も含まれていました。ヘトの人々はアブラハムが土地を「所有」する事よりも「使用」する事を放すといったのでした。ヘトの人々は、基地を譲るのではなくて、使う事を許可するというのです。それは、自分たちの土地の中に、よそ者が所有する土地を作りたくないという意味がありました。また、アブラハムに対して、神さまに従って旅を続け、不安定な生活をしているあなたが、わざわざ土地など所有する必要はないではないかと、この地でアブラハムが生きようとする事を拒否するのです。ヘトの人々の親切な言葉の前提にあるのは、アブラハムはどこまでもよそ者であり、よそから来た旅人をもてなす習慣なのでした。

しかし、アブラハムはヘトの人々の好意にすがるのではなく、あくまでも墓地をきちんと所有することを願い、交渉を続けます。アブラハムは、エフロンという所有者の、マクペラの洞穴を譲って欲しいと願い出て、十分な銀を支払うと、ヘトの人々の前で言い表します。

彼は、あくまでも「所有」する事を望み、この地に住みながら、神さまに従う旅を続けようとするのです。それがアブラハムの望みでした。だから彼は、「わたしの願いを聞き入れてくださるなら、どうか、畑の代金を払わせてください」(12)というのです。

結局、土地の所有者であるエフロンは、土地の代金を言います。土地は銀四百シュケルでした。銀四百シュケルというのは、法外な金額だと言われています。彼は、寄留者であるアプラハムに、この土地を売りたくなかったのです。けれども、アブラハムは直ちに、その言い値を支払い、マクペラの畑と洞穴を正式に自分の所有地としてサラを残りました。聖書には、「こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立会いのもとに、アプラハムの所有地となった。その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクベラの畑の調に麦サラを発った。その畑とそこの週穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、基地として所有することになった」と書かれています。とても細かくアブラハムが何を所有することになったのかが記されています。また、いかに正式な手続きが踏まれたかという事も記されています。人々の思いがどうであったとしても、きちんと法的な手続きが取られ、アブラハムが洞穴と周囲の土地を所有する事になったのでした。このアブラハムの姿は、この地に生きながら、神さまと共に旅を続ける旅人として、奇留者として生きる信仰者である私たちがうべき事があるように思います。

アブラハムは、神さまのみ言葉を受けて、この世の権利や資格などすべてを置いて、天の故郷を目指す旅人となりました。その生活は、とても不安定なものであったと思います。しかし、その旅人、寄留者として神さまに従い続ける彼の信仰は、地上で出会う人々の目には「神に選ばれた方」として映りました。もし、彼の不安定さが人々を不安にさせたのならば、「神に選ばれた方」とは言われなかったでしょう。

アブラハムは、なぜ人々を不安にさせなかったのか。その事を考える時、イエスさまの言葉を思い起こします。「何をたべようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな」「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じだからである」「明日のことは明日自らが悩む」(マタイ 6:31-34) とイエスさまは教えてくださいました。私たちが、神さまの愛と正義が全ての世界をご支配してくださることを信じ祈り続ける時、神

さまは私たちがこの世で生きるために必要なものを整えてくださるとイエスさまはおっしゃいました。アブラハムは、この生き方を私たちに、見せてくれるのです。アブラハムは、この世の全てを支配され、そこに生きる私たちの必要を全てご存じである事を知っていたので、不安定な生活が不安になる事はなかったのでした。そして、この世で神さま楽が行われる事を祈り続ける事が出来たのでした。だからこそ、アブラハムに出会う人々は、彼を「神に選ばれた方」と、呼ぶようになったのでした。

また、アプラハムはこの地上で出会う人々との関係をないがしろにしませんでした。礼後正しく、また正当な手続きを踏んで、彼らと平和な関係を作り上げようとしたことが聖書に配されています。そのことはまた、アブラハムが妻を弾るといった人間としての義務をはたす事にも繋がったのかもしれません。その彼の誠実さによって、基地を所有出来たとも言えます。


このような、アプラハムの生き方を森有正という哲学者は、霊の世界と肉の世界を生きる人として説明しました。霊の世界というのは、神さまとの関係における世界です。肉の世界とは、この世の人間関係における世界です。この二つの世界をアブラハムの人格が結び付けていると森有正は説明します。そして、その人格とは『責任』である。神さまに対しても、人に対しても責任を持つアブラハムの生き方こそ信仰者の生き方であると言いました。つまり、神さまの約束を信じて神さまに従う信仰と、この世におけるさまざまな任務や役割を、責任という形で結び付け、二つを保ち続けていく信仰を森有正は説いたのでした。けれども、神さまとの関係とこの世の人間関係というのは、一つになるように思います。神さまとの関係を生きる事は、人間との関係に生きる事になるように思うのです。神さまとの関係の中で責任を果たす事は、人間との関係の中での責任を果たす事になり、逆に、この地での責任を果たす事は、神の国に入れられる者としての責任を果たす事にもなる。天に富を積むとはこの事になるのです。

神さまに召し出され、旅を続けたアブラハムは、罪の赦しによる祝福を与えられ、そのアブラハムとその子孫によって祝福が全世界に及ぶという約束が与えられました。アブラハムは、この約束の実現のために、この世を旅する者とされました。神さまの世界と人間関係の世界、つまり霊の世界と肉の世界は、神さまがアブラハムを通してこの世に祝福を与えようとされた時から、もう既に一つとされているのです。そして、神さまの御業の一つがこの地で起こるような形で、サラの死があり、また土地を手にいれ、墓を建てるという事が起こったのです。土地を所有したアブラハムは、神さまにも対しても、この地に対しても責任を果たのでした。この地に立てられたアブラハムの墓は、アブラハムとサラが神さまに祝福を与えられ、その祝福が全世界に及ぶという約束を信じて生きた事を証しし続ける基となりました。そして、この塩を受け継ぎ、管理するという責任を果たすアブラハムの子孫もまた、この地と天の神さまに責任を果たす恵みを与えられるようになるのです。

ヘブライ人への手紙十一章は、アブラハムの信仰をこのように言い表しています。「信仰によって、アブラハムは、自分の財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住んだのです」。またアブラハムとその子孫たちは「皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まい(かりずまい)の者であることを公に言い表したのです』と書かれています(8-12節)。神さまの約束は、生きているうちに実現したわけではありません。けれども、アブラハムは、必ず神さまの約束が成就する事を信じて喜び、その約束のために神さまに仕え続けて、神に選ばれた寄留者として歩み続けるのです。アブラハムは、神さまがきっと助けてくれるから、私たちは何もしなくてよい。

お任せしといたら、神さまが私たちを天国に招いてくれると、この世での責任を果たさず、無責任な仮住まいをしていたのではありません。彼は、全ての時に神さまの約束に希望を置き、神さまと人間に責任を果たし続けたのでした。

私たちの生きる世界を見ると、まだ神さまの約束が、成就しているように思えません。

ての人々が神さま祝福の中に生き、神さまを譲美しいるとも言えません。しかし、私たちには、全ての必要を知ってくださる神様と共に、約束が成就する事を待ち望む恵みが与えられています。だから、その約束の成就のために、信仰者としてこの世での責任を果たし続けるのです。アブラハムが支払った法外な金額である四面シュケルは、この世に神さまの恵みを伝える黄任を果たすためのお金であったと言えます。そして、アブラハムが立てた堂の近くに住むへトの人々は、このアブラハムの信側の証と共に生きる恵みをおのずと与えられる事になったのです。神さまと共に旅するアプラハムを、よそ者と考えていたへトの人々に対して、神さまはよそ者ではなく、あなたたちと関係のある、あなたたちに恋みを与えてくださる方であると、墓を通して証しし続けているのです。

イエスさまは、この世で旅を続ける私たちに、旅の行きつく先は、天であり、神の国であると、数えてくださいます。イエスさまは、全ての民を罪から救う者として、天から来て、天に帰られる方でした。イエスさまは、私たちの罪を引き受け十字架の死によって贈ってくださり、復活し、昇天され、私たちの故郷が天にある神の国である事を示してくださいました。イエスさまによって、アブラハムの信仰を受け継ぐものとされた私たちは、アブラハム

もまだ見ることの出来なかった、永遠の命と神の国に入れられる希望の約束を与えられ、「神の国は近づいた」とその希望を証し、歩み続ける責任を与えられています。

私たちは、イエスさまのこの復活の命に与るときに、愛する人の死をしっかりと受け止め、更に自らの死をしっかりと受け止め、こ再び神さまに立ち上がらせて頂き、この地での務めを果たすことが出来ます。その時々に与えられる、神さまの御計画と御業を受け止めて、イエスさまに新しい命を与えられ、神の国を目指して旅を続けるのです。生きる時にも死ぬ時にも、そして、復活の時にも私たちは、いつもイエスさまに与えらえた命を生き続けるのです。

礼拝に集められた私たちは、空によって信仰を告白し、神の国に入る者とされています。

そして、アブラハムがそうであったように、私たちがこの世での責任を果たし、神さまを証し続ける時に、その生き方全てが、この世に働かれる神さまの御業に繋げられます。多くの人が、神の国に入るための働きとなります。私たちは、このようにして、地の塩として生きる者とされているのです。

パウロは、このように言いました。「わたしの愛する兄たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に成みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(1コリ15;58)

アブラハムのように、生きていても、死んでいても、神さまの約束に希望を置き、この地上とそして天に生きる者として、喜んで責任を果たし、神さまの祝福を証し続けたいと思います。