チャリティー 音楽と祈りの会

主自ら家を建てたまふにあらずば

伊東にある祈りの館を覚えて

15ある「都に上る歌」


 詩編は全部で150編ありますが、その中で詩編120編から134編、丁度全体の1割の分量で歌われているのは、都詣での様子です。エルサレムを心のふるさとと思っている信仰者達が、例えば仕事を半年休んでエルサレムに上る。その蓄えを作るために普段働いている、と言ってもいいのかもしれない。そのくらい大事な旅の道すがら、歌われた祈りの歌が「都に上る歌」という共通のタイトルがつけられています。

 どんなことを都に上る道すがらの信仰者は思うのでしょうか。人生のまとめのようなつもりで旅に出ていますから、人生の様々な場面を思い起こします。例えば有名な詩編121編もその中に含まれます。ある人は詩編121編で歌われているテーマは何か、という問いを立て、次のような仮説を説いています。詩編121編は、赤ちゃんが母親の胸に抱かれて、安心して寝ている様子ではないか、と。

同じようにこの詩編127編が問題にしているテーマを考えますと、次のようになるのではないでしょうか。人生における成長はどのように得られるか、そもそも成長とは何か。そんなことを考えさせられます。


*成長の軌跡


 この詩編は全体として、日常生活をどのように積み重ねていくか、その積み重ねの仕方が、人生のスケールを決定する、ということを歌っています。ある人はすべての生活を厳密に管理しスケジュールを立てようとします。朝から晩まで働きづめで、パンを食べるときにも仕事や学業のことばかり考えている人に対して、詩人は二節で「むなしいこと」だと言い切ります。まるで食事をする時間、あるいは眠る時間は無駄なものだといわんばかりの態度に対して、こう問い直すのです。主が眠りをお与えになる。それは主があなたに罰を与える意味で眠らせるのではなく、主があなたを愛するが故に眠らせるのではないか。


 気が付かされるのです。私たちが人生において行う努力の意味を。例えば結婚する。子どもが生まれる。多く生まれればそれだけ人生が有利になるという発想が背景にあります。今風にいえば、子どもの数もさることながら、その教育の質に目を向けます。結局は同じことです。それは何かといえば、祝福が与えられるようにと努力をする、という発想に自ずからなっていき、そしてやがては努力をしたからよい目にあっているのだ、という風になっていくのです。

 しかし、そうではないのではないか。主があなたを愛するが故に眠りを与えたという事実を思い起こすときに、発想が変わるのです。


 人生において、家を建てるのは大きな転機です。ある人は、家を三回建て直したら、願っていた家になるだろう、と言いました。この言葉は実際には、三回は建て直しましょうという建設会社のアピールであるというよりは、人生において思ったとおりの、計画したとおりの家に住むことは出来ず、願っていたとおりの人生を歩むことは難しいのではないか、ということを言っているように思います。都を上るというのは、ある意味で人生の勝ち組のような生き方を実現でき、貯金を貯めての半年旅行を一族あげて行うような人に許された贅沢であるのかも知れません。その贅沢を実践している人が、この詩を繰り返し歌うのです。これは願っていたとおりの人生であるのか、それで良いのか、と。むしろ、神さまによって計画された人生であるからこそ、素晴らしいものと言えるのではないか。


 だから詩人はこの詩を次のように始めるのです。「主御自身が建ててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい」、と。四半世紀後の礼拝堂改築を志す私たちの業は、信仰の先達によって「教会将来計画」と名付けられました。この言葉を口にする度に思うのです。私たちはどのような意味で「計画」という言葉を使っているだろうか、と。それは教会のわざとしての将来計画ということに留まりません。めいめいが人生の中で立てる将来計画も同じです。自分の人生計画は自分で立てるが、教会の計画は神さまにお任せ、という考え方は恐らく詩人によってこういわれてしまうことでしょう。「その労苦はむなしい」と。


*神殿を建てたのは誰か


 この詩は、ソロモンの詩であるとされています。詩編全体の中で、圧倒的多数の詩は、父であるダビデ王の名前が冠せられています。例外的に二つの詩だけがソロモンの作品となっています。本当にソロモン自身が編纂したものかどうかは分かりません。しかし、その詩を祈った者は、気づくのです。この詩の中に、ソロモンの息づかいがあることに。ソロモンは、神殿を建てた人物です。ダビデの方が優れた政治を行っていたと思いますが、ダビデ自身は神殿を建てるに至りませんでした。今日の箇所の一節は従って、ダビデが神殿を建てなかったという経緯を説明しているとも取れます。今風にいえば、自称大物政治家が自分で自分の銅像を建ててしまうようなことをダビデはしたくなかった。しかし神殿そのものは建てられなければならない。そこでダビデはどうしたか。彼は神殿を建てる材料だけそろえたのです。計画を立てるに留まったのです。準備をすることだけが自分に許された唯一の神殿建設への参画方法である、と。


そうであるとするならば、ソロモンの役割とはなんでしょうか。直接的には神殿建設者です。しかし彼はこう歌うのです。この神殿は、主ご自身が建てて下さるものである、と。その意味はこうではないでしょうか。もし私が父親の業を継承して神殿を建てなくても、私の子孫が建てることになるだろう、と。


*伝道計画が持っている必然性、その根拠は何か


 高知県の山の中に中芸という村があり、その村には教会が建てられています。常駐の牧師はおらず、色々な牧師が午後に礼拝を行うことで支えています。今風にいえばリストラの対象になっても不思議ではない立地と規模です。日本基督教団には教団新報というメディアがあって、そこで特集を組むことになって、教会の統廃合というようなテーマで各地を取材していた際にご案内いただいた教会です。案内して下さった牧師には、そこを紹介することの明確な意図がありました。中芸というところは、陸の孤島のようになっていて、この村の住民が付近の教会に行こうとしても、行くことが出来ない。だから、この教会は昔一時的にキリスト教がブームになってその余波として出来た教会、というようなことではなく、中芸に教会がなければ、新たに建てる必要がある、と認識されるような場所だ、というのです。似たようなことを石川県の能登で聞きました。そこの牧師が、能登にある教会は全部で4つ、牧師は三人、公共の交通機関を使って日曜の朝家を出て礼拝の時刻にたどり着けるか、この4つでは実はカバーできていない地域が能登に一箇所あって、というような話をし始めたときに、思いました。伝道というのは、人間が計画するのではない。神さまの御計画を私たちが察知して、そして起こる出来事なのだ、と。伝道的必然性、などという言葉を考えた記憶があります。


 ソロモンは神殿の建設者なのでしょうか。むしろその準備をしたダビデの功績が大きいのです。しかしダビデはこう言うでしょう。私は罪深い人間で、実際色々失敗もした。だから神殿を建てる資格はない。だから私ではない、私は準備をすることしか出来ない、と。ですから確かに世間的な意味での神殿の施主はソロモンということになります。しかしソロモンは言うのです。「主御自身が建ててくださるのでなければ家を建てる人の労苦はむなしい」、と。


 教会将来計画は未完の業です。しかしだからこそ多くの人が参与する余地があります。これは信仰の継承の業の一環です。信仰が継承される。その目的を私たちは、教会自身の存続ではなく、伊豆伝道の灯を消さない、ということに設定しています。ソロモンの言葉でメッセージを締めくくりたいと思います。「主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」