エウティコという生き方

2023/08/20 三位一体節第11主日・召天者記念礼拝 

使徒言行録20712節、ローマの信徒への手紙14711節 「エウティコという生き方」 説教者 牧師 上田彰

 

 今日、使徒言行録の一つの聖書箇所に思いを向ける際に、この箇所につきまとうのは、「これは単なる偶然の連続なのか」という思いです。偶然礼拝中に人が倒れた。一旦は死亡と判断された。しかし偶然すぐに蘇生した。何か偶然が続いている、それはしかし単なる文字通りの偶然ということであって、それ以上の意味があるわけではないのではないか、というような印象を持つ箇所です。よい偶然が押し寄せてきたらうれしくなるのは当然です。しかし同時に思うのは、悪い偶然が押し寄せてきたらどうしようか、ということです。今日の箇所で、いわばよい偶然が押し寄せる話に目を向ける際に、どうしても頭を離れなかったのが、悪い偶然が押し寄せてきたら私どもはどうすればいいのだろう、ということです。そのことに思いを向けていく際に、一つ別の聖書箇所が思い浮かびました。そこで、先にローマの信徒への手紙の箇所についてお話をしてみたいと思います。

 

 キリストの使徒でありますパウロが、次のように語っています。

 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。

 この言葉は直接的には、教会で起こっていたもめ事があり、その紛争を解決するために語った言葉です。一方には、食事に関して色々な取り決めを重んじる信仰者がいました。他方には、そのような取り決めと無縁のまま信仰者となった人々がいました。背景が全く違う者たちが、信仰によって一つの教会に結び合わされている。美しいはずの事柄ゆえに、教会は困難に陥っていました。互いに、自分の信仰的な確信故に相手に譲らないということが起こったのです。信仰というのが、究極的には自分の確信そのものから来るのであるならば、自分がこうと信じたことを相手に譲ることはむしろおかしいことだ、ということになり、実際にそう考える者同士で争いが生じたのです。

 この争いを解消するためにパウロが示した道筋は、次の通りです。主のために生き、主のために死ぬべきである、という言葉の内の、主のために生きる、というところに注目をしてみます。主のために生きる、というのは、自分は召使いであり、そして仕えるべき主人がいる、ということです。召使い同士が争いをすることはありません。自分の主張を振りかざすことは召使いの場合にはあってはならないのではないか。だから諍いはやめよう。

 これは一応尤もな理屈です。ただ、十分ではありません。パウロはこれに、「死ぬとすれば主のために死ぬ」と記すことで、さらにこの議論を深めます。ある人が、こう言いました。「生き方を学ぶ者が、死に方をも同じように学ぶのである」。生き方と死に方は同じ原理に基づいている、というわけです。通常磁石のS極とN極が互いに反発し合うように、生き方と死に方は正反対のものだと普通は考えられています。しかし、パウロは「主のために」と記すことで、視点が変わると考えるのです。丁度、地球の南極と北極が正反対のものであるのに、人間が一旦宇宙船に乗り込んで地球を飛び出せば、そして地球を離れれば離れるほど、S極とN極は相離れたものではなく、近づいてきます。大した違いではなくなるのです。主のために生き、主のために死ぬ、というのはこのように、生きるということと死ぬということの間にある大きな違いを乗り越える鍵となっています。

 違う説明を試みてみます。生きるというのは私どもにとって大きな課題です。幸せな生き方を志す場合に、何らかの意味での努力は不可欠でしょう。努力を正しく積み重ねることによって成功が得られる。これは普通の考え方です。しかし同時に気がついてもいるのです。人生の幸福とは、単に努力の積み重ねによって得られるのではなく、偶然の要素もある、ということに。少し格好をつけて言うならば、努力を積み重ねることというのは、色々なところに落ちている偶然の要素を拾い上げる確率を高めることだ、となるのかも知れません。しかし偶然をそのように拾い上げるような仕方で処理できるばかりでなく、むしろ偶然によって支配されてしまう、藪から棒に偶然というものに出くわしてしまって対処が出来ない、ということが起こりえます。

 この一年あまりの間に私どもが親しくしていた教会員の中で、偶然の事故に巻き込まれたとしかいいようのない形で亡くなった方が何人かおられます。ご遺族はもちろん、教会の牧師である私も、その出来事を思い起こすときに、首をかしげながら、あれは合理的な死であったのか、なんとか避けられたのではないか、という思いを持ってしまうような事故です。偶然によって生と死が分けられてしまう。分かれてしまう。それほどに生と死の間の溝は薄く細いものであったのか。先ほどの言い方でいけば、別に離れて眺めることをしなくても、もともと生と死の間にはそれほど違いが無いのではないか、という思いまで持ちかけてしまうほどです。

 そこで、さらに聖書を読み進めてみます。すると、「生と死の狭間」についてのもっと重要な示唆が現れてきます。それは、イエス・キリストの歩みを考える場合に、生き、そして死ぬ、という順番で考えるという私どもの常識は終わりを告げる、ということです。一体どういうことでしょうか。確かに、7節や8節では私どもの人生の歩みについて、生きることと死ぬこと、というよくなじんだ順番で記されています。しかし9節になってキリストの歩みということになると、急に順番が変わるのです。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」。地球に住んでいる私どもが、地球から離れてみると地球は青かった、ではありませんが、南極と北極にはそれほど違いは無かった、そういう風に言いなすことは、理屈としては分かるのですが、現実的にはどう考えたらいいのだろう、となってしまいます。しかし、パウロは言うのです。キリストを見よ。そうすれば、死に、生きるというお方がそこにいることが分かるだろう。その時に、生と死、いえ死と生の関係について気がつくことがあるのではないか。いやキリストを見るというだけでは駄目で、キリストに仕えなさい。死に、そして生きたお方に仕えることによって、生と死を乗り越える視点を持てるのではないか。「生き方を学ぶ者が、死に方をも同じように学ぶのである」という先ほどの言い方になぞらえますと、「死に、そして生きるお方に学び、仕える」となるでしょうか。

 死に、そして生きるお方。パウロが指し示す主イエス・キリストのお姿です。なぜパウロは主イエスについて、「死に、そして生きる」という順番で書いたのでしょうか。偶然ではなく、明らかに意図的に順番を反対にしているのです。先ほど唱えました「使徒信条」を見ますと、主イエスは十字架にかかられて亡くなってから、陰府の国と呼ばれる死者の国を経験なさる。そのことを出発点として、このお方は私どもの主となって下さるために、死者の国から天の国へと歩みを進めるために、復活をなさった。

 通常私どもはこう考えます。私どもは地上の国にいて、生活を営んでいる。そして死後、陰府の国に行き、そこで眠りにつく。主イエスが私どもに呼びかけて下さったときに私どもは復活し、天の神の国の一員に加えられる。

 地上の国と死者の国との間には細いけれども超えがたい線が引かれていて、一度死者の国に渡ると、戻ることは出来ない。ここが決定的な違いである、と。しかし、本当に超えがたいのは、陰府の国から天の神の国への一線です。それは、文字通り、どのようなことをしても人間の力では超えることの出来ない一線です。地上の国から陰府の国に移される際に、偶然の力が働いたとしか説明のしようが無いケースというのは、残念ながらあります。しかしそこから天におられる神の国へ引き上げられるということは、もうこれは偶然でも努力でも起こりえない次元の出来事です。主イエスに呼びかけてもらい、引き上げてもらう以外の方法はありません。だからこそ主イエスは、その私どもの先を行かれるために、陰府に下り、復活なさったのです。

 そろそろローマの信徒への手紙についてのお話は終えて、使徒言行録の話に移りますが、今日のローマの信徒への手紙の箇所の主題について触れます。この箇所は、「感謝そして礼拝」について記しているところです。感謝と礼拝。どちらも聖書の元の言葉では同じ言葉で、「よい賜物」を意味する言葉です。いがみ合ってしまうことがある隣人を愛することは感謝とも言い換えられますが、本当の意味の感謝が与えられるのはキリストが礼拝されるときです。キリストとの出会いを感謝する、その時に、当初問題になっていた諍いなどというものは、自ずから消え去ってしまっている。

 

 この「感謝」ということが使徒言行録の箇所の主題にもつながります。ここに出てくる主人公の名前はエウティコといいます。直訳すると「よい偶然」となります。ちょうど先ほどの「よい賜物」と似ている部分があります。よい賜物も、ただ与えられっぱなしでは駄目で、感謝しなければ意味が無いのと同じように、よい偶然というのも、感謝してこそ意味があります。英語で幸運を祈る、というのを「グッドラック」といいます。グッドラックのドイツ語の形はグリュックといいまして、グリュックの場合、単に幸運、というのではなく幸福、という意味合いが強くなります。幸運が幸福にもなる。偶然がどっと押し寄せる状態が幸運だとするならば、その状態を感謝して受け止めるのが幸福である、という事になるでしょう。従って、エウティコを幸運太郎、短く言えば幸多郎という名前だと見なすのか、それとも幸福太郎、感謝太郎と訳すのか、で話が変わってきます。

 今日の出来事を経験した人の中には、エウティコの礼拝中の心停止と蘇生は偶然だ、と考え、ああエウティコとは幸運太郎、幸多郎だなあと思った人もいたかも知れません。しかし同時に、この出来事を通じて感謝をする、ああエウティコとは幸福太郎、感謝太郎という意味だなあ、と思った人もいたに違いありません。同じ出来事を通じて、偶然が重なったと見なして終わるにするのか、そのことを通じて感謝に至るのかというのは、何か大きな違いにつながっていく気がいたします。

 

 この日はパウロが翌日出発するため、日曜の夜にもう一度教会のメンバーが集まりました。パウロにも話し足りないことがたっぷりあったのか、真夜中まで話が続いたといいます。どのくらいの人々がそこにいたのかは分かりませんが、若い人が窓際に腰掛けざるを得なかったようです。

 ところが、彼は眠ってしまった。その理由については今回は詮索しません。パウロは、書く文章に比べれば話すのが下手だったという話もありましたし、夜中であったということも理由になり得ると思います。問題は、眠りこけて窓から落ちてしまった、ということです。場所は三階。そこから一人の若者であるエウティコが落ちてしまいました。

 先に駆けつけた人たちの中に、おそらく、医者のルカが入っていて、彼自身が死亡を確認したと想像できます。脈を取ってから、うなだれて首を振る。周りにいる人たちが一斉に肩を落とす。

 そこに遅れてやって来たのが説教者、パウロです。彼は、倒れている若者を取り囲む、悲しみ始めている人々の間に割って入り、そして彼を抱き上げて宣言します。「騒ぐ必要は無い。彼は生きている」。説教の最中に彼は説教を中断して、不慮の事故で亡くなっていたかに思われていた若者を生き返らせて、そして説教を続けるのです。

 私自身、一人の説教者として、考えさせられました。自分は同じようにするだろうか、と。多くの説教者とおそらく同じように、可能な限り「何も無かったかのように」説教を続けようとするのではないか、と思いました。例えば、皆が、もうこれは説教やパン割き、礼拝どころではないと言い出して、気もそぞろになってしまう。今でいえば、礼拝が中断して自称関係者が次々と礼拝堂を出てしまう。気まずい思いで残っている人たちと礼拝を献げ、説教を続ける。そうなってしまう。私どもでもそういう可能性を知らないわけではない。そうなってしまうことを思えば、むしろ少なくとも説教者だけは説教に集中し、あたかも何もなかったかのように説教を続けた方が良いのではないか。

 ただ、一方で思うのです。礼拝において、あるいは説教において、アドリブというのはどこまで可能なのだろうか。例えば野の花、空の鳥を見よという箇所で説教をしていて、そこに烏の鳴き声が聞こえてきた。それなら、ああ、エリヤを救ったあの烏もまた、空の鳥の一員なのです、とアドリブで語れればなんと礼拝が生き生きとしたものとなることでしょう。

 原稿を読むことに集中し続けることで礼拝を続けるということもあるでしょう。しかし今そこで起こっていることを説教に取り込むことで、説教をライブのものに、生のものにすることが出来るということもあるのではないでしょうか。礼拝を礼拝とし、説教を説教とするのは神さまの力です。その力が最大限に生かされる形で、パウロは説教を中断した。いえ、若者のところに駆け寄ることそのものによって、なされるべき説教を彼は続けた、とも言えるのではないでしょうか。

 牧師になるために勉強を重ねる中で出会った恩師の一人に大住雄一という先生がいます。この方が、口癖のように次のようなことをおっしゃっていたのを思い出しました。「教会では、無事という言葉は使ってはいけない。無事に集会や行事が終わりました、というようなことは本当はあってはならない。礼拝では、なにかが起こるはずだからだ」。人間の考える計画通りになにかが起こる、というのでは十分ではない。使徒言行録を見てみますと、確かにそこにはハプニングの連続が記録されています。

 今日の箇所では、人がよみがえるという「ハプニング」が起こりました。予定外に起きた復活の出来事です。しかし人々が驚いているのは、そして慰められているのは、よみがえりが起こったということそのものだけではないようです。むしろ、そのハプニングが起こったにもかかわらず、礼拝がいつも以上に豊かに献げられている、ということです。まさにすべてのことが「よいタイミング」で起こったのです。

こういったことを考え合わせたときに、エウティコのよみがえりの意味がはっきりするように思います。若者は死に、そして生き返りました。ちなみに今日の箇所では、生き返ったシーンははっきり描かれていません。生き返ったシーンをことさらに取り上げる必要がなかったようなのです。

 むしろ、死に、そして生きるということが礼拝の中で起こったのは、単に偶然ではなく、むしろ、私どもの死と生がそもそも神様に委ねられたものであることに人々は気づき、そして感謝した。その思いが強かったが故に、蘇生した場面についての記述がなおざりになったのではないでしょうか。

 

 今日の箇所で、幸いになったのは誰でしょうか。なんと言っても生き返ったエウティコ本人でしょう。彼は幸運なだけではなく、また感謝することが出来ます。また、その現場を目の当たりに出来た人たちもまた、突発的な出来事が神さまの示した調和の中に収まっていったことを知り、慰められました。もう一人、この良いタイミングの出来事に出会い主に感謝する者がいます。それはパウロです。彼は今起こった、よみがえりの出来事に立ち会うことそのものを、説教の一部に取り込む形で、織り込む形で、説教を続けるという忘れがたい体験をしたのです。

 パウロは、アドリブの天才だったのでしょうか。他の説教者が出来ないような仕方で、様々な出来事を説教に織り込むことが出来る能力を持っていたのでしょうか。もしそうだったら素晴らしいことです。しかし、そうではない可能性もあると思います。つまり、パウロとて、色々な出来事をその場で説教に織り込む能力が元々あったわけではなかった、しかしだんだんにそういったことが出来るようになった。下手でもいいから、信仰を生き生きとしたものとするために、状況を織り込んだ説教が出来るようになった。

 もしそうであるとするならば、確かにそういう姿勢を一人の説教者としてパウロから学びたいと思うのですが、同時に説教者である私の問題だけでなく、ここにいるすべての人にまた、パウロに学びましょうということを言いたいと思うのです。パウロがしているのは、単に礼拝をライブで、アドリブをいれて行いましょう、という話だけではありません。人生そのものが、シナリオから成り立っているのではなく、ライブで起こっているからです。道を歩いているときに倒れている人がいる。それを助ける。その業一つとっても、シナリオ通りだからといって人助けをするわけではありません。神さまの力が私を通じて自由に働く。主に仕える者が、主によって命を取られ、そして主によって生かされる。だから私どもは幸いです。エウティコという生き方を体現できるからです。

 

 最後にこの一年の間に、死から生へと歩みを進めたお方イエス・キリストを主と仰ぎ、感謝して眠りについた方々の名前を読み上げたいと思います。今回、事情があって多くの牧師や宣教師の名前が新たに加わります。伝記のようなものが残っていますので、そういったものを今回いくつか読みました。大体のものが、余生を平穏に暮らし、息を引き取った、となっているか、不慮の事故や病気によって思いのほか早く天に召された、という二つのパターンに収斂していくように思います。しかしどんな人の死についても思うのは、納得しきることの出来る合理的な死というものは無い、ということです。どこかに不条理なものがある。しかし思うのです。どんな経緯を経て主に召されたにしても、エウティコや周りの人たちのように、感謝することができるのではないか。そんな思いを抱きます。

 エウティコのような生き方を体現し、そして主によって召された者を、私どもの教会では召天会員とお呼びします。昨年の召天者記念礼拝から昨日までの間に新たに召天会員に加えられた方々の氏名をお読みします。加藤みその姉妹、引地麗子教師、室伏きみ子姉妹、菅野親子姉妹、岡部孝也兄弟、青野悦子姉妹、高見久義兄弟、雲野喜美子姉妹。続けて、教師並びに宣教師で新たに召天会員に加えられる者の氏名もお読みします。アンナ・セットランド宣教師、アウグスト・マッソン宣教師、エドラ・カールソン宣教師、小出朋治牧師、土肥元一牧師、堀田富三牧師、江連博治牧師、松田政一牧師、磯治作福音士、林兵吉牧師、眞嶋慶三郎牧師。これらの方々をあわせ、伊東教会の召天会員の人数は389名です。

 

 私どもの信仰の先達の歩みを感謝して覚えたいと思います。