世界を騒がせる者たち

三位一体後第九主日聖餐礼拝 「世界を騒がせる者たち」 

使徒言行録説教第55回 17章1~9節 牧師 上田彰

*アタナシウスは世界を敵に

 今日の箇所を読みながら一つの言葉を思い出しました。「アタナシウスは世界を敵に」という言葉です。今日の讃美歌72番は、アタナシウスの信仰を思わせる讃美歌です。

 この言葉は、西洋においてことわざのように使われて、たった一人で正義を貫く、というような意味合いで用いられます。日本語でいえば孤軍奮闘・四面楚歌、といったところでしょうか。

 アタナシウスには敵が多かった、というわけなのですが、ではアタナシウスが戦った敵とは、どのようなものであったのでしょうか。彼は4世紀に活動した人物で、後に司教となります。ニカイアで324年に行われた世界初めての教会会議に出席し、キリストが神であるということを主張した人物として知られています。その会議に出席していた者たちの多数派は、キリストは被造物の中で最も優れたお方だ、という考え方であったといいます。アタナシウスは、その考え方では駄目だ、とかみついたのでした。その考え方(キリスト被造物説) に基づいた信仰は、見かけ上どんなに立派な信仰であっても、実際には御子キリストを単なる人間に貶めることになる。それでは私たちがキリストを通じて救われるということがなくなってしまう。彼は、人間がキリストによって救われるということを真剣に考えた場合、キリストが神であるという事実はないがしろに出来ない、と考えました。父なる神、子なる神、聖霊なる神、という三位一体の神の信仰は、弾圧が止んだばかりの4世紀前半の教会にとって、なお自明のものではありませんでした。

 アタナシウスはその後も何十年もの間、キリストが神であるという立場を崩さず、何度も国家から見放され、時に命の危険にも陥りながらも、最終的には教会はアタナシウスの立場を取るようになりました。

 次のように言うことが出来るでしょう。もしその時にアタナシウスが妥協して、キリストは神のようなものではあるが神であるかどうかははっきりしない、などということを言っていたとしたら、教会はその後短い間運動として盛り上がって、そして忘れ去られる運命になっていたことでしょう。かの「アタナシウスは世界を敵に」とは、単に強情を張って持論を貫き通す、という意味ではなく、正論を貫くことによって教会が、いえ世界が救われる可能性を残した、という意味合いを持つことになります。

 同じような意味で、「パウロは世界を敵に」ということも言えるのではないでしょうか。もちろん、違いもあります。例えばパウロは一人で世界を敵に回したのではなく、シラスなどの仲間がいました。ただ、世界を最終的に救うことを目的として、一時的に世界を敵に回した、ということは共通していえるのではないかと思います。アタナシウス、そしてパウロ。いずれも、救いということについて真剣に考え抜いた信仰者である、ということは言えるのではないでしょうか。

 

*パウロの説教、その核心にある「イエスこそキリスト」

 パウロが論点として示したのは三つあります。三回の安息日に渡って語った、とあるので、三回説教をする際、それぞれ一個ずつ論点を示した、とも考えられます。一回目の説教は「メシアは必ず苦しみを受ける」ということについて。二回目は「メシアは死者の中から復活することになっていた」ということについて。そして三回目の説教が「このメシアとはイエスのことである」ということについて、です。これらはいずれも、ユダヤ人に対して、そして世界に対して、挑戦的な発言です。例えば一個目、メシア、つまり救い主は、苦しみから救い出すお方であるはずなのに、そのお方自身が苦しむというのはおかしいのではないか。これがユダヤ人の、いえ世界の常識です。自分を救いたいなら十字から降りるが良いと、主を十字架につけた兵士達はあざけりました。

 もう一つが、主が復活なさった、ということです。(これは、一旦死の世界にたどり着いた者が生の世界に戻ることはあり得ないが、神の子には出来る、という意味があります。いずれこのことは詳しくお話しできます。)これもまたパウロが決して引っ込めることがなかった論点でした。

 もう一つ、メシアとはイエスのことである、というのが第三の論点でした。これはイエスとはメシアのようなお方である、という意味でも、もしメシアがいるならイエスのようなお方なのではないか、ということでもありません。イエスはメシアである、と言っているのです。ここまでは、「メシアは~である」という形を取っていますが、この第三の論点は実質的に「イエスこそがメシアである」という風に、「イエスさま」が主語になっています。

 これがある意味で、世界を敵に回すような大胆な宣言となったのです。メシアが復活するというのは理解出来るかも知れません。メシアが苦しみを受けるということも、想像は出来ます。それは一般論を言っていることになりますから、単に議論に参加するだけということならできないわけではないのです。しかし、そのメシアとはイエスのことである。これは単にメシア思想を受け入れる、というような話ではなくて、あのお方こそがメシアである、ということを受け入れるよう求める主張です。これは使徒言行録の中では、ペトロの説教でも多少見られる発言ですが、このテサロニケにおけるパウロの説教において最もはっきりと出ている論点です。

 

*ユダヤ人達のプライド

 安息日第三週に、パウロは大胆な論点を出してきました。それは、パウロの呼びかけは、一般論としてのメシア思想の話ではなくて、あのナザレのイエスの元に立ち帰りなさい、ということを示しているのです。メシア思想というものがあります。やがて救い主がやって来て私たちを救う、というのがメシア思想、メシア信仰です。やがてメシアがやって来る、そういった思想はユダヤ人にとってなじみ深いものでした。そのメシアが苦しみを受けるとか復活するというのも、確かにペトロとかパウロはちょっと変わったことを言っているな、という認識にはなったと思います。しかし、いやあのナザレのイエスこそがそのメシアなのである、というのは相当大胆な大胆な提言です。そして、パウロは世界を敵に回したとしても、この提言を取り下げることはありません。

 驚いたことに、この説教を聞いて、イエスさまを信じたいという者たちが洗われたというのです。しかもそれはユダヤ人達ではなく、この説教を同時に聞いていた異邦人や女性である、というのです。これらの人たちが後にテサロニケ教会の中心メンバーになっていったことは、想像に難くありません。そして彼らがパウロ達に従ったのを見てユダヤ人達は妬んだ、熱い思いを持った、とあります。

 いくつかの背景が考えられます。信じたのは異邦人と女性であった。本当は自分たちが救いに近いはずだ、とユダヤ人達は考えていました。しかしパウロの説教を聞いて、自分たち以外がイエス様を受け入れていく。自分たちは、メシアというものがそもそも苦しみを受けるものだろうか、復活するものだろうか、という次元で迷っている間に、異邦人や女性がイエスを受け入れ、パウロ達に従っている。ちょっと性急すぎるのではないか。これだから救いについて無作法な連中は困る、などと考えている間に教会の中心メンバーが教会建設に向けて祈りを捧げ始めている。正直、ここから名乗りを上げて自分たちも信じようというのはプライドが許さない。それならむしろパウロ達の活動を妨害してやろう…。そう考えたかどうかは分かりません。しかし彼らはならず者をそそのかして暴動を起こし、そしてその混乱の理由は自分たちではなくパウロ達にある、パウロ達がこの混乱の張本人である、と当局に訴えるのです。

 

*ユダヤ人達は神を敵に

 ここまで読み進めたときに、感じました。アタナシウスは世界を敵に回した。パウロも世界を敵に回した。それは彼らがちょっとおかしい変わった人だったから世界を敵に回してしまったというのではなく、実は世界自身が救いから離れて、自ら混乱に陥ったのではないか。そして自らが混乱に陥ったにもかかわらず、その責任はパウロに、そしてアタナシウスにある、と言い立てているのではないか、と。

 この町において、パウロ達の滞在の世話をしたのはヤソンという人でした。テサロニケ教会においては珍しい、ユダヤ人でキリスト者となった、先駆けのような人です。少なくとも三週間以上にわたって長くこのテサロニケにパウロ達が滞在する間、色々面倒を見たのがこのヤソンという人物です。彼はこの暴動の騒ぎの際、逃げ出すことをせずにいたため、パウロ達の世話をしていた人物で、彼もまたこの混乱の張本人だ、というユダヤ人達の訴えに巻き込まれてしまいます。彼もまた皇帝の勅令に背いた人物の一員だと見なされているのです。

 「イエスという別の王がいる」、というのはもう少し正確に翻訳するならば、「イエスの王国が存在する」ということになります。ローマの帝国が、つまり皇帝が支配する領域が、テサロニケであったはずです。しかしパウロ達は、そこをイエスさまが支配なさる、そう主張したことになるのだ、これは政治的紊乱(びんらん)の罪に当たる、というのがユダヤ人達の訴えだったのです。これがテサロニケの当局者達にも動揺を与えました。

 しかし、考えてみると滑稽です。政治の世界には、マッチポンプと言って、自分で火をつけておきながら、「ほら火がついている、これは危ない」という主張をする政治家がいます。ユダヤ人達も、自分たちが騒動を煽っておきながら、その騒動の原因はパウロ達にある、と言い出しているのです。この元祖マッチポンプのような主張も、しかし考えてみると興味深いように思います。

 彼らの主張を彼ら寄りに取り上げると、こうなります。今回は確かに暴動を起こしたならず者を煽ったのは自分たちユダヤ人だ、しかしこれからも暴動は起こり続ける。このパウロが、イエスこそメシアという危険思想を取り下げないのなら、これからも誰かが動揺し続け、暴動を起こし続ける。だからいっそのこと今すぐこの男を捕まえておいた方がいい…

 前回のフィリピでは、占いをする悪霊を追い出したことが理由で投獄されました。ローマの秩序を乱した、というのが逮捕の名目でした。その時もまたパウロは、占いをする悪霊を追い出すというよりも、その悪霊がその女性に取り憑いた状態におくことで、彼女から経済的な搾取を続けようとする、大きな悪霊と向かい合うというのがパウロの使命でした。

 ここテサロニケでは、さらに大きな悪霊とパウロは向かい合っています。それはイエスをキリストと言わせない霊であり、イエスさまが支配する場所が地上に存在することを認めない霊です。福音書を見ても、人間よりも先に悪霊の方がイエスさまの力が大きいことを見抜き、先に騒ぎ始めています。ある意味でユダヤ人達は、「このイエスこそキリストである」という、パウロの説教が持っている本当の力に、他の人よりも早く気づいたのではないでしょうか。そして、異邦人や女どもはこのパウロの説教の「危険性」に愚かなことに気づいていないのでイエスを信じてしまった。だから自分たちが暴動を起こしてでもパウロを、そしてイエス・キリストを信じる者がこれ以上この町で増えないようにしないとならない…、と変な使命感を持ってしまったのではないか、とも想像できます。

 

*戦時中の日本基督教団の本当の過ちとは

 教団の暦によれば、本日は平和聖日です。だからというわけではありませんが、戦争のことについて一言触れたいと思います。戦争というのは、私たちが国家に対して、国家が本来持つことが出来る以上の権力を一時的に持つことを認めることで、国同士の争いを特別な形で解決するために起こす事柄です。国家は本来持ってはならない武器や兵器を持ち、本来認めてはならない外国人兵士を殺す権利を持ち、また本来は認めてはならない徴兵の権利を遂行し、そして本来認めてはならない人権の抑制、例えば知る権利の制限を国家が行うことを認めることで、成り立ちます。

 そしてその中に宗教団体を支配する権利が含まれるかどうか、には議論があります。実際問題として、日本基督教団は国家によって支配される宗教団体として発足しました。「それはあり得ないことであった」といって戦後、私たちの仲間の教会(旧第八部)は別の教団(日本同盟基督教団など)を作りました。日本基督教団マケドニア会は、松本廣牧師が教団残留の主唱者となり、今も教団に留まっています。

 ところで、日本基督教団に属しているグループのうちいくつか(旧第六部、第九部、いわゆるホーリネス系)は戦時中に、宮城遥拝などは認められないと声を上げた結果、牧師たちが投獄されるに至りました。当時の教団の指導者達は、弾圧されていたグループについて見放すような態度を取ったとして、後に謝罪をしています。

 しかし本当の意味での歴史の再評価がされたのは21世紀になってからです。ある人が次のような論文を発表しました。戦時中に国家が弾圧をしたのはいずれも東京でいえば下町のキリスト教で、例えば救世軍、そして日本基督教団に今も残るホーリネスのグループであった。日本の教会の主流派は例えば富士見町教会などのように、長老派とか会衆派、メソジスト教会であったが、それらは上流階級のための宗教という位置付けに自ら甘んじていて、日本人全体に広がる怖れはなかった。しかし下町の宗教は日本人全体の宗教になる可能性があった。そのことに気づいた国家は、いわゆるメジャーな教派については弾圧を加えず、民衆的な下町の系譜の教派に弾圧を加えた、というのです。

 もちろん、この論文は著者自身が「仮説」と言っているように、なお考察が必要です。そもそも、「国家当局の洞察」がどういうものであったのか、立証されていないのです。しかし、この論文には、ある深い問題提起があると思います。それは、戦後の日本基督教団の戦争総括そのものに対する疑義です。

 つまりこういうことです。キリスト教のうちでも日本全体に広がる志と可能性を秘めた教派があった。しかしそれらの教派は他の教会からはあまり重んじられていなかった。にもかかわらず、国家は潜在的な国民宗教となる可能性をつぶすために、弾圧を敢行した。他の教会群は国民宗教の確立という志を放棄し、弾圧を黙認した。国民宗教となるには真理契機が必要です。この形で私たちは日本人の宗教となる、という確信です。しかしそれがなくても「既存のお客様を相手にして自分たちのグループを維持する」ことは可能かも知れない…。

 日本基督教団の戦争責任は戦後、「教会が国家に服従していた」ことにあるとまとめられています。しかしその見解は、本当に悔い改めなければならない事柄から目を閉ざす結果になってはいないか。本当に悔い改めなければならないのは、自分たちが安全地帯におり、それでもキリスト教の「パイ」を中心的にとり続けられる、そう考えて、国民的宗教としてのキリスト教の形成という本来の使命を忘れていた点にある、という訳です。

 私はこの見解を信じたくはありません。当時の教団指導者が、国民的キリスト教という志をいくらかでも放棄していた。自分が食えればそれでいいという思いに陥っていた。そのDNAが自分にも受け継がれているのかも知れない。恐ろしくて認められないのです。平和聖日に、遠い地と遠い日の戦火を覚えて祈るのではなく、私の内にある「偽善的平和」を見つめたいと思います。

 

*「新しい世界の真理」に気づいた人たち

 話を戻します。「このメシアはわたしが伝えているイエスである」。パウロは、第三説教において「キリスト教の真理契機」を語りました。それは、「ナザレのイエスこそメシア」というものです。多くの聴衆が集まっていたわけではありません。また、それを聞いていた人たちの中でも異邦人や女性しか見向きもしないものでした。しかし、従わなかったユダヤ人達も、実は説教を注意深く聞いていたのではないか。そしてその説教の本当の価値、本当の恐ろしさに気づいていたのではないか。そこで周りから見てもやや過激と思われるほどに厳重な弾圧を加えた。パウロの説く福音の力強さに気づいていたからではないか、と気づかされます。

 

 パウロは世界を敵に回します。それは同時に、パウロの説教を通じて、世界が神を敵に回したことに世界自身が気づいてしまった、ということではないでしょうか。そしてユダヤ人達が考える古い世界が、神さまを敵に回したのみならず、その敵に回っている陣営にはパウロやシラス、そしてこのテサロニケの人々の中からも自分たちの敵に回ってしまっている人たちが起こり始めている、古い世界の住人であるユダヤ人達は、新しい世界を敵に回し始めている、そのことにユダヤ人達は本当の意味で妬みというか、怖れを感じたのではないでしょうか。古い世界は新しい世界を敵に回している。ローマ帝国とユダヤ人の秩序は、イエス・キリストの王国を敵に回している。

 

*新しい王国への招き

 パウロならこう考えると思います。この新しい王国の住人として、ユダヤ人もまた招かれているのだ、と。実際、彼は後にテサロニケの信徒への手紙を二通記す中で、ユダヤ人の伝道妨害について言及する一方で、ユダヤ人キリスト者が生まれることを願っています。ユダヤ人達もまたヤソンのように、キリストの王国の一員になることが出来る。

 

 確かにパウロの説教を通じてキリストの王国の一員になったのは、すべての人ではありません。しかしテサロニケの人々皆がそこに招かれている。同じように、教会が語る福音の説教は現代においてもなお町のすべての人に向かって招きを続けています。言い換えれば、地上に完全な形でキリストの王国はまだ現れていません。しかしその片鱗は教会という形で形作られている。アタナシウスは一人で世界を敵に回したかも知れません。しかしパウロには志を共にする者たちがいます。教会です。私たちの教会の説教は、地域の人たちに届いているでしょうか。そして嫉妬を生んでいるでしょうか。さらにその嫉妬を、良い形で解きほぐし、私たち自身が町の人に対して、教会への招きを行い得ているでしょうか。

 

 私たちの前に、聖餐の食卓が備えられています。この食卓は、キリストの王国が不完全ながらも教会という形で既に地上にあることを示しています。この食卓を通じて、このイエスこそキリストというパウロの説教を思い起こしたいと願います。