神の歴史に立つ

2023/07/23 三位一体後第七主日 
創世記 22:14~24 「神の歴史に立つ」 牧師 上田文
最近、家系図を作るのが流行っていると聞きました。家系図を作ると、自己肯定感が高ま
ったり、仕事先で自分の事を紹介出来る材料が増えるので、信頼されるようになったりする
のだそうです。また、ふるさとの話をすることで、よく似たルーツを持つ人と新しい交わり
が生まれたりもするのだそうです。また、人生の終わりの時のための準備として家系図を作
ると、自分のルーツを知って、それを、将来に伝承していくという未来の事まで考えられる
ので、死を受け入れやすくなるという人が多いのだそうです。
今日の聖書箇所には、アブラハムの系図が出てきます。もちろん、アブラハムの系図と私
たちが作る家系図は違うものです。なぜなら、アブラハムの系図は、罪が赦され神さまの国
に入れられる者の系図だからです。そして、アブラハムの物語のクライマックスにこの系図
が出て来るのは、ここに神さまがアブラハムに与えられた祝福の意味が表されているからで
す。神さまに与えられた家族が増えていく事をこの系図は表しています。そして、今ここで
礼拝を捧げている私たちも、この系図に連なる恵みを与えられています。今日は、モリヤの
山からベエル・シェバに帰ったアブラハムに、神さまが与えてくださった恵み、そして、そ
の系図に連なることになる私たちに与えられている恵みについて、聖書に聞いてみたいと思
います。

アブラハムの系図。それが書かれているのは、今日の聖書箇所だけではありません。アブラハムの物語が始まる、12章の前の部分にも記されています。アブラハムの父親であるテラの系図です。テラには三人の子がいて、そのうちの一人がアブラハムです。他にナホルとハランがいましたが、ハランは早くに死んでしまいました。そのハランの息子がロトで、アブラハムはこのロトを連れて旅立ちました。このテラの系図で強調されている言葉があります。それは、「死んだ」という言葉です。アブラハムの兄弟であるハランが死に、父親であるテラも死んだとあります。また、アブラハムの妻であるサライは不妊の女で、子どもができなかったとあります。そして、アブラハムはこの後、生まれ故郷を離れて旅に出ることになります。先ほど、系図、家系図は作ることは、自己肯定感を高めたり、自分の家族を伝承するのに役に立つと言いました。それは、家系図を作ると自分が何者であるのかを知る事ができ、また将来のことを想像できるからかもしれません。 

しかし、アブラハムの父親であるテラの系図、つまりは約束の旅に出る前に書かれたアブラハムの系図には、全く将来が見えてこないのです。命を引き継いでいく者が見えてきません。アブラハムが死んだらそれで終わりという状態なのでした。そして、アブラハムはただ個人としてこのような状態に置かれているのではなくて、人類を代表してこのような状態に置かれていたのでした。それは、人類が、アブラハムでおしまいになることを意味していたのでした。

どうして、このような事になってしまったのかというと、それはテラの系図が書かれている11章の初めに書かれています。バベルの塔の話です。そこには、神さまの祝福で始まった世界に生きる人間が、罪により権力や財力ばかりを求め、神さまを愛し、互いの事を信頼する事を無くしてしまうような世界を作り上げるようになってしまった事が記されていました。神さまの祝福が見えない世界になってしまったのでした。そして、そのような世界に生きる人間の象徴として、将来のないアブラハム家族の系図、人類の系図がここに記されたのでした。

しかし、そういう神さまの祝福が見えない世界の中で、その世界の象徴しているアブラハムとサラが、神さまの約束の旅に出る事になります。神さまは、将来のないアブラハムと人類に、子孫と土地を与る約束をしてくださいました。そして、この約束を信じ続けることが出来るかどうかが、アブラハムとサラの信仰にゆだねられました。再び世界が神さまの祝福のもとに置かれるかどうかが、二人の信仰にかかっていました。そのクライマックスが22章のモリヤの山の出来事でした。

アブラハムは、息子イサクを焼き尽くす捧げものとして捧げなさいと神さまの命令を受けます。約束の旅を続け、やっと与えられた息子イサクは、アブラハム一族にとって、将来が与えられたという、希望の象徴であったと思います。しかし、神さまは、その将来に繋がる希望を差し出せと言われました。アブラハムは、神さまが約束される将来というものが全く分からなくなってしまったと思います。今までの旅で身に着けた知識も全く使い物になりません。アブラハムにとって、神さまによって与えられた子を無くすということは、神さまと過ごした今までの事も、そして神さまに与えられるはずの未来のことも、すっかり分からなくしてしまう事なのでした。

 

けれども、アブラハムの物語を読んでいると、彼がどのような状況の時も欠かす事なく続けている事があるのです。それは、祭壇を築いて礼拝を捧げることです。アブラハムはさまざまな所で、主である神さまを礼拝します。アブラハムが神さまから初めて約束を与えらえた直後に「祭壇を築いた」(12:7)とあります。また、甥であるロトと別れた後も、天幕を移し、ヘブロンに住み、そこに主のために祭壇を築いた(13:18)とあります。また、21章には、「ぎょりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を呼んだ」(33)事が記されています。そして、22章では、ついに愛する独り子イサクを献げ物とする礼拝をするために、アブラハムはモリヤの山に登るのです。イサクを献げ物とするならば、過去も未来もなくなってしまう。アブラハムは、どうしたらよいのか分かりません。しかし、アブラハムは礼拝を捧げるのです。どのような時でもアブラハムは、礼拝に希望を置いていたと言えるかもしれません。そして、その礼拝の時々に祭壇に最高の献げ物をささげようとするのです。

アブラハムの礼拝は、自分にとって最高のもの、かけがえのない物、ある意味で自分自身そのものを捧げる礼拝となっていたのでした。そして、最高に大切な息子を与えられた時、その息子を献げ物とする礼拝の時が訪れたのでした。

アブラハムがこの事をどう思ったか、さまざまな事を予測する事ができます。神さまへの信頼や希望がなくなったのか、そうでないのか、いろいろ考えてしまいます。しかし、今日は、ここで捧げられた礼拝について考えたいと思います。はっきりしているのは、この礼拝が、今までの礼拝とは違ったものとなったという事です。神さまは、このアブラハムの最高の献げ物をささげる礼拝、モリヤの山での礼拝を、真の礼拝としてくださいました。神さまが礼拝を真の物として受け取ってくださる時、人間の罪は初めて赦されるのかもしれません。罪が赦されるというのは、神さまの祝福から離れてしまった人間を神さまが赦してくださるということです。神さまが罪ある人類の象徴としてのアブラハムと、モリヤの山の礼拝で和解してくださった。そのように言えるかもしれません。人類はこの赦しを通して、神さまの祝福の中を再び生きる事が出来るようになるのです

『イサクを捧げるアブラハム』、ローラン・ド・ラ・イール (1650)

アブラハムは、自分の命そのものであるイサクを献げる礼拝に出かけました。それが、神さまとアブラハムの長い旅の終着点でした。アブラハムが終着点で知った事。それは、長い長い約束の旅の実りとして与えられ、これから献げ物とされるイサクを見つめる事で、その旅を振り返ること。イサクが与えられるまでの事を振り返り、自らの罪を自覚する事でした。神さまへの背(そむ)きの罪を自覚するとき、アブラハムは、もう自分には将来はないと感じたことでしょう。罪による死を確信したと思います。しかし、このようなアブラハムに神さまは、イサクの身代わりに捧げる羊を備えてくださいました。アブラハムは、ただ偶然、そこにいた羊を捕まえてイサクの代わりに捧げたのではありません。それならば、献げ物をささげる礼拝は何の意味もない、語りばかりの嘘の礼拝となってしまいます。アブラハムもまた、その羊が神さまによって備えられている事を知ったのでした。だからこそ、彼はそれをイサク以上に最高の献げ物としたのでした。アブラハムが羊に見た物、それは、アブラハムを愛してくださる神さまの姿なのでした。神さま自らが、アブラハムの愛する独り子イサクの代わりに、献げ物となってくださり、アブラハムの罪を赦してくださったのでした。神さま自らが、アブラハムの罪による死も、イサクの献げ物としての死も取り除いてくださったのでした。そして、アブラハムを祝福の中を生きる者としてくださった。モリヤの山の茂み。それは、愛するイサクをささげる事によってアブラハムが知った罪の茂みの世界だったのかもしれません。その茂みに角を取られた羊、その羊が献げ物となったとき、罪の茂みにより、見通せなくなっていた神さまの祝福の世界に再び光が差し込んだのでした。羊が捧げられた時に、羊が居た茂みに小さな隙間ができ、そこから光差し込んだと言えるかもしれません。モリヤの山の上で捧げた礼拝は、祝福から遠ざかってしまった世界を生きていたアブラハムが、再び祝福の世界を生きることを赦される礼拝となったのでした。人類が、再び神さまの世界を生きることを赦される礼拝となったのでした。

 

神さまが備えてくださった羊の中に神さまを見る礼拝。それは、私たちが今捧げている礼拝に通じるものがあります。私たちは、神さまが備えてくださったイエスさまのみ言葉によって、自らの罪を自覚し、救いと恵みの神さまにお会いする礼拝を捧げています。イエスさまは、最高の献げ物として、十字架に架かり、私たちの罪を贖なってくださいました。そして、この罪の贖いによって、私たち罪人は神さまの祝福の中を生きることが出来るようにされます。私たちもまた、このアブラハムの礼拝に続く礼拝を捧げ、祝福の中に入れられる者とされているのです。

モリヤの山での礼拝を通じて、アブラハムは、命令を与え、約束を実現してくださる神さまが、赦しの神さまであり、愛の神さまでもあられるという事を知ったのでした。アブラハム自身が何とも出来ないような、罪と死の問題を、神さまが憐れんでくださり、神さま自身が献げ物となってくださるほどに、自分の事を愛してくださるという事をアブラハムはを知ったのでした。そして、この事を知った時、アブラハムの今までの歩みも、これからの歩みも全てが、神さまの祝福の中に入れられたのでした。その祝福とは何かを、神さまは再び繰り返して教えてくださいます。

「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(16-18)。アブラハムへの祝福は、世界の全ての人が救われるという未来を切り開く祝福となりました。この祝福を、いまここで私たちは、あの最高の献げ物となってくださった方であるイエスさまによって与えられているのです。この方を礼拝する私たちは、全ての人が救われ神の国に入れられるという将来を切り開く祝福が与えられています。

 

この祝福を受けたアブラハムはどうしたでしょうか。19節には、「アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバヘ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ」と記されています。

この文章を読むと少し不思議に思います。アブラハムは、ベエル・シェバからモリヤの山に向かったと思うのです。そして、それなら、もともとベエル・シェバに住んでいたのではないのか。なぜ、あえて「アブラハムはベエル・シェバに住んだ」と記すのだろうと思うのです。

そのことのヒントとなる文章が21章の最後に記されています。「アブラハムは、長い間ペリシテの国に寄留した」。ペリシテは、ベエル・シェバがあるところです。そこに、アブラハムは「寄留した」と書かれているのです。「寄留した」と「住んだ」の違いをある説教者はこのように説明しています。「真実な礼拝を捧げる者を、神さまは長年かけて育ててきた。アブラハムを、自分の独り子をさえおしまずに捧げる信仰者に育ててきた。そして、そういう信仰をもった彼は、神さまの祝福の対象であり、同時に彼が地上を生きていること、罪による呪いに覆われた世界に生きていること、そのことが、世界を祝福へと造り替えていく神さまの壮大な御業の一歩となる。そのことを現すために『寄留した』が『住んだ』に言い換えられたのではないか」。

確かに、アブラハムは、この後も旅を続けます。そして、彼も妻も死にます。アブラハムは、全てが整えられて、死も悲しみもない完成された神さまの国を生きたわけではありません。ひょっとすると、アブラハムの生活自体は何にも変わってなかったかもしれません。しかし、モリヤの山での礼拝を通して、自らの罪と、その罪からの救いと祝福を知った彼は、神さまが造られる世界の第一歩を生きる事となったのでした。これからやって来る神さまの世界の先駆けに住まう祝福を与えられた者とされていたのでした。

「アブラハムの井戸」

モリヤの山で、礼拝を捧げ、神さまが備えてくださった羊の中に主を見て、それを捧げて帰ってきたアブラハムは、神さまによって罪の赦しが与えられ、完全に祝福された者となっていたのでした。それは、私たちにも同じことが言えると思います。私たちは、礼拝堂に来て礼拝をささげ、罪を知り、その罪が神さまによって赦され、完全に祝福された者として、家に帰ります。礼拝を捧げる私たちは、最高の献げ物となってくださり、十字架に架かってくださったイエスさまの姿の中に、神さまの救いと恵みを見る事を赦され、近づきつつある神の国の先駆けに住まう恵みが与えられているのです。そして、アブラハムと同じように、神さまが造られる国を切り開く業を担う恵みが与えられています。

 

アブラハムが、神さまの国のために働く、祝福を受ける者となった事が、20節の系図から分かります。

この系図は、アブラハムの故郷に残っていた兄弟ナホルとその妻ミルカの間に、8人もの子供が生まれたという知らせがアブラハムに届いたという形で記されています。そして、8人目の息子ベトエルは、「リベカの父となった」(23)とあります。このリベカは、アブラハムの愛する独り子であり、後継者であるイサクの妻となりました。彼女はイサクの子であり、アブラハムの孫である子どもを2人産むことになります。そして、その内の一人がヤコブであり、ヤコブから12人の子どもが生まれ、イスラエルの12部族となっていきます。神さまは、アブラハムによって、子孫を拡大させ、世界を救おうとされている。その恵みをこの系図は表しています。将来のない、罪と滅びの世界の象徴であったアブラハムの系図が、神さまの導きにより、将来訪れる神の国を生きる者の系図とされたのでした。

 

礼拝に集められた私たちは、神さまの愛と、イエスさまの救いの恵みを与えられて、洗礼を受けアブラハムに与えられた祝福を担う者の系図に入れられています。聖霊の交わりの中に生かされる者とされています。礼拝を守り、聖霊の交わりの中に住む者とされています。これから洗礼を志す人も、この交わりが準備されているのです。イエスさまは、この交わりの中にいる私たちにこのように教えてくださいました。「子はあなた(父)からゆだねられた人すべてに、永遠の命を与える事ができるのです。」(ヨハ17:2)。永遠とは、将来と訳す事が出来ます。私たちは、今も将来も命が約束されています。神の国を生きる命が与えられているのです。すでに、ここで神の国の先駆けに住んでいる私たちは、御国が完成する時に、朽ちない肉体を与えられると聖書に書かれています。神さまが、そのようにして、永遠の命と永遠の契約を私たちにも与えてくださっています。この世に生きる私たちは、思いがけない苦しみを受け、その事を通して自らの中に相変わらず罪がある事に気づかされる毎日を送るように思います。逃れられない、罪の中で生き続けなければいけない事もあります。近づいている神さまの国と、罪のある世の間で、アブラハムのように寄留生活を送っているのです。 

しかし、イエスさまが神さまの国に入れてくださり、永遠の命を約束してくださっているのですから、寄留生活を続けたいと思うのです。寄留生活を続けながら、神の国の先駆けに住む者として、救われた者として、神の国の業のために働きたいと思います。この寄留生活の最後には、私たちの主、イエス・キリストの勝利が約束されています。

 

礼拝をささげる私たちは、その度に神さまに赦され、神さまの者として祝福され、使命を与えられて、それぞれが住む場所へ派遣されます。このような恵みを与えられている私たちは、神さまの国に入れられる者の家系図を、喜びをもって書き入れ続けたいのです。

 

「どうか、わたしの歌が御心にかなうように。わたしは主によって喜び祝う。どうか、罪ある者がこの地からすべてうせ、主に逆らう者がもはや跡を絶つように」(詩104:34,35)と、祈り歌いながら、世界の全ての人が救われ、神の国に入れられる日のために、それぞれの与えられた地で住み続けたいと願います。