恵みの再発見

2023/07/09 三位一体後第五主日 使徒言行録163540 

使徒言行録説教第54回 「恵みの再発見」                 牧師 上田彰


*赤子となり、母となり

 

 パウロはマケドニアにおける宣教を振り返りながら、テサロニケの信徒への手紙において、次のように語っています。

 「わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました」。権威を主張する、というのはここでは学校の先生のように振る舞う、ということでしょうか。しかし伝道者というのは、ある意味では生徒に対する教師、ということを飛び越え、生徒よりもさらに身を低くし、幼子のようになってしまうことを含むのではないか、とマケドニアでの伝道を通じて得た体験を思い起こすのです。

 話はそこで留まりません。パウロはこの文章の後、直ちに、伝道者の立ち位置を赤子から母親に切り替えます。「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです」(26~)。

 伝道者としてテサロニケでの、そしてその直前にあったフィリピでの伝道のことを思い出すと、自分の中に、赤子のようになり、母親のようになる思いが浮かんでくる。現代に生きる私どもが考える、守られた親子関係をパウロが言っているわけではないようです。先ほどお読みした箇所の直前ですが、フィリピ教会での伝道の様子を「苦しめられ、辱められた」とはっきり記しています。「産みの苦しみ」という言葉は聞くことがありますが、パウロは、伝道者の苦しみの一つは、「赤子になる苦しみ」とも言いうる、と表現したいようです。考えてみたいと思います。

AIイラストの解説:キーワード「幼子」「伝道」「教会」にて作成。幼子とはパウロであり看守。教会はそれを受け入れる。空には希望を示す星が輝く。


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 さて家族で洗礼を受けたいと願い出た看守の家に彼は招かれて、恐らくその浴室で洗礼式を執行します。今日の箇所の直前を見ますと、その浴室に入ったときに、まず看守がパウロ達の背中の傷を洗った、と記されています。パウロ達は背中に鞭の傷を負っていたのです。

 伝道者達と信徒達、お互いに洗うものがある。体に傷を負っている者が洗われ、心に傷を負っている者が洗われる。




*看守、洗われる

 

 まずは、順序が逆になりますが、看守の心の傷が洗われるに至るまでの様子から思い起こしてみます。

 看守は、フィリピの町を治める高官、おそらく市長クラスの人が二人いて、その二人によって治められる町だったのですが、彼らから命じられてパウロ達を牢獄の一番奥に閉じ込めました。

 高官達も事情をよく知っているわけではなかったようです。町の有力な人で、占いの霊にとりつかれている女性を使って金儲けをしている人がいた。ところがパウロ達が彼女から悪霊を取り払ってしまった。それで怒ってパウロ達を捕らえ、罰してほしいと高官達の所に連れていった。彼らの訴えは、この者たちは私たちローマ市民の倫理に合わない風習を宣伝している、というものでした。これは要するに「ユダヤ人の風習は、フィリピの町から排除されるべきだ、ユダヤ人の祈祷所も町の外の川沿いの辺りなら許しても良いが、中は駄目だ」、という建前と、「せっかく具合の良い金づるがいたのに、パウロ達によってもうけが台無しになった」、という本音があるようです。高官は町の有力者がパウロ達を捕まえて連れてきたことと、一緒になって人々が騒いでいることを見ると、パウロ達の存在が怪しげに見えてきました。たたけばほこりが出てくる人物ではないかと、高官達は考えたようです。本来ローマ法では、被告には弁明の権利がありました。パウロ達の言い分を聞かないと、鞭で打ったり牢屋に入れることは出来ないのです。しかしよほど怪しいという場合には、正式の裁判を経ないでむち打ちや投獄を行うことが出来たようでした。パウロ達は、自分たちの身分を明かすまもなく鞭で打たれ、牢に入れられたのです。そういう訳ですから、ここで鞭で打ち、牢屋に入れるという判断は、厳密に言えば高官達の判断です。しかし、彼は自分の責任ではないむち打ちの傷について深夜の回心劇の後で責任を感じ、自ら彼らの背中を洗うのです。背中の傷は、大元までたどるなら、パウロ達による悪霊払いがきっかけでつけられた傷です。悪霊は、自分がとりついた女性に対して始終占いをすることを強いるのです。そのような「悪さ」をしでかす悪霊をパウロ達は追い払った。しかしパウロ達は、本当はもっと大きな悪霊を追い出すつもりでいました。それが「自己愛という名のエゴイスティックの悪霊」でした。自分を愛することそのものが悪いわけでは、本来はありません。しかし、自分を愛する際に他人を犠牲にすることはやむを得ない、というのは明らかに行きすぎです。その行きすぎを行きすぎだと思わせないのが、悪霊によるもっと大きな「悪さ」なのです。
 現代の競争社会において、そのような悪霊は、ますます力を発揮しているように思います。繰り返しますが、自分を愛することについて、キリスト教は肯定的です。しかし、自分を大事にすることで他の人を押しのけるとしたら、それは別問題です。そうさせてAI描画:パウロとシラスは看守達と同じ目線になっている。

しまう動きのことを、エゴイスティックの悪霊と呼ぶなら、それは占いをさせる悪霊よりもずっと深刻なのです。

 そしてそのような悪霊から逃れ、救われるために、看守は、洗礼を受けることを志しました。しかも一人だけでこの悪霊から逃れることは出来ないと考え、家族で洗礼を受けました。看守自身が、どのような形でこのエゴイズムの霊から苦しみを受けていたかということについて、聖書は記していません。しかし伝道者達に対して看守は、自分の心の中に、そして自分たちがおかれている社会的環境の中に巣くっている悪霊に立ち向かい、それらを追い払うために洗礼を授けることを伝道者達に求めました。その様子については先週の説教で触れましたので、今回は割愛します。

 そして看守は、自分が洗礼を受けるに当たって、他人の傷にも目が向くようになったのです。目の前にいるパウロ達は、背中に傷を負っている。今更のようにその事実に気づきます。

 

*パウロ、洗われる

 

 パウロが負っていた傷は、建前通りの説明をするならば、彼らが自分たちの出身地であるエルサレムの慣習を、よく考えもせずにローマ市民達の町において実行したことが理由で鞭打たれて出来た傷だ、という事になります。しかしそのような建前の説明が意味を持たないことを、今の看守はよく知っています。この傷は、自分たちの中に巣くっているエゴイズムという名の悪霊にパウロ達が立ち向かってくれたが故についた傷です。だから看守は、彼らの背中を洗ってからでないと自分の罪を洗ってもらうことは出来ない、洗礼を授けてもらうことは出来ない、と考えたのでした。

 

 このようにして、後のテサロニケの信徒への手紙の言葉を借りるならば、パウロと看守はそれぞれ、一方が赤子のような立ち位置に立って他方が母親のような立ち位置になったかと思えば、逆にもなるという、お互いに赤子のような、母親のような関係に入っていくのです。それは広くいうならば、伝道者と信徒の間には、赤子のような、母親のような関係がある、ということになります。(適切かどうかは分かりませんが、「互いに足を洗い合う」という場面を思い起こしました。)

 

*伝道者として、教会として、成長し続けるには

 

 それにしても、このフィリピの町で起こった回心の出来事は、パウロの数回にわたる伝道旅行の中で、いえパウロの伝道者としての生涯において、どのような位置付けを持つのでしょうか。彼は書簡の中で伝道者としての半生を振り返ることを度々行っています(上記以外に、例えば第二コリント11章)。その際、一つ一つの出来事、例えば鞭で打たれた記憶を思い起こしながら、同時に、その一つ一つの出来事は、一体どのような意味を持つのか、伝道とは何かということを語るに当たって、どのような役回りを果たす出来事なのか、何度も考え直し、発音し直しているのです。

 

 確かにこのフィリピの町での伝道は、それまでにない出来事がいくつか起こっています。一つは、この町で洗礼を受けたのはいずれも家族単位で洗礼を受けた、リディアと看守です。その一方で、使徒言行録そのものとしては、カイサリアにおけるコルネリウス達の家族での洗礼がありますから、全く初めてというわけではありません。さらには、伝道者が投獄されるということも、探してみますといくつか類似例があります。つまり、今日の記事は、ある一つの事実を除いては、形式的にはなんの新しさもない箇所だ、と言ってよいかもしれません。その一つというのは、パウロ達がローマの市民権を持っている、ということです。実はこのことは、後半に入りつつある使徒言行録において、重要な意味を持っています。それは、パウロ達が捕まって正式の裁判を受ける場合、皇帝に会う可能性が出てくるからです。言ってみれば、皇帝に直訴して、その際に皇帝に伝道をする可能性が出てくる、ということです。キリスト教がエルサレム中心のローカルな宗教から、異邦人伝道を志し、ついにはローマ帝国全体に広がっていく可能性がある、ということを示唆するささやかな、しかし大事な手がかりになるのが、ローマの市民権だ、という訳です。

AI描画による、ローマ皇帝が陪席して行う法廷の想像図。

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その一方で、今日の記事全体の中で、そのことへの言及が少ないことが気に掛かります。例えば、なぜパウロ達は鞭打たれ投獄される前に市民権を有しているということを主張しなかったのでしょうか。ある人は、下手にその主張をすると、市民権をアピールしているのか福音を伝えたいのかがはっきりしなくなるから、ギリギリまで言わないつもりだったのではないか、と解釈しています。先ほどの叙述の中では、人々がいきり立っている状態で、十分な説明もする暇が無かったのではないか、という解釈を試みてみました。

 もう一つ今日の箇所で謎なのが、朝になって高官達は、なぜ人を遣わしてパウロ達を釈放することを看守に命じたのか、ということです。一応の説明を試みるならば、高官達は裁判をしないでただ怪しいというだけの理由で鞭で打ち、牢に入れてしまいました。従って、少し冷静になって考えてみたところ、裁判で有罪にまで持っていくのはかなり大変だということに気が付き、看守にこっそり使いの者を送って釈放するように命じた、という風に解釈することが出来そうです。

 そしてパウロ達は、自分たちがこっそり釈放されそうになっていることに気が付き、そこで高官達が使わした使いの者に、自分たちがローマの市民権を持っているということを伝えたのです。つまりそれは、きちんとした裁判無しに鞭で打ったり牢屋に入れたりすることは、本来非常にまずいことである、そして一旦そのようなことを行っておきながら、今度はこっそり釈放することは、さらにまずいことになる、というわけです。

 使いの者は、すぐに高官達のところに行って、事情を説明しました。青い顔をして高官達は牢屋の所にやって来て、正式に謝罪をした上で、町から出て行ってほしいとお願いをしました。そこでパウロ達は、フィリピ教会がリディアを中心に出来つつあったので、彼らに今後のことを少し話してから町を去り、本来の目的地であるテサロニケに向かいました。

 つまり出来事の中ではローマの市民権というのは小さな要素でしたが、使い方によっては大きな目的である伝道のために使えるかも知れない、とパウロ達が気づくきっかけになったのがフィリピの出来事だった、と言えるかもしれません。このような気づきを積み重ねることで、伝道者は、そして教会は、少しずつ成長します。

AI描画命令:「高官達が自らパウロ達の所に出向いて不法な処罰を謝罪し、フィリピの町からの退去を要請する。パウロ達はそれを受け入れる。新しい伝道の可能性が見えてきたので。これを象徴付きで絵にして。」で出てきた絵の一つ。

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*福音の再発音・再発見

 

 ここで気づかされることが二つあります。まず一つは、福音に触れるという体験は、何度も繰り返し思い起こし、語り直される必要がある、ということです。例えば考えてみますと、福音書や使徒言行録に出てくるような記事、一つ一つの奇跡の記事や説教についての記事は、おそらく一世紀の教会の礼拝において、何度も語り直される中で内容が整えられていったのではないかと考えられています。マタイやマルコやルカは、一気に福音書を最初から最後まで書いた、というのではなく、何度も何度も礼拝に参加し、そこで色々な弟子たちの証言を聞き、場合によってはその証言をした人に質問をして証言内容の確認をするような仕方で、繰り返し繰り返し出来事を発音し直してもらいました。そのようにして今の福音書や、言行録は書かれました。私たちもまた、自分自身の信仰生活を振り返り、また他人の信仰生活の振り返りを共有することで、自分たちの信仰を確認することが出来ると思います。一言でいうならば、恵みというのは再発音される必要がある、ということです。

 そしてもう一つが、パウロ自身はそのような恵みの再発音を繰り返す中で、ある重要な真理に到達している、ということです。それを今日の説教題は、「恵みの再発見」と表現しました。自分に与えられた恵みの歴史を発音し直す中で、彼はある重要な事実に気が付いた、というわけです。

 

*ルターの場合

 

 そのような事実を、ルターの歴史を思い起こす仕方で語り起こしてみたいと思います。宗教改革者のルターは、恵みとは何かということについては、以前から分かっているつもりでいました。それは聖霊を通じて主なるキリストから与えられる、神の義のことである、これが当時のカトリック教会が考えていて、そしてもちろん私たちも信じている基本的な事実です。いってみれば、ルターは恵みとは何であるのか、ということについて頭ではよく分かっていました。しかし彼は、その恵みにたどり着くためには、いわば修行が必要だという、当時のカトリック教会の教えから出ることは出来ませんでした。彼は修行を積み重ねます。しかし彼には同時に不安もまた積み重ねていくことになりました。こんなことを続けていても、自分は神の義に到達することは出来ないのではないか…。

 そして色々なものが積み重なる中で、ある事実にたどり着くのです。それは、神の義が大いなるものであるのだから、私たちがそこにたどり着くのではなく、神の義が私たちの方にたどり着いて下さるのではないか、ということです。これが通常、ルターにおける福音の恵みの再発見、といわれる出来事です。

 そしてその本質は、恵みとは何であるかということと、恵みにいかにたどり着くか、ということは切り離すことが出来ない、という事実の再発見ではないか、と思うのです。

 パウロはこう語ります。「知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした」。これは、苦闘というものが、福音を伝える際につきものだったというパウロの思い出です。

 

*迫害を求める必要は無い

 

 ルターは、パウロに倣って福音の再発音を突き詰めていったときに、「恵みの再発見」とも呼べる、特別の境地に達しました。一方で私たちは、このような時代を画する新しい考え方に直面しているわけではありません。しかし私たちもまた、ルターに倣って、小さな改革を遂げているのではないでしょうか。それは、日々与えられる恵みを、日々祈る祈りを、日々聞く聖書の言葉を、思い返し、祈り直し、発音し直すことで、新たな発見を行うことが出来るからです。私たちは、ささやかな仕方で、日々新たにされているのではないでしょうか。

 

 そのような日々の新しさを健やかに、ささやかに得ることの大事さを思います。こういったささやかさに我慢できない、ある固定した考え方を持っている教会的グループの人たちの中には、このテサロニケの箇所を受けて、こう考えるようです。「福音を語る際には、苦労し、迫害を受けなければ福音を語ったことにはならない」、と。そういう、一種の誤解を抱えたまま、殉教の可能性がある共産圏やイスラム圏に積極的に宣教師を派遣するのです。

 これは勇気のある行動だとも考えられますが、少なくともテサロニケ前書2章の解釈としては、誤りです。そこでパウロが言っていることを丁寧にひもといていきますと、過激な殉教への憧れを勧めているわけではありません。

 

 

*私たちの場合

 

 福音には血なまぐさい迫害がつきものだということを伝えたいのではなく、福音というのは、「音」、つまり「知らせ」という言葉が含まれていることからもわかるように、伝えるという行為がつきものだ、もし仮に、たとえば「伝える」ことに至らず「考える」ということに留まっている福音があるとしたら、それはまだ十分に福音的とは言えない、ということです。福音というものが、単に考えるだけでなく、経験するものとなっているとしたら、それは自ずから伝えるものともなっているのではないか、ということです。

 それ以上の出来事、たとえば迫害は、確かに起こるかもしれませんが、私どもはもっとささやかに福音伝道に心を向けたいと思います。

 目立たないけれども福音を心の中で繰り返し思い起こし続け、どのような証しの言葉が紡ぎ出せるだろう、と考える。大々的にはやっていないかも知れないけれども、福音を語り直し続けるための努力を積み重ねる。言葉が紡ぎ出されるだけでなく、自分たちの信仰もまた研ぎ澄まされていきます。そのことによって、私たちの教会は確かな前進を遂げることが出来ます。

 

 2023年も、もう折り返し地点にたどり着きました。この年の後半、私たちはどのような前進を経験するのでしょうか。建物が目に見えてきれいになるとか、新しい人との出会いがあるとか、色々なことがあるかも知れません。しかしその本質にあるのは、恵みを再発音し、再発見するということです。それらの経験を経て、私たちの信仰が調えられ、前進することが出来ることを願いたいと思います。