命の源、飯から召しへ

2023/07/02 三位一体後第四主日聖餐礼拝 

「命の源、飯から召しへ」使徒言行録説教第53回 162534 

                                                                                                  説教者 牧師 上田彰

 

*レギオンが住むのは未開の地なのか

かつてイエスさまがガリラヤの湖の周辺で活動をなさっていた頃に、あまり足を踏み入れていなかったのではないかと思われる地域があります。またそれはユダヤ人そのものが近づくことがなかった場所でもありました。丁度求道者と共に福音書を読みながら、そういった地域の一つであるデカポリスに思いを向けました。福音書ではこの、ガリラヤ湖の南東方面の広い場所に、イエスさまが足を踏み入れたのはただの一度限りしか言及がないのです。そこは異邦人の町、はっきりいえば異教徒の町であったがゆえに、ユダヤ人たちが近づかなかったのです。その一度限りの訪問がどのようなものであったのか、少しかいつまんでお話をすると、こうなります。

イエスさまたちが向こう岸に着くと、悪霊に取り憑かれている人がやって来ました。そして悪霊が願うのです。私たちの所には来ないでくれ。レギオン、つまり大勢という名前の悪霊は、主イエスが聖なるお方であることをよく知っていて、自分に近づかないでほしいと考えたのです。主は、この男性から出て豚の群れの中に入るようにお命じになりました。悪霊に取り憑かれた豚は大量に崖を目指し、湖になだれ込みます。残っているのは正気を取り戻した男性と、そしてそのそばにおられるイエスさまです。その様子を見た人々は、イエスさまに近づき、一つの願いを口にします。この町を出て行ってほしい、と。

 こう願った理由は、色々推測できます。悪霊払いの印象があまりに強くて、混乱してしまったのではないか。自分たちの生活に入り込んでいる色々な習慣を、これは悪霊の仕業だといってどんどん改めることを求められたらどうしよう。そして人々がこのイエスという男の指図に雪崩を打って従うようになってしまったらどうしよう。要するに、イエスという男を中心に作られている世界と、自分たちが慣れ親しんでいる世界とを、別のものにしておきたい、湖を隔てて切り離しておきたい、そう願ったのだと考えられます。

 聖書に出てくるデカポリス地方、ゲラサとガダラを含む地域は、福音書の側の、あるいはユダヤ人の側の視点では、悪霊に取り憑かれた多くの人々がそのままでいる地域だという書き方です。しかし実際にはこの「10の町」を意味するこの地域は、ギリシャ文化を先進的に取り入れ多くの文化的な遺跡を今に残しています。星占いが律法によって禁じられたために、天体観測の技術がユダヤ人たちには根付きませんでした。ユダヤ人は、異邦人の文化を軽蔑しており、確かに程度の低い文化というものも周りにはあったのでしょうが、実際には周りの文化の中には進んでいるものもありました。

 

*伝道が持つ対話的要素――日本のキリスト教化と、キリスト教の日本化

 ユダヤ人たちにとって、仮に周辺地域の文化が自分たちよりも進んでいたとしても、それは目を留める理由も必要もありませんでした。しかし使徒言行録以降の教会は、周辺の文化に目を留めるようになります。16世紀の宣教師達は、日本に来てその文化の高さをよく理解し、彼らは伝道のしがいがある民族だ、と本国に書き送っています。歴史をひもときますと、宣教師の中にも現地の文化を馬鹿にするタイプの宣教師がいたようですが、日本で名だたる成果を上げた宣教師達は、キリスト教が元々持っている対話の精神をうまくいかして、自分たちがこの地域に適合した形でキリスト教を発展させることが出来る、と確信していました。

 

*マケドニア伝道の実際

 使徒言行録の著者ルカの視点では、教会が成長していく様は、教会が様々な周辺文化と対話をしながら自らを成長させていくことが出来る様である、と映っていたようです。特にその精神はパウロの伝道において開花し、このマケドニアという町での体験は教会にとって大きな転換点であったようです。

 しかしそれは、マケドニアという町がキリスト教に最初から興味を持っていたという訳ではありませんでした。そこの地域を支配していた文化はやはりギリシャ文化でした。その町において、パウロたちはユダヤ人の集会を探していたのです。街中(まちなか)を探しますが、シナゴーグは見つかりません。結局祈りの場所は町の門の外の川沿いにあったのですが、見つけるまでの間、パウロたちは町を回ったようです。そして町の様子を見てとりました。一人の女性に声をかけました。占いの霊にとりつかれた女性です。パウロたちは、彼女を、取り憑いている悪霊からすぐに解放しようとはしませんでした。それは、この町全体にとりついている悪霊がいることに気づいたからです。悪霊といっても、人をすぐに困らせる、迷惑ないたずらばかりする悪霊とは限りません。むしろその人たちが悪霊に連れ添ってもらうことをむしろ好むような、こざかしい悪霊というものもいるのです。この女性に取り憑いている悪霊は、占いをさせるのです。ある程度当たるということなのでしょう。客がずいぶんついていました。儲かるのです。但し、もうけをすべて彼女が独り占めしていたわけではありません。むしろ、そのもうけをほとんどすべて持って行ってしまう人たちがいたのです。使徒言行録には、以前にもこうやって他人を使って小遣い稼ぎをする輩というものが時々登場します(3章の「美しの門」のそばに置かれた男性など)。パウロたちが彼女からすぐに悪霊を追い出さなかったのは、この町にとりついている、もっと複雑で強大な悪霊を追い出すのには時間と手間がかかるということに気づいていたからではないかと思います。リディアを中心にして、この町にもっとしっかりした教会が建てば、悪霊は居場所を失う。焦らず、気長にやった方が良い。しかしパウロたちはやむを得ず、早い段階で占いの霊を追い出さざるを得なくなりました。それは、うっかりユダヤ人たちの集会の場所を彼女に聞いたことが原因でした。パウロたちが聖霊に満たされた人物であることに気づいた彼女は、パウロたちが手がけようとしている伝道のわざを、先回りして宣伝し始めたのです。
彼女がそうしたのか、彼女が取り憑いていた悪霊がそうしたのかは分かりません。
人間よりも先に悪霊がキリストの聖なる霊の力を敏感に察知するというのは福音書にも出てくる構図です。彼女につきまとわれてしまったパウロたちは、やむを得ずすぐに彼女に取り憑いている悪霊を追い払うことを行いました。前回この様子を説教する際に、AIに「悪霊払い」の絵を描かせてみました。今の教会が伝えられている悪霊払いの様子は通常、手を置いたり十字架をかざしたりして、悪霊にとりつかれている人と向かい合う構図なのではないかと思いますが、不思議にもAIは苦しげな表情をする彼女の背後に手をやって、背中をたたいているようにも見える絵を出してきました。パウロ自身は彼女により添いながら、しかし視線は彼女から悪霊が出ていく見据える、まっすぐな視線が印象的です。パウロにとっては、ただ彼女一人から悪霊が出ていったらよいのではなく、彼女の悪霊を利用しようとする、より大きな悪霊が問題なのです。

 

*より大きな悪霊

 彼女の悪霊を追い出した後、パウロたちは次に彼らの悪霊と向かい合う必要が生まれました。より大きな悪霊が取り憑いているのは、彼女が占いをすることを通じて得られる利益を独占していた人たちです。あるいは、そうやって宗教的な振る舞いをお金に置き換えることを認めていた町全体の人々だと言えるかもしれません。

 パウロたちは、この大がかりな悪霊払いをすぐに行うことは出来ません。それどころか、悪霊たちの勢力に取り囲まれてしまいます。ユダヤ人たちが、ローマ帝国市民の町においては許されていない風習を町に広げようとしている、といって捕まって、鞭で打たれた後に牢屋に放り込まれるのです。

 パウロたちは牢に放り込まれます。ローマ帝国市民の町においては許されていない風習とは結局なんだったのでしょうか。それは悪霊払いそのものだったのでしょうか、それとも他人が金儲けをするのを邪魔するということだったのでしょうか。あるいは他人のことを考える心という、隣人を愛する振る舞いだったのでしょうか。とにかくマケドニアの市民からすれば許しがたいことをパウロたちは行っていた。そして彼らを一番奥の牢に足かせ付きで閉じ込め厳重に捕らえておくことにしたのです。

 

*聖霊からすべてが始まる

真夜中になって、どこからか歌声が聞こえます。彼らが閉じ込めておいた奥の方に、まだ封じ込めきっていない、封じ込めきることが出来ない何かが、動き始めているのです。ルカはそれを「歌声」と記します。しかし、歌を歌うと大地震が起こり、牢の戸が開き、囚人の鎖が外れてしまうということはいくらなんでもないでしょう。むしろここで起こっているのは、聖霊の力が働き、その結果として歌う人がいて、また結果として、聖霊の力を不当に封じ込めようとする様々なものが力を失った、ということなのではないでしょうか。悪霊が様々な力を尽くして封じ込めようとした聖霊が力を発揮したときに、パウロたち囚人を、そして看守を含む、マケドニアの人々を不当に捕まえていたすべてのものが力を失ってしまう。

 聖霊によって解放された第一の人たちは、囚人達です。その中にはパウロ達も含まれます。そして同時解放されたもう一種類の人たちのうちで、ここでは看守に対してルカは目を向けます。看守はこの地震の間目を覚ますことはなく、揺れが収まってしばらくしてから目を覚まします。

 そして牢の戸が開き、囚人たちの鎖が外れているのを、あとから知るのです。そのことに気づいた彼は、すぐに自殺をしようと自分が腰に下げていた剣を抜いた、というのです。ずいぶん責任感の強い看守です。大体こういうときには、役人というのは責任逃れの言い訳を始める、と相場が決まっています。例えば、「なぜか突然鎖が解けて戸が開いてしまった」といって、脱走事件の責任が自分にはない。そういう言い訳を考えることだって出来たはずです。言い訳をすることは、社会的に認められていないわけではありません。自分の立場を説明するわけです。私は悪くない、私は、私は、と説明することだって出来たはずです。しかし自分の立場を彼はここでなぜか考えていません。同じように実は、囚人達も自分たちの立場を考えなくなっています。本来彼らは、牢と鎖の束縛がなくなったのですから、逃げ出すことだって出来たに違いありません。どう考えたって、牢にいるよりは、自由な方が良いに決まっています。しかし、彼らは自分たちのことを第一には考えていなかった。

 不思議な転換はなぜ起こっているのでしょうか。パウロ達の賛美の歌声がそうさせたのでしょうか。地震があったので悔い改めたのでしょうか。今日の箇所には一言も出てきていませんが、しかし、聖霊がそうさせたのだ、ということはなんとなく分かります。聖霊によって、皆がなんとなく、自分のことだけ考えて振る舞っていればいいというわけではない、ということに気がついた。そうとしか説明が出来ません。

 

*看守の回心

自分の利益中心に考えなくなった人の一人が看守です。彼は、鎖が外れたことの原因は自分の不注意にあり、囚人が逃げたらその責任は自分が負うべきものだと思い込んでいました。今までもずっと責任感が強く、事故が起こったらいつでも死ぬ覚悟を持っていたというよりも、この一連の出来事によってそのように考えるようになった、と取る方が自然です。そして剣を抜いて自殺しようとしたときに、パウロは叫びます。「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」。

 ただならぬことが起こっています。それは地震が起きて鎖が外れ、牢の戸がすべて開いたことなどよりも、もっとただならぬことです。それは、囚人たちが一人も逃げ出していない、ということです。そして誤って自害しようとしている、昨日は自分を鞭で何度も打った看守の仲間のものが剣をのどに突き刺そうとしているときに、それを止めようとしている人がいる、ということ、そのことの方がもっとただならぬことなのです。

 自分のために他人をこき使ってお金を稼ぐことが正当化されるこの町で、自分勝手に生きていくのがこの町の風習であるとうそぶくこの町において、自ら牢に留まっている囚人たちを目の当たりにしてしまった看守。そして彼自身、言い訳を考えるよりも先に責任を取ろうと剣を抜いているのです。しかしここで自殺をすることは、どうやら間違いであることにパウロの呼びかけでかろうじて気がつきました。そしてこの出来事の原因を担っている、一番奥の牢に閉じ込めておいたあの二人に聞いてみることにしました。看守は、彼らを外に連れ出し、尋ねるのです。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。

 看守は一体何から救われようとしているのでしょうか。それは、今まで疑いようもなかった、他人を食い物にしてでも自分が生き延びることは、やり過ぎない限りはむしろ正当化される、いってみれば金儲けを必要悪と見なす考え方、風習からの脱却です。そこからの脱却は自分だけの力では決して行い得ないことに気がついたが故に、看守はパウロ達に救われ方を尋ねるのです。

 

*家族の救い

 こうして新たに救いの群れに加わる者が現れました。パウロが看守に対して、家族全体で洗礼を受けることを勧めたのは、これは想像ですが、おそらく一晩かけて看守と話し合った末のことだと推測できます。彼は一体なぜ救われたがっているのか。何から救われたがっているのか。パウロ自身、その対話を通じて、彼を取り巻く環境、彼を取り巻く悪霊の正体に徐々に気づいていったのではないかと思います。そして彼はリディアの時と同じ判断をするのです。リディアだけが、看守だけが、個人的に救われるというのでは十分ではない。そしてパウロは彼らに対して、家族全体で洗礼を受けることを勧めるのです。看守は家族を呼び、洗礼を授けてもらうことを申し出るのです。

 


*マケドニア、そして私たち

 これ以上多くのことを語る必要は無いように思います。このマケドニアという町の真ん中で起こったことを、マケドニア教会の末裔を自認する私たちの教会は、どのように受け止めたらよいのでしょうか。

 少なくとも私たちは、次のことに思いを向けたいと思います。それは、今私たちの目の前に備えられている聖餐の食卓は、洗礼を受け、揺れの中で悪霊の支配から抜け出ようとしている私たちにとって必要なものである、ということです。主の恵みによって救われる、この幸いを感謝したいと思います。