人間は何ものなのでしょう

20230625説教「人間は何ものなのでしょう」

(詩編8210;ヨハネ913

上田光正

 


先程司会の方がお読みくださいました詩で、作者が一番言いたいことは、5節にうたわれています。もう一度お読みします。

「そのあなたが御心に留めてくださるとは

    人間は何ものなのでしょう。

 人の子は何ものなのでしょう

    あなたが顧みてくださるとは」

とあります。

「人間とは何か」という問いは、古今東西の偉い哲学者たちが皆考えてきたことです。人間はどこから来て、死んだらどこへ行くのか。これが最大の謎です。今現在の、地上に生きている人間についてはある程度分かっていても、自分がどこから来て、死んだらどこへ行くかがわからなければ、最大の謎が何も分からないことになります。だからこれは、何も偉い哲学者だけの話ではないのです。だれでもが考えます。「人間っていったい、何なんだろう」。人間って、とてもつまらない生きものなのでしょうか。最後には年を取って、死んでしまうだけの存在なのでしょうか。聖書にも、「人は皆草だ。朝(あした)には燃えいでても、夕べには枯れてしまう野の草のようなものだ」、と書いてあります(イザヤ4068)。それとも、とてもすばらしいものなのでしょうか。そういうことも聖書にはきちんと書いてあります。この詩を作った詩人もそう言っています。「神にわずかに劣るものとして人間を造り」(6節)とうたっています。そして聖書は、人間は本当は、限りなく素晴らしいものなのだ。だから、どの人の人生も、生きるに値するものだ、なぜならば、神さまが、その人を心にかけていてくださるからだ、と言おうとしているのです。この詩は、そういう人間の「不思議さ」をうたっているのです。

実は、この詩が作られたのは、「バビロニア捕囚」と言われる、イスラエルの歴史の中でも、一番どん底で悲惨な、「捕囚期」と呼ばれる時期でした。この時期は、旧約聖書の学者たちがこれをまた、「イスラエルの崩壊期」と名付けたほどです。精神的にも、ダメになりそうな時代でした。主がお生まれになるより6百年ほど前のことです。イスラエルは敵の国バビロニアに敗れ、人々は50年以上もの長い間、敵の都バビロンに連れて行かれてそこで不自由な生活を強いられていたのです。今でも中近東やあの近辺では、かつてのアフガニスタンとか、今ならシリヤやウクライナがそうです。戦争で祖国を追い出された人たちが何百万人もおりますね。この時のイスラエルも、この「捕囚期」と呼ばれる前後は、精神的に言って非常に危機的な時代でした。

ところが、旧約聖書が、それまでは口伝で伝わってきたのですが、熱心に文字で書かれ、読まれ始めたのは、ちょうどこの時期からだったと言われます。そして聖書は、非常に力強く、生きる希望を語り始めたのです。この詩もその頃作られました。特に、創世記1章などがこの時期に書かれました。「初めに、神は天地を創造された」とありますように、そもそもこの地球は、神がお造りになった。神はまず光を創り、空と海を創り、天地万物をお造りになった。そして、一工程終わるごとに、神は、「これはよい」と仰せになったのです。この世界はよいのだ、と仰いました。そして最後に、宇宙万物を全部完成されると、神はすべてのものを御覧になって、「極めて良い」、「完全だ」、とお語りになりました(同131)。

これはイスラエルの人々の信仰そのものに他なりません。旧約聖書というのは、この世界が人間の罪の結果としてどんどん悪くなってゆくという危機的な状況を描く中で、そして、人間も戦争ばかりしていて(イスラエルは負けてばかりいて)、惨めさのどん底で生きる意味が分からなくなって行くような状況の中で、しかし、そういうことではないのだ。神はこの世界を最も善く、限りなく美しくお造りになったのだ。また、人間一人ひとりは決してつまらない存在ではない。なぜならば、神はわれわれ一人ひとりをお忘れにはならず、深く顧みていて下さるからだ、という信仰を告白しているのです。イスラエルはこの信仰を持っておりましたから、4千年以上もの長い歴史を生きのび、今でも世界のリーダーとなる人々を沢山生み出しているのです。

この詩は、それはどうしてなのかということを、わたしどもに教えています。本日の御言葉からそのことを、お聴きしたいと思います。

この詩は夜作られました。第4節に、「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。/月も星も、あなたが配置なさったもの」とありますから、作者が見ているのは夜空です。しかも、戦場で作られました。3節に、「あなたは歯向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を断ち滅ぼされます」とあることから分かります。夜となり、昼間の戦いや騒がしさも今は鎮まり返りました。作者は多分、宿営のそばの野原に自分の疲れた体を横たえていたのでしょう。仰向けになり、両腕を頭の後ろに組みながら、一人で夜空を仰いでいたのかもしれません。そこは満天の星空です。手を伸ばせば、近くの星が触れそうなほど近いのです。きっと何千万年の昔からそうだったに違いありません。

そこで詩人は歌います。

 「主よ、わたしたちの主よ

 あなたの御名は、いかに力強く

 全地に満ちていることでしょう」

と。

詩人は、神がお造りになった御業の不思議さを思い、神をほめたたえます。わたしどもも、月や星のような、あるいは、地上に咲いている美しい花や清い川の流れでもよいのですが、森羅万象の一つ一つを、敬虔な思いで見ているときに、思わずそれらをお造りになった神の御業に心打たれることがありまししょう。そして賛美歌を口ずさむかもしれません。しかし普段は、なぜかそういうものをすっかり忘れているのです。それはなぜなのでしょうか。これはわたしの想像ですが、詩人は多分、何時間もそうしていたのだと思います。そして多分、明日はもう、この美しい夜空を見ることはできない。明日はもしかしたら、自分は戦場の露と消えているのかも知れない。だとしたらこの星空は、神様の特別のプレゼントなのかも知れない。そう思うと不思議にも、頭はますますさえてゆきます。

その中で、彼はこう歌うのです。3節です。

「天に輝くあなたの威光をたたえます

 幼子、乳飲み子の口によって」

ここは口語訳の方がずっと分かりやすくて正確です。口語訳では、

「あなたの栄光は天にあり、

 みどりごと、ちのみごとの口によって

 ほめたたえられています」

となっています。

つまりこれは、実は、大人には見えない世界なのです。天と地にみちる神の栄光をほめたたえているのは、幼子や乳飲み子の口だ、と詩人は言っているのです。

幼子は、物事をありのままに見て、ありのままに語ります。しばしば幼子の方が、大人が顔負けしてしまうほど鋭くものを見ていて、その言葉の中に真理が宿っていることがあります。ですから主イエスは、「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」(マタイ183)と仰ったのです。これはなぜかと言えば、それは大人は、「神なしにも人間は十分にやって行ける。自分が神になればよいのだ」と考えて、戦争ばかりしているからです。この20世紀、21世紀はそれがますますひどくなりました。そしてそうしている限り、人間は自然の美しさとか、命の尊さ、そして何よりも、それらを創られた神の栄光を仰ぐことが出来ません。

しかし実は、そういうことよりも何よりも、この詩人が夜空を何時間も眺めながら、ハッと気づいたことがあるのです。それが何だか、皆さまには、お分かりでしょうか。普段のわたしどもにはなかなか気がつかないあることに、彼は気づいたのです。月と星との創り主である神の偉大さということなら、幼子のような純真な心の持ち主なら、あるいは気づくことがあるかも知れません。しかしそのこととは、まるで較べものにもならないもっと偉大なことに、彼はハッと気が付いたのです。彼は、自分は明日は戦場の露と消えるかもしれない、と想いながら、ハッとそのことに気づきました。それが、5節に謳われています。この詩の中心思想です。5節をもう一度お読みします。

「そのあなたが御心に留めてくださるとは

    人間は何ものなのでしょう。

 人の子は何ものなのでしょう

    あなたが顧みてくださるとは」

詩人は、人間の卑しさ、その命のはかなさに気づきます。そして、それを顧みてくださる神のいつくしみに、ハッと、気が付くのです。ここで使われている「人間」という言葉も、「人の子」という言葉も、いずれも「弱くてもろい存在としての人間」を言い表す時の特別の言葉です。普通はヘブル語で人間のことを「アダム」ということは、ひょっとして御存じの方もおられるかもしれません。ところが詩人は、その「アダム」ではなくて、普段は詩や歌でしか使われない、「エノーシュ」という言葉を使っています。ですから、彼は決して、単に宇宙万物をおつくりになった神の偉大さを「ハレルヤ」と子供のような純真な心でうたっているだけではないのです。それよりもむしろ、こんなにちっぽけな、取るに足らない、土の塵から造られた人間一人ひとりを顧みていてくださる神。宇宙万物を何十億年も昔からお造りになった創り主なる神が、その慈しみの対象として、こんなちっぽけな人間を選ばれたとは、一体、人間とは何者なのでしょう、とうたっているのです。

人間は一方では、神がご自分に似せて、「神の形」にお造りになった。「万物の霊長」です。しかし、その人間は、戦争ばかりしていて、せっかく神から頂いたこの地球を汚し、血で血を洗い、罪に罪を重ね、いずれほかの生き物と同じように、死ななければならなくなっています。限りなくはかない存在となってしまいました。この説教の初めにご紹介したイザヤ書の、「人は皆草だ。朝(あした)には燃えいでても、夕べには枯れてしまう野の草のようなものだ」、とありました。そのようにはかなく、むなしく、限りなく弱い存在となっている。弱くてもろく、老いて死にます。「生・老・病・死」を抱えている人間が、「エノーシュ」です。自分がどこから来て、どこへ行くかもわかりません。

ですから、詩人がわたしどもに伝えたいことは、わたしどもが神を礼拝する時にしか、その不思議さに気づくことが出来ないような、ある偉大な事柄なのです。

つまり、そのように大地を汚してしか生きられない、弱い、無きに等しい存在である人間一人ひとりを、神が御心に留め、顧みていて下さる。そして、永遠の命の祝福、天に居ます父なる神の御国のさいわいにあずからせようとしておられる。一体人間とは何者なのだろうか、と言っているのです。詩人は、ただ神の慈しみの深さ、そのへりくだりの偉大さと不思議さに、圧倒させられます。そして彼は、不思議なほど深い、大きな平安に包まれてゆくのです。

「顧みる」という言葉には、単に「心に留める」という意味以外に、「思い起こす」とか、「名前を呼ぶ」という意味もあります。更に、「名前を呼ぶ」ということから、「失われたものを捜し求める」とか、「深い愛を注ぐ」という意味も持ち得ます。そうすると、ここでは、単に人間一般のことを言っているだけではないのですね。「この小さな自分」――詩人のことですね。この「エノーシュでしかない、はかない存在である自分」を顧みてくださる、ということになります。明日死ぬかもしれない自分を顧みていて下さる。そしてそれだけでなく、神はすべての、神から失われた人間一人ひとりを、心に留め、探し求めておられます。その意味で、人間とは、いや、このわたしとは、一体、何者なのでしょう、とうたっているのです。

わたしどもは、自分が神を求め、神を愛しているということならば分かっている人でありましても、それ以上に、神がわれわれを求め、愛して居られるということには、なかなか気がつかないのではないでしょうか。

それに気がつくのは、やはり、教会に来て、神を礼拝し、御言葉を聴くときだけです。神が自分を探し出しておられ、わたしども一人ひとりの卑しさをも顧み、名前を呼んで探していて、発見してくださった。今、御自分の御翼の下にこの自分を置いてくださった、ということを知るのであります。

人間は、「自分は万物の霊長である」と思っていばっているかもしれません。しかし、身体が丈夫であるとか、お金があるとか、境遇に恵まれているとかいっても、それは大したことではないのです。自分がどこから来て、どこへ行くかもわからない、はかなくてつまらない存在であるとするならば、人間として生きる感謝と喜びが分からないまま人生を終わってしまいます。逆に、人間が神の永遠の愛の対象であることを知れば、人間の命には、計り知れないほどの深い意味がある、ということが分かります。聖書は、人間が神から生まれ、神の御許に帰る、と言っています。土から生まれて、土に帰る、というだけではないのです。そのために、神がわたしどもを御心に掛けてくださり、探してくださり、御子イエス・キリストの十字架によってお救い下さったのです。

盲人の目を癒すキリスト」エル・グレコ(ギリシャ人)1567年作 メトロポリタン美術館(ニューヨーク)所蔵

司会の方が後の方でお読み下さいました、新約聖書から、もう少しお話をさせてください。

ヨハネによる福音書の第9章に、主イエスが生まれつき目の不自由な人を「顧みられた」、という記事があります。

道端に、生まれつき目の不自由な人がうずくまっていました。当時ならよくある光景です。弟子たちは彼を見て、何か、見てはいけないものを見たように思い、思わず顔をそむけて、隣の主イエスに尋ねました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したのですか。本人ですか。それとも両親ですか」、と。好奇心とか、そういったことではなかったのだと思うのです。憐れには思ったに違いありません。しかしやはり、顔を背け、このように主に尋ねることした出来ないことが、われわれ人間が持っている優しさの限界なのです。われわれ人間は、他人や自分の不幸や、世界の不幸を見たり考えたりするときに、やはりそういう風に、途方に暮れ、不安になり、一体誰のせいですか、と尋ねることしか出来ません。

しかし、主もご覧になりました。そのことにつきましては、ほんの短く、「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」と、「見かけられた」、という言葉が使われています。「見かけられた」のですから、ほんのちょっと、ちらっと見ただけかもしれません。何だ、たったそれだけなのか、という感じもします。ただし、主は弟子たちよりも先に、御覧になりました。そして、もっとはるかに重要なことは、主はこの生まれつき目の不自由な男が主に気づくよりも先に、彼を御覧になっておられたことです。そして、この主の「見かけられた」という出来事がきっかけとなって、このヨハネ伝9章は、主が彼の固く閉じられた肉の目を開かれただけでなく、それよりもはるかに大きな恵み、すなわち、彼の心の目をも開いて下さった、と書いてあります。彼は主を知り、礼拝者となります(ヨハネ938)。その意味で、この主イエスの「見かけられた」というとても小さな御言葉は、それからあとの、彼の身に起こった一切の恵みの出来事の始まりだったのです。

とても深い、慈しみに満ちたまなざしだったに違いありません。主イエスのまなざしは、われわれ人間が人の不幸を見るまなざしとは、根本的に言って、全く違うのです。

そのことは、すぐ次の主の御言葉から分かります。3節です。

「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の御業がこの人に現れるためである』。」

何と偉大なお言葉でしょうか。

主はこのようにお答えになってから、この目の見えない男を御許に呼び寄せ、彼に、「シロアムの池に行って、自分の目を洗いなさい」、と優しく仰いました。池はエルサレム市内にありますから、そう遠くではありません。しかし彼は全盲なのです。しかし、驚いたことに、彼は本当に立ち上がり、主のお言葉に従ったのです。彼が素直に主のお言葉に従ったということは、きっと、主イエスの御言葉の力だったと思います。彼は言われたとおりに行ってシロアムの池で自分の目を洗い、目が見えるようになった、と書いてあります。

 それですから、主のまなざしは、わたしども人間一人ひとりを深く愛し、関わろうとして下さる慈しみ深いまなざしです。またそれは、力に満ちたまなざしです。主はわたしどもを癒すために、天に居ます父なる神から遣わされて、わたしどもの所にまで降り、馬小屋の飼い葉桶の中にお生まれになりました。皆様よくご存じのように、聖書に書いてありますね。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが彼の貧しさによって富む者となるためなのです」とあります(2コリント89)。そのようにして主は、この世の病める者や貧しい者、虐げられた者、一人ひとりを探し求め、そして最後に、全人類を罪の重荷から根本的にお救いになるために、十字架にお掛かりになって救いを完成されました。

わたしが石川県の金澤で伝道をしておりました時の教会員で、かなり重度の精神障害を持つ息子さんをもった御婦人がおりました。その子が公園などで普通の子と一緒に遊んでいると、必ずいじめられ、仲間外れにされます。それを近くで見ていた母親である彼女の気もちは、それはそれは胸がかきむしられるような気持ちであったに違いありません。自分もこの子も、生きていてはいけないのか、という暗くて悲しい気持ちが絶えず襲って、どうしようもなかったそうです。

しかしそんな彼女がある時教会の伝道集会に来て、このヨハネ伝9章の箇所で主イエスの力強い御言葉と出会いました。「本人が罪を犯したのでもなければ、その両親が犯したのでもない。ただ神の御業がこの人に現れるためである」。これを聞いて彼女の胸のつかえが一気に消えてしまったそうです。金澤は仏教の信仰の篤い町ですから、こういう御言葉にはだれでもとても敏感です。やがて彼女は、この御言葉の背後に主イエス・キリストの十字架が立っていることを知って、信仰に入れられました。今でもこの御婦人は、息子さんと御一緒に、礼拝に通っておられます。

本日学びました旧約の詩人もまた、戦場で夜空を仰ぎ、明日は死ぬかもしれないという我が身を想い、命の小ささ、はかなさを想ったときに、ふと、その自分をも御心に留めておられる神のまなざしに気が付いたのです。そして歌いました。「人は何ものなので、これを御心に留められるのですか。人の子は何ものなので、これを顧みられるのですか」、と。

わたしどもも同じ信仰に立ちたいものです。

お祈りいたします。