主なる神を知る

2023/06/18 三位一体後第二主日

創世記 22:1-19

「主なる神を知る」

以前に、夫である教師に幼なかった頃のお父さんとの思い出について尋ねたことがあります。なら、私の父は、参や運動会にただ来るのではなく、勝手に参加してしまうような父で、そのような父との思い出が沢山あるからです。 そこで、牧師はお父さんと楽しい思い出があるの か気になったのです。けれども、牧師はお父さんと大人になるまで、あまり話したことがないと 教えてくれました。牧師のお父さんとは、そこにおられる光正牧師のことなのですが、覚えている会話としては、中学校の頃にお母さんが、何かの用事でいなくて二人きりで食事をしたときの会話だけだというのです。その会話は、「醤油とって」「はい」だけだったそうです。このようなお父 さんとの関係が、変化したのは、大学に入り、急に神さまの事に興味を持ち始めた時だと言います。 信仰の話をする時には、お父さんである光正牧師と長話が出来るようになったそうです。そして、この事が土台となって、お父さんにさまざまな人生の相談をするようになり、牧師への召命が与えられたのだと教えてくれました。

そのことを聞きながら、私は、お父さんである光正牧師は、信仰の話を通して、息子の成長を見ていたのではないか。そして、共に神の御国のために働く日を待っていたのではないかと思うのです。そして、そのことを何よりも求めておられるのは、天の父だと思いました。私たちは、折りや 礼拝、 そして、日々の聖句や日常の生活をとおして、絶えず天の父との関係を深めているように思 います。 天の父が私たちを見てくださっているのです。 そして、 私たちが御国のための良き働き手となるのを持ってくださっています。

今日は、神さまの命令を受け、長い旅をつづけたアブラハムが、神さまによって信仰を育てられ、ついに御国の働き手となる祝福の約束を頂く恵みの話です。 神さまは、どのように、アブラハムを育て、 神さまと共に働く者としてくださったのでしょうか。 その恵みに耳を傾けたいと思います。

聖書には、「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。」 (1) とあります。 「これらのこ と後で」というのは、前回に読んだアピメレグと契約を結び、 土地を手に入れた、「そのことの後で」と読むことができます。 アビメレクとの契約を結び、井戸と土地を手に入れたアプラハムは人 生の頂点を極めた時期であったと言えるかもしれません。 アブラハムは、カルデアのウルを出て ハランの土地から出発してから、 さまざまな恵みを与えられました。 ロトの問題が解決しました。 神さまの約束通り、イサクが与えられました。そして、もう一人の子どもであるイシュマエルも神さまの祝福を約束されました。ハガルとイシュマエルを神さまに委ねたことで、家庭内の問題も解 しました。 そして、ゲラルの地で安全に暮らす基盤も手にしました。 神さまは、どんなときにも アブラハムの味方となってくださり、いつでもアブラハムを救ってくださいました。 神さまの助け は、グラルのアビメレクが 「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられる」 21:22)と 言って、畏れを抱くほどでした。

そのような意味で、アブラハムは、主の呼びかけに従って、ウルを出発してから、紆余曲折しながらも、ついに平安な生活を獲得し、人生の頂点をむかえたところでした。

しかし、神さまは人生の頂点をむかえたようなアブラハムを「試された」 のです。 2節には「神 わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」 とあります。「焼きは命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。 軽くす献げ物」は、その人の扉を吸う献げ物のことです。動物を殺して、文字通り焼き尽くして神 さまに献げ物をし、罪を赦してもらうのです。この献げ物として、愛する独り子であるイサクを自 分の手で殺していけにえとして捧げよと、神さまは、お命じになったのでした。

アブラハムはウルを出発してから今までの事を思い出したと思います。 そして、神に従う人間として、正しく生きて来たかを初めて考えたかもしれません。 確かに、アブラハムは、事あるごとに礼拝を捧げる人でした。しかし、彼の人生はある意味で、ずる賢いものでした自分の命を守るために、妻に妹だと嘘をつかせ、権力者に差し出しました。 妻サラから子どもが 与えられるという神さまの約束を持ちきれず、自らの力でハガルに子供を産ませました。 そして、 子どもをめぐって、ハガルとサラが苦しんでいるのに、自分は関係ないそぶりをして逃げました。神さまが、あなたの子孫は星の数のように数えきれないと約束されても、そのような事は信じられ ないと下を向いて笑う。アブラハムの人生はそのことの繰り返しでした。 それにもかかわらず、神さまはいつも、アブラハムの味方でいてくださったのです。神さまが味方でいてくださったから、アブラハムは今、人生の頂点と言えるような、 平安な時期を向かえていたのです。 しかし、神さまは今、「あなたの愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」 と命じられました。それまでの、あなたの過ちと代価を、あなたの息子イサクによって支払えと命 じられたのでした。アブラハムが何をやっても味方でいてくださった神さまが、 今、あなたの愛す る息子によって、その罪を贖う時が来たのだと言われたのでした。 神さまの呼びかけに「はい」と答えたアブラハムは、もう従う以外に道はなくなっていたのでした。

この試みの中でアブラハムは、どうしたでしょうか。前の1,2節の緊張感に比べて、3節以下の記述は、淡々と述べられており、私たちを戸惑わせます。一見すると、この試みの中でのアブラハムの感情を示す言葉が無いように思えるのです。 しかし、 神さまの命令に対して、アブラハムが 全てを納得して、心に何の戦いも悩みもなかったという事はなかったでしょう。 むしろ、その背後 に言葉に表す事ができないような苦悩の戦いがあったのでした。 その戦いを理解するための言葉が、 幾つか聖書に書かれています。4節には、三日目になって、 アブラハムが目を凝らすと、遠くにそこの場所、つまり、焼き尽くす献げ物をささげる礼拝の場所が見えたとあります。 神さまに、自らの 罪を贖う時が来たと言われ、従うしかなくなったアブラハムでした。 しかし、ただ従うのであれば、 み言葉の通りに動けばいいはずです。 しかし、彼は「目を凝らした」 と書かれているのです。 この 「目を凝らした」 という言葉は、「調べた」 とか「探し求めた」と訳す事の出来る言葉です。つまり、アブラハムは、何かを探し求めていたのです。そして、見つけたのは礼拝を捧げる場だったの です。アブラハムはまた、不思議な事を言います。「わたしと息子は、あそこに行って礼拝をし て、また戻って来る」 (5) 息子をささげる、 いけにえの礼拝をするのであれば、また戻って来る のは、「わたし」 アブラハムだけです。 しかし、アブラハムは 「わたしと息子は、また戻って来る」と言うのです。アブラハムが探し求めていた礼拝の場、それは、息子をいけにえとする礼拝の場で はなく、神さまとの交わりを与えられる礼拝の場であったのかもしれません。アブラハムは、神さまのれられない命令を前にして、はじめて、この神さまのお心を知りたい、あのいつも自分の味方をして助けてくださった、やさしい神さまのお心が何であったのかを知りたいと願うようになったのかもしれません。

また、アブラハムの苦悩の戦いは、イサクとの会話にも出てきます。 「焼き尽くす献げ物にする。 小羊はどこにいるのですか」。アブラハムは「焼き尽くす献げ物にする小羊はきっと神さまが備えてくださる」と言って、歩き続けました。 「神さまが備えてくださる」 それは、 「神さまが神ご自身 のために見ておられる」という言葉です。 アブラハムは、これまで犯してきた自分の罪の願いを 迫られています。黒いのために息子をささげなさいとと言われているのです。 神さまに「どうカイサクを助けてください」と祈りたかったと思います。しかし、それは神さまに従わないことを 表明にすることに繋がります。「神が備えてくださる」 「神が見て下さる」というのは、全てのこと は、アブラハムがう事も、決める事も出来ない。全では神さまが決めることだ。しかし、きっと 神さまが、そのまなざしの中で、全てを計画され、全てを備えてくださると信じ、この神さまに従おう、そのような信仰の言葉であったのでした。アブラハムの戦いは、神さまを恐れながらも、 まだ知らない神さまのみ心を信じ前に進む、信仰の戦いなのでした。

そして、ついに「アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを持って祭壇に載せた。 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を取ろうとした」 (10) のです。その時、主のみ使いが語り掛けたと聖書には書かれています。 「神のみ使い」ではなく、 「主のみ 「使い」 がアブラハムに遂に語り掛けてくださったのです。
『イサクを捧げるアブラハム』、ローラン・ド・ラ・イール 、(1650年)
主 (しゅ)と開くと、皆さんは、どのような事を思い浮かべられるでしょうか。 「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」とうたう、詩編23を思い浮かべる事が出来 るように思います。荒れ野が多く、水が少ない地で、 羊飼いである主は、先立って歩き、 羊を獣か ら守ってくれる。 羊飼いでいたくだる主がいたので、 羊のように、 何もわかず、弱い私たちは生き で行くことが出来る。 そのように詩人は歌うのです。さらに詩人は言います。 「わたしには何も欠 けることがない」。 そして、主によって満たされる様子を 「主はわたしを青草の原に休ませ、憩い。の水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」 と言い、讃美するのです。

主は、 羊のように足が遅く、獣に襲われやすく、目が悪く、 自分では牧草を見つけて食べること も出来ないような、私たちの歩みを支えて導いてくださり、そして、必要を備えてくださる方だと、「聖書は教えてくれるのです。 つまり、 主なる神は、 突然に私たちに約束や命令や試練を与え、私た 「ちの思いを抜きにして、御自身の御業を進めるような方ではなく、私たちを大切にし、教え、育み、 主の御業に携わり、主なる神さまと共にその計画を進めるものとして、私たちを扱ってくださる方なのです。

聖書は、アブラハムを試みられた神は、主であられるのだと強調するように、敢えて、あの緊 張感をもった神さまとの会話を、全く違う雰囲気でここに表しているように思います。 「そのとき、 天から主のみ使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。 彼は『はい』と答えた」 (11)。 全 能の神であられ、アブラハムがどうあっても、その御菜を推し進めるような、あの神さまの緊張感 は、ここにありません。むしろ、主なる神さまご自身が、アブラハムとイサクのために、慌ててく ださり、神さまが大切にする二人の人間を傷つけないように、その手を止めてくださったように思えるのです。アブラハムが、本当にイサクの事を殺すとは思わなかった。 ビックリしたと、 神さま ご自身が、この試みの緊張感に耐えられなくなり、 だから、止めさせたような、そのような気さえします。これほどまでに、 主なる神さまは、アブラハムのことを分かってくださり、大切にしてく ださっていた方なのでした。 そして、この主であられる神が、アブラハムに言われます。 「その子に手を下すな。 何もしてはならない。あなたが神を恐れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子 である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。あなたは、神である私を、恐れ敏い 大切にしている事が分かった。あなたが神である私の計画のために、その大切な独り子すらささげ る者であることが分かったと、言って下さったのでした。神さまが、初めて命令でも約束でもない。ご自分のお心をアプラハムに伝えてくださったのでした。 あなたの事が、大切なのだ。そして、あ なたが大切にしている者を大切にしたいのだ。罪によって死なせたくないのだと、その熱い思いを 伝えてくださったのでした。アブラハムは、この時、主がいつも見ていてくださり、大切に導いて
いてくださる事を知ったのだと思います。 アブラハムにとって、この方は「主 (しゅ)であり、主(あるじ)」 となったのでした。

アブラハムは、目を暮らして周りを見回すと、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられているのを見つけました。アブラハムはその様羊を捕まえて、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としました。
 読みの中で、アブラハムが、礼拝をささげ、神さまに会いたいと、目を凝らして、 探し求めた神 さまは、羊として、その姿を現してくださり、アブラハムの事を何よりも大切にしてくださる、主として、自らが献げ物となってくださったのでした。主自らが、焼き尽くす献げ物となってくだ さり、罪を取り除いて下さり、しを与えてくださったのでした。 このことは、アブラハムだけが、モリヤの山で経験した事だけでは終わりません。 バプテスマのヨハネがイエスさまの事を告白した言葉を思い出します。 ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と告白しました。 この小羊が、 私たちの罪を償いのために、 そして、赦しのために、 あの十字架に架かってくださいました。そして、さまざまな試練の中で、目を凝らして、神さまを探し求める私たちの、主となってくださいました。 だからこそ、私たちは礼拝によって、 主のみ言葉を聞き、神さまとの関係を更に深め、新しい命を生き続けることがゆるされるのです。

神さまがその姿をあらわされた雄羊は、山の上からずっとアプラハムの事を見ていてくださった のかもしれません。アブラハムが、試みの中で、 苦しみながら、それでも神さまに従い、 神さまの御心を探し求めている、 その姿を山の上からずっと見ながら、早くここに来て欲しいと待っておら れたのかもしれません。アブラハムが、 神さまが約束された、 世界の祝福の担い手となるように、 折り続けてくださっていたのです。この主であられる神さまが、今も私たちを見てくださっていま す。 待ってくださっています。 私たちは、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」。「命ある限り、恵みと悲しみはいつも私たちを追う」 と讃美 し続け、その御恵みをさまざまな人にとりつぎ、多くの人と共に神の国を目指したいと思います。 神さまは、その恵みの働きを私たちに約束してくださっています。