祈りは飯の種か

2023/06/11 三位一体後第一主日 使徒言行録説教第52回 

161624 「祈りは飯の種か」                            牧師 上田彰

 新しい人を教会として受け入れる、受洗準備・転入会者向け勉強会が開かれ、学びが進められています。そこにおいて共に学び、祈ることが出来ることを喜んでいます。先日「聖書の読み方」というところで改めてお話をする際に、聖書を読むときに「動詞」が大事だ、ということを申しました。その例を示すために、今日の箇所と少し重なる内容を含む、使徒言行録3章の例を挙げてみます。

 

 *低くなり、命令を取り次ぐ

 かつてペトロは、エルサレム神殿に向かっていました。途中の、通称「美しの門」のところには、物乞いをしている人が多くおりました。その中に一人、生まれつき足の不自由な人がいたのです。ペトロは彼の顔をのぞき込みました。何かもらえるかもと彼もまたペトロを見つめ返しました。するとペトロはこう語ったのです。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。

 この情景を思い浮かべながら心に残る動詞があるとしたら、それは「見る」と「命令する」です。ペトロは「見る」のです。そして「見つめ合う」のです。これは、ペトロと足の不自由な一人の人が、かつては同じ地平にいなかったのが、同じ視線の高さになることを意味しています。同じ高さになってから、ペトロは次に、「命令する」のです。正確には、イエスさまのなさる命令を取り次ぐのです。同じ高さになってしまうと、その人自身から発された命令は意味を持ちません。だからそこでなされる命令は、高いところに居続けてくださる主イエスからの命令でなければなりません。

 使徒言行録に出てくる初代教会の特徴は、二番目の「命令を取り次ぐ」だけではなく、「取り次ぐ者が視線を低くする」ということにあります。その大元にあるのは、福音書に描かれる地上のイエスさまの姿です。短く言うならば、クリスマスとイースターが主のなさる救いの業をかたどる二つの中心です。クリスマスにおいて、神の御子は弱く力ない人の姿になられました。そのお方が、人々の罪を背負い、十字架にかかられました。そして復活され、高く引き上げられるのです。神の御子が復活するというだけであれば、人々には関わりがありません。その一方で、御子が人の形を取られたというだけであっても、人々は引き上げられて救われることにはならないのです。このような、キリスト教の救いの理解をよく踏まえた上で、使徒達もまた「低くなり」、「共に高くされる」ことを経験します。

 

 *出会う(1)――出会えた出会い

 今日の箇所も、また同じように救いの基本構造があるように思います。一つ目の動詞に注目をしましょう。それは16節にある、「出会った」という言葉です。

 出会った、という言葉が使われています。このフィリピという町で、パウロたちは何者かと出会ったのです。聖書によれば、この町における出会いは二件あったことが分かります。

AI描画。「献身」「歓迎」「開放」をキーワードにした

一件目の出会いが、リディアたちとの出会いです。リディアはユダヤ人たちとの祈りの会に出席していましたが、キリスト者となるべく道ぞなえがなされている人でした。キリストがこの人を受け入れるべくすべてを明け渡して下さったように、彼女は洗礼を与えられた後に伝道者であるパウロたちを受け入れ、自分の住まいを伝道のために用いてほしいと申し出ます。キリストがすべてを彼女のために明け渡したように、彼女はキリストの使いにすべてを明け渡すのです。

出会いというのは、今まで同じ目の高さで顔を見合わせることがなかった者達が、同じ高さでお互いを見合わせることです。パウロとリディアの間に出会いが起こりました。

 少し現代の教会の話を致しますが、現代の教会の中に、洗礼に関する理解の混乱があります。俗に聖餐問題などといわれていますが、本質的には洗礼についての理解が混乱しているのだと思います。受洗準備会をきちんと行う必要があります。準備会でなされる本質的な事柄は、キリスト教の教えについての基本的な知識習得ではありません。もちろんキリスト教の救いとはどんなものであるか、そして救われた者がどのような生活を心がけるべきなのか、ということは大事な事柄です。知っておいた方が良いに決まっています。しかし、受洗のための備えで重要なのは、その人がキリストによって召されて教会に招かれたということを確信しているか、ということです。すこし言い方を変えれば、その人が自分の志として洗礼を受けることを願い、また教会に入会することを希望しているとして、その志の根本にあるのが自分の願いではなくキリストがそのように私に願わせているということをきちんと理解しているか、あるいは、自分から教会の門をたたく以前にその門が自分のために神さまの方から開かれて待たれていたということを心から信じているか、というのが本質的に重要です。

その人の希望で洗礼を受けたいという申し出があった場合でも、その人が主イエス・キリストの招きを理解するまでは、受洗準備会をおしまいにすることは出来ません。人間の希望によって事柄が進むのではなく、キリストの招きによって事柄が進む。この順番を守るために、何年も受洗準備を続けるということが、時々起こります。

 

 *出会う(2)――出会ってしまった出会い

AI描画。現代風なタッチで。

聖書は続いて、もう一つの出会いについて描きます。時系列で申しますと、今日の出来事は恐らくその発端となる出来事は、リディアとの出会いよりも前ではないかと思います。占い師の女性との出会いです。この16節に出てくる「出会った」という言葉、聖書の元の言葉のニュアンスで申しますと、「出迎えた」という風にも訳せる言葉です。

 想像になりますが、パウロたちは、ユダヤ人たちが祈っている場所を探す際に、道行く様々な人に尋ねたのではないでしょうか。その話しかけた中に、道ばたないし街角で占いを営んでいた一人の女性がいた。そうであれば、彼女がパウロたちにつきまとった理由も分かってくる気がします。

 今日の箇所に出てくる占い師との出会いは、「出会ってしまった」というようなもので、前回の「出会えた」と呼べる出会いとは少し質が違うように思います。実際、「いと高き神の僕、救いの道を宣べ伝える者」という宣伝をパウロたちは迷惑に思い、占いをさせていた悪霊を追い出してしまうのです。想像してみました。パウロたちの後を毎日つけ回しながら、大声で占い師は叫ぶのです。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」、と。

 「ほめ殺し」という言葉を思い出しました。(昨日妻にその話をしたら、「ほめ殺し」は以前にも私が説教で触れたことがある、といいます。それで調べてみますと、確かに3年ほど前に言及したことがあります。

AI描画。攻撃と苦痛、偽りの笑顔、不快感と圧迫感、などをキーワードに「ほめ殺し」を描出させた

政治の世界でこのことが話題になったのはそれよりさらに30年ほど前のことになるでしょうか。)当時、中曽根首相が後継者を探していたときのことです。新たに派閥を立ち上げて注目されていたのは竹下登氏でした。ところがそのことをよく思わない人たちがいました。それは、かつて竹下氏が所属していた派閥の首領である、田中角栄氏を支持していた右翼の人たちでした。「自分たちの田中先生を裏切った竹下が自民党の総裁に名乗りを上げるとは許せない」、という訳です。そこで彼らは、捨て身の作戦で竹下氏に嫌がらせをします。それが「ほめ殺し」というわけです。彼らは街宣車に乗り込んで、次のように連日繁華街で街宣活動を行います。「日本一金儲けが得意な竹下さんを首相にしましょう」。この街宣活動は非常に効果的で、竹下氏は大変に恐れました。そして自民党で裏の世界につながりのある議員に何人も頼み込んで、八億ものお金を持参してもらったそうです。結局お金は受け取られることなく、最終的に竹下氏自身が田中邸に詫びに行くことによってこの嫌がらせは終わったそうです。


 なぜこれが嫌がらせになるかといえば、この右翼グループが田中角栄氏を応援していたことは竹下氏もよく知っていたのでしょう。田中元首相自身はもちろんのこと、竹下氏もある程度は付き合いがあったものと考えられます。だからこの街宣活動によって、右翼と自分との間につながりがあることは露呈してしまった。否定できなかった。そして彼らが、「この人を首相にしましょう」と言っているのも事実です。しかしその理由が「日本一金儲けがうまいから」というのは、完全に人をばかにした説明です。つまり、「竹下登という人が、自分たち変な人たちとつながりがありますよ」、という右翼のアピールが、八億を積んででもやめてほしい事柄だったのです。

 結局田中角栄氏の所に詫びに行った竹下登氏は、中曽根康弘首相から後継首班として指名を受け、次の首相となりました。しかし、自民党が闇の勢力とつながっているという事実は人々に衝撃を与えました。ちなみに「ほめ殺し」という言葉はこの文脈において、八億を持参した浜田幸一氏が、お金を受け取ってもらえなかった際に発した言葉だと言われています。

 元々この「ほめ殺し」という言葉は、次のように使われていたようです。すなわち、芸能の世界において期待されていた二世の役者が、ほめられすぎて大成しない、そのことを「ほめ殺し」というのだそうです。本当は脱皮して蝶になるべき人材が、他の幼虫がほめすぎてしまうことで、姿を変えることなく幼虫のままで終わってしまう。

 聖書の話に戻りますと、この占い師の言葉は、言葉そのものは間違っていないはずです。彼女なりに、自分に話しかけてきた人が立派な人物であることに気がつき、彼女なりにほめたつもりなのです。ただ、毎日追いかけ回すというのはやり過ぎです。そのままでは幼虫から蝶へと姿を変えることは出来なくなってしまう。彼女に占いをさせる悪霊は、なんとかこのパウロが幼虫のままに留まってほしいのです。そこでこのままでは決して成虫に変わることのない一人の女性を利用して、彼女とパウロを同じ立ち位置にとどめ、引きずってでもパウロを足止めしたかったのです。

ところでもう少し遡りますと、パウロはなぜこの占い師に声をかけたのでしょうか。恐らく外見からしてちょっと変な人だったはずです。もしパウロがもっと賢い、賢明な人であれば、そんな人に話しかけることなどなかっただろうに。そうすれば変な悪霊に絡まれることもなかっただろうに…。そんな思いも少し持ってしまいます。

 そのような思いを持つ一方で、もう少し考えてみますと、パウロが占い師に話しかけた理由も、分かるような気がします。まず、彼はフィリピの町を一巡りして、この町にユダヤ人の礼拝堂がないことに気がつきました。それでユダヤ人たちの集まりがどこでなされているのかを知る必要がありました。結論としてそういった集会は、安息日にだけ町の門の外の川沿いで持たれていることが分かったのですが、その情報を仕入れるために質問をした人の一人がこの占い師であった、つまり、蛇の道は蛇ということで、彼女に声をかけたというわけです。パウロは一人の占い師のことを、広い意味の宗教活動家と見なし、聞いてみようと思った。これはこれである意味理に適った行動です。ユダヤ人というその地における宗教的マイノリティーの存在を探し当てるために、あえて占い師という宗教的マイノリティーに尋ねてみた訳です。理屈としても納得できます。

 しかしさらに心理的なことにまで踏み込んで想像すると、パウロにはもう一つ、この占い師に対する親近の情を持っていたのではないか、ということも言えるように思います。パウロというのは学もあって、優れた書物を多く書き残した、時代を代表する知的エリートです。しかし同時に、彼は神の前で物乞いとして生きることを辞さない一人の僕です。主イエスがおっしゃった、「貧しい者は幸いである」という言葉を地で行くような生き方を実践する一人の貧しい僕は、世間的にいえば自分の存在がこの占い師とほとんど同じであるということを理解していて、ある意味で仲間に話しかけるような思いで尋ねたのではないか、とも考えられるのです。

 

 *救われるために必要なこと

 世間的には身分が違うとされる人とも親しく出来る。これは教会の特徴です。他方で、この特徴を保つために、実際には難しい問題もあるように思います。そのものズバリの例でないので恐縮ですが、十字の園という施設で私が時々感じるジレンマをお話しします。施設にうかがったときに、時々職員さんや利用者さんに話しかけることがあります。そうすると大体の場合は、牧師先生から話しかけられた、という感じになって、気構えてよそ行きの話をなさるのです。これは非常に困ったことで、もっと身近に親しく感じてもらえたらなあ、そう願うことがあります。他方でもう一つ思うのが、では職員さんとただ友達になれば良いのか、ということです。くだけた話をすることで親しく感じてもらえるのはよいことなのですが、それで友達にはなることが出来たとして、ではそこから教会に来てもらうという思いを持ってもらうことが出来なかったら、牧師としての願いは十分には達成できません。友達になれないと困るし、友達になっただけでもやはり困るのです。理想としては、牧師としての自分が親しく受け入れられその人の心が牧師としての自分の心と出会った上で、その上で、その人の心が牧師の心と共に高く引き上げられる、それこそが「出会い」、「救われる」ということではないか、と思うのです。

ラハブが使者を隠秘して移送する姿( Wiki-

Commonsより)

こういうことは旧約聖書においても見られます。主の使いであったヨシュアは、エリコの町に自分の部下を送り込み、彼らは命が狙われる状況になりました。彼らはラハブという一人の遊女の家に泊まり、助けてもらうのです。この遊女は部下たちに向かって信仰告白の言葉を口にし、後に新約聖書は、何度かこの女性が信仰者としてその名前を挙げています。遊女と出会い、彼女の目の高さまで一旦視線を落としたヨシュアの部下たちは、彼女と共に引き上げられるようになるのです。


*「悪霊払い」の本質

AI描画/苦しみからの解放がサブモチーフ


今日の箇所において、パウロたちは一人の占い師に出会いました。彼女から占いをする悪霊を追い出すためには、数日が必要でした。まずは彼女に話しかけ、同じ視線の高さにまで降りてきました。そして数日経ってから、彼女に、いえ正確に言えば彼女に占いをさせている悪霊に対して、命令をするのです。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出ていけ」。「上から目線」という言葉がありますが、命令を下すというのは、同じ視線の高さのままで行うことは出来ません。同じ人間として同じ目線に立つことと、神の言葉を携えた人間として、上から降ってくる言葉に共に耳を傾けるという立ち位置と、その二つが必要なのです。ちょうどそれは、神の独り子が全く無力な赤子としてこの世にやって来たという受肉の出来事と、そのお方が私たちの罪を背負って十字架につけられ、陰府にまで下った後に復活して高く挙げられるという出来事の、その二つが無ければ私たちが救われないということと同じことです。

 

 そう考えますと、あのパウロの命令、「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出ていけ」という言葉は、いくつかの相手に向けられているということに気づかされます。

 直接的には占い師の女性です。彼女は、好き好んで占いをやっていたわけではありません。悪霊が取り憑いて占いをさせるのです。今日でいえば、競馬の予想をするような者でしょうか。その人の予想は、あたってしまうのです。悲しいほどにあたってしまうので、皆がその予想屋の予想に群がる。だから予想をやめることが出来なくなってしまっている。競馬ぐらいならまだいい方です。世界が固唾をのんで見守っているロシアとウクライナの戦争、大きな役割を果たしているのが最新の兵器の援助です。人々を助けるために、より効率的に人を殺すことが出来る武器が次々と送られているのです。悪霊に取り憑かれているのが一人でないのは最早明らかです。だれもそれを止めることは出来なくなっている。誰かが、「イエス・キリストの名によって命じる。出ていけ」と命令をし、ロシアとウクライナ、いえ現代に生きる私たちから、悪霊が出ていかなければならないのです。


AI描画。彼女自身が苦しみから解放される一方で、周囲には彼女を苦しめてきた人たちや金品がなお残っている。パウロの癒しは歓迎されない

そのように考えれば、悪霊に取り憑かれているのが今日の聖書の中に限って言っても、彼女一人でないことは明らかです。彼女を使って金儲けをしていた人がいる。しかも複数いたということが分かっています。彼らは、金儲けのために一人の人の本来は健康な精神を搾取していた。彼女に悪いことをしているという意識さえなくなってしまうほどに構造的な形で彼女の精神を苦しめ続けていることを尻目にしつつ彼女をおだてて自分たちは金儲けに励み続けた。パウロによって悪霊が追い出されたときに、彼らはこう訴えるのです。「この者たちは、わたしたちの町を混乱させております」と。追い出すべき悪霊は、彼女だけで無く彼らの町全体に取り憑いていたのです。だからパウロたちは、一人の占い師の視線にまで降りてきただけでなく、この町全体と同じ目線にまで降りてきた。ただユダヤ人の集会を探していただけではないのです。このフィリピという町がどのような意味で救われ、すくい上げられなければならないかを街中を練り歩くことによって、いろいろな人に声をかけることによって、知ることが出来た。そして信仰者の祈りの座を町の門の外に追いやってしまう悪霊の正体を見抜いた上で、あの命令を口にしたのです。「イエス・キリストの名によって命じる。出ていけ」。

 一人の人からは悪霊がでていきましたが、それに怖れをなした群衆は、元占い師の主人たちと共にパウロらを責め立てます。この町の悪霊払いは、一回きりで終わることはありませんでした。次回の箇所で、もっと大がかりな悪霊払いをパウロたちは行うことになります。そしてその大がかりな悪霊払いにおいて払われなければならないのは、占いにこだわらせる悪霊よりももっとたちの悪い、経済にこだわらせる悪霊です。そこで今日は、使徒言行録のペトロの言葉をもう一度思い起こすことによって、説教を締めくくりたいと思います。

 

「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 

イエス・キリストが私たちを立ち上がらせてくださる。この恵みに感謝したいと思います。