信仰を与えてください

『ペンテコステ』ファン・バウティスタ・メイノ
Juan Bautista Maíno
プラド美術館 1615〜1620年

20230528説教「信仰を与えてください」

(マルコ91429)

上田光正

 本日は聖霊降臨日です。「聖霊降臨日」って、何の日でしょうか。クリスマスやイースターならまだしも、聖霊降臨日せいれいこうりんびなど、それこそ舌を噛みそうで、何の日か分かりません。「聖霊降臨日って、どんな日ですか?」と訊かれたら、皆さんならどうお答えになりますか。「われわれの主イエス・キリストが、全人類を罪のくるしみから救うために、十字架に掛かって死なれた。しかし、父なる神はその3日後に、主を墓の中から甦らせ、天に引き上げられた。天に上られた主は、お約束通り、10日後に、弟子たちに聖霊として来てくださり、弟子たちと共に住んで下さり、教会がこの地上に生まれた日だ」、とお話になりますか。完璧なお答えです。でも、なかなか難しくてわかりにくいですね。わたしならもっと簡単に答えます。つまり、聖霊降臨日とは、信仰が恵みとして与えられる日です。また、既に信仰を持っている方は、信仰が増し加えられる日です。そしてそれを感謝する日です。というよりも、もっと正確に申しますと、こうです。聖霊降臨日とは、信仰が神からの恵みであると信じられる日である、と。

 ヨハネによる福音書に、主イエスのこういうお言葉があります(ヨハネ1516)。

「あなたがたがわわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。

わたしどもは、信仰は自分が求めたから得られたのだ、と錯覚しがちです。確かに、熱心に求めたことは事実でしょう。しかし、その求める心も主がお与えになったのです。わたしどものはからいではありません。神様の御計らいです。わたしどもを愛して、お救いになろうとする主なる神の熱意と決断があって、わたしどもは救われたのです。それどころか、聖書によれば、わたしどもがまだこの世に生まれる前、母の胎にいる時から、神は既にわたしどもを愛し、あらゆる患難や誘惑から守り、今日まで導いて来られたのです。だから、救われたのは事実ですし、それはまことにありがたい神の恵みです。しかし、それが恵みであると信じる信仰も、実は恵みとして与えられたのです。それが、聖霊のお働きです。また、このことをもう一度思い起こして感謝する日が、聖霊降臨日です。

実際、今から2千年前のこの日に、人々は主イエス・キリストの御復活を確信して、キリスト者となりました。主イエスは、罪よりも死よりも強いお方だ、と知りました。そして、教会が生まれたのです。

 本日はそのことを、与えられた聖書の物語を通してご一緒に学びたいと思います。

先程司会の方がお読みくださいました聖書の24節というところに、ある、重いてんかんの病を持つ息子の父親の言葉が書かれています。

「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」

という言葉です。

「われ信ず。信なき我を助けたまえ」。大変有名な御言葉ですね。これが、聖書の中で、われわれ人間の信仰を一番よく表した言葉だ、と言われています。つまり、人間は、どんなに熱心で、敬虔で、信仰深いクリスチャンであっても、「信ずる我」の後ろの方に、「信なき我」があります。先端の部分は「信仰」ですが、その後ろに、「不信仰」という、とても長いしっぽがくっついています。神の恵みを、自分の力ではなかなか信じられないでしょっちゅう疑ってしまうという、「不信仰」の部分です。ですからわたしどもは、自分の信仰を誇ったりすることは間違いなのです。

逆に申しますと、どんなに不信仰で、神を呪って死ぬような人であっても、そのずーっと先端の端っこの方には、必ず信仰への深い憧れがあります。どんな人の中にも、神を信じて、自分の人生を神に感謝して死にたいという、純粋な信仰の小さな、しかし美しいかけらが存在しています。「信仰のないわたしをお助け下さい」という叫びと、全く無縁な人は、世界中でただの一人もいないのです。

しかし、どなたもお分かりになりますように、不信仰から信仰へと飛び込むことは、人間の力では到底できません。この父親のように、主イエスに、「信仰のないわたしをお助け下さい」と祈ることが、せいぜいです。しかし、主はその祈りをお聴きくださるのです。ですからわたしどもは、「信仰を与えてください」とか、「信仰を増し加えて下さい」という祈りをすることができ、神様は必ず聞いて下さるのです。

本日は、このことを、ご一緒に学びたい、と思います。

 さて、本日のマルコによる福音書第9章の初め(本日の物語の一つ手前)には、主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの弟子たち三人だけを連れて高い山に登り、そこで御自身の栄光の御姿を現されたことが書かれています。

 しかし、その山の下の方では、大変な騒動が起っていました。何やら大勢の群衆が集まって居て、大声で論じ合っています。きっかけは、山の下で待っていた9人の弟子たちのもとに、ある一人の父親が、自分の病気の子を癒していただきたいと、連れてきたのです。その子は重いてんかんを患っていたようです。こう書いてあります。「霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます」(18節)。「霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました」(22節)。それをいやというほど見せつけられてきた父親は、どんなにかつらい日々を過ごしていたことでしょう。

実は、主がまだ山の上に居た時から、下で待っていた9人の弟子たちは、その子を癒そうとして、さんざんやってみたのです。しかし出来ませんでした。たちまち黒山のような人だかりです。それをかぎつけてきた律法学者たちが、ここぞとばかり弟子たちをやっつけています。「お前たちは何もできないニセクリスチャンだ。お前たちのお師匠は、さぞかし大ウソつきのペテン師に違いない」。弟子たちは穴があったら入りたい思いで小さくなっていました。

わたしどもはキリスト者として生きていて、いつもこの弟子たちのような状況に立たされます。その度に恥をかくとは限りませんが、いつも、自分の信仰の足りなさに我ながら嘆かされます。自分にもっと信仰があれば、と思わされるのです。

この話の最後のところを見ると、「どうして自分たちにはできなかったのですか」という弟子たちの質問に対して、主は、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出せないのだ」とお答えになっています。これを聞いた弟子たちは、さぞびっくりしたでありましょう。彼らが祈らなかったはずはありません。彼らは何度も死に物狂いで祈ったに違いないのです。だのに主は、祈らなければだめだとおっしゃる。だとすると、主は何を言われたのでしょうか。「あなたたちの祈りは本物ではない」、と言われたのです。では、本当の祈りとは、どんな祈りなのでしょうか。そういう大きな問を投げかけるテキストです。でも、その答えは、結局、聖霊を信ずる信仰とは何ですか、という問いに対する答えと同じです。ですから先へ進みましょう。

 *

ちょうどそこへ、主が山から下りて来られました。先ほども申しましたように、主はそれまで、三人の弟子たちと一緒に山に上っておられたのです。主はその山の上に、いつまでもとどまっていることも可能でした。もう二度と、下界の、人間どもの居る悩みや苦しみの多い、汚れた世界には下りて行かないことも可能でした。しかし主はもう一度わたしどものいる世界へと降りて来られたのです。

聖書には、主イエスの「わたしは来た」、という言葉で始まる、大切な、宣言のようなお言葉が幾つかあります。今日の聖書学では、それらは皆主イエスの御本質を表わす、大切な言葉だとされています。例えば、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしは来た。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来た」(マルコ217、私訳)、というお言葉。あるいは、皆さまがよくご存じの「ザアカイの物語」(ルカ191以下)の最後には、「今日、救いがこの家に来た。この人もアブラハムの子なのだから。わたしは来た。失われた者を捜しだして救うためである」(910節、私訳)と書かれています。

「わたしは来た」というのは、主がわたしどもの住んでいるこの地上の世界のただ中に、悩みと苦しみのただ中に、わたしどもと共に住むために、来てくださった、という意味です。主イエスからご覧になれば、下界である人間の世界は、まさに罪と死の世界です。あちこちに戦争があり、傷つけ合い、血が流されています。しかし主は、そのようなわたしどもを深く憐れみ、御自分は十字架に掛かって、人間を罪からお救いになるために、この地上に来られたのです。

この時も、主は再び山から降りて来られたのです。

 父親は早速、その子を主のおそばに連れて行きました。すると、悪霊はまるで主イエスに激しく挑みかかるように、渾身の力を振り絞って息子を引きつけさせ、打ち倒し、転げ回って泡を吹かせました。

父親はひざまづいてお願いするのです。「主よ、どうかお出来になるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」、と(22節)。父親の熱心さは、その言葉遣いからもうかがい知ることが出来ます。なぜなら、こういう時普通なら、「どうかこの子を助けてください」、と言います。しかしこの父親は、「どうか、わたしどもをお助け下さい」と言っています。自分と息子とは、一体なのです。当時は、てんかんは世間からは深い蔑みの目で見られていました。「業病」と呼ばれ、先祖の誰かが重い罪を犯したから、神に呪われている、と考えられていました。しかし父親は、自分と息子は全く一つであると考えているので、「どうか、わたしどもをお助け下さい」と願っています。

 ところが、父親の言葉をよく見ると、彼は、「もしお出来になるならば」と言っています。そこで主は、間髪を入れず、その言葉の訂正を求められるのです。「もし『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」、と。これは何を言われたのでしょうか。

父親の「もしできれば」という言い方は、わたしどもにも分かる気がします。今までに何人もの医者や祈祷師に見せた。自分も毎日祈っている。しかしだれ一人として、癒せなかった。お弟子たちもできなかった。そういう過去の度重なる経験があります。だから、「もし出来れば」が出たのです。これは、遠慮とも言えますし、主イエスに対する配慮とも言えます。もし主ができなかった場合でも、恥をかくことのないようにと、わたしどももきっと、この「もしお出来になるならば」という言葉を付け加えたに違いありません。

しかし、わたしどもの信仰生活には、この「もし」が、余りにも多すぎるのではないでしょうか。その方が、安全地帯に居られるからです。条件付きの方が、安全でいられる。その先の、余計なことまでは考えない方がいい。そうすれば、だれ一人傷つかないで済みます。自分も安全だし、イエスさまも安全、誰も傷つかないですむからです。

しかし主は、その安全地帯に立てこもりたい気持ちを、取っておしまいになるのです。「『できれば』と言うか。『できれば』と言うのを止めなさい。」「信じる者には何でもできる」。だから、その安全地帯を出て、こちらの方に出て来なさい、とおっしゃるのです。これは、主イエスがわたしども人類に、信仰を持ちなさい、と招いておられるお言葉です。

父親はすぐに叫びました。

「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」

と。

これは、マルコがよくもこの表現をわたしどもに残してくれたと思うような見事な言葉です。聖書に書かれている言葉の中で、あるいはもっと言うならば、人間がかつて語った言葉の中で、わたしどもの信仰をいちばんよく言い表した言葉だ、とされています。

しかも、大変不思議な言い方なのです。彼は、「私は信じます」と言っています。わたしどもがそういったときには、恐らくすぐにこう続けるのです。「だから、助けてください、信じますから助けてください」、と。

しかし、この子の父親は、「だから」、とは言いません。言えないのです。なぜでしょうか。「助けてください」までは言えます。実際そう言っています。しかし、どこをどう助けてもらいたいのか。わたしのどこを助けるのか。父親は、「信じられないというわたし」を、助けて下さい、と言っているのです。他のことではないのです。わたしを助けてください。お前のどこを助けるのか。わたしは信じられないのです。

もちろん、それならば「信じます」と言ったのは嘘か。そういう話ではないのですね。父親は本当に助けてもらいたい一心なのです。しかし、自分の心の中を見ると、「信じます」という自分の後ろに、ずーっと長い、「不信仰のわたし」という長いしっぽがある。だから「もし」という言葉を取り去ることができない。それがわたしどもの現実の、ありのままの姿です。

ここでいったい、どういうことが起ろうとしているのでしょうか。わたしの平凡な解説ですが、ここで父親は、自分の中にまだかすかにある、自分の信仰に基づいて助けて下さい、とは言えないのですね。そうではなくて、「わたしの信仰は信仰とは申せません。あなたが、本物の信仰をください」、と言っています。それは、純粋な恵みとして、上から与えられる信仰です。こちらには信じたいという願いだけしかない、他には何もないところに、純粋に上から注がれる恵みが、信仰です。信仰というのは、自分には何もない、と知るところから、始まるからです。主は、「あなたに信仰を与えよう。そのためにわたしは来た。あなたも神に愛される『神の子』なのだから」。「だから、『もし』と言うのを止めなさい」、と言われたのです。

それに対して、父親はこう言っているのです。「わたしには信仰はありません。けれども、主よ、あなたがそれを下さるならば、わたしは信じられます。わたしは生ける屍です。あなたを信じる信仰が、わたしには必要です。わたしはこの身をあなたにお任せします。どうか、あなたを信ずる信仰を、わたしにも下さい」、と言っているのです。

パウロが書いたコリントの信徒への手紙二に、こういう御言葉がありますね。

 「わたしは弱い時にこそ強い」

という言葉です。これはパウロが、自分の持病に苦しんで、何度も主に祈ったときの話です(127以下)。パウロには、「肉中のとげ」と呼ばれる持病がありました(眼病だとも言われ、てんかんだった、という人もいます。伝道者としては、苦しい病です)。「それをどうか取り除いてください、そうすればもっと自由に伝道できます」、と三度も祈った。「三度」というのは、「何度も何度も」「数えきれないほど」という意味です。ところが主のお答えは、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全に現れる」でしたね(129)。それでパウロは納得したのです。自分の祈りはきちんと聴かれている、と知ることが出来たからです。

わたしどもの最上の祈りは、「あなたの御心が成りますように」ですね。これが本当の祈りです。自分の願いどおりに御利益が叶うという祈りは、本当の祈りではありません。人間が神を利用しているからです。本当は、自分にとって何が本当に必要でかつ最善であるかを誰よりも一番よくご存じであられるのは、この自分ではなく、造り主であられる神様だからです。だから、その神さまが最もよい事をしてくださることを信じて、自分のすべてを神に委ねることが、本当の祈りです。パウロはそれを知ったのです。

この父親の、「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」もそういう祈りです。ここにはもう、「もし」はないからです。

では、「わたしはこの身をあなたにお任せします」、と言って、あの「もし」が取り去られた時に、父親にどういうことが起こるのでしょうか。ここで起こる出来事は、不信仰な自分、古い自分から一歩、「外に」出て行く、ということなのであります。キリストから、新しい自分を頂く、ということなのであります。キリストの愛を信じ、キリストにすべてを委ねる自分を頂く、ということです。不信仰な自分であったのに、それでもなお信じるということは、「信じます」と言った途端、自分の外に出ています。信じるということは、そういうことなのであります。「我は聖霊を信ず」という信仰の告白は、そういうことなのであります。

ヤイロの娘の蘇生
エドウィン・ロングスデン・ロング
1889年

そのあとで起こったことは、皆さまがお読みのとおりです。主は、この子の汚れた霊を追い出されました。悪霊は、それこそ最後の、あらん限りの力を振り絞って、子供をひきつけさせて逃げて行きました。子供は死んだようになりました。しかし、主が死んだようになったその子の手を取って起こされると、その子は起き上がりました。これは、終わりの日に、主がわたしどもを墓の中から甦らせるときに起こる出来事とそっくり同じです。5章にもそのお話がありました(マルコ535以下)。主が駆けつけた時には、すでに死んでいた12歳の少女の手をとって、「タリタ、クム(少女よ、起きなさい)」と主が言われると、少女は起き上がりました。

きょうは聖霊降臨日です。わたしどもに信仰が恵みとして与えられたことを感謝する日です。わたしどもは人生のある時、信仰を与えられ、それ以来、救いの中を歩んでおります。救われたことは恵みです。それを信じる信仰もまた、恵みとして与えられました。わたしどもの計画ではありません。わたしどもを愛して、お救いになろうとする主なる神の御熱心によって、わたしどもは信仰を与えられました。このことを思い起こし、感謝するのが、聖霊降臨日です。