神の御国に生きる

 2023/05/21 昇天後主日 「神の御国に生きる」 創世記2122-34 

牧師 上田文

 

伊東教会の玄関の外には、大きな音のする鐘が置かれています。前の礼拝堂で、使用されていた物だそうです。私たちは、この鐘を再び鳴らす事の可能性について、話し合ったことがあります。礼拝の前にならせば良いだろうか、嫌々、近所迷惑になり伝道の妨げになるのではないだろうか。逆に、鐘の音は、ここに教会があることを広める役割を果たさないだろうか。では、礼拝において主の祈りが祈られる時にだけ鳴らすのはどうか?などのとても、慎重(しんちょう)な議論がなされました。ところが、教会の前を通る観光客は、とても気楽に、無邪気に、この鐘をならします。旅の記念に鐘を鳴らし、鐘をバックに写真を撮って帰ります。また、先日は、夜中の二時にこの鐘が鳴らされました。お酒に酔った人たちが、いたずら心で鳴らしたのだと思います。

 このように、玄関の外にある鐘の周りには、さまざまな思いをもった人々が集まってきます。鐘は、信仰者の思い、観光客の旅心、また地域の人々の親しみ、そして酔っ払いのいたずら心など、さまざま人の思いを受けながら、現在まで、あそこに設置されたままになっています。

今日の話は、鐘ではなく、井戸をめぐる話です。井戸のまわりには、さまざまな文化や習慣を持つ人が集まっていました。アブラハムと旅をしていたアブラハム一族、そして、アブラハムが滞在していたゲラルの地の人々、そして、ゲラルの地を支配していた、ペリシテ人です。神さまは、このように、さまざまな文化や習慣を持つ人々の中で生きるアブラハムに、井戸の所有権を与え、そのことにより、土地を与えられました。このことは、「わたしは、あなたとその子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる」と約束してくださった、神さまの恵みが実現する事に繋がりました。今日は、土地を与えられる事によって与えられる神さまの恵みについて、共に聖書に耳を傾けたいと思います。

 

アビメレクの前のアブラハムとサラ、1681

今日の聖書箇所は、「そのころ、アビメレクとその軍隊の長ピコルはアブラハムに言った」という言葉から始まります。「そのころ」とは、主なる神さまがサラを顧み、約束を実現してくださったので、イサクが生まれ、イサクが育って、乳離れの祝宴が開かれたころ。また、サラとエジプト人の女奴隷であるハガルの関係や、サラとハガルが産んだイシュマエルとの関係など、家族の中の関係が悪くなり、アブラハムが苦しみながらハガルとイシュマエルを追放した、「そのころ」のことです。アブラハムは、ハガルとイシュマエルを追放した事について、さまざまな思いを巡らしていたと思います。神さまの恵みは、多くの国民が主なる神さまを信じるために与えられているのでないのか。それなのに、どうしてハガルとイシュマエルを追放するように、神さまはおっしゃったのだろうか。自分は、神さまのみ言葉に従って、ハガルとイシュマエルを追放したけれども、ハガルとイシュマエルは、深く傷ついたのではないだろうか。神さまに従う、自分の行為によって、傷ついたイシュマエルとハガルは、神さまを信じなくなったのではないだろうか。アブラハムは、イシュマエルとハガルの追放を通して、今までは分かっていると感じていた神さまのビジョンが、分からなくなり始めていたのかも知れません。そんな時に、アブラハムは、再びアビメレクに会う事になりました。今日の聖書箇所には、アビメレクが軍隊の長であるピコルを連れて、アブラハムのところにやってきた事が書かれています。アビメレクも、ひょっとするとアブラハムの信仰によって、傷をつけられた人の一人かもしれません。アビメレクのことは、20章に書かれています。20章には、遊牧民として旅をしていたアブラハムが、アビメレクの土地に入った時の事が記されていました。アブラハムは、妻のサラが妹であると偽りました。それは、異邦の地であるゲラルの地に入ることをアブラハムが恐れていたためでした。当時のこの土地の習慣では、王さまは気に入った独身の女性がいたら、その女性を自由に、自分のもとに迎え入れることが出来ました。アブラハムは、サラが王様に気に入られた場合、サラに夫がいると分かれば、夫である自分は殺されてしまうかもしれないと恐れたのでした。そして、王アビメレクがサラの事を気に入ったと分かると、実際に、妹であると嘘をついて、彼女を差し出したのでした。アビメレクは、姦淫の罪を犯すところでした。しかし、神さまがアビメレクの夢の中に現れてくださり、忠告してくださったので、罪を犯さずにすみました。嘘をついていたのは、アブラハムでしたが、神さまがアブラハムと共におられることを知ったアビメレクは、彼に、羊、牛、男女の奴隷などをアブラハムに与えました。そして、サラをアブラハムに返して、この辺りの領土は自分のものなので、好きなところに住むようにと言いました。嘘をついて、ずるをしたのはアブラハムでしたが、ここでもまた、神さまの恵みによって、さまざまな物を得る事になりました。アブラハムは、神さまに信じて従うほど複雑な悩みを持つようになっていったのでした。

 

このような事は、私たちにもあるのではないでしょうか。神さまに従えば従うほど、神さまの事を知らない人々を傷つけてしまう。神さまを信じれば信じるほど、神さまを知らない人は遠く離れていく。そして、悩んでいるうちに、神さまの御計画が分からなくなってしまう。そのような経験を、私たちは少なからずしているように思います。そして、そのことのために祈り続けているという方が、いらっしゃるのではないかと思います。

 

そのような、信仰の悩みを抱えて祈るアブラハムの所に、再びアビメレクがやって来ました。「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられる」とアビメレクは言いました。アビメレクにとって、アブラハムは不気味な存在であったかもしれません。なぜなら、アビメレクは、アブラハムの嘘によって姦淫の罪を犯しそうになり、神さまに命を奪われかけたのです。しかし、神さまはこのような男と、なぜか共におられ、祝福されるのです。アビメレクにとっても、アブラハムは訳の分からない存在であり、相当警戒していたように思います。そのため、彼は軍隊の長まで連れて来て、アブラハムに約束を迫(せま)ったのでした。アビメレクは、「どうか、今ここでわたしとわたしの子、わたしの孫を欺(あざむ)かないと、神に誓ってください。わたしがあなたに友好的な態度をとってきたように、あなたも、寄留しているこの国とわたしに友好的な態度をとってください」と願い出ました。アビメレクは、アブラハムは、また何をするか分からない。嘘をついたり、欺いたりして、自分と自分の家族、そして自分の国を攻撃すかもしれないと思ったのでした。そして、アブラハムが何をやったとしても、神さまが彼の味方にある限り、自分たちはその攻撃をかわす事が出来ないと思ったのでした。そこで、アビメレクは、アブラハムに友好的な態度をとってくださいとお願いをしたのでした。そうしないと、自分たちは、平和と平安を手に入れる事が出来ないと考えていたのでした。

 

それに対して、アブラハムはとても寛容に、アビメレクの提案を受け入れました。アブラハムは、「よろしい、誓いましょう」。「わたしは、神さまに誓いましょう」と答えました。以前は、神さまの約束を信じる事が出来ず、異邦人の王であるアビメレクを怖れ、嘘までつき、自分の命を守ろうとしたアブラハムでした。しかし、ゲラルでの滞在の日々は、神さまへの信仰を深める日々となっていました。アブラハムは、自分の身を守るために嘘をつくような人間ではなくなっていました。アブラハムの誓いは、アビメレクの事を怖れて、その願いを聞き入れたような誓いではありませんでした。彼は、誰よりも畏れる神さまに誓いを立てたのでした。神さまに従えば従うほど、また、信仰が深くなればなるほど、人を傷つけてしまうのではないかと、不安になっていたアブラハムでした。しかし、神さまは、自分を通して人に平安を与えることもお出来になる方だという事に、アブラハムは気づき始めていたのかもしれません。

そのようなアブラハムに、神さまは「土地をあなたとその子孫に与える」(17:8)という約束を実現しようとされました。寄留者として生きて来たアブラハムに、所有地を与えられるのです。それは、神さまが、神さまの民をつくり、その民を救いに与らせ、神さまの国を実現させるためです。アブラハムは、突然、アビメレクの部下たちが井戸を奪ったことについて責めはじめました(25)。それは、ひょっとすると神さまの導きであったのかもしれません。井戸は、アブラハム一族が住む地域とゲラルの人々が住む地域の境界線となっていたことが考えられます。なぜなら、そうでないと「井戸を奪ったこと」が、問題にはならないからです。きっと、この井戸をアブラハム一族も、ゲラルの人々も一緒に使っていたと思います。井戸の水がなければ、この地方では生きていく事が出来ないからです。ところが、アビメレクの部下がこの井戸を奪ったのでした。それは、この井戸を使いたい者は、王であるアビメレクに従わなければいけないことを意味していました。しかし、神さまに従うアブラハムは、アビメレクに従うことは出来ません。けれども、水は、ゲラルのような砂漠で生きるアブラハムたちにとって、命綱でした。そこで、アブラハムは、神さまが与えてくださった、このチャンスを友好条約だけに留まらず、井戸を所有する権利を得る事に活かしたのでした。井戸はアブラハムの物となりました。それは、井戸の周りがアブラハムの土地になったことをも意味します。アブラハムに土地と子孫を与え、わたしは彼らの神となると言われた、神さまの約束がまた一つ実現したのでした。

 

アブラハムは、七匹の雌の小羊をアビメレクに送り、「わたしの手からこの七匹の雌の小羊を受け取って、わたしがこの井戸を掘ったことの証拠としてください」と言ったとあります(30)。アブラハムは、この七匹の羊を、契約の証しとしたのでした。しかし、なぜ七匹の雌の小羊だったのだろうと考えてしまいます。7は、神さまがこの世を完成された七日間の出来事を思い起こすことが出来ます。アブラハムは、この井戸をいつか完成される神さまの国を垣間見る場所としたかったのかもしれません。また、小羊は、聖書を読む私たちにとって、イエスさまを連想せずにはいられないように思います。アブラハムは、自分が神さまに従う事により、人を傷つけてしまうのではないかと、悩んでいました。その悩みは、教会で礼拝を守る私たちの悩みでもあります。私たちには、何とも出来ない失敗があるように思います。しかし、神さまはアブラハムと共にいてくださいました。そして、アブラハムが自らの罪を知り、悔い改め、新しく生きる事が出来るようにいつも導いてくださいました。そして、神さまご自身がお与えになった使命を生きるように、支え続けられました。このアブラハムと共におられる神さまが、今、インマヌエルのイエスさまを私たちの所に送ってくださいました。この方は、私たちが知らないうちに犯してしまう罪も、そして、私たちが感じる事が出来ていない悲しみも、私たち以上に知ってくださる方です。神さまは、イエスさまを通して、「御国が来ますように」と祈り続ける私たちに、今も悔い改めを求め、新しい命を与え続けてくださっているのです。

 


アブラハムは、井戸の脇に「一本のぎょりゅうの木を植え、永遠の神、主の名を呼んだ」と聖書に書かれています。水が貴重なこの地域で、井戸の近くに木を植えて、ここに井戸があること、命の源があることを示したのでした。また、永遠の神、主の名を呼んだといのは、主の名を呼んで礼拝したという事です。アブラハムが、このよう主の名を呼び、彼の行く先々で礼拝をする時に、彼の行く先々で主の名が伝えられました。そして、彼は行く先々で祝福をもたらし、彼に与えられた多くの国民の父となるという、神さまの使命を果たす者となりました。

 

 私たちもアブラハムのように、神さまに従いたいと思います。イエスさまに従いたいと思います。それにより、ひょっとするとまた、人を傷つけてしまうかもしれません。けれども、その全てを通して、私たちはいつか、イエスさまに与えられた使命をはっきりと知る事が出来きるようになります。イエスさまに従う私たちは、永遠の可能性と使命を与えられているからです。そして、イエスさまに与えられた使命を知るとき、私たちは、玄関先にある大きな音のする鐘をどのように使えばよいのか、分かるようになるのかもしれません。また、全ての人が、神さまの民になるという事がどのような事なのかを、知る事が出来るようになるのかもしれません。信仰を生きる中で、さまざまな悩みが生まれるかもしれませんが、私たちと共にいてくださるイエスさまに、無限の可能性を祈り、この方に従い続けたいと思います。