救いの完成を待ち望むー『取りて、読め』の信仰に導かれて」

2023/04/16   復活後第一主日礼拝      創世記21921節 

「救いの完成を待ち望むー『取りて、読め』の信仰に導かれて」  牧師上田文

 

 

 4月から、わたしたちの教会では一人一人に教会ダイアリーを配布しました。教会員が共にローズンゲンのみ言葉に耳を傾け、祈りを合わせるためです。しかし、私の牧師友だちを含め、信仰者の中には、このローズンゲンを読むことが苦手なのだという人が数多くいます。何故なら、ローズンゲンは、聖書をはじめから読み進めて納得するような読み方をしないからです。ローズンゲンは、突然、その日に与えられた短い旧約聖書と新約聖書の聖句を、黙想するという読み方をします。つまり、ローズンゲンのみ言葉を、その日、自分に与えられたみ言葉の糧として生きる事を要求するのです。ローズンゲンを読むことが苦手だと言う人は、それが受け入れにくい。突然与えられるみ言葉が、自らの糧となるとはとても考えにくいというのです。

ところが、突然与えられたみ言葉を一生の糧として、生きた人がいます。400年頃に生きたアウグスティヌスという人です。彼の母親は敬虔なクリスチャンでした。そのため、彼は聖書がごく身近にある暮らしをしていました。しかし、彼はなかなかキリスト教を受け入れることができず、演劇鑑賞や欲情に溺れる毎日を過ごしていました。彼が書いた書物を読みますと、これではいけないと分かっていながらも、抜け出すことができない日々を送っていたことが分かります。しかし、ある日、隣の家の子どもたちが「取りて、読め、取りて、読め」と歌っているのを聞いて、ふと机にあった聖書を手に取りました。するとそこには、ローマへの信徒への手紙の131314節の言葉がありました。その言葉は、「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊(めいてい)、淫乱(いんらん)と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」という言葉でした。彼は、たまたま聖書を開いた時に読んだその言葉が、自分に与えられた神さまの言葉であると受け取りました。そして、その日から、彼は神さまに与えられた言葉を受け取り、それを糧として生きる信仰の生活を始めるようになったのでした。


今日の聖書箇所は、神さまの言葉を受け取りながら生きる、アブラハム家族の物語です。アブラハムの家族は、喜びも苦しみも全てが神さまに与えられた物として受け取り、その中で聞く神さまの言葉を受け入れて、神の国を目指す家族とされていきました。私たちも、そのようになりたいと思います。み言葉を受け取って、神さまが与えてくださる日々を神の国へ向かう日々として生きたいと願います。今日のハガルとイシュマエルの物語は、私たちに神さまが与えてくださる全てにものを受け取りながら生きる恵みを教えてくれます。

 

 三か月ほど前に、アブラハムとサラに、ついに子どもが与えられた話をしました。彼らは、子どもイサクの誕生を通して、神さまに真の喜びと笑いを与えられました。そして、3年の時が過ぎ「アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開」(8)きました。アブラハムとサラはここでも、喜びと笑いが与えられたことが分かります。ところが、この喜びの祝宴が突然、憎(にく)しみに変わってしまいました。なぜなら、サラが「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見」(9)たからでした。「エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子」とは、イシュマエルのことです。イシュマエルのことは、16章に記されています。イシュマエルの母であるハガルは、サラの女奴隷でした。サラは、自分には子供が生まれないと思い、彼女をアブラハムに与え、彼女によって子どもを持ちました。このことは、当時の習わしとして行われた、子どもを持つ手段の一つでした。今でいう「代理母」のような制度だと考えても良いかもしれません。ところが、サラは代理母が生んだ、我が子であるイシュマエルを受け入れることができないでいたのでした。そのため、イサクが年上の兄イシュマエルにからかわれながら遊んでいるのを見て、イシュマエルに憎しみを抱いたのでした。

サラはアブラハムに訴えます。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ後継ぎとなるべきではありません」(10)。アブラハムはその訴えを聞いて、非常に苦しんだとあります。なぜなら、イシュマエルを受け入れることが出来ないサラのことを、アブラハムは理解できなかったからでした。当時の習慣にもとづいて得たイシュマエルを、どうしてサラが受け入れることが出来ないのか、分からなかったのでした。つまり、イシュマエルを受け入れられないサラを、アブラハムは受け入れることが出来なかったのでした(11)。そして、このことは、アブラハムの家族の崩壊を招くまでになり始めたのでした。

 

受け入れることが出来ないということは、私たちの生活のさまざまな所にあるように思います。例えば、人間的な繋がりが多ければ多いほど、摩擦も生じ、受け入れられない人が出てくるように思います。「そんな言葉づかいはないだろう」「言い方をもっと考えてほしい」「相手の気持ちに立って行動してほしい」などさまざまな不快感が生まれてきます。また、信頼していた人に悪口を言われていたことを知り、悲しくなったり、人を信頼できなくなったりすることがあります。わたしたちは、嫌な経験をすればするほど、人付き合いに対する苦痛や不安を感じ、人間関係そのものへの期待や希望を閉ざしてしまうように思うのです。私たちは、アブラハムと同じような事を日々経験しているのではないでしょうか。難しい人間関係の中で、苦痛を感じ、期待や希望を失い、押し黙ってしまう。アブラハムのように、相手を受け入れることが出来ず、どうしてよいのか分からなくなり、ただジっとしてしまい、その関係を崩壊させてしまうという事があるように思います。

 

しかし、サラの言う事を受け入れられいアブラハムに、神さまは語り掛けてくださいました。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてよい。すべてサラが言う事に聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする」(12)。この神さまのみ言葉は、アブラハムにとって辛いみ言葉であったと思います。ハガルとイシュマエルを追い出せと言われるのです。今まで、共に暮らした家族の一部を追い出せと言われるのです。しかも、息子も一緒に追い出せと言われたのです。アブラハムは、サラのことも、そして神さまの事も理解出来なくなったと思います。しかし、彼は、神さまに与えられた言葉をそのまま受け入れることを決意します。「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に追わせて子供を連れ去らせた」(14)とあります。きっと、朝になってもアブラハムは、まだ神さまの言葉が理解出来ないでいたように思います。しかし、そこに与えられているパンと水の革袋を取るように、与えられたみ言葉を取って受け止め、パンと水の革袋をハガルに与えたように、神のみ言葉をハガルに与えたのでした。アブラハムは、み言葉をそのまま受け取り、神さまにハガルとイシュマエルを神さまの手にゆだねたのでした。

ローズンゲンを読む私たちは、アブラハムのような行動を毎日繰り返すように思います。その日に与えられた、ローズンゲンの聖句を読み、よく分からないまま、一日を始めることがあります。聖句をそのまま受け止めて、そこにきっと神さまのみ心があると思いながら、一日を始めるのです。つまり、わたしたちも、与えられているパンと水の革袋を取るように、与えられたみ言葉をそのまま受け取って、一日の生活を神さまに委ねているように思います。

神さまの言葉をそのまま受け取ったアブラハムの行動は、後に、イシュマエルの子孫に与えられた約束が実現することに繋がります。アブラハムの家族から離れたイシュマエルは、神さまの導きによってパランで、大きな国民となっていくのです。ローズンゲンにより、み言葉を受け取る私たちの行動も同じです。私たちには、理解できないところで、神さまは私たちを通してそのご計画を進めてくださっているのです。

 

しかし、アブラハムの信仰的な行動は、ハガルにとっては突然の出来事でした。20年近く仕えたであろう、アブラハムとサラに、有無も言わさず出て行かされたのです。全く不本意であったと思います。どうして、このような理不尽な目に遭うのだろうと苦しんだはずです。ハガルがすっかり混乱した様子が、「ベエル・シェバの荒れ野をさまよった」(14)という言葉に表れています。三、四日さまよったのでしょうか。ハガルを支えるものは、遂に何もなくなってしまいました。「革袋の水が無くなった」(15)とあります。アブラハムは、パンと水の革袋を取るように、み言葉を受け取り、神さまにハガルとイシュマエルを委ねました。しかし、エジプト人の奴隷であったハガル(16:3)は、神さまの言葉を受け取って生きるという、信仰のあり方を知らないままに、生きていたのかも知れません。そして、神さまに支えられて生きる事を知らないハガルは、「革袋の水が無くなる」と、まったく全てが無くなってしまった感じたのでした。「革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木(かんぼく)の下に寝かせ、『わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない』」(15,16)と言ったとあります。彼女は、何もない砂漠のなかで、何を見れば良いのかも分からなくなってしまったのでした。ハガルは、飢えと渇きで倒れ込む息子さえ、まともに見る事が出来なくなってしまいました。ぐったりとして、動かなくなった息子を抱きしめてやる事さえ出来なくなっていました。彼女に出来たこと、それは、息子から離れてただ泣く事だけでした。それは、イシュマエルも同じでした。ハガルが泣いている時に、イシュマエルもまた泣いていたのでしょう。

すると、「神は子供の泣き声を聞かれた」(17)とあります。神さまのみ使いはハガルに言いました。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」(17,18)。神さまは、ハガルに神さまの言葉を思い出させてくださいました。神さまの言葉、それはハガルがイシュマエルを宿した時に与えられた言葉でした。神さまは、過去にハガルにこのように言われました。「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす」「あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。彼は野生のろばのような人になる」(16:10-12)。神さまは、悩みの中にあるハガルにすでに、み言葉を与えてくださっていたのでした。み言葉を受け取って生きるという信仰者の生き方を知らなったハガルにも、神さまが出会ってくださり、み言葉を与えてくださっていたのでした。その神さまが、ハガルを見ていてくださり、イシュマエルの祈りにもならないような、嘆き声を聞き取ってくださいました。イシュマエルとは、「神さまは聞いて下さる」という意味の名前です。この名前を、神さまが彼に付けてくださいました。神さまは、ハガルの子をイシュマエルと名付け、彼女が気づかないうちに、彼女が、いつもみ言葉の側に生きるものとしてくださっていたのでした。神さまは言われます。「あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱きしめてやりなさい」(18)。「神は聞いてくださる(イシュマエル)」という、あなたに与えられた神さまのみ言葉そのものである息子イシュマエルを抱き上げなさい。み言葉を受け止めなさい。そのように、み使いは呼びかけるのです。


 

また、神さまはハガルの目も開いてくださいました。混乱の中で、何を見れば良いのか分からなかった彼女は、見るべきものを見つけ出せるようになりました。神さまのみ言葉そのものであるイシュマエルから目を逸らさず、見つめることが出来るようになったのです。目が開かれた彼女は、水のある井戸を見つける事が出来ました。イシュマエルを生かすための水を見つけたのでした。彼女はすぐさま井戸に駆け寄り、革袋に水を満たし、イシュマエルに水を飲ませました。このようにして、彼女は、再びイシュマエルと共に生きる事が出来るようになりました。それは、ハガルがイシュマエルという、み言葉を受け取り生きる者とされたことも意味します。

神さまは、み言葉を受け止めることが出来きないために、崩壊しかけたアブラハムの家族を救ってくださいました。神さまは、サラもアブラハムもハガルもイシュマエルも全て見てくださっていました。み言葉を受け入れることが出来ない彼らに、み言葉を与えつづけ、彼らがみ言葉を受け取るのを待ってくださいました。私たちには、これと同じ恵みが与えられています。神さまは、「取りて、読め、取りて、読め」と呼びかけてくださっています。私たちは、パンと水の入った革袋を手に取るように、いのちのみ言葉を受け入れたいと思います。み言葉を握りたいと思います。その時、神さまの御国への道が私たちの前に広がります。

 

神さまの守りのもとで、成長したイシュマエルは弓を射る者となりました。そして、彼はパランの荒れ野に住んだとあります(21)。パランは、エジプトとカナンの中間地点にある地なのだそうです。神さまのみ言葉を受け入れて生きるようになったハガルとイシュマエルは、エジプト人としてエジプトに帰ることはありませんでした。だからといって、もうアブラハムとサラの物でもありません。パランの地は、神さまの言葉を受け入るハガルとイシュマエルが、誰のものでもない、神さまのものとして生きる事が出来るようになった事を象徴しているのかもしれません。この土地で、二人は暮らし、やがてイシュマエルは妻を迎えました。「必ずあの子を大きな国民とする」という神さまの約束が実現していったのでした。

 

アブラハムや、ハガルが受け入れたみ言葉は、何年も後になってそれが何を示していたのかが分かるようなみ言葉でした。しかし、イエスさまにみ言葉と聖餐を与えられ、それを受け取っている私たちは、毎日のように、神さまのみ言葉によって生かされる恵みを与えられます。ローズンゲンにより、み言葉を与えられる私たちは、朝には閉じられていた目が、夜には何を見なければいけないのか分かるような、目が開かれる経験を与えられます。神さまが、「取りて、読め」と語りかけてくださり、目を開いてくださり、神さまの国を目指す者として、日々造り替えてくださるのです。

 

神さまはイエスさまを通して、私たちにいつもいつもみ言葉を与えてくださいます。そのみ言葉の一つがローズンゲンの聖句と言えます。

私たちは、日々み言葉を与えられ、それを受け取って生きる恵みの中に置かれています。この恵みにより、私たちは、確信と希望に満ちた、神の家とされていくのです。