まっとうされる神の愛、兄弟姉妹へのまなざしの中で

2023/04/23(復活節第二主日礼拝 

まっとうされる神の愛、兄弟姉妹へのまなざしの中で 

第一ヨハネ412712        


※もう一つの「愛の讃歌」

 結婚式の定番になっている聖書箇所といえば、第一コリント13章です。先日川奈のホテルが持っているチャペルを須田先生と訪れたときに、司式者のテーブルに備え付けられている聖書を見ました。聖書というか、聖書の形の模型が置かれていて、そこには一ページだけ印刷がなされています。それが第一コリント13章、「愛の賛歌」と呼ばれる箇所です。今日の箇所は、内容的にはそれに負けず劣らない形で、信仰者に響き合う「愛についての語り」が繰り広げられています。今日の段落は、こう始まるのです。

 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。

 今日の段落全体で、愛という言葉が何度も出て参ります。昨年度の教会標語を聖句に基づいて掲げるにあたって、役員会で色々話し合いました。ここに出ている「愛」とは一体何か。私たちの兄弟姉妹愛は、神の愛と同じだと言えるのか。神の愛とは別物であるはずはないのだけれども、同じ愛という言葉でくくることが出来るのか。

 実は、この段落だけで10回以上出てくる「愛」という言葉は、伝統的なギリシャ語の表現では、「神の愛」と「人間の愛」に分けて、二通りの言葉が用いられることになっています。自分とは異なるものを愛するアガペーという言葉と、自分と同じものを愛するフィロスという言葉の区別です。イエスさまの言葉遣いも、パウロの言葉遣いもこれらの区別を前提にしています。ところが1世紀の終わりから2世紀の初めにかけて小アジアで7つの拠点を中心に伝道を展開したヨハネ教会と呼ばれる教会は、あえてフィロスという言葉を用いず、愛をすべてアガペーという言葉で言い表しました。

したがって、私たちの教会標語は、神の愛が全うされる、そして兄弟姉妹の愛も全うされる、というのがヨハネ書簡の趣旨になります。しかし、標語としては二種類の愛を一応区別することにしました。しかし同時に、なぜヨハネ書簡がこの二つを区別しなかったのかについての説明が必要になります。それで、教会総会の日にその説明を含めた形で説教の機会を設けました。


小アジア七つの教会(黙2章)


 


*かつての説教から思い出すこと


少し違う話からします。神学生になって以降に行った説教のリストがあり、この箇所の説教を21年前のこの時期に行っていることが分かりました。神学校を卒業してから都内の比較的大きな教会に伝道師、二人目の教職として赴任をし、丁度二年目に入るところでした。駆け出しの伝道者としての思い出が色々よみがえってきます。一年目はとにかく夢中で駆け抜けました。かなり無理をしていたので、心と体に不調をきたしかけていたことを覚えています。そんな状態から、少し周りが見え始めて、教会で起こり始めていた新しい伝道のうねりへの備えを私自身始めました。結果として開拓伝道につながっていく話は、それだけで一冊の本になるような出来事ですが、今日はその話をすることは出来ません。ただ、そのような教会の大きな成長に合わせる形で私自身が成長することを許されました。あるいは逆に、一人の体だけ大きかった伝道者が成長する度合いに応じて、教会自身が成長しているのではないか、そのように思わされるほどでした。教会は一人の伝道者を育てることを通じて、自ら育つということを実践し始めたのです。


 その時に重要であったのが、その教会の主任牧師と私の関係です。重要な局面で私がしばしば主任牧師から公の場所で見解を求められて発言する、その内容を最初教会員は、全部主任牧師から教えられたとおりに語っていると思っていたようです。ところが、微妙に語っている内容が変化していて、人に教えられて語っているのではなく、自分で考えて、試行錯誤しながら語っているということが教会員に伝わるようになったのです。主任牧師は東神大で実践神学の教授をしていましたから、教会員の側で言いますと、どうせ正解しか言わないんだろうと思う節があったようです。ではその牧師のそばで薫陶を受けている伝道師は、若い伝道者としてどういう風にその言葉を受け止めているのだろうか。私たちのようにちんぷんかんぷんなのだろうか、と思っていた。ところが自分の言葉で語り始めている。教会で、牧師だけが語っていることほどむなしいことはありません。一つの点だけが輝いていても、むしろその点が明るすぎるが故に影がまた深くなってしまいます。その時に、色々なところで光が輝き始めれば、影はなくなります。牧師という点で輝いていた光と、伝道師という点で輝き始めた光がつながりました。同じように、教会役員や何人かの教会員がまた光としてその動きに加わるようになりました。光は、一箇所で輝くだけでなく何カ所かで輝き、それらの輝きがつながったときに、優しくて柔らかい、大きな光となります。

 21年前の説教に目を通したとき、まだそのような教会の動きにつながるような自覚は全くしていなかったのだろうなあ、というような説教しかしていなくて、神学校を出てまだ一年しか経っていない、説明言葉というか、固い説教しかしていない、微笑ましいほどに幼いものであったことを懐かしく見直していました。今日の聖書箇所から、今であれば三つほどの重要なポイントがあることを述べることが出来ますが、当時はその内一つだけしか語っていません。それは、神が愛であって、愛が神なのではない、という点です。愛が神であれば、話は幾分簡単になります。愛の種類は問わず、愛し合い、むつみ合うあるところに神さまがおられるというわけです。そうであればキリスト教でなくても話は通じそうです。例えば聖徳太子が制定したと言われる十七の憲法。その第一条を現代語で読みます。「一つに曰く、和をもって尊しとし、逆らわないのを旨とせよ。…上が和らぎ下と睦まじく、事を論じれば、事柄の道理は自らはっきりする。すべてのことがこうして成し遂げられるであろう」。つまり、みんなが仲良くすればすべてがうまく行く、というわけです。それでは、聖徳太子が言ったことですべてがうまく行くのであれば、わざわざ5000kmの隔たりを超えてキリスト教の福音が伝えられる必要はありません。私たちが、「仲良くすればすべてがうまく行く」という意識から抜け出していないとすれば、まだ「愛は神である」と考えていても「神こそが愛である」とは考えていない、という事になるかも知れません。

 それでは、聖徳太子ではなぜうまく行かないのか。2世紀初頭のヨハネ教会は、一つの教会の中に巣くっている病気によって苦しめられていました。一種の感染症と言えるかもしれませんが、それは体を冒すウィルスではなく、心をむしばむ、一見魅力的な思想運動でした。少し戯画化して言いますと、こうなります。イエス・キリストが十字架についたときに、すべての罪は文字通り全くなくなった。だから何をしても罪にはならない。それなら積極的に悪いことをしよう、といって非道徳的なことを実践し始めました。もう一つ彼らが言ったのが、「私たちは神を知っている」という主張です。イエス・キリストが十字架についたときに、私たちは神というものを完全な形で知ることが出来ている、神についての知識を完全に持っている、だからどんなことをしても罪に問われることはない、というわけです。ヨハネ書簡の第二・第三を見ておりますと、ヨハネはこういう思想にとりつかれたものには挨拶をするな、と教会員に勧めています。これはおそらく事情としては逆で、「神を完全に知っている」と言っている人たちは、自分たちの仲間以外とは挨拶をしないようになっていたということのようです。つまり、教会の中で、発言もよくするし何か信仰的にはっきりとした確信を持っている。他の人たちから見て、彼らは特別に選ばれた人たちだと一目置かざるを得ない状態だったのかも知れません。それで「知識を持っていることになっている」人たちは助長してしまい、教会内で自分たちのサークルのその人と挨拶をしなくなったというわけです。まあこれは教会がギスギスします。

 その教会に対して、ヨハネが語るのです。愛することがない者は、神を知ることはない、と。平たくいうならば、挨拶もろくに出来ないのに神を知っているなどとうぬぼれるな、というわけです。本当に神さまとはどういうお方かを知っているならば、教会内で交わされている挨拶でさえ、信仰者を生かすものであることに気づくはずだ、と。


ヨハネ福音書1930、十字架上の主の言葉「成し遂げられた」は「全うされた」の別訳。

 



 

 *全うされる神さまの愛


21年前の説教者は、ここまでしか語っていません。それで、2022年度の教会標語を制定するに当たっての話に戻ります。「まっとうされる神の愛」、これは21年前には語り切れていなかった事柄です。「まっとう」というのは「完成する」ということです。神さまの愛が私たちのうちで完成する、というのですから責任重大です。「完成するだろう」という未来形ではなく、「完成している」という、完了のニュアンスの言葉です。教会役員会は、いえ教会総会は、この「神の愛が私たちのうちで全うされる」という聖書箇所を自ら選ぶような仕方で2022年度の聖句として歩み続けたのです。

例の敵対者たちは、こう言っていたようです。私たちが愛することなどなくても、神についての知識は完全なものである、と。              

 それにたいしてヨハネは、私たちが神様に促されるようにして兄弟姉妹を愛するようになったときに、本当の意味で神さまの愛は全うされるのではないか、いえ、これは仮定の話ではなく、空理空論の話ではなく、私たちの教会を見れば、神さまの愛は全うされている、そう言えるほどに私たちは既に互いに愛し合っているではないか。

 繰り返しますが、この聖句と共に2022年度を歩んだのです。神の愛が私たちのうちで全うされる、これは目標ではなくて、現実なのです。私たちは、その現実を受け止め切れていないかも知れません。つい最近まで、私たちの教会で召天会員といえば、教会墓地に納められている人のことがまず念頭にありました。召天会員と言えば私たちの信仰の先達ですから、先達中の先達として戦前の宣教師や牧師が筆頭に挙がっていてもおかしくありません。しかし墓地に納められている牧師以外は逝去年月日がはっきりしないケースがあったのです。それで入らずじまいになっていた。私もこの教会に7年間いるのですから、責任の一端はあります。

 しかし、神さまの愛が私たちのうちで全うされるというのは、色々な試みを通じて今まで気がつかなかったことに気づかされ、ああ確かに私たちのうちで神さまの愛が全うされているのだなあと思わされることを含みます。私たちの、完了形の事実に気づかされる歩みは、2022年度に留まるものではなく、今後も続きます。

 *私たちを促すキリストの愛


21年前の説教者が語り切れていないことをもう一点述べます。それは、10節ですが、父なる神さまは私たちを愛する証しとして、罪の償いのためにご自分の独り子を使わした、ということです。御子が使わされることを通じて私たちは兄弟姉妹愛を実践することが出来る、ということを意味します。なぜ21年前に語りきれなかったかといえば、まだ当時は十七条の憲法にある、「和をもって尊し」という地点に留まろうとする精神と、真っ向から向き合っていなかったからだと思います。その時仕えていた教会は、交わりに問題がある教会でした。それぞれが、自分の持ち分というか縄張りに引きこもっていました。その中に入ってくる人だけを歓迎していたのです。その、張られている縄というか自分を守る線引きを取り除いて、本当の意味で胸襟を開いて交わりに入るということが出来ないでいました。見た目は、色々な行事で盛り上がっているのです。しかし行事を支える奉仕をする体力が次第に無くなっていく、一種の高齢化現象が起こり始めていました。教会というのは高齢化すると「教会らしさ」が無くなっていく運動団体の一種なのでしょうか。そこでいう「教会らしさ」とは何だったのでしょうか。本当の意味で交わりに生きる教会となるためには、人間の力で縄張りを解除していくというのではやはり限界があります。主イエスの血潮によって贖い取られ主のものとなった教会、そこにおいて真の交わりがあります。私たちが上からの力によって揺さぶられて、新たな交わりを発見し、新たな教会の魅力を発見したときに、私たちの教会は前進します。そして控えめにいっても、私たちはそのような前進を確かに2022年度に経験したと言えるのではないでしょうか。

 

 兄弟姉妹の交わりの中で、キリストの愛は全うされる、この事実を深く胸に刻みたいと思います。