マケドニア伝道の始まり

2023/04/09 復活祭主日聖餐礼拝 使徒言行録説教第49回 

16610 マケドニア伝道の始まり 牧師 上田彰

 *聖霊はつなぎ、分かつ

 今日の箇所は、記されていることは明快ですが、一体何が起こっているのか、考えていくとはっきりした結論にたどり着きにくい、不思議な箇所です。後半から見ていきますと、パウロが夜に幻を見ます。そこに出てきた一人のマケドニア人に、自分たちの所に来てもらうように頼まれます。そこでマケドニアに出発するのですが、その際に使徒言行録の文体が、「私たち」という、一人称複数に切り替わります。それ以前は、今日でいえば8節までは、三人称複数、つまり「彼ら」なのです。

 したがってかなり以前には、次のような説がありました。マケドニアに向かうパウロ一行についての記述が、「彼ら」から「私たち」に変わっているわけだから、ここで誰か重要人物が旅に加わったのではないか、それは使徒言行録の著者とも言われるルカではないか、という説です。そういえば彼は医者であったらしい、この前の箇所で、聖霊によって伝道活動がやむを得ず抑制されたとあるのは、要するにパウロが病気だったのではないか、そこでルカがマケドニアで合流してパウロに付き添ったということではないか、という風に話が展開するようです。この説について、いや絶対にそんなことはない、と完全否定する根拠は見つかりません。医者ルカのマケドニア合流説は、依然として可能性はあるようにも思います。しかし、これがルカではないという可能性もあるように思います。要するに、誰かが加わった可能性もあるが、それが誰なのか、あるいは本当に誰かが加わったのかは、全く分からない、にもかかわらず「私たち」という言い方に変わっている、ということです。

 起こっているのは何かといえば、パウロたちがマケドニアに向かう際に、このパウロ一行の旅に、大きな変化が加わった、ということです。何らかの力強い旅の同行者を得た、ということを想像することは可能です。私自身、この箇所についての解説書を読みながら、もしパウロの旅行にルカがここで加わっていたとしたら、なんとパウロは心強かったことだろう、という風にいろいろ想像しました。しかし同時に気づかされたのです。私はなぜ、ここで具体的な一人の人の参加を想像していていいのだろうか、と。むしろ、ここで「聖霊」が旅に加わった、ということを想像した方がいいのではないだろうか。誰か人間が加わることによって「私たち」の旅が始まったというよりも、聖霊が加わることで「私たち」の旅が始まったと考える方が、むしろパウロにとっても心強いのではないか、と思ったのです。

 私たちは、しばしば教会において、具体的な誰かとの出会いを期待してしまう。気持ちは分かります。親しい仲間と出会うという目的を、教会でも求めてしまう。都心部の教会に参りますと、やたらと賑わっている教会がある。人が大勢来ていて、素晴らしいなあと思っていろいろ話を聞いていると、どうも集まっている人たちは、神様に出会うために教会に来ているというよりは、人に出会うために教会に来ている感じがする。そういった教会の様子を最近いくつか聞くようになりました。コロナ以降に、そういった教会はどうなったのか、ということに関心を持っています。まだ断片的な情報しか入っていませんが、先日はこの三年間、聖餐式を一度もしていないという教会の牧師に会いました。礼拝出席は、教団年鑑で見ましたところ、ざっと半減でしょうか。少し興味を持って都心部の大きな教会をいくつか確認しましたが、それほど減っていないところがある一方で、3分の1程度になっているところもあります。減っているから、そこは教会の交わりが人間的なものになってしまっていた、という風に簡単に言うことは出来ないかも知れません。はっきりしているのは、コロナが終われば全部が元通りにうまく行くようになる、そんな幻想めいたことを聞くことはもうなくなった、ということです。私たちの教会もまた、人数の上では減っているわけです。

「聖霊」で検索して出てきた、雨の中で希望を持って顔を上げる、ロマ書534を描いたもの。「艱難は忍耐を、忍耐はcharakter(性格)を、性格は希望を生む」(NIV)と訳している。

ただし、そのような事態の移り変わりによって、皆が絶望しきっているというわけではないように思います。むしろ、今まで見えていなかったものが見えるようになったのではないか、という声を聞きます。今まで、見える形での人間同士の交わりにばかり目がいき、人数が増えたとか減ったとか、あの教会には若い人が多いとか、そういったことに囚われてしまって、教会は本当の宝を見失っていたのではないか。しかし人間的には絶望しか考えられない状況において、なお主にある希望を持つことが出来る。そのような教会だけが今後生き残っていくのだろう、そんなことを皆が感じ始めています。それは決して悪い状況では無いのかもしれない、と思うことがあります。

 今日の所で、一体誰が加わることによって、「彼ら」一行が「私たち」一行に変わったのか、ルカだったのだろうか、それとも他の誰かなのだろうか、と考えてしまう場合、私たちはなお教会において人に出会う出会いだけを期待し続けてしまっているのではないでしょうか。むしろここで、キリストの聖なる霊が加わることによって、力強く、心強い旅が再開した、と考えるべきなのではないでしょうか。

 

 *よみがえりの出来事

そのように考えていくと、今日の聖書箇所は、イースターの出来事に重ねて読むことが出来ることに気づかされます。今日の箇所の前半で、パウロたちは一回目の伝道旅行を終え、そこで得た異邦人伝道の実績をエルサレム教会にも認めさせることに成功し、意気揚々と第二回目の伝道旅行を開始しました。ところがのっけから、今まで無二の戦友でもあったバルナバと別れて伝道を始めることになってしまう。人間関係でいえば、いきなり行き詰まるところから開始するのです。神さまは、何という試練を伝道者たちに与えることでしょうか。前回の所は、記述があまりにも単調であるが故に、パウロやバルナバの思いがうまく伝わってこない感じがしました。もっと例えば悲しがっているとか、あるいは悲しむべき所だが淡々としているとか、何か手がかりがほしいのです。言ってみれば、絵を描く際の材料になる何かがほしいと思ってしまうのです。しかし、先週の所から今日の所と読み進めてきて、これはパウロの伝道旅行の新しい段階に達している、いってみれば伝道者パウロの生涯にとって大きな転換点が、そしてアンティオキア教会が成長するにあたって、どうしても学ばなければならない教訓を、彼らは、いえ私たちは、ここで学んでいるのではないかと思うようになりました。それは何かというと、聖霊は確かに一方で人と人とをつなぎ合わせるし、今まで見えていなかった新しい伝道の可能性を幻として示して下さることがあるけれども、他方で人と人とを切り離すこともあるし、今まで見えていたつもりである伝道の可能性を退けることがある、ということです。聖霊とは、つなぐこともあるけれども離すこともあるのです。つなぐことと離すこと、あるいは推進することと退けること、その両方が聖霊のわざであるということを学ばなければ、伝道者としての生涯は、あるいは教会が担う宣教のわざは、いつも成功し続けていなければならないというような、何か不自然で人工的なものになってしまうのではないでしょうか。

 しかし人間的にいえば、仲違いをして別れることは悲しいですし、行おうと思っていた伝道のわざが行えないことは辛いことでもあります。しかもそれが、人間的な限界、例えばパウロがもっと優しくバルナバに接したら良かったのではないか、あるいはもっと健康に気を遣っておけば新しい伝道地での伝道にも体力的に耐えられたのではないか、そういう人間的な限界であったというのなら、まだ理解も出来るかも知れません。他の伝道者ならうまくやれるだろうと期待を持つことが出来るからです。平たく言うならば、次の牧師に期待をしておけばいいからです。しかし、これは聖霊が禁じたのだ、聖霊が二人を別々の伝道へと赴かせたのだ、というのであれば、これはもう期待を持つことは出来なくなってしまいます。平たく言えば、今回の牧師はちょっとまずかったけれども、次の牧師に期待をすればいいと言っている間は、まだ本物の教会にはなりきっていない、ということです。そういう事をいっている都心部の教会は、ある意味で死に体なのです。コロナの話で申しますと、コロナの時に、コロナが終わればまた伝道が出来ると期待を持ちたいのに、これは神さまが伝道を禁じているのだ、と言われれば、期待をそもそも持つなと言われていることになります。今はただの病気だから、治療すればまた元気になるという状態ではなく、もう死んでしまっているから医者の出番は終わったという状態だというわけです。

 しかし、死んでしまったイエス・キリストの体は、よみがえることを待っています。医者の出番が終わったら、次は本当の意味で伝道者の出番なのではないでしょうか。伝道者、あるいは伝道者集団としての教会、それは、どうすれば今までのように生き続けるかということを人々に告げる集団ではなく、どのようによみがえりを待ち続ければ良いのかを人々に告げる集団が地上に現れる必要があるのです。もう若い人が教会から少なくなれば、信仰そのものが右肩下がりになっているような錯覚に陥ってしまい、伝道が振るわないのは教団の指導者である誰々が悪い、教会で言えば牧師や役員がしっかりしていないから教会が伝道できないのだ、私はもう教会に行かない、――都心部の教会では、真顔でそんなことを言う人が本当にいるのです!――そのように、死んだ体となっている教会が、再びよみがえる。それがマケドニア伝道の始まりなのです。酸いも甘いも経験した教会が、もう自分の力で伝道することは出来ないと絶望した教会が、神の力によってなお継続して伝道することが許されるという希望を持つ。彼らの伝道から私たちの伝道への転換は、死んだ体からよみがえった体への転換です。

「その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。」

 

 *よみがえる教会

 この二週間ほど、教会ダイアリーの作成に力を注ぎました。かつて私たちの教会は、教会員名簿を持つ教会でした。教会員というのは、現住陪餐会員のことですから、現役の教会員ということになります。厳密には現住ではない陪餐会員も教会員と呼ぶことは出来なくなってしまいます。教会に来なくなった人を私たちは名簿から抹消すべきなのだろうか。教会に来なくなった人をも祈りに覚えるために、教会員名簿を教会名簿に改めて、不在会員の名前を載せ続けています。同時に、この時に召天会員を加えることにしました。現住陪餐会員48名ないし不在会員と幼児会員を加えた76名だけが教会のメンバーなのではない、そこに既に天に召された366名を加える形で、私たちは週報に名前を載せるような仕方で祈りに覚え続けることをして参りました。

 第二次教会将来計画を開始するにあたって、教会ダイアリーを作成することを志し、教会役員の強力なサポートによってその作成が目前となったときに、新たな追加事項があることを作成して下さる方に伝えることになりました。指示が途中で変わるわけですから、振り回してしまっていることになるなあと思いながら、しかしこれはどうしても加えないと思い、少し大がかりな御願いすることにしました。生きた教会メンバー76名と召天した教会メンバーとして名簿に記されている366名を合わせた、442名を覚えるだけでは、重要な人たちが抜けていることに気づいたのです。それは、墓地に収められていない戦前の牧師や宣教師です。つまり、召天会員として本来加えられていないとならない、むしろその人たちから始めていないとならないリストに、欠けがあったのです。

リストを補完することには、困難もありました。いくつか資料集などを見ても、逝去年が分からないことがあったのです。日本基督教団にも問い合わせましたが、戦前の牧師の情報は分からない方が多いようです。しかし、逝去年が分からないから、あるいは私たちの教会墓地に遺骨が納められていないから、重要な信仰の先達を覚えなくていいというわけにはいきません。そこで分かっている情報を組み合わせて、多少の推測も入れて、召天教師の記念日をダイアリーに加えることが出来ました。通常ですと召天者記念礼拝の時にそういった方々の名前を読み上げるべきなのでしょうが、召天教師を一度だけ読み上げるべきだというルールはないと思いますので、この機会に読ませて頂きたいと思います。その前に一言申し上げます。日本伝道について記す本の中で、次のような一節を見つけました。「福音同盟会の影響を受けて来日した外国人宣教師達は、(伝道がしやすい都市部ではなく)、伝道が困難な土地をあえて選んだという。それが飛騨であり伊豆であった」。なにも伊豆のことを下に見ているわけではありません。福音の力が本物であるならば、人の多いところでしか通用しないはずがない、伝道の困難なところで福音が根付いてこそ、日本のキリスト教化は、あるいはキリスト教の日本化は、本物だと確証づけることが出来る。キリスト教が本物であることを、ここで証ししたい。そんな思いを持って彼らは訪れたというのです。死んだ体からのよみがえりを、人々は、いえ私たちは、必要としている。

 20234月に召天会員に新たに加えられた教師の氏名です。A.セットランド、A.マッソン、C.E.カールソン、小出朋治、土肥元一、堀田富三、江連博治、松田政一、磯治作、林兵吉、眞嶋慶三郎。

この作業をしながら、私はかつての伝道者が伊東において伝道をしていたさまを思い起こし、そして今日のマケドニア伝道の聖書箇所を思い起こしていました。マケドニア伝道は、日本基督教団の中で、マケドニア会という名前でつながりを持つ、かつての福音同盟会の交わりの名前の由来でもあります。これは同時に、日本の教会がマケドニア伝道によって海の向こうから伝道者を迎え入れて出来上がった教会であることを思い起こす名前でもあるし、「彼らの伝道」が「私たちの伝道」になることを覚える名前でもあります。彼ら彼女らの名前がよみがえるさまは、私たちが伝道する教会として決意を新たにするさまと重なります。

 

 *聖餐への招き

これから聖餐を守ります。私たちはその中で、本来聖餐に与るべきであるけれども、聖餐から漏れている人がいないか、という問いかけを聞くことになります。それはこの場にいるけれどもうっかり聖餐に与り忘れたという人がいないかというだけの問いではないはずです。ここにいる、あるいは伊東にいる神の民でまだ教会員として聖餐に与っていない人がいるのではないかという問いでもあるはずです。そして同時に思うのです。聖餐に与るのは、何も生きている人ばかりではない。既に天に召された人々が、聖餐の食卓に着いていることを信じてこその聖餐です。その意味で、450名の聖餐に与る者たちのリストを私たちは手にしながら、よみがえりの希望を胸にして聖餐に与りたいと思います。