喧嘩別れは決してしない

2023/04/02 棕櫚の主日礼拝 「喧嘩別れは決してしない」 牧師 上田彰

 *最近のことなど(AI)

 最近、パソコンでAI、つまり人工知能に関する技術が応用段階に達したということが話題になっています。これによって、いくつかの職業は大きく影響を受け、なくなってしまうのではないかといわれています。一つは、パソコンで動くゲームを作る際、簡単なものであっても本来はプログラム言語を知らなければ作れません。ところが、全くプログラム言語を知らない人であってもゲームを作るように命令をして実際にそのゲームが作動する、というような動画を目にしました。実際にオセロを作って、と頼んだところ、本当に動くのかどうかは分かりませんが、一応プログラムらしきものを作ってきました。最終確認は人間がしないとならない気はしますが、それ以前の大変な部分を代わりにやってくれるというのは、便利なことであり、また同時にしっかりと人間が監視をしていないとならないとも思います。今時、AIにスーパーのモニターカメラをつなぎ、万引きをしそうな怪しい人をカメラで追いかけるという仕組みがあるのだそうです。誤作動したら大変な問題です。

 しかしその一方、最初からAIの出してくる結果について人間が検討するという前提のことについては、頼んでみると面白いかも知れません。その中の一つに、芸術作品を試しに作らせてみる、というのがあります。私自身が関心があって、いくらか試みているのが、AIに絵を描かせるという作業です。例えば説教スクリプトにイラストを載せています。AIを使わない前提の場合には、次のようにして載せられそうな絵を探してきます。よく使っているイラストサイトというのがあります。聖書箇所の色々なところを絵にしてくれているものです。また、有名な絵画にたどり着いてそれを拝借することもあります。著作権については大目に見てもらうしかありません。

 *エルサレム会議(教会会議)を振り返る

 しかし既に誰かが書いた絵を探すというのには限界もあり、特に使徒言行録というと、絵画となる有名なシーンはペンテコステやパウロの回心といったところで、それ以外となると数がかなり限られます。例えばこの直前のエルサレム会議なども私の知る限りでは絵画は出回っていません。

そこで、AIの出番です。例えば、次のように命令をするのです。新約聖書使徒言行録15章のエルサレム会議の様子を描いてほしい。すると、いくつかの絵が出てきます。曖昧な指示をすると、推測の幅が大きくなりすぎて、出てくる絵も幅があります。そこで、例えば一世紀であることとか、当時の会議には多分女性は出席していないから、主立った会議のメンバーが男性であるのはいいにしても、それ以外の大勢の群衆については男女はっきり分からないようにしてほしい。そもそも会議が行われている建物の様子、机とか椅子が現代的すぎる、などなど注文を増やしていけば、それだけ指示に沿ったものが出てきます。

 そういった指示を重ねていくことで、多少インスピレーションが湧く絵に出会うこともあります。例えば、会議の時に二つの陣営が出来、両方が別々の装いをしていて片方がエルサレム教会側、もう片方がアンティオキア教会側。そしてその中央には聖餐の食卓らしきものが見える。

 この絵になんとかたどり着いたときに、この数週間続けていたエルサレム会議についての説教ですが、そもそも、このエルサレム会議の状況を自分自身捉えきっているのか、と問われたような気がしてきました。一方には福音を異邦人にも伝えたいと希望で胸を膨らませている人たちがいる。もう片方のユダヤ人伝道のみが伝道のあり方だと言っている人たちが、頭が固いように見えている。しかしあなた方は頭が固いのではないかと言ってしまうと喧嘩になる。けんか腰ではない形で、しかしなんとか相手には理解してほしいと思っている。他方のエルサレム教会のメンバーたちもまた、祈りながら会議に参加しています。彼らもまた自分たちの思いがうまく伝わらないのではないかと恐れているのです。異邦人伝道を推進する側には、浮き足立っている様子も見える、その浮かれ具合が気になっている。しかし異邦人伝道をしたいという志そのものを萎縮させることがないように、なんとか伝えたい。どうすればいいのかと迷っている。二つの異なる考え方を持っている人たちが、本音でぶつかりながら同時に相手を傷つけない、伝わる言葉を探している。そんなエルサレム会議の様子を、自分自身は十分捉えているだろうか。説教において伝えられていただろうか。絵に描くとしたら、どのような命令をしたらそのような思いを十分表現できるのだろうか。

 先ほどの絵を見ながら、突然あるベテランの牧師が、若い牧師たちに対してしたアドバイスの一つを思い出しました。それはこのようなものです。祈って終われない家庭訪問はするな。家庭訪問をして、その信徒が噂好きだったりすると、その人と牧師まで一緒になって、別の信徒についてあることないことを語る、そんな状況を想定してのアドバイスなのでしょうか。具体的な勧めはただ一つ、祈ってから別れるような交わりになっているか、という基準を持つべきだ、というのです。聖徒の交わりを信ずという使徒信条のあの一句を、どのように信じているのか、どのように具体的に思い浮かべているのか、問われているように思います。

 エルサレム会議とは、異邦人伝道を推進するアンティオキア教会側が、異邦人伝道を拒むエルサレム教会側に勝利をした、というような、「正義は勝つ」という、安っぽい勧善懲悪のドラマではありません。エルサレム教会側には彼らなりの思いがあり、それをアンティオキア教会側も十分受け止めた。お互いに自分たちの思いを言い尽くし、そして祈り尽くした。そんな様子をエルサレム会議と聞いて思い浮かべるべきなのだ、と考えさせられました。

 今は絵の話をしていますが、単なる想像を語っているだけではいけませんので、聖書を確認してみます。この会議の後にアンティオキアをパウロやバルナバと共に訪問したエルサレム教会側のメンバーはバルサバとシラスでした。彼らは、アンティオキア教会に表敬訪問で来たのです。歓迎はされました。しかしバルサバはすぐにエルサレムに帰りました。他方でシラスは、そこに留まった、ということが34節に出てきます。新共同訳では、28章の次のページに飛びだしています。聖書を書き移す形で後世に伝える際に、シラスが残ったということを伝える証言と、いや彼もバルサバと一緒にすぐにエルサレムに帰ってしまったという証言が、錯綜しているのです。そのくらいシラスの残留というのは微妙なテーマだったことが分かります。ここでは「残った」ということを強調したかった方の立場に与したいと思います。エルサレム会議によって得られた信頼関係は、表面的なものではなかった、その証拠にエルサレム側の重要なメンバーが残ってくれたではないか、というわけです。彼らはすっかり親しくなったのです。教会会議、つまりその本質が祈りを目指すような会議とは、前には同じ席に座るのも嫌だというような関係であったのが、すっかり親しく打ち解けることが出来るようになるもの、と言えるのかもしれません。さて、そのような教会会議の本質というものを、私自身捉えきっているのか。説教において語りきっているのか。絵で描かれる場合にも、その様子を想像し切れているのか。四回かけて行ったエルサレム会議についての説教を振り返りながら、「聖徒の交わり」の本質をどこまで深く捉えているのか、反省させられました。

 

 *仲が良いが故に別れるという事態について

 今日の箇所は、そのような「聖徒の交わり」のさらに別の形について私たちに問いかけています。祈りの会議は、異なる立場同士の者がその後親しくなることが出来るものと言えますが、これは逆のことも言えるはずだ、そのことについて分かっているのか、という問いです。つまり、同じ立場同士の仲の良い者が、「仲が良いが故に別れる」という出来事が、祈りを通じて起こるというのです。

 バルナバとパウロの離別。かつてパウロがサウロであった頃、ダマスコ途上で回心を経験しました。数日ダマスコに滞在し、体力を回復した彼は、教会に加わることを望んでエルサレムに戻ります。しかし皆が警戒して受け入れようとしません。その中で、バルナバだけはサウロに向き合い、そして彼が教会のメンバーになることが出来るように周りの者たちに働きかけました。その後の第一次伝道旅行でもパウロとバルナバはいつも二人一組で行動していました。その彼らが、仲間の伝道者の処遇を巡って意見が対立し、別々に伝道をすることになる。

 教会外の人であれば、こう思うでしょう。ああ、宗教と言えども内部分裂というものがあるようだ。同じ信仰に立っているといいながら、少しの違いで分かれてしまう。特にプロテスタントと言われるグループは分裂に分裂を重ねている。なんだかとても人間的だ。パウロやバルナバに聞いたらなんと言うでしょうか。自分たちは考え方が違うが故に仲が悪くなり、だから別々に行動するようになったのだ。こちらの言い分の方が正しいのだからこの行動はやむを得なかった。自分たちのそれぞれの信念を貫いた方が伝道はうまく行く…。そんなことを言うでしょうか。

 それならパウロとバルナバは今回の事態をどうとらえているのでしょうか。彼らに語らせる前に、AIならどう語るのか、やってみました。

私:「使徒言行録15章終わりにあるパウロとバルナバの離別について描きたいです。どういう命令が考えられますか。」

AI:こういう命令が考えられます。「パウロとバルナバが別れるシーンを描いてください。パウロはやがて地中海を渡って教会を伝道する旅に出ることになります。それを感じさせるような、物悲しい雰囲気を表現してください。」

私:もの悲しさを表現できる具体的な象徴はありますか。また、もの悲しさの中にも希望を感じさせる必要があります。それを表現できるものについても提案して。

AI:もの悲しさを表現する具体的な象徴としては、落ち葉が地面に散らばっている木々の中にパウロとバルナバを描くという方法が考えられます。落ち葉は秋の象徴であり、変化の季節を表します。パウロとバルナバが離別することで、教会にも変化が訪れることを表現できます。また、希望を感じさせるためには、夕日が沈んでいく空の中に、明るい星が輝いているような絵を描くことができます。夕日は別れの象徴ですが、同時に新しい出発を意味することもあります。明るい星は希望や未来を表し、新しい始まりを象徴することができます。

私:いいぞいいぞと思って、言われたとおりにAIに絵を描かせたのですが、鳩らしき鳥が夕方に飛んでいき船が出発するという絵になりました。悪くないのですが、もう少し具体的に二人の別れのシーンを描いたものにして下さい。

 …このやりとりは実際にAIとの間で行ったものですが、その前には、エルサレム会議についてもずいぶんやりとりをしました。その中で、私の考えている方向をある程度くみ取った上でのやりとりです。つまり、深く祈り合い、語り合った者たちは立場が違っていても一緒になることがあるし、また同じ立場であっても異なる行動を取ることがある。祈りを含む議論を経た者たちは、一緒になることが出来るし、信頼関係のうちに別れることも出来る。一緒になることだけが福音の力の勝利であり成功例で、別れることは福音が人間の限界にぶつかってしまった失敗例である、ということは、ない。

 私の中で、そのような思いをある程度表現する絵を出すのには、何度かやり直しをしました。その中で、二人が教会から出てくるシーンを描くというものに出くわしました。今日の聖書箇所に描かれているのは、主にある兄弟姉妹が、互いの信頼を損なわない形で別々の道を歩き始める、その出発点は教会である、という風に受け止めることが出来ます。

 

 

 *些細な原因で別れたっていい。本質的な信頼があるなら

 この別離の原因にも目を向けておきたいと思います。そもそも見かけ上の対立がパウロとバルナバの間に起こったのは、マルコ=ヨハネと呼ばれる一人の伝道者の扱いでした。彼は第一次伝道旅行の際に、途中で離脱してエルサレムに帰ってしまったのです。もともとマルコ=ヨハネはペトロと親しかった可能性があり、またバルナバとは従兄弟同士である可能性もあります。つまり、何らかの意味でここでのパウロとバルナバの対立には根深い理由があり、一筋縄ではいかない、それこそ人間的な対立が背景にある可能性もあります。もう一つ考えられるのが、マルコ=ヨハネが第一次伝道旅行の時に帰ってしまったのは偶然的な気の迷いであって、そもそも長く手を取り合ってきたパウロとバルナバが離別するような深刻な問題ではなかった、という可能性です。つまり、彼の伝道旅行離脱というのは、そもそも喧嘩別れになるような理由ではない、というわけです。そのどちらであるかは、はっきりしないところがあります。しかし今や、それはどちらでも良くなりました。もしかしたらマルコ=ヨハネの離脱は、やはり大きな問題であったのかも知れない。それを擁護するか非難するかは伝道のあり方に直接つながるような何かであったのかも知れない。他方で、それは実は小さな問題で、パウロとバルナバはある段階で別れることは想定していた。お互いの賜物を生かすには別々の道を歩んだ方がいい。お互いの賜物についてよく知っているからこそ、信頼のうちに別れることが出来る。マルコ=ヨハネの一見はあくまでそのきっかけに過ぎない。そういう可能性もあります。しかし、それらはどちらであっても別にどうでもいいのではないか。仲が良ければ一緒になって、別々であるということは仲が悪いに違いない、そんな偏見から私たちを解放してくれる出来事に私たちは遭遇しているからです。あるいはこうも言えるかもしれません。どんなに親しい無二の友人や愛し合っている人であっても、やがて地上での別れの時が来ます。悲しくないはずがないそのような別れの中で、私たちがなお希望を持つことが出来るとしたら、それはどのようなものでしょうか。

 

 *聖餐への招き

 一つのエピソードを思い出しました。二つの国が、小さな島の領土争いで流血の歴史を重ねていました。あるときに、その島に十字架を立ててから、争いが収まったというのです。本当かどうかは分かりませんが、考えさせられるエピソードです。この棕櫚の主日に持つ聖餐の食卓に、主にある平和の思いが込められていることを覚えます。