真の時を数える教会

2023/03/26 受難節第五主日礼拝(第二回教会総会) 「真の時を数える教会」 ヘブライ人への手紙3章1,6節(2023年度教会聖句)  牧師 上田文

 

 

最近、となりのトトロや、風の谷のナウシカなどの映画を作った、宮崎駿(みやざきはやお)監督のドキュメンタリーを見ました。その中で、宮崎駿監督は、「『一人の人が幸せになることが人生の目的だ』『自分が幸せになることが人生の目的だ』という人生は、どうも納得できない。そんな事を目的に自分が生きているとは、とても思えない」と話していました。これが幸せだという事は、生きているうちには説明できないのではないか、あれやこれやとさまざまな可能性にチャレンジして、そして、失敗を重ねるというのが人生ではないかというのです。そして、私たちの生きる社会を「名前を奪う」社会と表現していました。名前は、私たち存在や個性を表すものです。しかし、今の社会は、私たちの思いや、個性を大切にするのではなく、社会が求めるような物を作り出したり、社会が求める働きをしたりする人間を求めている。つまり、私たちが社会の求めるような人間にならないといけなくなる。社会が私たちの「名前を奪い」、人間を機械化していくと言うのです。

今日の聖書箇所は、このような「名前を奪う」社会の中で生きる私たちに向けて、私たちがどのように生きていけばよいのか。私たちは何によって生かされているのか、私たちに名前を与えてくださった方は誰なのか、私たちの力の源は何なのか、また幸せとは何なのかを教えてくれる、励ましの言葉です。

 

ヘブライ人への手紙は、いつまでも続く厳しい迫害を経験している教会に送られた手紙です。キリスト教の迫害は、一時的なものではありませんでした。64年に起こった皇帝ネロの迫害がありました。また、303年にもディオクレティアヌスの迫害がありました。キリスト教は313年に、公認されるまで、200年以上もの間、迫害され続けていたのでした。そして、その長い年月の間に、信仰者も世代を数えるようになっていました。迫害の初めのころは、福音によって力づけられた信仰者が沢山いたと思います。しかし、長く続く迫害の中で、世代が変わるごとに信仰が萎えてしまいました。いくら福音を聞き信じても、いっこうに迫害は終わらないからです。この手紙の前の方、2章の8節には、このように書かれています。「『すべてのものを彼に従わせられた』と言われる以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません」。長く続く迫害は、信仰者の信仰を失わせていきました。信仰者の信仰を失わせることは、信仰者の思いや個性、生きる力を奪いさることです。つまり、迫害は信仰者の「名前を奪って」いったのでした。「わたしたちは、いまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません」という言葉は、はるか遠くに、たどり着くはずの神の国があるはずなのに、それは少しも見えてこない。私たちは、いつまでこのような苦しみの中に居なければいけないのか。信仰を守ることに、何の意味があるのだろうかという、「名前を奪われ」、どちらの方向を向けば良いのか分からなくなってしまった、信仰者の迷いと、苦しみの言葉であると言えます。

 

自分の努力や頑張りは、なんの意味も持たないものとして、つぶされてしまう。自分という存在が認められない。自分が大切にしている事が無視されてしまう。自分の大切にしている信仰が大切にされない。むしろそのようなものは、取りさられてしまう。自分が大切にしているものは奪いさられ、社会でより上手く生きていくノウハウばかりを身に付けさせらる。つまり、「名前を奪われる」。そのような社会に生きる私たちは、迫害下にあったヘブライ人の手紙を受け取った教会の人々と同じなのかもしれません。社会に「名前を奪われた」私たちは、どのように神の国を目指したらよいのかが分からなくなります。迷ってしまします。毎日、隣人の事を思い、祈り働いていても、なかなか神の国は現実に見えてこないように思います。むしろ、重荷を背負い込んでしまうばかりです。信仰者に与えられる恵みというのは、自己満足の頭の中で考えるだけのものなのかもしれない。そのように考えてしまうことさえあるように思います。

 

そのような私たちに、聖書は語り掛けます。「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公にいいあらわしている使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」(1)。ここで言われるイエスさまの事とは、人となって、私たちの所にきてくださったイエスさまの事です。イエスさまは、神さまが、すべての人を救うために、十字架におかけになって、罪の贖いを成し遂げてくださるために、この世に遣わした神さまの独り子です。罪は、人が神さまの方を見なくなってしまった事からはじまりました。そして、命の源である神さまを忘れてしまった人間は、この罪のために死ななければなりませんでした。一生涯、自らの罪のための死の恐怖に怯えなければならなくなったのです。そんな死の恐怖に繋がれ、死の奴隷となってしまった私たち人間を自由にするために、イエスさまは来て下さり、死の力から私たちを解き放ってくださいました。だから、イエスさまを信じる私たちは、イエスさまが死から蘇ってくださったので、同じように永遠の命に生きる事がゆるされるのです。もはや、死には何の力もなくなりました。むしろ、死は神の国への入り口にされました。この救いをもたらしてくださるイエスさまの事を考えなさい。このことを考えるとき、このことに気づくとき、口語訳聖書では、このイエスさまを「思い見るとき」と訳されていました。その時に、私たちは、喜ばずにはいられなくなるのです。

 

なぜ、このような勧めが聖書に書かれるのでしょうか。私たちが「思い見ている」のは、私たちの救いのために十字架に架かってくださったイエスさまではなく、自分たちから名前を奪おうとする社会だからです。社会に「名前を奪われる」と叫んでいる私たちは、「名前を与え」「その名を呼んで下さる」イエスさまの方を向いていないのです。ひょっとすると、「名前を奪われた」私たちは、すでに、自らの名前をすっかり忘れてしまって、自分が何者であるのかも分からなくなっているのかもしれません。キリスト教を信仰する者として、社会で上手く生きて行きたい、幸せになりたいと願い、努力を続ける私たちは、知らず知らずのうちに、社会に「名前を奪われ」「自らの名前を忘れ」、どの方向を見なければいけないのかも分からなくなっているのです。そのような私たちに、聖書は、あなたに命を与えてくださった方、あなたに名前を与えてくださった方であるイエスさまを見なさいと教えるのです。社会の荒野の中で、あなたたちは名前を失ったように思えるかもしれない。しかし、あなたの名前は失われることがない、神さまが与えてくださった名前なのだ。あなたを生かしているのは、稼ぎや成績ではない。救いと永遠の命を与えてくださったイエスさまなのだと教えてくれるのです。そのことを知るとき、私たちは、自らの名前を再び取り戻す事が出来ます。どの方向を見て、歩けば良いのかが分かるようになり、この世で生き生きと生きることが出来るようになります。

 

しかし、私たちの周りには、イエスさまに従う人々が多くいるわけではありません。教会の門を出ると、家に帰ると、また、職場でもイエスさまを信じているのは、自分一人だけだと言う人が大勢いると思います。自分一人が、イエスさまの事を考えて生きていたとしても、やはり、思い込みや、独りよがりのよう思われてしまう事があります。そのような時に、私たちはとても心細くなるように思います。だからでしょうか、聖書は、私たちに「聖なる兄弟たち」と呼びかけてくれます。また、二章には、「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥じないで、『ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます』と言われます」(211,13)とあります。イエスさまが、心から私たちを愛してくださり、私たちの兄弟になることを喜んでくださっているというのです。私たちは、どこに行っても一人ではありません。イエスさまという兄がいるのです。また、教会に集められたわたしたちは、イエスさまの御業によって造られた聖なる兄弟となります。私たちは、別々の場所にいても、互いに祈り合うことのできる兄弟姉妹がいる恵みを与えられています。しかも、この兄弟姉妹は「天の召しに与っている」兄弟姉妹であると、聖書に書かれています。この言葉を、もっと、聖書の言葉に近く訳すならば「天の召しを持っている」「天の召しの割り当て分を与えられている」兄弟姉妹となります。「割り当てられている」という言葉を聞くと、私たちは聖餐式を思い出すのではないでしょうか。聖餐は、私たちの思い込みや想像ではない事を私たちは知っています。実際にイエスさまから目に見え、口にする事の出来る恵みを私たちは聖餐を通して頂いています。また、この聖餐を、私たちは、皆で一緒に分け合います。パンも杯も、一人一人に割り当てられています。決して、聖餐に一人であずかるような事はありません。どのような事があっても、顔と顔を合わせ、聖餐を分かち合う兄弟姉妹が共にいます。病床にあっても、一人暮らしで家から出られない状態にあっても同じです。私たちは、一人で聖餐式を行うことはありません。必ず、牧師と教会役員である兄弟姉妹が共に聖餐に与るのです。コロナ禍にあっても同じでした。私たちは、必ず兄弟姉妹と共に、顔と顔を合わせて聖餐に与ってきました。なぜなら、私たち兄弟姉妹の長男であるイエスさまが、私たちと一緒に血と肉を分けあってくださり、兄弟になってくださったからです。私たちが、「天の召しに与っている」というのは、ただの思い込みではなく、現実に起こっていることであるという事を、聖餐式を通して知る事ができるのです。このような聖餐を受ける私たちは、どこにいても一人ではありません。イエスさまを頭とした兄弟姉妹と共に、召されています。この兄弟姉妹と一緒に「イエスさまのことを考え」「イエスさまを思い見る」ことが、私たちにはゆるされているのです。なぜ、自分はこの救いに与る事ができるのだろうかという質問に対して、誰も答えることなどできません。神さまが、イスラエルをエジプトから外に出るように呼び出されたように、私たちも神さまに呼び出されたから、ここに来たのです。そして、神さまによって永遠の兄弟姉妹を与えられたのです。このことに理由などありません。ただ神さまの御業があったからです。そして、その神さまの御業によって、今、兄弟姉妹と共に「イエスさまのことを考える」恵みを与えられているのです。

 

また、聖書には、私たちと共にいてくださるイエスさまは、「使者であり、大祭司であるイエス」と書かれています。イエスさまは、「使者である」とは、イエスさまは、私たちに神さまの言葉を語ってくださる方であるということです。たとえ、死の時を迎えても、それは終わりの時ではない、神の国への入り口に過ぎない。名前を与えられ、その名を呼ばれて、兄弟姉妹とされたあなたたちは、永遠の命を授かっているという神さまのみ言葉を、イエスさまはいつも私たちに語ってくださるのです。そして次に、イエスさまは「大祭司であってくださる」ともあります。大祭司は、人間です。つまり、イエスさまは、私たち人間の事を良く知ってくださり、人間の兄弟姉妹の長男として、来てくださったということです。そして、大祭司としてきてくださったこの方は、私たちが神さまの前で誠実に生きる事が出来なくても、大祭司として、常に神さまの前で真実に生きてくださり、私たちを支えてくださる。神さまと、イエスさまの事を思い見ることが出来ず、社会の中の自分の立ち位置にばかり目を向けてしまい、神さまにではなく、社会の中で「自分の名前を探してしまう」私たちのために、今、執り成しをしてくださっている方であると言うのです。イエスさまは、社会に名前を奪われ、自分が何もであるかも分からず、罪の中に陥ってしまう私たちに、あなたの命は何処から来たのか、どこに向かっているのかを絶えず教えてくれる「使者」として、また、いつも神さまのことを見失い、罪に陥ってしまう私たちの執り成しをしてくださる「大祭司」として、私たちの兄弟姉妹の兄として、ここにいてくださるのです。

聖書は、そのことを公に言い表しなさいと言います。私たちが、教会で公に言い表している物、それは使徒信条です。そして、またこの使徒信条を告白することよって、教会の交わりが造られ、神の家が造られていくと言ってもよいのかもしれません。聖書が「イエスのことを考えなさい」と勧めるのは、私たちは、大祭司イエスさまの執り成しがないと生きて行けない。使者であるイエスさまのみ言葉を聞き続け、神さまの赦しによって与えられた命の恵みを仰ぎ見ること以外に、生きる道はない罪人であるということを、兄弟姉妹たちと考えなさい。そのような交わりの中で、神さまに「名前を呼ばれる者」として、神さまに力づけられ、神さまに与えられた命によって、生き生きと暮らしなさいと言う、招きの言葉なのです。

 

今日は、ヘブライ人への手紙の3章の1節と6節を読みました。なぜなら、6節を読むためには、1節のみ言葉が欠かせないと感じたからです。6節は、2023年度の年間聖句です。役員の方々が、一生懸命に祈りを持って選んでくださいました。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りを持ち続けるならば、私たちこそ神の家なのです」とあります。「キリストが御子として、神の家を忠実に治められる」というのは、イエスさまが、教会に集まる私たちを導いてくださるということです。「家」というのは、ただの建物の事を指しているのではありません。「交わり」や「営み」を意味しています。私たちは、自分のこと、自分の幸せのことを必死に考えて、いつの間にか、命の源である、私たちの名前を呼んで下さる「イエスさまのことを考える」ことがなくなってしまいます。イエスさまとの「交わり」を無くしてしまいます。そのような私たちに、「使者」として「大祭司」として私たちの所にきてくださった、兄であるイエスさまは、いつも私たちの名前を呼んで下さり、交わりを持ってくださいます。そして、いつも、神さまの前に跪くことが出来るように導いてくださいます。また、神さまの限りの無い深い愛と恵みによって救われるように、神さまと私たち人間を繋いでくださいます。神さまとの交わりを与えてくださり、執り成してくださるのです。

 

次に、「確信と希望に満ちた誇りを持ち続けるならば」とあります。「誇り」とはどのようなものなのでしょうか。聖書では、「誇り」という言葉は、「傲慢」という言葉と同じ言葉で表されています。イエスさまに集められ、永遠の命の確信と希望に生きる私たちは傲慢なのだろうかと心配になってしまいます。しかし、「誇り」も「傲慢」も何か、断固とした確信に満ちている姿を現す言葉です。イエスさまに従う人の中で、「傲慢」が「誇り」に変えられた代表的な人物がいます。使徒パウロです。パウロは、もともと厳格なユダヤ教徒でした。神さまの前で正しくあるために、誰よりも律法を正しく守っていた人でした。そして、ユダヤ教ではない、当時異教徒と言われていたキリストに従う人たちを縛りあげて、ユダヤの神殿があるエルサレムに連行していた人でした。彼は、確信を持って、自らが神さまに救われるために、この迫害を行っていたのです。しかし、光の中でイエスさまの言葉を聞き、回心したパウロは、後にこのように告白します。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラ2:20)。傲慢に生きるという事は、自分のために、自分の幸せのために生きるという事です。回心する以前のパウロは(正確には、この時点ではサウロという名前でしたが)、自分が救われるために、誰よりも律法を守り、律法に従わない人々を迫害していました。しかし、イエスさまによって「名前を与えられ」パウロとなった彼は、もはや自分のために生きる者ではなくなっていました。そのことを考えると、イエスさまに救われた私たちが「誇りを持つ」ということは、私が私の幸せを追求するのではなく、私の中に生きてくださるイエスさまの信仰によって生きるという事になります。また、「誇りを持つ」というのは、自らの内にある、傲慢さと罪深さを知り、神さまの御前で跪くことの出来る幸いを知るということなのかも知れません。私たちが、神さまの前で跪く時、「神の家」を忠実に治めてくださるイエスさまは、私たちが「誇り」を持って、命の源である神さまの方を見つめて生きる事ができるように、力づけてくださいます。神さまによって命を与えられ、名前を与えられた私たちは、社会の荒野の中で名前を失うようなことはなくなります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内で生きておられるのです」と、キリストの命を生きて、営む信仰者とされるていくのです。

 

東京神学大学で学長をされた竹森 満佐一(たけもりまさいち)先生という方います。1990年に召されましたので、私が大学に入学したころには、もうおられませんでした。しかし、竹森先生は多くの本を残しておられます。この竹森先生は、イエスさまを信じる者の誇りについて、このように説明されています。「キリスト者というのは、もう自分を顧みない人になったということ。ただ、キリストだけを仰いで暮らす人になったということ。その生活全体が、キリストの死と復活によって守られている人。過去の生活の名残があったとしても、キリストに守られている、それだけを信じて、キリストの救いが自分にも与えられていると認めて生きていく」、それが、キリスト者の誇りであるとおっしゃるのです。私たちには、弱さや罪がなおも残っています。一生懸命、血を吐くような努力をします。しかし、その努力がいつの間にか、社会の道具とされてしまう事がります。自分の働きから「名前が奪われ」てしまい、予期せぬ方向に使われてしまう苦しみを味わう事があります。また、努力が、社会に「名前を残す」ための努力になっている事があります。しかし、よくよく考えてみると、その苦しみは、私たちが自分の事を考えるから起こる苦しみなのです。だから、聖書は、「イエスのことを考えなさい」、イエスさまに目を向けなさいと教えてくれます。このイエスさまが、私たちの命となって、私たちの内に住んでくださっているからです。その確信と希望に満ちた誇りを持ち続ける時に、私たちは、「神の家」とされます。「天の召しにあずかり」「イエスさまのことを考え」「神さまの御前で跪き」神さまと兄弟姉妹との「交わり」と「営み」に生きる者とされるのです。「神の家」とされた私たちは、もう何にも囚われることがありません。どのような時にも、「名前を奪われる」ことなく、むしろ、神さまに「名前を与えられた者」として、公に三位一体の神さまを言い表し、確信に満ちて、顔を上げて生きることがゆるされているのです。

 

「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう主に咎を数えられず、心に欺(あざむ)きのない人は」(詩編32編)。このように、主への讃美の歌を歌いながら、神の家としてこの一年を過ごしたいと願います。