生きるにしても、死ぬにしても

伊東教会礼拝説教   「生きるにしても、死ぬにしても」    2023319

 ローマの信徒への手紙 141-9節(申命記64-5節)

 

I

ある人が、人間というのは厄介なものだと申しました。動物であれば、生きがいだとか、人生の目的などと言わなくとも、けなげに生きて行こうとする。けれども人間は、生きる意味が見えなくなると生きる力を失ってしまう。生きがいがなくなれば生きる意欲が失われてしまうわけです。

確かに私たちは生きがいや生きる意味を求めます。何故生きるのか、その生きる目的を求めます。しかしこの朝聖書は私たちに語っていたのではないでしょうか。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(7-8)

主のために生きる。あなたには主のためという人生の意味があるではないか。主のために生きるという生き方がある。聖書はこの朝私たちにそう語るのです。

 

II

しかしパウロはこのローマの信徒への手紙14章で、いきなり「主のために生きる」と言っていたのではありませんでした。6節ではまず「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」と、特定の日を重んじること、あるいは食べることを取り上げ、それについて主のために特定の日を重んじる、主のために食べる、あるいは食べない、と語っていました。

特定の日を重んじるかどうかというのは、もともとユダヤ教の人々が、出エジプトを記念した様々なお祭りの日を祝っていたことを指します。今やキリストが来られたというもっと重大なことが起きたのだから、もうあんなお祭りは祝わなくてよい、という人と、あの歴史の上でキリストが来られたのだから、なお祭りを祝ってよいという人とがあったようです。

また、この食べるとか食べないとかいう問題は、1節から出てきていました。教会の中で、肉を食べることにひっかりを覚える者たちがいたというのです。諸説あってはっきりしませんが、当時異教の中に、肉はその異教の神々に捧げるというものがあって、従ってキリスト者の中には、肉を食べると偶像礼拝になるのでは、と肉を食べることを控えて野菜だけを食べる人たちがいたようです。しかし、その一方で、堂々と肉を食べる者たちもいた。キリストが私たちのために十字架にかかられ、何かをすれば救われるというのでなくなったのだから、そんなことにこだわる必要はない、肉を食べないなどと言っている人たちは、キリストによって行いによらずに赦されたという信仰がないのか、と非難していたのでしょう。その一方で、肉を食べないことにこだわる人たちは、そうはいっても、やはり肉を食べるということにどうしても引っかかりを覚えるわけです。そして、あなた方には神への畏れがないのか、と非難する。

 

しかしそこでパウロは言ったわけです。そうやって肉を食べたり食べなかったりということがそれほど重大なことか。もっと重大なことがあるのではないか。

3節で「神はこのような人をも受け入れられたからです」と彼は言います。そういうあなた方が、どちらの者も神に受け入れられているということの方が重大ではないか。4節に「他人の召使い」、つまりあなた方は神の召使いだという言葉が出てきますが、そのように、神が主のものとして受け入れてくださった。その事実が重大だ。

肉を食べないから神に受け入れられたのではない。逆に、もうキリストがおられるからと堂々と肉を食べたから受け入れられたのでもない。そうではなく、本当に重要なのは、キリストというお方を信ずるというただ一点であったわけです。キリストを信じた故に、あなた方はもう肉を食べようが食べまいが、そんなことは関係なく救われたではないか。

そしてそこで言うのです。それなら「主のために食べる」「主のために食べない」。あなたをそのままで受け入れてくださった方がある。そうであれば、肉を食べるにしても食べないにしても、主のためにそうする。それがあなた方の生き方ではないか。食べるにしても食べないにしても、どちらにしても信仰によってそれをしているか。そこが重大だ。

 

III

少し前に何人かの説教者の説教集を読んでいましたら、様々な方が保田龍門という20世紀前半から半ばに活躍した画家の話をしていました。和歌山出身の方ですが、東京芸大の前身、東京美術学校の西洋画科に入学、しかし非常に貧しく、アルバイトをしながら学費を稼ぐので精一杯で、卒業制作をするにも絵の具代にも事欠き、モデルを雇うお金がなかった。それで意気消沈して和歌山の実家に帰ると、その母がこう言った。「モデルというのは、べっぴんさんでなければいけないのか。この婆さんをモデルに描いてご覧なさい」。その言葉にはっとさせられ、それから不眠不休で母の絵を描いた。そのお母様も、疲れているところを、眠くなると足を火鉢に入れて目を覚まし、モデルを務めたというのです。そうやって完成した「母の像」は今でも東京芸大に残っていると言いますが、その作品で才能を認められて、彼はフランスに留学します。しかし留学中に母の訃報を聞くのです。そのときに彼が読んだ詩が残っているといいます。「母上、私はあなたの墓標になりたい。私をあなたの墓標にしてください。」

墓標というのは、埋葬場所に立てる目印や墓石のようなもので、その埋葬されている人がどういう人であったのかを表すものです。その前に立つ時に、人はその墓標を見て、そこに刻まれているものを見て、そこに埋葬されている方を生き生きと思い起こすことができます。

母よ、私をあなたの墓標にしてください。それは、私は、あなたを表す者となりたいということです。私の作品を見れば、母よ、あなたがわかるようにしたい。彼が画家としてやって行けるのは、ただこの母の故だということでしょう。あの母の一言がなければ、母の努力がなかったら、今の自分はない。これはただ母のおかげだ。だから、自分が立派な業績を上げても、それは母のおかげだと、母が誉め讃えられて欲しい。わたしはそのようでありたい、そうさせてください、と言うのです。

この話を取り上げる説教者が必ず言うには、大阪女学院の院長であった西村次郎という人が、しばしば説教の中でこの話をしてこう言ったというのです。これこそ私たちキリスト者のモデルだ、と。

私たちも、今のこの私があるのは誰の故でしょうか。もちろん、両親の、あるいは周りの方のお世話になる。しかし、この私がキリスト者としてある、あなたはキリストのもの、もう神に受け入れられた者としてある、それはただあのキリストの故ではないでしょうか。肉を食べるのか食べないのか、何が本当によいのかすらわからず、そしてお互いを批判し合っているようなこんな私なのに、しかしその私を神は神の子として受け入れてくださった。それはただあのキリストの故ではないでしょうか。あのキリストというお方なしには、あのお方の十字架の血潮なしには、この今の「わたしの子よ」と神に呼ばれる、この私は決してあり得なかったのではないでしょうか。

そうであれば、いや、その事実をもし真剣に受け取るならば、私たちも言わないでしょうか。「主よ、私をあなたの墓標にしてください。私はあなたの墓標になりたい」。

 

あのアウシュビッツの強制収容所で、餓死することを命じられた一人の男性に代わって、私がその餓死室に行くと死を引き受けたコルベ神父という方はよく知られていますが、そこでコルベ神父が代わってくれたおかげで助かった男性は、戦争が終わって家に戻った後、このコルベ神父のことを周囲の人々に、そして世界中の人々に伝えずにはいられなかったとされています。そのおかげで、コルベ神父のことは世界中に知られるようになりました。「今の私があるのは、この方のおかげだ」。あのコルベ神父のようなことをされたら、私たちも伝えずにはいられないのではないでしょうか。この私のために命をかけてくださった方がある、と。

 

私たちもそうされているのです。わたしは神にとらえられ、神から、我が子よと呼ばれるようになっている。しかしそのために、この私のために命をかけてくださった方がある。

私が今神の子とされている、それは、あのお方の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」との執り成し、それも命をかけた執り成しに依る以外の何でしょうか。

十字架で命を投げ出してくださった方がある。どうしてその事実を忘れて生きてよいでしょうか。そんなことなどなかったかのように、自分の力でここまで来たかのように生きてよいでしょうか。

このお方のために。そしてこのお方の墓標となりたい。私を見ればあなたが私のためにこんなことまでしてくださったとわかる者に、そして皆がそれによって主を誉め讃えるように、この私をしてください。それは当然のことではないでしょうか。

 

IV

「主のために食べる。主のために食べない。」あなたの歩みは主のために、となっているか。

教会でする一つ一つのこと、あるいは信仰生活の歩みの一つ一つの事柄の中には、あの肉を食べるかどうかはどちらでもよいと言われていたように、こうでなくてはならないというのでないものも多くあるのです。もちろん、信仰そのものが変えられてはなりません。キリストは神の御子などではないなどと言うことはできません。あの十字架は私の罪の赦しのためでないなどと言うこともできない。最近は洗礼を受けてない方にも聖餐を配ってよいのではないかという人が出てきたことが問題になっていますが、しかし、それは聖餐とは何かという意味を、洗礼によって主のもの、神の民とされた者たちの祝宴という意味を変えてしまいますから、それを変えることはできません。

けれども、例えばその聖餐を、神の恵みへの応答として、与る一人一人が前に進み出てきていただくか、あるいは一方的に神がくださる恵みとして、役員の方がそれぞれの席までパンと杯を配りに行くかは、どちらの考えもあり得るでしょう。そのように、教会のあり方、教会や信仰生活ですることの中には、どちらもあり得ることはたくさんあります。

けれども、重要なのは、それを主への思いの内にしているかどうかだというのです。教会で様々なことをする時に、信仰生活で様々なことをするときに、あの変わらない信仰によってしているかどうかなのです。主がこの私のために命を投げ出してまでくださったからそれをしているのかどうか。

誰か人のためではない。自分のためでもない。ただ主なる神のためと思ってしているか。そこに全てはかかっているというのです。もし、こんな私を受け入れとらえてくださったお方がある。その最も覚えるべき、そして決して変えられることのない、あの事実に目を向けるなら、あなたはとにかく主のために何かをしようとするはずではないか。

 

 しかしパウロが言っていることは、あなたは主のためにこのことやあのことをしているか、というだけではありません。パウロは6節で主のために食べる、主のために食べない、と、食べるか食べないかということを主のためにと思って、信仰を持ってしているかと問いました。しかし、それに続けて78節で、「主のために生きる」「主のために死ぬ」と、あなたは主のために生きるのではないか、主のために死ぬのではないか、そう、生きる死ぬという、その人の人生全体に話を広げようとするのです。

 

 東京神学大学で代々受け継がれてきた言葉に、「箸の上げ下ろしにも神学せよ」という言葉があります。箸の上げ下ろしに至るまで、まさに一挙手一投足に至るまで、私たちは信仰者として、主に生かされている者としてどうするかということをよく考えよ、いや、それくらいに全てにおいて信仰に生きるとはどういうことかを考えよというのです。

「主のために生きる」。パウロがここで言っているのは、まさにそのようなことです。

あなたの人生は、その全てが主のためになっているか。あなたはその一挙手一投足において、主のために生きているか。箸を上げる時にも下ろす時にも、主のためにしているか。

 

私たちは主のために生きているでしょうか。ただ一つ二つ主のために何かをしようとしているかという程度ではありません。日曜日に主を礼拝しているか、あるいは一日の中で数分でも祈りの時間を持っているかという程度の話ではありません。あなたの生活の全てが、人生の全てが主のためになっているか。その思いを持っているか。

そんな無茶なと思われるのではないかと思います。そんなことできるはずがない。しかし私たちは何かのために生きようとするのです。生きる目的を欲しがり、生きる意味を求めるのです。人のために生きる、自分のために生きる。いろいろな生き方があるでしょう。それなら、どうして主のために生きないのか。そこにあなたの生きるべき道があるのではないか。

子どものために、親のために、友人のために。しかし、自分のために生きるとしても、それは無駄だったのではないかと思うことがあります。一生懸命に自分のために何かをし続けてきても、うまくいかずダメになってしまうことがある。私たちは弱いからです。

誰か人のために生きると頑張っても、裏切られることがある。

私も私の家内もキリスト者でない家庭で育った者ですが、私の母は特に無神論の、どちらかと言えばキリスト教に反対の人でした。そうであれば、まさか子どもが牧師になるなどと思って育てたわけではないでしょう。私の家内もキリスト者でない家庭の出身で、獣医大学を出て獣医の資格を持っていますが、親は、娘が獣医になりたいというので獣医大学に無理をして行かせる。しかし一生懸命頑張ってそのためにとしても、娘は結局牧師と結婚し、獣医の免許など一切使うことのない立場になってしまった。もちろん、子どものために、誰かのために。それは貴いこと、必要なことです。けれども、それが全てとなってしまうと、その人生は崩れることがあります。裏切られることがあります。

けれども、主のために生きる。それが裏切られることはありません。無駄になってしまうことは決してありません。人は弱く、また裏切ることがある。けれども、主は決して私たちを裏切ることのないお方だからです。主は決して変わらず、崩れてしまうことのないお方だからです。

 

主のために生きる。この私の人生の全てが、主のために全てを献げ出す人生となる。それは最も確かな道です。決して裏切られない、決して崩れることのない道です。全てをそこに注ぎだして間違いのない道です。

けれどもパウロは、あなたはそう生きているだろうか、自分にそれができているかどうか確認しなさいとここで言っているのでもないようであるのです。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。」パウロはそう断言します。あなたは主のために生きている。いや、生きているはずではないか。あなたの生涯は、もうあなた自身のためでなくなっている。既に主のためという、決して崩れず裏切られない生涯になっているではないか。そのニュアンスがここにあると言われます。そして事実、そうなっていないでしょうか。

 

「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」とパウロは言います。あなたは既に主のものとされた。ただキリストの故に、あなたは主のものとされた。そうであれば、私たちはその事実を背負って生きるのです。私がどこで何をしている時にも、どんなことをしている時にも、この私はただの私ではない、主のものとされた私、主が働いてとらえてくださっている私としてそれをしているのです。私が主のものでなくなることはもう決してありません。だからいつ、どんな時でも、私たちは主のものとされたという事実を抱えてそれをしていることになる。人は知らず知らずのうちに、あなたの中に、あなたに働かれた主のお姿を透けて見ていることになります。あなたをとらえ、あなたをご自分のものとしてくださった神のお姿を、その力強い御業を、知らず知らずのうちに見ている。まさにあなたは主の墓標、あなたを見れば主の御業がわかる、その事実を背負い抱えている存在となっていないでしょうか。

そしてそうであれば、そこにこそあなたの人生の最も重要な意味がある。あなたの人生にはそういう決して崩れない目的があり、意味があるというのです。そこにあなたの人生の究極的な意味があるというのです。

 

V

私の人生の全てが、既に主のための人生にされている。その事実こそが、私たちを本当に生かすのではないでしょうか。だからこそ私たちはそこで、十分でなくとも、いろいろとやってみようとなるのではないでしょうか。

私の牧会する教会で、ある90代の方が天に召された際、葬儀の打合せにそのご自宅に伺ったところ、ご遺族の方々から、その方が残した膨大な量のノートを見せられたことがありました。普通の大学ノートでしたが、表紙に「主のため」という題が書いてありました。そんなノートが全部で605冊も出てきたというのです。

その「主のため」と題されたノートには、毎日のことが書かれていました。朝、昼、晩と、どの聖書箇所を読んだか。そして、誰のために、何を祈ったか。実に多くの方々のために、教会員名簿の初めから順に、そして多くの友人や家族、非常に多くの方々のことが祈られていました。その方は、もう90歳を超え、最後の1年くらいは体調もすぐれず、いろいろなことができなくなっていたと記憶しています。しかし、自分の人生は主のための人生とされている。決して崩れない意味のある人生とされている。それならなおそこでできることがあると思われたのではないでしょうか。主のため、この私を救い、子としてくださった主のために。その思いで、聖書の御言葉に日々聴き続けた。そして多くの方々のことを祈り続けた。

 

私の人生は、既にそのままでその全てが確かに主のための人生にされている。そうされ続ける。そうであれば、いつどのような時でも、私がどのようになっても、そこでなおできることがある、生きる意味があるということです。そのままで、主が私を主のものとされたという事実を背負って、その神の御業の事実を背負って生きるという人生の大きな意味がある。けれどもそういう崩れない目的と意味があるからこそ、私たちには、失敗を恐れず、そのためになおできることがあることに気づかされるのではないでしょうか。信仰によって様々なことをすることができます。福音の進展のために、共に信仰生活を喜び神を讃えるために、この神が造られ愛されている人々や世界に、その神の愛を伝えるために。しかしあの「主のため」とのノートを残された方は、それができなくなっても最後まで祈られました。私たちは少なくとも、主のため、主の御心がなるために祈ることができる。

原崎百子という、ご自身も東神大を出られましたが、牧師の妻としてご主人と共に教会に仕え、しかし40代の若さでガンで亡くなった方はさらにその死の床でこう歌いました。「わがうめきよ、わが讃美の歌となれ。わが苦しい息よ、わが信仰の告白となれ。わが涙よ、わが歌となれ。主をほめまつるわが歌となれ。わが病む肉体から発するすべての吐息よ、呼吸困難よ、咳よ、主を讃美せよ。わが熱よ、汗よ、わが息よ、最後まで主をほめたたえてあれ。」

私には最後までできることがある。もう何もできないように思われる、その瞬間にも、全ての人間的希望が潰えてしまうように思われるその瞬間にも、あなたはキリストのものとされたという事実を背負っている故に、あなたにはなお役割があり、生きる意味がある。

あなたの一挙手一投足が、なお、あなたをご自分のものとしていてくださるお方を指し示すことができる。いや、それすらできなくとも、生きているというただそれだけで、キリストのものとされているという事実を背負い、主のものとしてあなたを生かすその神の御業を証ししている。

 

しかも、生きている間だけではありません。生きる最後の瞬間までというだけでもありません。「主のために死ぬ」。死そのものすらそうだ、とこの朝私たちは言われているのです。

死ぬことそのものすら、主のためのもの。聖書がそう言うと、殉教の匂いを感じさせますが、しかしそれだけではありません。クリスチャン作家の三浦綾子さんは、死を迎える直前に、「私にはまだ一つの仕事が残っています。それは死ぬという仕事です」と言ったといいます。

死ぬという仕事がある。キリスト者として死を迎える、それもまた意味あることではないでしょうか。信仰者として、主ものとされた者として最後まで生かされ生き抜いて召されてゆく。まして主のものとされた希望のうちに死ぬことができたら、復活の希望を抱きつつ召されることができたなら、死んでもなお私は主のものとされ続けるというその安心の内に、その主に委ねて死ぬことができたなら、そしてその死を通して葬儀や様々な機会に、主の復活による永遠の命の希望が語られる機会となるなら、それはどれほどの証しになるでしょうか。主の墓標となるでしょうか。

 

最後まで、死そのものをもってしても、私たちにはできることがある。それがキリスト者の生涯です。どこまでも意味ある生涯です。死までもが用いられる生涯です。

だから「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ」。共に主のために生きよう。この私たちを神の子とするために命を投げ出してくださったあのお方のために、あのお方の墓標として、主が私を主のものとしてくださった、その事実を背負って生きよう。この朝聖書の御言葉は、私たちをその幸いな生き方へと招いているのです。