伝える言葉、伝わる言葉

2023/03/12 受難節第三主日礼拝 「伝える言葉、伝わる言葉」 使徒言行録説教第47回(152235) 牧師 上田彰

 使徒、そして長老と呼ばれる人たちが、エルサレムからアンティオキアに向かって手紙を記します。使徒言行録に収められている手紙について先ほどお読みしました。今度はかなりメリハリをつけて、大胆に言い換えながら、先ほどの手紙、「要するにこういう風に伝えたかったのではないか」、という解釈を込めて、読み直してみたいと思います。

 

 アンティオキア教会の兄弟姉妹、私たちは謝らなければならない。使徒、そして長老という立場が、何か目上の立場というような風を吹かせているように見えたのならそれは誤解だ。私たちもあなた方と同じ兄弟姉妹の目線に立って、伝えたいことがある。それは以前、やはり私たちの兄弟姉妹である何人かがエルサレムからあなた方アンティオキアの所にやって来て、高い目線のまま色々言って混乱をさせたと聞いている。彼らが私たちエルサレム教会の立場ではないということを伝えるために、今回は私たちを代表する振る舞いが出来る二人の兄弟をそちらに送る。あわせて、あなた方の、いや私たちの、バルナバとパウロがそちらに行く。私たちの立場をよく理解し、同じ目線で伝道をしていこうじゃないか。彼らこそがキリストに仕える教会のしもべであり、またあなた方と私たち全員の良き見本であり指導者なのだ。これから始まる異邦人伝道のために必要なことを四つあげておくのでよく聞いてほしい。私たちはあなた方の味方です。

 

 砕いて言うと、そういう事ではないかと思います。そもそもの誤解は、元ファリサイ派であり現在教会のメンバーである何人かが、割礼の有無は救いに関わる問題だ、という風に、救いとは何か、どういう風に救われるのかという問題がエルサレム教会とアンティオキア教会の間には存在する、という風に煽ったことにあります。しかし先ほどお読みした、15章に収められている手紙の主題は、割礼を受けなくても救われるから大丈夫ですよ、ということではありません。そもそもそういう賛否が分かれる議論の行方が一番の問題になっているのではなく、一種の感情的わだかまりが両者の間に起こってしまったという状況を直視することが問題だったのです。エルサレム教会は母なる教会なのだから、子なる教会である異邦人教会は言うことを聞かないといけない、という風に先輩面をしようと思えば出来る状況だったのでしょう。しかし先輩風を吹かせることが、アンティオキア教会の独自の成長を妨げる可能性がある。子どもは親の言いなりになるロボットとして育てるべきではない。後輩は先輩に、子は親に従うべきだという年功序列の関係が教会には存在する、という風に思わせたことが誤解だ、というのです。

 

 事柄は、色々な方面に関わってくると思います。異邦人教会には、実際には幼稚な振る舞いもあったことでしょう。エルサレム教会は信仰的には洗練されています。口を出し、手を出したくなるのも分かる気がします。他方で、出される側の立場から言えば、「我が家の家風では」、少し視点をずらすならば、「東京では」とか「欧米では」と言われると、何かむやみに反発をしておきたくなる。何のことはない、これは割礼問題などではなく、教育のスタイルの問題、あるいは先輩後輩問題、さらには地方と都会の問題でもあるのです。

 この観点から今日の記述を見ると、興味深いことにいくつか気づかされます。まず、パウロとバルナバをエルサレムからアンティオキアに送り返すにあたって、使徒と長老たちはバルサバとシラスの二人を派遣した、彼らはエルサレムの兄弟の中で指導的な立場にいた、とあります。普通そういう風に聞きますと、ああそれはさぞお偉いところの生まれなんでしょう。バルサバさんといえば、確か使徒言行録1章では、イスカリオテのユダが占めていた12番目の弟子の椅子に誰が座るか、マティアかバルサバか、という場面がありましたね。あれは確かバルサバ家の中でもユストとかヨセフと呼ばれる人だったようです。あの時はくじ引きで負けたのですが惜しかった。もしかしてあれがお兄様か誰かでしょうか。いやあいずれにしても毛並みの良さがうかがわれるお名前ですよね。さぞ立派な指導者なのでしょう…。

 以前に聞いた教会笑い話に、次のようなものがあります。教会に初めて来た人が、教会の中で、先生、先生と呼ばれる人がいることに気づく。そこで教会のことに詳しそうな人に尋ねたそうです。「ここで先生と呼ばれるようになるには、何をしたらいいのでしょうか」。

 一世紀の教会にも、同じ問題が起こりかけたのです。かつてファリサイ派に属していた人たちが、ラビ、つまり先生と呼ばれる秩序を教会に持ち込もうとした。エルサレム教会では兄弟という呼び方が一般的だったようです。フラットな、つまり目上とか目下といった関係のない交わりが持たれていた。それで飽き足らなかった人たちが地方の異邦人教会に行って先生面をしてみたかった。エルサレム教会に集まっているメンバーは基本的に割礼を受けています。そこで、欧米では、ならぬエルサレムでは、と先輩風を吹かせてみたかったのでしょう。それを聞きつけたパウロとバルナバが彼らに抗議をした。パウロ・バルナバ対エルサレムから来た先輩キリスト者、アンティオキア教会は今まで通りパウロ達の指導を仰げば良いのか、それともやはりエルサレムから来た信仰者の方が格上なのか。

 前回、前々回と見てきたエルサレム教会の議論、そしてアンティオキア教会に向けて送る回答は、明確です。「このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです」。「身を献げている人の指導を仰ぐのが当然であり、教会を教会として建てあげていく秘訣なのだ」、という訳です。知識があるとか、勇気があるとか、コネがあって毛並みがいいから、というのではなく、体を平にして人々に仕え尽くす立場に身を置いているから、パウロ達は指導的な立場にいるのだ、というのです。したがって恐らく、バルサバとシラスもまた、彼らが指導的な立場にいたというのは、知識や教会在籍期間の長さやいわゆる毛並みの良さといったことが理由ではなく、身を低くして謙遜にキリストと教会に仕えているからこそ、だったのではないでしょうか。

 

 そのように見ていくと、気づかされることがあります。それは28節冒頭にあるのですが、エルサレム教会としては、と言えばいいところを、聖霊と私たちは、とわざわざ「聖霊」を付け足すのです。一体、どういう理由で「聖霊と教会」と言いなすのでしょうか。そもそもここでいう「聖霊」とは一体なんでしょうか。

 例えば、次のように考えてはいないでしょうか。聖霊、それは努力を積み重ねた人に与えられる特別の力なのではないか。信仰的になれて、伝道的になれて、話に聞くと毒蛇にかまれても死なない健康な体が手に入るらしい。なんとうらやましい、しかし私には縁遠いものだなあ、などなど。

 しかしもしも聖霊の与える賜物というものが、高みに上った人に与えられる賜物ではなく、低く謙遜に仕える者に与えられる賜物であるとしたら、聖霊そのものに対する印象が変わってくるのではないでしょうか。つまりここで、エルサレム教会は、異邦人に伝道を展開する教会としてふさわしいあり方についての勧めを行うに当たって、エルサレム教会はあなた方に勧めますとはいわずに、聖霊とエルサレム教会はあなた方に勧めます、と語りかけています。その意図は、私たちが語る言葉には聖霊様がついているんだぞ、と水戸黄門のご印籠の如く振りかざすような仕方ではなく、私たちが語る勧めは、実に控えめなものだから、その意図は受け取り手であるアンティオキア教会の方で、十分に汲んでほしい。あなた方の方で十分に汲んでもらわないと、多分伝わらないと思う。その際に、あなた方に聖霊の助けがあれば、私たちの舌足らずの勧めの意図が伝わるはずだ。28節の、健康を祈ります、というのは、恐らく、肉体的な健康が保たれるようにというような意味合いではなく、ここで言ったことが、表面的な言葉以上の意味であなた方に通じますように、という意味での祈りを込めた手紙の締めくくりの言葉なのでしょう。パウロは後に、古代ギリシャにおいて一般的であった「健康を祈ります」という締めくくりの言葉の代わりに「祝福を祈ります」という締めくくりの言葉を手紙で用いるようになりました。すべてのことは、言葉以上の意味であなた方に伝わりますように。この手紙を通じて、聖霊があなた方に働きますように。

 

 私自身、色々なところで反省をさせられます。自分が書いていることが通じているか、いつも不安だからです。教区社会部の仕事をしています。よくありがちな誤解として、社会部が担う働きは、教会が社会のことについてあまり関心を持たない傾向があるので、それをただすために社会的なことに目を向けるための企画をする、というように思われることがあります。実際、日本基督教団の17の教区の大半の教区社会部はそのような形で活動をしています。ご存じの方もおられるかも知れませんが、教団紛争を教会に閉じこもる人たち対社会に出て行く人たちという対立構図が誤って描かれる際に、社会部に属しているような人たちが、後者についてしまったことが問題を混乱させました。社会と教会の間に対立やずれがある。教会は間違っているのでただされなければならない、というわけです。

 しかし東海教区社会部は、伝道をする教区ということの一環で、キリスト教社会福祉施設に対する広い意味の伝道としての活動を行っています。同じように、教育部というのもあって、それは教会学校支援というような教会向けの活動を行うのと同時に、キリスト教主義学校への働きかけを行うことを使命としています。これらは要するに、教会と施設、教会と学校の間には、溝はない、ということを伝えるという役割を担っている、ということです。

 社会部に関して申しますと、キリスト教社会福祉施設に向けた伝道の取り組みは、同時に教会のあり方についても変化を促していることに気づかされました。そのことを特に意識するのは、使徒言行録5章から6章にかけて、まだ教会として十分な大きさを持っているわけでもないのに、使徒達の群れがいわゆる福祉活動を行うための「執事」という職を設けていることに気づかされたときです。貧しい者を支えることを通じて、教会が教会としてのあり方に目覚めていくということが起こっているのです。それならば、現代においても福祉抜きに教会が教会としてあり続けようとすることにはどこかに歪みが生じてしまうのではないか?

 例えば教団の財政が傾きかけています。20年前には4億近いお金で運営されていた教団の活動が、現在では2億5千万ぐらいにまで落ち込んでいます。そういう話になると必ず出てくるのが、ああ伝道をやはりしないと行けない、たくさんの人に献金を献げてもらわないと財政が持たない、という議論です。そういう議論を聞くと、少し背中がむずがゆくなるのを感じます。伝道をすべきだという考え方そのものが間違っているのではないのです。しかし、もし教団や教会の財政を持たせることを主な目的として伝道をしよう、という風に結びつけて考えるとしたら、それは恐ろしいことではないか。むしろ、そういった財政至上主義で考える考え方は、福祉を重んじるという教会のあり方に逆行しているのではないか。社会部が重んじることを徹底するならば、教会のあり方にいくらかの変化が良い意味で生じるのではないか。…そんなことを考えて、色々文章を書き、発行物を作ります。今月中に、そういう思いを込めてまた一つ印刷物を発行する予定です。

 しかし、それらのすべてが受け入れられているわけではない、と思うこともあります。特に、教会というものは変化を好まないところがありますから、伝道とは人とお金を右肩上がりで伸ばすものだと思っている人からすると、人とお金が右肩上がりで伸びない時期や地域があるのも教会で、だからといって教会が教会でなくなるわけではない。右肩上がりでないと教会ではない、というのは少し何かゆがんだ成長神話というものがあるのではないか、というような言い方が受け入れられていないという感じは持っています。そして、ああ、この話は繰り返しているんだけどなあ、と思いながら手を変え品を変え教会と社会福祉との関わりについて、一方で社会福祉施設に向かって、他方で教会に向かって語り続けています。

 そのようなときにわきまえておかないとならないことについて、今日の聖書箇所を通じて教えられた気がします。もう少し私たちの課題に引きつけていうならば、例えば子育て一つとっても、自分の思い通りになるように育てることが子育てでないことはいうまでもありません。どこかで「委ねる」ということがなければならないのです。私たち社会部が、あるいは私たち親が、こう語っているのだからもうそろそろ分かりなさい、というのではなく、聖霊が語る、あるいはギリギリで、聖霊と私たちが語るという形でないとならない、ということです。最も大事なことは聖霊を通じて伝わるはずだ、だから私が伝えなければならない、と思い込む必要は無い。同じように、渾身の思いを込めて書いたどんな文章であっても、最後には委ねて祈る思いで締めくくられなければならない。今日の手紙は、「健康を祈ります、以上」という伝統的な締めくくりの言葉で終わっています。パウロはその意図をさらに教会的に深める形で、「祝福を祈ります」という言葉を手紙の締めくくりに用いるようになりました。ただの終わりの言葉ではありません。この手紙に書かれたことが、書かれた以上の意味で伝わるためには、聖霊の働きが不可欠です。どうか主よ、この手紙を通じて彼らの心に働きかけてくださいますように。

 確かになお社会部の働きが、あるいは親としての、様々な立場からの働きかけが、相手に受け入れられているのか、不安に思い続ける気持ちが一方にあります。しかし他方で、届くべき事柄が聖霊によって伝わる、ということを信じなければならないと思います。

 

 そういう思いで、もう一度書簡の最後の方にあるエルサレム使徒達の勧めを読んでおりました。そしてその勧めをアンティオキア教会がどう受け止めたか、ということにも思いを向けました。普通は読み手がどういう反応をしたかということは分からないことが多いのですが、実はこの点に関してはある程度はっきりしたことが聖書から分かるのです。というのは、エルサレム使徒会議の成果について、ルカはエルサレム教会側の視点で書いているのですが、パウロが別のガラテヤ書の中で、アンティオキア教会の側の視点で触れているのです。

 そうすると分かることがあります。エルサレム教会は、今日の箇所で分かるように、こう書いてきました。偶像に献げられたもの、血、絞め殺した動物の肉、みだらな行い。それらを避けてください、と。パウロは、エルサレム会議の成果について次のように書いています。エルサレム会議で決まったことは、異邦人伝道を開始することと、エルサレム教会に献金をすること、この二つだけだ、というのです。

 あまりにずれがあるので、色々な説があるようです。例えばエルサレム会議は一回だけあったという風にルカは書いているが、実は何回かあって、パウロが参加した大エルサレム会議と、パウロ抜きでエルサレムのメンバーだけで行われた小エルサレム会議があって、ヤコブの演説は小エルサレム会議でなされたもので、パウロはその中身をアンティオキア教会における書簡の朗読の時まで知らなかったのではないか、という説もあるようです。ただいずれにせよ、その中身はパウロに明らかになります。その時に、パウロは、私の意と違うものがあるという風に問題提起をするのではなく、エルサレム教会に対しての敬意を最大限に払うことは当然だ、だからエルサレム教会を支えるために献金をしよう、これが結局はエルサレム会議の結論になるのではないか、と書いたのです。

 現代においては喧嘩が起きかねないところだと思われるでしょう。会社の取締役会で決まったことを、全く違った形で表現したら、問題になります。しかし、伝える側と伝えられる側が、両方とも、ああそういう風に受け取ることも出来るね、と考えたら、全く表現は違うけれども、結局は同じことをいっていることになるね、と考えたら、相矛盾するように見える二つの表現が一つとなるのです。

 エルサレム教会は、アンティオキア教会に対して、敬意をもって接しています。少し高いところから語るエルサレム教会のメンバーがアンティオキア教会においてトラブルになったときも、それを全面的に謝罪しています。そして異邦人伝道をパウロが行うことを推奨し、そして極めて控えめに、四つの条件を示しました。それを受け止める側であるアンティオキア教会は、いってみれば意図的にこの手紙を誤読しました。書かれていることを重んじるより、その心を重んじたのです。

 二つの教会は、兄弟としてお互いを受け入れ合うことが出来ました。発信者の間にも受信者の間にも、聖霊の働きが起こっている。私たちは、「聖徒の交わりを信ずる」教会です。