エルサレム会議、二回目

2023/02/26(受難節第一主日礼拝 使徒言行録第45回 15711節(エルサレム会議、二回目) 牧師 上田彰

 過ぐる週に、教区内にあります教会で献堂式が行われました。教区でも最大規模の教会で、教区総会をいずれそこで開催することもある、そういう教会です。献堂という言葉は主にキリスト教の建物が完成したときに使う言葉です。竣工式とか、落成式という名前で行う式や祝賀会があり、そのキリスト教版が献堂式だ、そんな理解も、もしかしたらあるのかも知れません。昨年、私たちの教会墓地に若い兄弟が墓を建てる、そして両親のご遺骨をそこに収めたいと申し出てきたとき、その式を献墓式と呼ばせてほしい、と話をしました。会堂とは、あるいは墓石とは、建てるだけではなく、献げる必要がある。

 私たちが教会将来計画の一応の終着点を新会堂の建設に求めるときに、献堂式を献げることになります。私たちの力で建てたのだから、私たちのものにして良いのだから、といって献堂をしないというわけには行きません。まだ献堂式までには時間があります。それまでに私たちが整えなければならないことは、まだまだあるようにも思います。

 今日の聖書箇所には、建てるという言葉も献げるという言葉もありませんが、「清められる」という言葉が9節で出てきます。割礼が問題になっています。割礼というのは体の一部を切り開くということです。ユダヤ人から見れば、それは体のみならず心を開き、神さまにすべてを献げるということに他ならないはずです。そして当時出来つつあった教会に集まり始めた異邦人を指して、割礼をしないのに心と体が清まるはずがないだろう、と考えたのです。

 今日の箇所でペトロがしている説教は結局の所、洗礼によって心を献げた異邦人は、その心が神さまによって清められている、これこそが真の割礼なのだ、いや割礼以上の出来事なのだ、ということをいう説教です。

 

 パウロは後に、このエルサレム会議に臨むときの様子を、次のように自らしたためた書簡で記しています。「自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないか」。かれは既にアンティオキア教会において異邦人伝道に着手していました。しかし反対意見を唱える人もエルサレム教会にはいたのです。「無駄に走る」というのは、伝道活動が失敗しているというわけではありません。アンティオキア教会は徐々に人であふれかえるようになっていました。他方で、割礼なき洗礼は無意味だと説く人がいるエルサレム教会が傾いていたようでもあります。しかしそれだと、まるでパウロが独自活動によって一部の教会を盛り立てたというだけになってしまいます。伝道は個人プレーでいいのでしょうか。彼の伝道への思いは一部には受け入れられないまま、アンティオキア教会だけ栄えていればいいのでしょうか。それでは「無駄に走った」ことになるのではないか。彼もまた、自分の伝道が本当に神さまに献げたものになっているのか、まだ迷いがあったのかも知れません。自分の伝道活動は、献げきったものなのか、それとも自分のものでもあるのか。彼の心は清められなければならなかったのです。

 

同じように清められなければならない心の持ち主が他にもいます。かつてはファリサイ派であり、つまりは幼い頃に割礼を受け、その後ここ10年ほどで大きく成長した教会に所属するために洗礼を受けた人たちです。既にキリスト者という名前はありました。しかしまだ土曜日に礼拝を献げている時期です。ユダヤ教の中でナザレ派、またはキリスト派と呼ばれる一派であると見なすことも出来る時期でした。しかし、元ファリサイ派のメンバー達は、自分たちがファリサイ派に属していたことについては、洗礼を受けた後はあまり公にしていなかったようです。実際、使徒言行録の他の所を見ても、パウロ以外の元ファリサイ派のメンバーの名前は出てきません。そして何よりも、パウロが元ファリサイ派として、今は華やかに伝道活動を行っていることはエルサレムにおいても伝え聞いているところでした。元ファリサイ派、という肩書きはパウロのためにあるのであって、それ以外の人が同じ肩書きを名乗ることは遠慮されていたのかも知れません。

 そういうときに起こる心理状況を、「過剰適応」という言葉で言い表すことが出来ると思います。例えば、イスラム教徒だった時代に四人の女性と結婚したエチオピア男性が、その後プロテスタントの宣教師によって洗礼を受け、新しい生活を志すに至った。その際、四人と結婚したままであったら今までとあまりにも何も変わらない。周りの人も何も思わないだろう。しかしここで三人とは別れて、一人の女性とだけで家庭を築くとなると、自分の中でも、他人にとっても、受洗というのが大きな意味を持つようになる。受洗は新しい出発でないとならない。彼がその後どうなったのかは分かりませんが、うまく行っているかも知れませんし、「キリスト教に合わせよう」という意識が強すぎて、何らかの問題にぶつかっているという可能性も、なくはないと思います。

 元ファリサイ派のメンバー達は、まだパウロが記した第一コリント7章の言葉を知らないと思います。つまりパウロは、割礼を受けたという経歴を持っている人は、それを無理に伏せたりする必要は無い、召された時の状態に留まればいいのだ、と述べています。元ファリサイ派のメンバー達は、自分たちの割礼の過去を無理に伏せているが故に教会への貢献が十分に出来ていなかった。そこでパウロの伝道にちょっかいを出すようになっていたのです。エルサレムからアンティオキアにやって来て、割礼を受けてから洗礼を受けないと本当の意味で清められていることにはならない、そんな議論をふっかけてパウロたちと諍いになりました。

 実は今日のエルサレム会議において、元ファリサイ派のいう、割礼を受けていない洗礼は無効だ、という議論は、すでに当時の教会において極めて少数派であった、と分析する人もいるようです。教会は、ごく少数の異を唱える人を、それは少数だからと切り捨てるのではなく、その人たちの言葉に真実があるかも知れないといって、彼らの心が清められ、そしてすべての人の心が清められることを願って、エルサレム会議は開催されました。

 

 割礼主義者、ユダヤ主義者というのは大まかに次のような主張をしていたことになります。パウロよ、お前は以前はファリサイ派として教会を迫害していたではないか。なぜ今はファリサイ派の誇りである割礼を受けていない、異邦人も洗礼を受ければ救われるなどと言っているのか。それとも私たちも、ファリサイ派の誇りは一切捨てて、そんなものは受けていなかったかのように振る舞うべきなのか。どっちなのか教えてほしい。

 これは一部の人たちのこだわりの問題というわけではありません。そういう側面もありますが、そもそも洗礼を受けることで私たちは清められ、献げられたことになるのか、という、すべての人の救いに関わる問題でもあるのです。

 

 ペトロが立ち上がって弁論をします。今日お読みした最後の所、10節に鍵があると思います。

ACT15:10それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。

 ここでいう「軛」というのは、律法の重荷であり、義務としての割礼です。ペトロが言っているのは表面的には、異邦人が割礼を受けることなく洗礼を受けることを認めるべきだ、ということです。しかし深い次元では、おそらく元ファリサイ派のメンバー達に対して、こう言っているのではないでしょうか。「あなた方は、もう自分が首にかけている軛を外し、背負っている重荷を下ろしてよいのだよ」。

 つまりペトロは、異邦人を主題にして、彼らがどのように救われるのかということを表面的には語っています。しかしもう一つ別の次元として、元ファリサイ派であるあなた方がどのように救われるのか、ということを問題にしているのです。彼らの救いから、あなた方の救い、あの人の救いの問題を論じているようでありながら、あなたの救いを問題にしている。

 

 献げられ、清められ、救われる。これはいつの時代にも問題になる出来事です。来月に持たれる須田先生の講演のテーマ決めをするための打ち合わせをする中で、先生のご専門の一つであるイギリス教会のうちの自由教会ということが話題になりました。自由教会というのは、王様が立てた教会に集まる王立教会ではなく、国が建てた教会に集まる国立教会でもない、人々が自由に集まって教会を建てるのが自由教会です。

 私の理解では、自由教会というのが一番教会が本質的に向き合わなければならない課題の難しさを知っており、問題に直面している教会であると考えています。それは、「自由」とは何か、ということです。一ヶ月ほど前に、自由教会のあり方と全く違う教会に属し、そのことを誇りにしているベラルーシで司祭をし神学校の教師をしている友人と話しました。彼は、ウクライナへのロシア侵攻には全面的に反対をする、ベラルーシ市民の圧倒的多数の一人と同じ意見を政治的には持っています。その一方でウクライナ教会の行方については心配もしています。ウクライナ教会は今、西側に接近をしているのですが、それはウクライナ教会の場合は正教会の司教制度の構造から抜け出すことを意味しています。そしてそのことが、教会の胡散霧消につながってしまうのではないか、という懸念です。彼は、最も教会が永続し、この2000年間続いてきたのと同じようにこれから2000年続くようにする教会の知恵にしたがった方がいい、それは司教制度、つまりずっと先のことまで見据えることの出来るしっかりした教会の代表者を間違いなく選び、その司教にすべてを任せるやり方が一番だ、と考えるのです。彼からすると、ウクライナが近づいているヨーロッパの西側世界は「行きすぎた自由」を謳歌しているように見えるようです。恐らくその延長線上に、教会は自由教会では永続が不可能だ、という考え方もあるに違いありません。人間が教会の存続を図ることも出来るし図らないことも出来る、そんな自由は教会にとってはあまり好ましいものではない、というわけです。

 しかし、その場合であっても司教は自由を持っているわけですから、教会は自由という問題に結局は行き当たります。ですから、自由教会が、いえ教会自身がそもそもきちんと取り組まなければならないのは、「人間になぜ自由が与えられているか」ということではないかと思うのです。そんなことを須田先生とのやりとりで連想しながら、今日の箇所を思い出していました。私たちは、自らに与えられた自由を、自分のために用いているのか、それとも神さまに献げているのか。

 

 心が献げられ、清められるということの意味を考えるために、福音書に出てくるペトロについての有名なエピソードを思い出してみたいと思います。

 かつてペトロは、イエス様とこういうやりとりを致しました。

「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」

「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」

「あなたはメシア、生ける神の子です」

 

 最初弟子たちは、イエス様が何者であるのかという問いに対して、世間一般ではこう言われている、という風に、他人事として語りました。次にイエス様は、それではあなた方は私を何者だというのか、と聞き直したのです。他人事について論じている間は私の心の問題は話題になりません。しかしあなた方は、と聞かれたときに、私の心の中の出来事が問題になります。迷っている間は、人の心は清められたことにはなりません。しかしペトロは、自分の問題として「イエス様は救い主、キリストです」と告白をする。告白をしたときに、彼の心が献げられたのです。

 割礼を受けるかどうかというのは、私たちの問題とは言えないと思います。しかし私たちが迷いを持ち、清めを必要としている事柄というものは数多くあると思います。かつてパウロは、あるいはペトロは、自らを献げることによって主なる神から清められました。私たちにとっての奉献は、祝福の途上にあります。