神さまの導きが見せてくださる景色& 主の山に備えあり

2023/02/19  受難節前第一主日礼拝       創世記22114節 

「神さまの導きが見せてくださる景色」 役員 濵田献(1ページ)

「主の山に備えあり」               牧師 上田文(3ページ)

 

 説教前の小説教(濵田兄)

本日の聖書箇所でアブラハムとその息子イサクが登場します。アブラハムの息子イサクと私には少し共通点があるように感じました。イサクは、アブラハムの息子として生を受け、私は牧師の息子としてこの世に誕生しました。イサクは神さまに献げ物として献げられようとしました。私は献げるという漢字で「けん」と名付けられました。自分の意志とは関係なく神さまに向き合うことになった姿が少し自分と重なりました。

 私がこれまで牧師の息子として見えていた景色を皆様に少しお話ししたいと思います。

 私は1979年に東京で生まれました。同じ年に砧教会で幼児洗礼を受けました。牧師の息子であることは、物心がつく頃には理解していましたが、幼児洗礼を受けたことの意味を理解出来たのは大人になってからだと思います。

 

 その後、1985年に伊東教会に移り住みました。当時の私は56歳で「本園」という幼稚園に通っていました。

その当時の伊東教会の建物はとても古く、歩くと「ミシミシ」と音を立て、床に大きな穴がいくつも空いていました。その穴からとても大きなクモが出てきて、びっくりする声がよく聞こえてきました。しかし建物全体が黒々としていて重厚感があり、不思議な安心感がありました。敷地内に教会と牧師館が別々に存在していました。

 当時の町の様子ですが…。まず隣の公園は今よりもっと広く、遊具も沢山ありましたので子どもたちが沢山遊んでいました。キネマ通り・アーケードは個人商店がずらりと並び「活気」にあふれていました。人通りも多く、その反面、人と人との衝突や喧嘩がよく起きていたように感じます。牧師館に母しかいないときに、知らない男性が来て「お金を貸して下さい」と何度か現れて、とても怖かったのを今でも覚えています。

 

 その後、教会を建て直すことになりました。今現在の建物です。立て替えている間、私たちは家族は古い借家に住むことになりました。とても狭く、ボロボロの家でしたが、意外にもそこでの生活が一番楽しく幸せだったことを今でも鮮明に覚えています。

その理由は恐らく、体の弱かった母の病気が悪くなる前だったこと、教会と自宅が分かれていて家族との時間が持てていたことだと思います。一般家庭に近い状態だったと思います。その頃のジュニアチャーチや礼拝はお店や温泉会館などを間借りして行っていたと記憶しています。

 その後、新しい教会が完成して教会の三階に住むことになりました。当時の私にとっては、とてつもなく大きく立派に見えました

 

新しい教会が完成して、父とは母より一層忙しくなっていました。今思えば母の病気はこの頃から悪くなっていたのだと思います。学校での授業参観などのイベントはなかなか見に来てもらえませんでした。同級生に「献君は同じ服ばかり着ているね」と言われて恥ずかしい思いもしました。

 父と母は家庭に「力」を入れる余力が無い状態だったと思います。当時の私は、「なぜ家のことより他人のことなの?」と思ったり、「友達は家族と出かけているのにうちは日曜日どこにも出かけることがないなあ」とさみしく思うこともありました。

 しかし、大人になって、だんだんと視野が広くなり、物事を多方面から見る見方が少しずつ出来るようになってから、考えは変わっていきました。父と母が偉大だったと思うようになりました。とても不思議な感覚です。

 私は中学生の時から、様々な理由で教会生活から離れてしまいました。そして、「自分のこと」・「家族のこと」だけを守る生活をしていました。それから娘の死をきっかけに再び教会生活を歩むことになりました。娘の話は、またいつか話せるときが来れば、その時にお話ししたいと思います。

 

 最後に今後の教会将来計画について私の個人的な思いや考えを三つお話しして終わりたいと思います。

一つ目は、私のように紆余曲折した人生同様、「本当に何が正確かは誰にも分からない」ということ。何が正しいかは誰にも分かりません。それでも、神さまの導きによって進んでいく。私たちに与えられた知識と経験によって、より良い方向へと皆さんと共に目指し「手を取り合い」「話し合い」たいと思うのです。

 二つ目は、地上にいる、救いを必要とする多くの人々のため、これから命を与えられ、地上に誕生する子どもたちのため、百年以上にわたる伊東教会の歩み、先達の思い、伊豆伝道のともしびを、灯し続けたいということ。

 三つ目は、私も含め皆さんも色々大変な時期ではあると思います。これから話し合われる教会将来計画について、反対や納得のいかない人もいるかも知れません。また、牧師、役員、教会員に不満を持っている方もいるかも知れません。不満や反対があっても、かつての私がそうであったように、考えがたとえ違っていても、向かう方向が「同じ」であれば、必ずわかり合える時が来ると、私は信じます。

 

 ですから、どうか取り合ったその手を離さないでほしいと思うのです。


説教

小学生の頃、毎年、夏休みになると、父と一緒にアイデア貯金箱を作りました。その貯金箱は、小学生の作品というより、父の作品のようなものでした。今でも忘れられない貯金箱があります。「金のなる木」と父が名づけた貯金箱です。木の器の中に、小さな鈴を釣り、器の口からお金を入れると、その鈴にお金が当たってチリンと音が鳴るのです。当然、見ただけで、小学生の作品ではありません。私は、いつも自分の貯金箱と友人たちが自分で作った貯金箱を見比べて複雑な気持ちになりました。私の貯金箱はとても立派なのですが、なんとなく自分一人で作ったという達成感がありません。それに比べて、友人の貯金箱は、立派とは言えないのですが、達成感があるように思いました。

 今日の聖書箇所には、神さまがアブラハムに試練をお与えになった事が書かれています。神さまの試練というのは、父と作る貯金箱に似ているのかもしれません。自分一人では、到底作りあげる事が出来ないのです。でも、お父さんと作るのなんて嫌だ!自分だけで貯金箱を作るのだと言えば、父はとても悲しむでしょう。そして、出来あがる貯金箱も、すぐに飽きてしまうような、簡単な物となってしまいます。神さまの試練は、神さまが私たちと一緒に生きて下さるために与えられる試練です。、神さまが、自分一人では到底作ることの出来ない、複雑なアイデア貯金箱を、一緒に作ろう。神さまとだったら素敵な貯金箱が出来ると、私たちの目の前に置かれる難しい「試練」と言えるかもしれません。アブラハムに与えられた「試練」。それは、どのようなものだったのでしょうか。アブラハムはこの「試練」によって、神さまと何を作りあげたのでしょうか。その事に耳を傾けてみたいと思います。

 

 聖書の2節には、「神は命じられた『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい』」と書かれています。焼き尽くす献げ物とは、動物を殺して文字通り焼き尽くして神さまに献げ物とすることです。とても、厳しい命令であったと思います。神さまは、このような残酷な事を命令される方なのかと、不思議になります。また、イサクは、神さまの祝福を全世界にもたらすために、アブラハムに与えられた子でした。それなのに、そのイサクを犠牲として捧げよというのは、今までの神さまの約束がなくなってしまうように思います。しかし、神さまは、アブラハムにそうするように「命じられた」と聖書には書かれているのです。なぜ、そのようにされたのかというと、それは聖書の冒頭にあるように、神さまがアブラハムを「試された」からです。

この時のアブラハムは、どのような状況で生きていたのでしょうか。神さまの語りかけを受けて旅立った彼に、遂に、後継ぎであるイサクが与えられました。また、次回の説教で触れますが、イサクが生まれる前にハガルとの間に生まれたイシュマエルの事も整えられ、ベエル・シェバで井戸を獲得したことなどが、この物語の前に書かれています。井戸を獲得したという事は、井戸の周辺を自分の土地とする権利を得たということです。神さまの約束の実現と、その神さまに対する応答と服従の積み重ねの繰り返しであったアブラハムの旅は、遂にクライマックスを迎えていたのでした。彼は、さまざまな事が整えられて、充実した時期を迎えていたのでした。そのアブラハムを神さまは「試された」のでした。神さまが試される時、それは、その人の心の中にあるものが何であるのかを、神さまがお知りになりたい時です。神さまは、アブラハムの事を今までよりも更によく知りたいと思われたのでした。また、神さまは、試練を与える事によって、その人をより強くし、より純粋し、より神さまが造られた真の人にしようとされます。試みにより、更なる新しい命を与え、真に神さまに従う者として鍛えようとされるのです。神さまからの試みによって、アブラハムはさらに真のアブラハムにされようとしていたのでした。そして、満ち足りていたアブラハムの歩みは一転して、厳しい正念場を迎えたのでした。

 

 この試みを与えられる神さまは、アブラハムを誰よりも愛しているからこそ、更に知りたいと思われる神さまです。そのことが、試みの内容を深く見つめると分かってきます。今読んだ2節で、神さまは「あなたの愛する独り子イサク」と言われました。アブラハムにとってイサクがどのような存在であるのか、神さまは良くご存じでした。しかも、このイサクは、アブラハムに与えられた神さまの約束、世界を祝福するという神さまの約束を担った子でした。イサクは、アブラハムが神さまの呼びかけによって旅をはじめ、より頼んできた神さまの約束が実現する大切な子であり、また、神さまとアブラハムの今までも、そして今も、これからも全ての意味が集中している子なのでした。そのイサクを殺して捧げなさいと、神さまはお命じになったのです。アブラハムは、神さまが、アブラハムとの約束とこれまでの歩みを否定されたように感じたと思います。今まで続けて来た、信仰の歩みが、断ち切られてしまい、どのように生きてゆけば良いのかさえ分からなくなってしまう、そのような事態に彼は直面したのです。しかし、先ほども言いましたように、神さまは、アブラハムを愛されて、更によく知りたいと思われるので試みを与えられるのです。

これまで、アブラハムと歩んできてくださった神さまが、アブラハムならばきっと乗り越えられる。アブラハムが神さまと共に生きようとするならば、必ず乗り越えられると思われたから、試みられたのでした。

 

ある牧師は、このように言います。「わたしたちは誰でも、『何かになるため』に生まれてきている。その何かが何であるかが分からないまま人生の多くの時間を過ごしているけれども、それが分かる時というのは、神さまと出会う時である。私たちを造ってくださった神さまを知るという事。それは、自らが何故造られたのかを知る事である」。これは、命を与えられた人間にも、そして、神さまが与えてくださった教会にも言える事のように思います。全てを創造してくださる神さまに出会う時、私たちも、そして神さまが与えてくださった教会も、何をするために生まれてきたのかが分かり始めるように思います。そして、その神さまに出会うたびに、私たちは今までとは違う、新しい命を与え続けられるのです。神さまが与えられた「試み」は、それを通して、神さまが、世界の祝福の基礎になるアブラハムを生み出し、完成させようとされる、いわゆる「布石(ふせき)」であると言えます。これまでの、アブラハムの歩みにも、困難が沢山ありました。そしてその度に、神さまはアブラハムに、神さまを信じることを求められました。しかし、今回はこのような困難とは全く違う困難である事が分かります。神さまが置かれた「布石(ふせき)」。それは、神さまの約束そのものが、神さまご自身によって否定され、神さまがどのような方なのか分からなくなってしまう経験でした。神さまは、神さまのお姿が見えなくなってしまう経験を通して、さらにアブラハムを成長させようとされたのでした。

 

 この試みの中でアブラハムはどうしたでしょうか。アブラハムの心の動きが、聖書には描かれていません。とても、静かな時間が流れているように思います。アブラハムは、神さまからの命令を淡々と実行していくのです。しかし、その背後で、彼は、言葉に表す事の出来ないような苦悩を経験したのでした。アブラハムは、神さまに『アブラハムよ』と呼ばれ、「はい」と返事をしました。このことは、神のみ使いが『アブラハム、アブラハム』と呼ばれた時にも、同じです。彼は、「はい」と答えるのです。彼は、神さまにだけ呼び掛けられるのではありません。息子イサクにも「わたしのお父さん」と呼びかけられ「はい」と答えます。「はい」という言葉は、口語訳聖書では、「わたしはここにいます」と書かれていた言葉です。「私をご覧ください」「私は今あなたの目の前におります」という意味の言葉です。アブラハムは、自らを愛して信頼してくださっている神さまに向かって、「神さま、私はここにおります。何でもおっしゃってください」と、答えたのでした。アブラハムは、神さまを信頼して、神さまの御前にすべてをさらけ出して、神さまの前で何も隠すことなく立ち続けようとしたのでした。試練の中で、神さまが見えなくなってしまったアブラハムですが、しかし、彼は、今自分には神さまが見えなくなってしまっているが、神さまは必ず共に歩いて下さり、道を示してくださっていると信じ、神さまの前に立とうとしたのでした。

 

見えない神さまの呼びかけに「はい」と答える。どこにおられるのか分からない神さまの呼びかけに「私をご覧ください」「私は今あなたの目の前におります」と答える。この事は、この世の事だけを見ている目には、訳の分からない行動として映るように思います。理解出来ないように思います。しかし、神さまが「アブラハム」と呼びかけられ、アブラハムが「はい」と答えることは、アブラハムがこの世の呼びかけではなく、神さまの呼びかけに答える者とされるための行為でした。私たちもこの呼びかけを知っていると思います。

私たちは、洗礼式や信仰告白式の時に、神さまに名前を呼びかけられ、「はい」と答えました。私たちも神さまを信頼し、その呼びかけに答える者とされました。そして、「はい」と答える私たちを、神さまは愛して育ててくださり、神さまとの深い交わりと信仰の中に置いてくださいました。神さまの厳しい試練を前に「はい」と答えたアブラハムの神さまへの信頼は、同じように「はい」と答えて信仰に入れられた私たちが学ぶべき信頼なのです。

そして、神さまの呼びかけに「はい」と答える信頼は、神さまからの苦しい「試練」を、神さまのビジョンの中を生きる喜びに変える事ができます。「試練」は神さまが置かれる「布石(ふせき)」であるという事が出来るようになります。私たちは、神さまの呼びかけに「はい」と答えるときに、神さまと共に、神の国を完成させる者とされているのです。

 

 アブラハムの神さまへの信頼は、この物語の様々な所に現れています。5節でアブラハムはこのように言います。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる」。「わたしと息子は、また戻ってくる」と言うのです。息子を捧げて、私一人で帰ってくるとは言いません。この子を通して、必ず、神さまの約束は実現してくださると信頼しているからこそ、わたしと息子は、また戻って来ると話す事が出来たのでした。

 神さまへの信頼は、息子イサクとの会話にも現れています。イサクは父アブラハムに聞きました。「火と薪はありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」。アブラハムは答えます。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(8)。もしアブラハムが、「それは、お前の知るところではない。黙って、父についてきなさい」と言ったのなら、どうなるでしょう。それは、ひょっとすると神さまの御計画を、自分一人で判断して突き進んでしまい、神さまの方を向かなくなってしまう事に繋がるかもしれません。だからといって、イサクの言葉に泣き崩れて、「それは、お前なのだ。もう、私には何とも出来ない」と言ったとすると、どうなるでしょう。神さまの前で「はい、私はここにおります」と、神さまに全てを委ねようとするアブラハムの信仰は、ぼやけてしまいます。またさらに、もしアブラハムが「わたしは、何も知らない」と言うのならば、彼は息子と神さまに嘘を言ったことになります。神さまへ信頼を寄せるアブラハムは、ここで何も言えなかったのだと思うのです。アブラハムは、神さまへ信頼を置いているからこそ、泣き崩れることも、嘘を言う事も出来なかったのでした。「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。この言葉は、神さまが見えなくなってしまったアブラハムが、それでも、今まで共に歩いてくださった神さまが教えてくださった事を頼りに、神さまはこの方向にいてくださるのではないかと、見えない神さまの前で立ち続けようとする静かな信仰の戦いの言葉なのでした。

また、「備えて下さる」という言葉は、「見ていてくださるであろう」と訳す事が出来る言葉です。アブラハムは、神さまが見ていてくださる。その眼差しの中に立ち続けよう。自分は、試みの中で、神さまの事が見えなくなってしまっている。しかし、神さまは見ていてくださる。その眼差しのなかに置いていてくださる。そして、全てのことを備えてくださると、不安になっている息子に、自らの神さまへの信頼を打ち明けたのでした。

 

 私たちは、ある程度の期間、信仰生活をしていると次第に自分の信仰が確立していくような気がします。このように歩むことが、信仰者の歩みなのだと、自分勝手に納得してしまう事があります。私が向いている方向は正しいのだと、納得してしまうのです。しかし神さまは、私たちがそのように安心して、自分勝手な信仰で満ち足りている時に、大きな試練をお与えになります。さらなる神の国を目指すための「布石(ふせき)」を置かれるのです。この布石(ふせき)によって私たちは、自分の思いという範囲や、限界の壁を突破させられ、より深い広い信仰へと導びかれるのです。

 

今日は、礼拝が終わってから将来計画懇談会が開かれます。私たちは、アブラハムと同じような状況に置かれているように思います。私たちは今、神さまに与えられた教会を修復し、また新会堂を建てるビジョンが与えられています。神さまが、多くの人々を神の国に招き入れるご計画のために、また、教会に集まる私たちに更に、新しい命を与えるために、この教会に「布石(ふせき)」を打たれたと言ってもいいかもしれません。この将来計画は、私たちにとって困難な事柄も多いように思います。しかし、神さまを信頼している私たちは「もうどうしようもない」と泣き崩れる事は出来ません。だからといって、「放っておいても、何とかなる」と嘘をつく事も、神さまの前では出来ません。私たちもまた、アブラハムのように、「主がきっと備えてくださる」と信じ、何とか神さまの御前に立とうと願い、神さまの救いと恵みのご計画のために前に進む事を示されているように思います。「神さま、あなたが備えてくださる道を歩ませてください。私たちが、道に迷ってしまって、神さまを見失う時にも、神さまが私たちを見てくださり、私たちに備えてくださる物を受け入れて歩むことが出来ますように」と、アブラハムのように祈り、そして互いの信仰を語り合いたいのです。私たちの信仰が、この世の常識に留まっている限り、この試練を正しく乗り越えることは出来ません。しかし、今まで私たちを導いてくださった神さまが、今も私たちと共にいてくださる事を信頼する時に、厳しい試練は、神さまが与えてくださる計画に変わります。私たちは、このご計画の中を、祈り、感謝し、証ししながら、神さまと共に乗り越える事が出来ます。

 

 このように、沈黙の祈りと信仰の戦いを続けたアブラハムが、遂に「手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした」(10)最後の瞬間に、神さまは彼を呼ばれました。「アブラハム、アブラハム」と呼びかけ「その子に手を下すな。何もしてはならない」と言われました。イサクの命は救われたのです。それは、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」(12)からであると、神さまはお語りになります。神さまがアブラハムを愛し、「試練」をお与えになるまでに、知りたいと思われた事。それは、アブラハムが「神さまを畏れる者」であるという事なのでした。神さまを畏れる者とは、神さまを礼拝し、神さまのおっしゃることを聞き、心に留めて従う者ということです。神さまを畏れ、信頼し、神さまの眼差しの中で生きようとする者は、神さまに与えられた命を本当に生きる事が出来ます。アブラハムはこの時、真に神さまに命を与えられたアブラハムになったのでした。そして、この父の背中に従った、約束の子であるイサクは、神さまからもう一度命を与えられた、真の約束の子イサクとなったのでした。

 

このことは、私たちも同じことが言えます。私たちの、家族も仕事も、財産も、そして教会さえ、全て、神さまが与えてくださったものです。私たちは、しばしばこのことを忘れて、全てが自分のものであると誤解し、自分の計画で物事を動かそうとしてしまいます。神さまは、そのような私たちに試練を与えることで、私たちが再び神さまの恵みによって命を与えられ、神さまのまなざしの前にしっかりと立つ者、神さまに命を与えられた真の自分自身となるようにしてくださるのです。そして、そのことにより、教会に集められた、信仰の兄弟姉妹と共に神の国を前進させようとなさるのです。私たちの信仰の父であるアブラハムは、このように、神さまのみ言葉であるのならば、神さまに捧げることを惜しまないで、神さまの御前に、何とか立ち続けようする信仰者の姿を見せてくれるのです。これが、神さまが選ばれたアブラハムの姿です。

 

 そのアブラハムが目を凝らしてあたりを見回すと、そこに一匹の雄羊がとらえられていたとあります。彼はその羊を捕まえて、息子の代わりに焼き尽くす献げ物として捧げました。そしてアブラハムはその場所を「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付け」(14)ました。アブラハムの試練の戦いは、彼だけの戦いでなかったのでした。見えない神さまを信じるアブラハムの試練は、苦悩の中を歩むアブラハムを見つめる神さまの試練でもありました。アブラハムの前に打たれた布石(ふせき)は、神さまがそのビジョンを実現するためにアブラハムを導き、アブラハムと戦ってくださっているという現れでもあります。12節には「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」とありました。また、神さまは、「あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかった」(16)と言われます。大切な独り子を神さまに捧げられた方、私たちの命のために、息子すら惜しまれなった方。それは、私たちに新しい命を与え、神の国に入れようとしてくださる、神さまご自身です。パウロはこのように語ります。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ロマ8:32)。神さまご自身が、私たちの命のために、その御子さえ惜しまず死に渡してくださったのです。アブラハムが与えられた試練を、神さまご自身が引き受けてくださったのです。布石(ふせき)を打たれた神さまご自身が、そのご計画を全て引き受けてくださるです。「備える」という言葉は、「見る」と訳すことが出来ると言いました。神さまを信じ、息子を献げにやって来たアブラハムが見たもの、主が備えてくださったもの、それは神さまが備えてくださった雄羊でした。神さまはこのような形で、ご自分を表わしてくださいました。そして、この神さまの備えによってイサクは死なずにすんだのです。また、「きっと神が備えて下さる」という父の信仰を背後で見ていたイサクは、この神さまに出会う事が許されたのでした。しかし、イエスさまは、誰も替わってくれる者もなく、十字架につけられて死なれました。

 

 アブラハムが召されたこの試練の中に、私たちも召されています。そして、私たちのこの信仰の試練を、神さまがイエスさまによって乗り越えさせてくださいます。私たちの前に置かれたこの「布石(ふせき)」は、主イエス・キリストにおける神さまの御計画によって支えられています。教会将来計画は、神さまが置かれた、私たちへの命令と試練のような気がしてなりません。そうであるのならば、私たちは、試練との闘いのなかで「主の山に備えあり」と確信を持って言うことができます。神さまが、私たちにイエスさまを通して与えてくださった恵みと救いのご計画が、今も尚進行中であることを、私たちに分かる形で表してくださっているからです。そして、イエスさまの十字架の死と復活において、神さまはその独り子であるイエスさまと一緒に、すべての必要な物を私たちのために備えてくださっています。

 

「はい。わたしは、あなたの前に立っております。わたしを遣わしてください。イエスさまが、十字架の上にご自身を捧げてくださったように、私の心も私の体も全てを主に捧げ、わたしもあなたが与えられる十字架を追って、あなたに従います。主よ、全てに感謝します。主よ、私があなたのご用のために生きるものとならせてください。」と、アブラハムのように、応答したいのです。