リズムを持って生きる

2023/02/05 受難節前第三主日聖餐礼拝 「リズムを持って生きる」 使徒言行録説教第43 148~ 上田彰牧師

 *リストラ(ルステラ)という町

今日の舞台になっているリストラという町は、ガラテヤ地方の南の方にある、ローマ人が支配する町でした。ローマ帝国は、自分たちの支配がしやすいように町を改造していったのです。昨今で申しますと、ある国が元自分の支配下にある、いわゆる衛星国家で今は独立している国を攻める。そして文字通りの絨毯爆撃をして、建物をすべてがれきの山にしてしまう。そこを整備して新しい建物を建てる。そして自分たちの国から移住希望者を募り、その場所に住まわせる。実際それに近い形で近未来的な都市が出来上がっているというような実例は、ロシアの連邦国の中にはいくつもあるようです。そこまでは行かなくても、今回のリストラのように、その地域の支配者が、地元民ではなく中央であるローマから送られた人であるということは極めてよくあります。その支配がうまく行くケースと、行かないケースがあって、イスラエルはうまく行っていないケースでした。ピラトを始めとする総督はエルサレムから少し離れたカイサリアに住み、商売をする者にとって重要なシリアをにらみつつ、宗教的にはローマにとって目の上のたんこぶとも言えるエルサレムにもまなざしを送っていました。エルサレムをローマが直接支配することは出来ず、自治権を与えざるを得ない場所がエルサレムでした。それに比べますと、リストラはそこにローマ人の支配者が住み、またギリシャ人が上層階級として住んでいたために、現地の人たち、リストラ人と呼ばずにリカオニア人と呼んでいたようですが、彼らは支配される民でした。政治とか行政のレベルではラテン語で話す人が取り仕切り、世の中の色々なところを支配していた人たちはギリシャ語で話し、ですからリカオニア語は地元民の言葉、というわけです。リストラという町は今ではひなびた寒村なのだそうです。強者どもが夢の跡。かつてリストラという町を跋扈した強者ども、そして彼らと対峙した二人の伝道者の物語です。

*自分の足で


この町の通りに、一人の人が座っておりました。置かれていた、という方が正確かも知れません。生まれつき歩いたことがない人が通りにいる。大体は物乞い目的です。日中は通りで物乞いをして金を稼ぎ、誰かが夜には粗末な宿舎に運んでいく。そのような、周囲の哀れみによってかろうじて生きていた人物が、パウロのまなざしの中に入ります。パウロは彼の目を見つめました。そして彼の目が生きていて、自分のことを見つめ返していることに気づきました。パウロと彼との間で、息が合った、ということでしょうか。パウロは、彼が癒されるにふさわしい信仰を持ち合わせた人物であると考えました。

 パウロは周りのすべての人に聞こえるような大きな声で、こう命じます。「自分の足でまっすぐ立ちなさい」。すると彼は躍り上がって歩き出した、というのです。パウロは立ちなさいと命じたのですが、彼はそれ以上のことを行っています。ただ立ったのではなく、歩き出した。ただ歩き出したのではなく躍り上がった。直訳すると、ジャンプをして歩いた、ということです。活躍の躍と書いておどると読みます。同時に、ダンスをする方のおどるという言葉もあります。信仰者として歩くということの中には、ジャンプをしたりダンスをしたりするというような側面があるのではないかと思います。毎日ダンスやジャンプを生活の中に取り入れましょう、という話ではありません。しかし、信仰を持って歩くということには、それらと似ている部分があるように思います。信仰にはリズムというものがあるからです。もちろん、手拍子を取るというような、直接的な意味合いではありません。あえて言えば生活のペース、とでもいうのでしょうか。例えば彼は、先ほどまでは歩いたことさえない人でした。しかし誰かが物乞いを日中に出来る位置まで運んできてくれるのです。そして夕方になると、寝床にまで運んでくれるのです。そうやって、他人によって生活のサイクルが決められていました。他人が決めた生活サイクルに依存する形で生きるしかなかったのです。その彼が、パウロと目が合ったときに、呼吸が合う気がした。気が合う、という言い方がありますが、パウロは彼の中に、彼が今置かれている生活サイクルとは別のサイクルを求めていることに気がつきました。彼は今の生活に安住したいと思っているわけではないのです。歩けない人が自分の力で歩けるようになりたい、というのは決して当たり前のことではありません。「生活サイクル」を自分で決めるよりも、お仕着せの、他人が決めた生活サイクルの中にいる方が楽だと考えても不思議はありません。ましてや生まれてからずっと歩けなかった人です。自分はそんなものだと思ってしまえば、そこに落ち着いてしまうのです。それがパウロの命令により、自分の足で歩く、いえ踊り、飛び上がるようになるような仕方で、自らの生活サイクルを獲得するようになる。

 

 *まっすぐ

 「まっすぐ」という言葉も、注目が可能かも知れません。もう一箇所この言葉が使われているところが新約聖書にはあって、その文脈を確認すると、同じ共同体の中に、まっすぐに歩いていない人とまっすぐに歩いている人がいる、という風に、実はまっすぐに歩くことはまれである、というようなニュアンスがあります。プロ野球の中で現在最も実績を上げている投手といえば、日本一になったチームの投手で、山本由伸という評価で異論のある人はまずいないと思います。彼は、トップアスリートでありながら、筋力トレーニング、いわゆるダンベルをあげるというようなことを自分の練習で全く取り入れていないということで有名です。投げることで必要な筋力をつけるという考え方です。もう一つが、動きをつけるにあたって、バランスを取るということを専門の指導者の下でやっているのだそうです。いわゆるダイナミックな投げ方ではありません。ほとんど、体を後ろから前へと重心移動をしているだけのような、なぜこの投げ方で早く投げられるのかは分かりませんが、極めて正確なコントロールであることで有名です。少し前の時代になりますが、岩隈、ダルビッシュというやはり時代を代表する投手も、球がただ速いだけでなく、コントロールが絶妙であることで有名でした。現在の山本投手を指導している人から見ると、現在のプロ野球の選手の圧倒的大多数は、バランスが取れていない動きをしているということになるのだそうです。恐らくその中で山本投手が突出した成績を残しているのは、自分の体に合ったバランスの取り方を、自ら会得しているからなのだと思います。他人から言われてその通りにするというだけではだめで、今日の聖書箇所にあるように、自分の足で、つまり自分で考えてまっすぐに立てないと本当はいけないということなのでしょう。まっすぐに立つということが、実はまれなことなのかも知れません。

 

今日の箇所で、まっすぐ立っていない人々というのが、リカオニアの人たちです。彼らは、自分たちの所に入り込んできた支配者たちを受け入れました。政治的にはローマ、そして宗教的にはギリシャ宗教を受け入れていることが分かります。現在は強者どもの夢の跡になっているリストラには、大きな神殿の跡が残っているそうです。町の外にあったということは今日の箇所からも分かりますが、正確には、町の門の向かい側にあった、つまりすぐそばにあったということです。ゼウスの神殿は、もともとの彼らの宗教ではありません。しかし今日の箇所におけるペトロの癒しの記事への反応で分かるのは、リカオニア語を話す地元の人たちは、ゼウス信仰に対する大きな憧れがあったということです。まず第一に、宗教といえばゼウスとヘルメスが大物だというのが彼らの出発点になっていたようです。そこで、ヘルメスというのは神々の中でも伝令のような役割を果たす者であったことから、パウロは話す方の神さま、つまりヘルメスで、もう一人の奥で控えていた方の神さまが格上のゼウスに祭り上げられてしまった、という訳です。この出来事は恐らく、リストラのリカオニア人が、自分たちの宗教観というものをきちんと持たずに、上の立場の者たちが持ち込んできた宗教をそのまま受け入れようとして、なにかちぐはぐな形で受け入れてしまった、つまり自分のサイクルとかペースというものを持ち合わせることなく、自分たちの足でまっすぐに歩いていなかった、ということがあることに気づかされます。

 

 *生ける神のリズムに立ち帰る

 話がややこしくなってきました。バルナバとパウロをゼウス、そしてヘルメスとしてあがめ奉る動きは止まらなくなっていました。この出来事が一日で起こった出来事なのか、数日かけて起こった出来事なのかが聖書からだけではよく分かりません。もしかすると、そこに二人は数日滞在していて、だんだん騒ぎが大きくなるのを実感していたところかも知れません。ついに雄牛や花輪まで運ばれてきて、彼ら二人のためにいけにえが献げられるというところまで話が進んでしまいました。そこで彼らは体を使ってその動きを止めねばならなくなりました。二人は服を裂き、抗議の意志を示しながら彼らに説得するのです。この、服を裂くというのは、こういうメッセージになると思います。今のあなた方の思考形式、広い意味の生活のサイクルは、変えられなければならない。まずいままでの考え方に基づく振る舞いを一度やめなさい。目に見える奇跡を作り出したものを神とあがめ奉るその習慣を一度やめて、その奇跡の背後にある、本当の神さまを崇めなさい、というメッセージです。

 ですからここでパウロはまず、「偶像崇拝はやめなさい」と語ります。私もあなたも、生かされているものではないか。生かされているものが、他の生かされているものを崇めても仕方が無い。活かすお方を崇めなければならない。これが、「生ける神」という14節に出てくるパウロの言葉の真意です。「本当の神さま」というような言い方も出来るところで、「生ける神様」とパウロはいいました。ゼウス、ヘルメス。それらは神々と呼ばれているが、その神々をもお造りになった神がおられる。それが生ける神、あるいは生かす神である、という訳です。

 パウロはさらに次のように続けています。「神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」。神々を生かし、支配者でもある真の生ける神様は、神々を支配し生かすのみならず、この自然の世界をも生かし、そしてご支配なさっている。そしてその自然の世界におけるサイクル、つまり種まきの季節が来た後で雨が降っては乾き、収穫の季節が来て冬眠の季節が来る、そういった自然のサイクルは、生ける神様の息づかいのサイクルでもある。その中にあなた方がいることで、あなた方は真の喜びに包まれている。だから生ける神を崇めなさい、というわけです。

 日本人の宗教観の中に、宗教を山登りにたとえる考え方があります。山を登るには色々な道が歩けれど、最終的には同じ頂上に着く、だから結局はどの宗教でも同じなのだ、という考え方です。今日の箇所からわかる宗教理解は、それと異なっています。真の宗教、いえ生きた宗教は、自然のリズムと、そして私たちの内側にあるリズムとを太い線で結びつけ、神さまのリズムの中で生きることが出来るようにするのです。

 生活のリズムや、あるいは自然のリズムを宗教と結びつけることは、断片的には色々な取り組みがあります。現代でいえばヨガなどがそういった思想を持っていることで知られています。聖書の中で星占いが禁じられているのは、星というものが規則を持って運行していて、それが一種の宗教性を帯びていることが良く知られていたからなのでしょう。星占いそのものが、あるいはヨガそのものが問題であるというより、星占いの世界に留まってしまって、星の動きをも支配しておられるお方へと思いが向かないとしたら、それでは不十分だ、まっすぐに立っていることにはならない、という訳です。

 

 *生かされるパウロ、そして私たち

パウロたちの身を挺した抗議と、そしてパウロ自身の説教によって、人々はようやく落ち着きました。彼らは、目の前の奇跡を起こした二人の伝道者を神さまだとあがめ奉らないといけないという思い込みから解放されるに至ったのです。ようやく彼らは自分たちの足でまっすぐに立つことが出来はじめました。しかしすぐにまた揺さぶられることになります。それは、この町には元々いなかったユダヤ人がアンティオキアやイコニオンからやってきて、あのパウロたちはよこしまな教えを説き回っている、と人々を説得し始めたのです。なぜその逆説得がこのリストラという町でうまく行ってしまったのかは分かりません。パウロたちは石を投げられ、死にかけてしまいます。しかし弟子たちがやってきて、彼らを取り囲むようにして様子を見守ります。パウロは息を吹き返しました。生きた呼吸のリズムを彼は取り戻したのです。本来、生かされているものが他の生かされているものから生活のリズムを、思考のサイクルを、生けるものの呼吸を奪うことは出来ません。リズムを失いかけていたパウロは、こうして神さまのリズムへと立ち戻りました。

 様々なものが、神さまのリズムの中に生きることを阻まれています。パウロは人々から石を投げられてリズムを危うく失うところでした。かつてはリストラという町そのものが、ローマの支配によって自らのリズムを失い始めました。ローマによるリストラの支配は、リカオニア人を排除して、ローマとギリシャから人を連れて来て作り上げた、いびつなものだったのです。結局そのいびつさ故に町は滅びてしまった、という風に言えるのではないでしょうか。強者どもが夢の跡。人間の力に頼り続けるのは、決してまっすぐ立っていることにはならないのです。

 

 このようにして、パウロたちは、次のデルベという町に行きました。このデルベという町における伝道の様子は、あまりはっきりしません。ただ分かることは、ここで多くの人に洗礼を施して弟子とし、またその弟子たちのために教会の役員にあたる人をパウロたちが任命するのです。その様子を、ルカはこう記します。「断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」。断食をするということは、この文脈で申しますと、自分が食べ物という自然の恵みによって生かされていることを、あえてその恵みを一時的に絶つことによって気づかされる、という事になります。そのような仕方で、パウロは現地の人々を主に委ねる仕方を会得した、というのです。「パウロは種を蒔き、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださるのは神である」。これはコリント教会に宛てたパウロの手紙の一節ですが、種蒔かれ、水注がれたものが成長するのは、神さまが自然のサイクルとリズムをお用いになって恵みを明らかになさるからです。主なる神さまに弟子たちの成長を任せるというのは、色々と水をやったり雑草を取ったりと世話はするけれども、最終的には神さまが育てるということをわきまえる、ということです。

 

 私たちに聖餐の食卓が備えられています。定められたときに私たちがこの食卓に与り、聖なる生活のリズムの中に入れられています。命のパンをいただくと歌うときに、そのパンが私たちをどのように生かしているのか、今一度考え、恵みを味わいながら食卓に着きたいと思います。