地の果てに救いをもたらす光

2023/1/8 顕現後第一主日礼拝 使徒言行録説教第41回 

「地の果てに救いをもたらす光」 13章26~52節 

牧師 上田彰


*新年のあいさつから

(ここから引用)

聖書の中にウサギは2度登場します。レビ記と申命記です。どちらも食べてはならない汚れた生き物のリスト(食物規定)に属しています。

レビ記116節に「野兎も反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。」とあり、申命記147節には「ただし、反すうするだけか、あるいは、ひづめが分かれただけの動物は食べてはならない。らくだ、野兎、岩狸。これらは反すうするが、ひづめが分かれていないから汚れたものである。」とあります。

私たちにとってはウサギは復活祭と結びついています。「復活のイエス・キリストを最初に墓の中で目撃したのがさはうさぎだった」という伝説に由来するそうです。そんな伝説があるんですね。

旧約聖書で食べてはいけない汚れた動物として紹介されていたうさぎが、復活祭の象徴となっていることについて、ある人が「何か福音的な意味を感じさせる」と言っています。

(引用はここまで)


 ある牧師がSNSに投稿していた新年のあいさつの文章です。何かユーモアのあるメッセージであるように思います。私たちの信仰はユーモアを内に持っています。

 メッセージそのものについての解説も必要です。先日も少しドイツにおけるクリスマスの過ごし方について触れましたが、私の知る限りでは、ウサギと卵がイースターに登場するのは、ドイツが由来です。いずれも生命力の象徴です。ウサギは多産の動物として知られています。復活の主を最初に目撃した証人(しょうにん、あかしびと)が人としては女性であるならば、動物としてはウサギだった。それ自身がユーモアに富んだ想像であることは言うまでもありません。そして同時に、言われてみれば律法の中には「けがれた動物」として登場するだけのウサギが、福音の物語の中で復活劇の象徴となることは、ある意味で福音的です。ちょうど福音を伝える者たちが、エルサレムからアンティオキア、そしてローマへと移動していく様子を私たちは使徒言行録を通じて体験しているわけですが、福音を伝える者たちの足は、ローマにとどまることはありませんでした。福音がゲルマン民族と出会ったのは5世紀前後です。そこで彼らは変わりました。福音を通じてゲルマン民族が変わったという部分と、ゲルマン民族を通じて福音が変わったという部分があるのではないかと思います。クリスマスにはツリーを飾り、イースターにはウサギと卵が登場する。律法は穢れたものとみなしていたものが、福音の光を通じて神様の道具として用いられるようになる。

 これは、私たちの物語でもあると思うのです。


*パウロの説教

 シリアのアンティオキアを出発したパウロたちは、ピシディアのアンティオキアという町にたどり着きました。この町のユダヤ人会堂で語ったパウロの説教は、使徒言行録での初めてのパウロ説教だということになります。しかしここに収められているものには、ルカの編集がかなり入っています。一説では、以前にあったステファノの説教と重なっている部分が少ないので、もともとのパウロ説教からルカが抜き取ったのではないかと考える人もいるくらいです。そういうわけですから、パウロの考えを正確に知るためには、パウロ自身が記した手紙を読むほうが良いのだとは思います。しかしそれでは使徒言行録の説教には何の意味もないかというと、もちろんそういうことはありません。ルカの光から読み解くパウロの説教の味わい深さというものがあります。

 今日ご紹介したい部分は33節にあります。読みます。「つまり、神はイエスを復活させて、私たち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも『あなたは私の子、私は今日あなたを産んだ』と書いてある通りです」とあります。ここでこの説教が言いたいのは、こういうことです。私たちが神様から生まれたのは、偶然ではなく神様のご計画であり、そしてその計画が確かに神様の導きの下で実行されているということをお示し下さるために、神様は御独り子を復活させてくださった。短く言うならば、キリストの復活は、私たちの存在の証明になる、ということです。

 そこが中心であるという前提で前後を読み返しますと、いろいろと気が付くことがあります。ルカの目から見たパウロの説教において、イエス様が血筋の上ではダビデの子孫である、ということに強調点がある、ということです。血筋というのは、家系図を持ち出して、家系図の中に真実がある、とする考え方です。しかしパウロによれば、このような家系図至上主義者である者たちが、家系図の中に現れた救い主を十字架にかけて葬ってしまった、家系図を重んじていたはずの人たちの救いの根拠は、なくなってしまった。しかし救いそのものがなくなったわけではない。実は家系図の中に現れていた救い主は、復活を通じて家系図を重んじていたつもりの人々はおろか、家系図を知らない人たちをも真の救いの家系図に書き留めてくださった、というのです。

 いろいろと気が付かされることがあります。聖書の中にも、これに呼応する箇所がいくつもあります。例えば新約聖書の冒頭、マタイ福音書を繙くと、家系図が出てまいります。その中にダビデの名前が記されているのは、ふつうダビデを使ってイエス様の誕生に重みをもたせる、権威づけるためにされていると思われています。しかし実際には逆で、イエス様によってその祖先たちの方が権威づけられているという風に読むことができるのではないか。あるいはローマの信徒への手紙の冒頭、主イエス・キリストは「肉によればダビデの子孫、聖霊によれば復活によって力ある神の子とされた」という箇所があります。復活によって神の子であることが明らかになったお方が、今度は私たちもまた救いのご計画に入れられていることを明らかにしてくださる。

 

*ウサギ(異邦人)である私たちは救われるか

 考えてみると、ウサギが誰よりも早く復活の主イエスを墓の近くで見かけたという例の伝説には、いくつかの含みがあります。まず一つは、救いのご計画にウサギが入れられるのは、ウサギが復活の証人になっているからだということを伝説は伝えています。今日の聖書箇所を見ると、主の復活の物語において重要なのが、復活の証人の存在です。私たちは、復活の証人であると言えるでしょうか。2000年前によみがえられたお方は、今は天に昇られています。私たちが肉の目で復活の主を目撃することはできません。しかし、イエス・キリストの霊である聖霊の宮に私たちは住まわせられていて、復活の証人である信仰の先達とともにいることで、私たちもまた復活の証人であることができます。復活の証人であることによって、私たちは救いのご計画に加えられているのです。このことを考える時に思い起こすのが、イースターに欠かせないもう一つのアイテム、卵です。卵がなぜイースターを象徴するのか。それは卵が生命力を象徴しているからだ、と考えられています。もう一言付け加えるならば、卵とは見えない形で生命力を宿らせている、ということです。見えないけれども命が宿っている。

 もう一つが、ウサギはもともとは律法によれば穢れた動物とされていた、という話です。おそらく復活を象徴する動物が登場するにあたって、ウサギが律法の中で二回穢れた動物として登場することは、後から人々が気付いた事実だと思います。しかし見かけ上は偶然としか言いようがない仕方で、聖書に直接記されていないもう一人の救われた人物、いえ動物がいるということをこの伝説は私たちに伝えています。そして気が付かされるのは、マタイが伝える家系図には登場しない私たち異邦人も、その一人一人の誕生の経緯を思い浮かべると、偶然としか言いようのない事態が何らかの意味で含まれていると思いますが、にもかかわらず復活の主によって招かれて教会に加えられ、真の救いの家系図に加えられています。短い箇所ですが見逃せないのが48節です。こうあります。「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」。これは、異邦人であるかユダヤ人であるかにかかわらず、復活の証人にされた人々は、聖霊によって教会に招かれることによって、永遠の命を受け継ぐ者とされる、ということです。イエス様を信じたら地上におけるすべての悩みや苦しみが今すぐなくなる、という話ではありません。むしろ、もっと大きな困難に直面することさえあるかもしれません。しかし、神の国の世継ぎとされるという約束は、私たちが地上で直面する困難に対するとらえ方を大きく変えてくれます。一番大きいと思っていた出来事が、二番目であることに気が付くのです。


*「教会」の誕生

 ユダヤ人は、目に見える形の血統を重んじる人々としてここでは描かれています。肉の目で見える救いといっても良いかもしれません。それに対して異邦人で救いに入れられる人々、すなわちウサギを筆頭とする私たちは、霊の目によって見ることのできる主の復活の証人として救われています。今日の個所は、そのようなユダヤ人の救いの理解と異邦人の救いの理解がすれ違いを見せ始めていることに対する示唆があります。

 本来であれば、ユダヤ人の考える救いの筋道がいわば本流なのですから、ユダヤ人が率先してイエス様を受け入れたら良かったのかもしれません。しかしそうはなりませんでした。ユダヤ人の枝の代わりに、異邦人が接ぎ木されて救いにあずかるようになった、というのが同じパウロがローマの信徒への手紙9章以下で語っていることです。今日のテキストで申しますと、43節です。ユダヤ人会堂での集会はパウロの説教によって閉じられました。その後、多くのユダヤ人と異邦人がパウロについてきた、となっています。つまり、パウロはキリストの福音を聞いて信じた人々に、会堂の外で次のように勧めるのです。「神の恵みのもとに生き続けるように」。この勧めは、その後私たちが「教会」と呼ぶものの一番元の形になっています。教会とは、自分の家がキリスト教だから行くものではありません。いろいろな自分で設定した人生の目的を実現するために行くものでもありません。そうではなく、神の恵みのもとに生き続ける、このことのために集うのです。

 「異邦人」という言葉がここで「改宗者」となっていることに注目することが出来ます。最近、子どもが学校から帰ってきて、不機嫌そうにしていることがありました。なんでも、友達がぶたれたと言って仲間はずれにするのだそうです。当たったかどうかも分からない、わざとではないのにあんな仕打ちをするなんてひどい、というわけです。小さな子どもでも、「わざと」なのか「偶然」なのかは大きな違いです。ギリシャの思想の中に、「人間の生活から偶然をすべて排除したらどうなるか」ということを考えた思想家がいます。私たちは偶然によって事故に遭い、偶然によって良い人に巡り会い、偶然によって苦しめられることがあります。自分が生まれてくる環境は選ぶことが出来ない、ところが生まれてくる場所や家柄によって、その後の人生が大きく変わってくる、これはおかしい、そんな言い方が「親ガチャ」という言葉と共に聞かれることがあります。「ガチャ」というのは子どもが遊びたがる「ガチャガチャ」のことですね。教育熱心な家庭では、射幸性を煽るからといってさせない家庭もあると聞きます。要するに偶然に頼るような生き方を覚えさせるのは教育に良くない、実力で生きるようにさせないと、ということなのでしょう。ギリシャ思想の話に戻りますと、そのような思想を「運命論」と呼ぶことになっています。運命を司る神(モイラ)がすべての人間の行く先を決めている、という思想で、運命論は良いことも悪いことも神様にお任せ、というのではなく、結局人間の生き方は悪い方にしか行かない、人生に意味を見出すことは諦めた方がいい、という暗い方向に行く話につながっていくのです。パウロの説教を聞いた異邦人の中にも、そのような思想に触れた者がいたようです。ところがパウロの説教では、私たちはキリストの復活を通じて救いの御計画に入れられる、と語るのです。私たちを支配しているのは偶然という名の運命ではなく、私たちの生き方に意味があるのだ、と語るのです。それを聞いた人々は、今まで聞いていたギリシャ思想の話とパウロのそれが違うことに気がつきました。そして気がついた人がパウロにくっつくようにして集会の後会堂から出て行きました。

 福音を聞いた新しいウサギの登場です。


*主に従う者の群れ

 いろいろなウサギを思い浮かべます。ウサギといって、跳ねるところを思い出すでしょうか、餅をつくところを思い出すでしょうか。子どもなら、カメと競争するところを思い出す、というかもしれません。私は今日の個所を読みながら、「ついてくるもの」ということを連想しました。実際、ウサギというのは人懐っこくて、人についてくる習性があるそうです。今日の聖書箇所にも、実は「ついてくる」という言葉が隠されています。それは52節、最後のところなのですが、この「弟子」というのは「従う者」というニュアンスがあり、もともとはユダヤ人でイエス様に従う者だけが「弟子」と呼ばれていたのです。ところが恐らく今日の箇所で、新たに「弟子」として召し出されたのは現地在住の異邦人達です。パウロたちは次の伝道の場所に移動することを余儀なくされましたが、ピシディアのアンティオキアに留まり続けた人たちがいたことが分かります。彼らは、いわばよそ者であるパウロたちが自分たちの町を離れた後も、パウロについて行くことなく自分たちの生まれ育った町で教会を建設しました。恐らく彼らは自分たちが異邦人と呼ばれることを分かっていながらユダヤ人会堂で礼拝を捧げ続けていたのだと思います。しかしそのような形での礼拝参加はもやは望めなくなりました。ユダヤ人会堂には入れなくなってしまったからです。しかし彼らは神様を失うことはありませんでした。彼らは「神の恵みの元に生き続ける」ことが出来たからです。福音を聞いた者は神に従い続けます。いってみれば、自分がピシディアのアンティオキアで生まれたのは偶然ではない。ここで教会を建てて礼拝を守ることが自分たちの本当の使命なのだと気づいた者たちが現れたのです。彼らはパウロたちについていくのではなく、この地で教会を建て、礼拝を守り続け、恵みの元に生き続けました。彼らは自分が従うべきなのがパウロたちではなくイエス様であることを知っていて、そのお方が聖霊と共に私たちに伴って下さるのは、教会を建て礼拝を献げることによってであることを知っていたからです。

 私たちを生かす復活の主の霊が、恵みと共に私たちにありますように。