日の光を見る幸い

2022/12/11待降節第三主日礼拝説教 

使徒言行録説教第39回 13章前半

日の光を見る幸い 牧師 上田彰

 *今日はいつもより忙しいのでいつもより沢山聖書を読もう(ルター)

 以前に仕えていた教会で、一人の教会員が亡くなられた時の葬儀の準備のために作った覚え書きの一節です。お元気な頃は熱心に教会の聖書会に出席をしておられた方です。枕元に置かれていた聖書の余白に、先ほどの言葉が書かれていたのに目が止まり、メモを取りました。この言葉は、ルターの精神をよく言い表していると思います。私たち現代人は、この言葉を聞くと違和感を感じるかもしれません。「忙しいのだから、いつもより少なく聖書を読む、という風になるのではないか。なぜ多く読むということになるのだろう」。そのように考える場合、先ほどの言葉は、少し不可解に感じるかも知れません。しかしそこで思い巡らしを止めてしまうのではなくて、ではルターはなぜ忙しいときにもっと沢山聖書を読もうと考えたのか、いろいろ想像を働かせてみました。

 忙しいときというのはどういうときでしょうか。色々なことに心煩わせられるときです。そのようなとき、信仰者はどうしたらいいのでしょうか。ルターの言葉には二つの意味合いがあることに気づかされます。一つは、文字通りの意味で、いつも15分聖書を読んでいるなら、もう15分机の前に座って聖書を読む、という意味です。彼は恐らくそういう努力もしたことでしょう。そしてもう一つの意味が、そのようにしてもう15分多く聖書に目を通したときに、今自分の心を煩わせているあのことやこのことが、聖書の中で既に言い表されていたということを発見するのです。バラバラであったあのこととこのことが、聖書の言葉を通じて結びつけて考えられようになる。したがって、いつもより沢山聖書を読んだ日には、生活のあれこれに心煩わされることがいつもより少なくなり、一つ一つのことをしっかりとこなすことが出来るようになる。一日に30分しか聖書を読まないというのではなく、残りの23時間30分もまた、聖書に思いを向ける時間になれば、忙しさは少しだけ姿を隠してくれる。心を失うと書いて忙しいと読みます。心がバラバラになりかけてしまうことは、誰にとっても、どんな時代においても、あり得ることです。その失われそうな心を取り戻すのは、私たちの努力ではありません。御言葉が一つ一つを結びつけてくれるときです。そのことを、ルターは沢山聖書を読む、と言ったのです。御言葉によって一つとされるということを私たちは学びます。

*心がバラバラにならないために

 2022年もたくさんのことがありました。2022年がどんな年であったのか、世界史的事件をあげてほしいと言われれば、恐らくほとんどの人がウクライナで起こっている出来事を挙げるに違いありません。かつてコロナで心をバラバラにされかけた私たちは、今度は東スラブ地域の戦争によって心をバラバラにされかけています。

 今日の聖書箇所の表現の一つに目が止まりました。それは、「断食」という言葉です。使徒言行録の中では初めて出てくる言葉です。因みに今日の箇所に出てくる、アンティオキア教会というのは、メンバーの出身が非常に多種多様な教会でした。アフリカ、リビア、ローマ、それにタルソス、そしてイスラエル。ステファノが殉教をした大迫害以来、亡命をするキリスト者が多く発生し、彼らがアンティオキア教会に結集しつつあったのです。彼らもまた心がバラバラにされかけていました。それは出身がバラバラだから、という意味ではありません。むしろ出身がバラバラであるにも関わらず、一つとされていました。その点では問題はなかったのです。彼らがバラバラになりかかっていると感じていたのは、むしろ迫害への恐怖です。現代のウクライナでは、昨日砲撃があって電気が止まった、明日はその砲撃で自分が死ぬかも知れない、という恐怖と戦っています。その恐怖をロシアの人々にも味わわせてやろうと、戦いがエスカレーションをしているようにも思えます。

 恐怖と戦っている東スラブ地域の人たち、いえ色々な理由で心がバラバラにされかけている私たち世界中の人々が、このアンティオキア教会から学ぶことがあるとしたら、失われそうになっている心を取り戻すために、彼らが何をしたのかを知ることを通じてです。その手がかりを、「断食」という、今日の箇所に二回出てくる言葉から学び取ることは出来るでしょうか。この「断食」という言葉、単独では出てきていません。「主を礼拝し、断食していると」とか「断食して祈り」という風に、礼拝や祈りと結びついていることに気づかされます。恐らく断食というのは、彼らにとって特別なことではなく、礼拝の延長線上、祈りの延長線上にある信仰的な習慣であったのだと思います。何か気構えて、これから断食をするぞ、と特別な決断をして行うものではなかったようです。あるいはその言い方に語弊があるならば、断食をするときに大事なのは、断食という行為そのものではなく、断食を通じて何を目指すか、その目的に集中する、ということです。断食の間、「ああこれが終わったら、何を食べよう、これも食べよう」などと考えているのではなく、もっと重要なことに思いを向ける。それは、主イエス・キリストが私と共にいて下さる、という思いだというわけです。礼拝と断食は別々の事柄ではありません。祈りと断食は一つの事柄なのです。主とともにある、その精神によって祈りも断食もやり遂げることが出来るのです。

 今年の4月頃、ウクライナ問題で祈祷会を持つために久しぶりにコンタクトを取ったルーマニア人の友人が、インタビューの中で断食の効用について語っていたのを思い出しました。おおよそ次のように彼は語りました。「断食を通じて、自分が中心ではないことに気づける。自分の中心は神様であるということを思い出すんだ。そしてそのことを通じて、兄弟姉妹愛への目覚めも起こる」。私はこの友人と今年の春先に、断食の話をしながら、東スラブの平和を願っていたことになります。不思議な体験でした。しかし彼と私との間ではっきりしていたことがあります。それは、私の、いえ私たちの中心にいるのが自分ではなく、イエス・キリストである。そのことにみなが本当に目覚めたときに、本当の平和が訪れる。戦争の行方はどうなるか、まだ分かりません。しかし、ある日突然停戦条約が結ばれるという可能性は、だんだん大きくなってきたように思います。残念ながらそれは本当の平和ではなく、妥協の産物に過ぎません。私たちが語っていた本当の平和についての話は、目先には何の力にもならないかも知れません。しかし、本当の平和についての幻を見ることが出来ることに、意味が無いわけがありません。遠い地にいる友人と、平和をテーマにして祈ることが出来たことには、確実に意味があったのです。

 もちろん、断食の習慣を持つ教会に属する彼と、そのような習慣のない教会に属する私との間には、違いもあります。このことについてはドイツにいたときに、彼と何度か議論をしました。断食を必須としていない教会から来る私はこう尋ねます。「断食をしている間だけ兄弟姉妹愛に目覚めていて、断食をやめたら忘れてしまうというのでは困る、だから断食をしないときにも主とともにある精神を忘れないという意味で、断食は必要ないのではないか」、と。彼はそれに対して、「断食をいつもする必要は無い。一年に何回かでいいんだ、私たちは弱い存在だから、生活習慣として断食をする時期を教会の習わしとして定めているのだ」、と。

 そんな議論をしながら、二人の間で共通の思いがありました。それは、私たちがすべての事柄を、主イエス・キリストと共にあるという思いの元に収めなければならない、祈りの精神の元に常に留まっていなければならない、ということです。祈りの精神、という言葉を半年前のやりとりで私が使いました。彼はそれを繰り返して、こう言いました。「祈りの精神、なんと美しい言葉なんだろう」。パウロを思い出すならば、絶えず祈りなさいと使徒が命じたときに意図しているのは、ずっと目をつぶって手を合わせていなさいという意味ではなく、目を開いているときにも、生活をしているときにも、祈りの精神の元に留まりなさい、ということです。

 そういう理解で今日の聖書箇所の2節、「主を礼拝して断食をしていると」というのをもう一度読み直すと、これは主を礼拝することと断食をすることとの二つのことをしている、というのではなく、次のように読めることに気がつかされます。主を礼拝すること、それは断食をしていることでもある、と。あるいは同じことですが、3節を見ると、断食をして祈り、とありますから、断食というものをしてから祈ったとも読めますが、聖書の元の言葉で確認しても、断食をする、つまり祈った、と読めるのです。

 断食をするというのは、目に見える活動の一つです。能動的な信仰生活と言ってもいいかもしれません。祈る、または礼拝するというのは、このような、能動的な活動とは少し違います。祈りや礼拝を活動であると言い切るのは少し違和感があります。受動的な信仰生活、と言えばいいのでしょうか。今日の箇所で重要なのは、信仰生活の能動的な部分と受動的な部分が、主イエス・キリスト共にある精神、短くいうならば祈りの精神によって結びつけられた、一つのものとして営まれている、ということです。

 具体的に断食をすることだってあって良いかもしれません。目をつぶって祈ることも、一日の中で何回かはやはり必要です。しかしそれ以上に、日常生活を祈りの精神の元で送っているかどうかが、やはり決定的に重要なのです。

 よく自然災害が起きたときなどに、キリスト者は何をすべきかということが議論されます。市民の一人として、一人でも多くの人を助けないといけない。現場に行って、沢山働くべきだ。いやいや、キリスト者にしか出来ない働きというものがあるはずだ。それは祈ることだ。浮き足だって現場のボランティアたちの足を引っ張ってはいけない。慣れていない私たちは、部屋に閉じこもって祈ることによって現地の人々のために祈ろう。それらは、片方だけ行っていてはキリスト者としてはやはり不足していると思います。大事なのは、その両者がどのように祈りの精神の元に結びつけられているか、なのです。


*アンティオキア教会から何を学ぶか

 今日の箇所に出て参りますアンティオキア教会はまた、多くの教会を各地に生み出す異邦人伝道を手がけた教会としても有名です。パウロはアンティオキア教会から派遣された伝道者です。このアンティオキア教会から私たちが何かを学ぶとしたら、それは一体なんでしょうか。かつて松本廣牧師が、伊東教会は伊豆のアンティオキア教会であると語ったときに、それは何を意味していたことになるのでしょうか。この牧師が、絶えず祈りなさいというパウロの言葉を愛唱聖句としながら盛んに伝道をしていたときに、私たちはしばしば祈りの成果である伝道活動にばかり目がいってしまって、「絶えず祈りなさい」、つまりすべての生活が祈りの精神の元で営まれるべきである、ということを忘れてしまいがちです。

 今日の聖書箇所に登場するアンティオキア教会に連なる者たちは祈りに専念する中で、一つの幻を示されかけています。それは、異邦人伝道の幻です。実際の伝道はパウロによるところが大きかったのですが、このアンティオキアにおいて、異邦人伝道の重要性を十分に共有していたからこそ、パウロは祈りに支えられて実際に伝道をすることが出来ました。異邦人伝道の重要性。その反対の考え方もあり得たということです。例えばこうです。エルサレムだけが聖なる教会なのではないか、あるいはアンティオキア教会だけが聖なる教会なのではないか、というのが反対の考え方ということになります。異邦人伝道というのは、そこからの打破が意味されています。聖なる祈りの生活は、そこかしこにある。特定の場所に区切られていない、聖なる祈りの生活の輸出があっていいのではないか。丁度ルターが、修道院の中だけが、教会の中だけが聖なる生活であるという考え方を打ち破って、家庭にも、あるいは日常生活にも聖なる生活を見出して宗教改革を始めたことと重なります。外に出て行く伝道、という事になるでしょうか。

 一方で、アンティオキア教会の特長は、異邦人伝道ばかりではありません。むしろもっと重要な特徴があるのです。もしアンティオキア教会といって、そこかしこに伝道をしたということばかりを強調していては、アンティオキア教会の本質を見逃していることにもなりかねません。アンティオキア教会の本質、それは絶えず祈り続ける教会であった、ということです。あるいはその言い方が誤解を招くならば、目をつぶって部屋にこもっている間だけ祈っているということだという誤解を打破して、眼を開けて外にいるときにもまた祈りの精神を保ち続けている、その意味での祈り続ける教会であった、ということです。

 現在の日本基督教団の様子を見るに、「外に打って出る伝道」ということだけを強調し続けることの危うさを感じています。いつの間にか伝道についての考え方が量的な成長に偏りすぎて、数が増えることでしか伝道が進んだということを理解出来なくなる誤りに陥っているのではないかと思わされるのです。世界中すべての教会がどの時代においても量的に成長しているわけではありません。しかし、右肩上がりの一本調子で教会が成長できない時にも、すべての生活を祈りのもとでという風に、祈りの精神を深める教会と、それが出来ずにただ成長しないことを嘆いている教会は、その後の歩みにおいて大きな違いが出来ることは言うまでもありません。今の日本基督教団は、この時代にふさわしい成長の機会を今与えられています。祈りの精神を回復し、能動的な信仰生活と受動的な信仰生活をまとめ上げる仕方をもっと習得することで、本当の意味でのアンティオキア教会になっていく段階に達しているように思います。



*サラミスにて

 祈りを深め、祈りへと専心していく教会は、どのような伝道状況に直面することになるのでしょうか。彼らが派遣した伝道者が遭遇した最初の舞台に目を向けましょう。クレタ島のサラミスという場所です。ここには魔術師でもあるような偽預言者がいたそうです。その地域の政治的権力者である総督を取り込み、信頼を取り付けることにかなり成功していました。そこにバルナバとサウロがやって来ました。総督は、完全にこの魔術師に取り込まれているわけではありませんから、神様について語るという二人からも話を聞きたいと、彼らに会えるよう手配をしておりました。そうしたところ、この偽預言者は総督に何やら耳打ちするのです。二人を総督から遠ざけるように、全力で企みを図るのです。

 この「偽預言者」という言葉には、単に「キリスト教の真理を語らない者」という意味だけではなく、「ずるい者」というニュアンスがあるようです。その人がわざわざ偽預言者と呼ばれる場合には理由があるのです。それは、他人に信仰を持つことを勧めている一方で、自分の稼ぎも狙っている、つまり他人への伝道と自分の利益の一石二鳥を狙っている場合にそう呼ばれるようです。ここでは、総督を信仰に導きたいということについては彼なりに真剣に考えていた。しかし他方で、そのことによって自分の稼ぎも確保できる、という計算があった。そこにバルナバとサウロがやって来た。そして総督の信仰と自分の利益という一石二鳥の計算を崩されかけている。それは困るからと言って、総督に何やら耳打ちをして彼らを総督から引き離そうとしたのです。

 そうすると、真の預言者であるバルナバとサウロは黙っているわけには行きません。ここで、彼らはどのような態度でこの事態に臨んだのでしょうか。サウロが語った言葉を要約すると、こういうことではないでしょうか。一石二鳥というのは、まやかしだ。本当に大事なのは、総督の信仰とあなたの信仰なのではないか。それなのに、あなたは信仰ではなくて利益を問題にしているがゆえに、「二羽の鳥」を問題にしてしまっている。一石二鳥ではなくて、本当は一石一鳥なのだ、私が語る聖書の言葉は、たった一つの石で、一匹の鳥だけを狙うことが出来る。それは彼とあなたと私の信仰のことだ、というわけです。

 その言葉を聞いて信仰に入ったのは総督であった、と聖書は記します。しかし思うのです。やがてその次に信仰に入ったのは、このかつて偽預言者と呼ばれたバルイエスなのではないか、と。

 彼は祈りの精神の元ですべてのことをまとめ直すということをせずに、総督の信仰、自分の利益という風にバラバラに考えてしまっていた。そのような彼に対してサウロは、「お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」と語りました。これは一体何を意味しているのでしょうか。一種の審きの言葉のように取ることが出来ます。つまり、他人の信仰と自分の利益、二兎を追う者は一兎をも得る態度は、報いを受ける、それは視力を失うということだ、というわけです。しかし同時に、もう一つの解釈の可能性もあるのではないでしょうか。それは、日の光を見るというような、日常的な出来事にもう一度喜びを見出すことによって、かのバルイエスは本当の信仰に立ち戻ることが出来る、という解釈です。

 この魔術師がその後もう一度視力を取り戻し日の光を見ることが出来るようになったのかについて、聖書は残念ながら語っていません。しかし私たちが、あああの魔術師は日の光を見ることが出来なくなって残念だった、それに比べて私たちはそれを見ることが出来ている、といって話をおしまいにしてしまうのであれば、私たちはこの箇所を本当の意味では理解していないことになるのではないでしょうか。ここで問われているのは、一人の信仰者として、バルイエスが、あるいは私たちが、日の光を見る生活をも祈りの際に感謝のテーマとすることが出来ているか、ということなのではないでしょうか。日の光は強いものであるにも関わらず、私たちはそれが当たり前すぎて太陽を神様が与えて下さったことに感謝をすることは普通ないのかもしれません。しかし、もし断食をするような思いで主イエス・キリストへの思いを集中したときに、日の光もまた感謝の祈りのテーマにすることが出来るのではないでしょうか。そのようにして、私たちは祈りの精神をさらに一段と深めることができるのではないでしょうか。


 教会はアドヴェント第三主日を迎えました。伝統的に、洗礼者ヨハネを覚え、この期間が悔い改めの期間でもあることを思い起こす日です。悔い改めとは、バラバラになってしまう私たちの心が、祈りの精神によって一つとされ、日の出を仰ぐようにして、ゆっくりと訪れる真の光を請い求める、喜びのわざであることを覚えます。