祈り、祈られる者となる

22/11/27 待降節第一主日礼拝

創世記19129 「祈り、祈られる者となる」  牧師 上田文


永井隆(ながいたかし)さんという人がいます。この人は、長崎で医者をしている時に原爆に会い、後に「この子を残して」や「長崎の鐘」といった多くの書物を書いています。永井さんは、医者であると同時にカトリックの信者でした。そのため、1945年11月に浦上教会(うらがみきょうかい)で行われた、原爆のために無くなった方々の合同慰霊祭で、原爆被災者の信徒代表としてこのような弔辞(ちょうじ)をされています。「昭和20年8月9日午前11時2分、一発の原爆が浦上に爆裂しカトリック信者八千人の霊魂は一瞬にして天主のみてに召された。原爆は、軍需工場(ぐんじゅこうじょう)を狙ったのがずれて天主堂を直撃したのである。このことは、神の摂理であったと解釈されなくもない。終戦と浦上壊滅(かいめつ)とには深い関係がありはしないか。世界大戦という人類の罪悪の償(つぐな)いが日本唯一の聖地浦上が犠牲になり祭壇に屠(ほふ)られ燃やされるべき清き羊として選ばれたのではないだろうか。敗戦を知らずに世を去りし人の幸せよ。清き羊として神のみ旨にやすらう霊魂の幸せよ。それに比べて生き残った私たちのみじめさ。なぜ一緒に死ななかったのか。なぜこのみじめな生活をしなければならならないのか。私たちは罪人だからでした。

余(あまり)にも罪の汚れの多き者のみが、神の祭壇に供(そな)えられる資格がないため、選び残されたのだ。主与え給い、主取り給う。主のみなは讃美せられよかし。この尊い犠牲によって世界に平和が再来したことを感謝します。」

 私は、この弔辞を読んだ時、不思議な気分になりました。なぜなら、この弔辞はさまざまな意味で批判をされる所があるように思ったからです。実際に、この弔辞に対して、国に対する戦争責任への問いから目をそらせているという批判が成されています。しかし、この弔辞を信仰の言葉として聞いたらどうなるでしょうか。この弔辞を共に聞いた信徒たちは、生きて行く勇気を与えられたと思うのです。この弔辞には「自分たちは、原爆の中から救い出された。罪によって死ぬべき命を生かされた。そのことを大切に生きなさい。生死の境をくぐりぬけて、新たな命を与えられた者として、神さまと共に積極的に生き続けなさい」というメッセージが入っていると感じるのです。

 この永井さんの弔辞は、今を生きる私たち信仰者にも力を与え続けるメッセージであると思います。私たちは、家族や地域の人たちに信仰の言葉を話そうとするとき、言葉が詰まってしまう事があるように思います。なぜなら、永井隆さんの弔辞に対する批判のように、信仰の言葉は、その信仰を持つ人にしか分からない事があるからです。しかし、私たちは、教会で交わす言葉も、地域や家族と交わす言葉も同じでありたいと願います。日常において、すべての人たちに通じる言葉の、その根源に神さまの言葉があるような、そのような言葉を語りたいと思っています。永井隆さんの弔辞は、そのことにチャレンジする弔辞であるようにも思います。

今日の聖書箇所には、アブラハムの執り成しの祈りによってロトが救出された物語が書かれています。アブラハムは「信仰の父」とよばれる人物です。このアブラハムは、日常においてどのような言葉を交わしていたのでしょうか。そのことを見て行きたいと思います。


 今日の話には、ロトという人が出てきます。彼は、アブラハムの甥です。幼いころに父親を亡くして、それ以後、彼はアブラハム夫婦の許で育てられました。そのため、彼は、神さまへの信仰に生きようとするアブラハムを間近で見て生活していたのでした。

 しかし、アブラハムとの生活も長くなり、ロトも成長し自らの羊の群れを持ち始めた頃、彼らの群れは益々繁栄して大きくなり、ついに共通の井戸では水が賄えなくなりました。そのため、それぞれの羊飼いたちが争いを始めるようになりました。 そこでアブラハムは、「親類同士が争うのはやめよう。土地はいくらでもあるのだから、ここで別れようではないか。あなたが好きな土地に行けば、私はそれとは別の所に行く」と提案します(13章)。ロトは、より豊かで潤っているヨルダン川流域の低地を選び、そこの町であるソドムに移り住みました。そして、そこに定住し結婚し子どもも設けて、町の生活を始めました。ロトが暮らしはじめたソドムの町は、古代から鉱石や岩塩、またアスファルトのとれる豊かな町でした。そのため、町の権益を巡って戦争が起こったりもしました。創世記の十四章には、この町を巡って戦争が起き、ロトが財産もろとも連れ去られ、アブラハムがこの町の人とロトを救い出した事が記されています。財産もろとも連れ去られるほどに、ロトは財産を持ち、町に溶け込んでいたことが分かります。そして、町に溶け込めば溶け込むほど、アブラハムと暮らした、神さまの示されるままに歩き続ける遊牧生活を忘れたのでした。

 

そのようなロトの姿を今日の聖書箇所は「ロトはソドムの門の所に座っていた」(19:1)と表しています。旧約聖書の時代、町の門の所には広場があり、そこに町の長老たちが座っていて、大切な事を決めたり、裁判をしたりしていました。ロトがソドムの町の門に座っていたということは、彼が町の長老たちの一人だったということでしょう。しかし、このような事も書かれています。9節です。「男たちは口々に言った『そこをどけ。』『こいつは、よそ者のくせに、指図などして』」。ロトは自分が町に溶け込んでいると思っていたかもしれませんが、町の人々は、彼をよそ者だと思っていたのです。彼はとても中途半端な状態で暮らしていた事が分かります。また、よそ者だと思われている彼がなぜ町の長老となれたのかとも思います。それは、町の人々がロトではなくアブラハムを見ていたからでした。先ほど、アブラハムは戦争から町の人々を救い出したと話しましたが、町の人々は、そのアブラハムの身内であるロトを長老にしておけば、また何かあった時に、助けてもらえると考えたのでした。つまり、ロトは持っている財産も、社会的地位も、そして信仰まで、アブラハムのものを与えられながら、それを自らの力に出来ないような、とても中途半端な生き方をしていたのでした。

しかし、私たちはロトの姿から自らのを振り返る事ができます。与えられた物を生かすことが出来ない、神さまに救いの言葉を与えられているのに、その言葉を話そうとすると何故か口が上手く動かない。なぜか、言葉を交わす相手に信仰の心を閉ざしてしまう、そのような事が私たちにはあると思います。神さまに新しい命を与えられたのにその命を中途半端に生きている、ロトの姿は私たちの姿でもあるのです。


 そのようなロトが、旅人を忠実にもてなします。彼は、「立ち上がって迎え、地にひれ伏した」(1)とあります。そして言います。「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊り下さい。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください」(2)。この客人の迎え方は、小さい時から見て、知らないうちに身に着けていたアブラハムの客人の迎え方、遊牧民の客人の迎え方です。けれども、客を迎え入れるロトの言葉には、彼がこの町に住みつきながら、この町をどのように見ていたのかという事が現れています。「明日の朝早く起きて出立なさってください」というロトの言葉には、この町の治安は良くないので、外で夜を過ごすと悪い事が起きる。今晩は泊めてあげるので、良くない事が起こる前に早く旅立ちなさいという事が含まれています。ロトは、ソドムの町の財産的な豊かさに魅力を感じ、この町に定住していました。しかし彼は、この町に住む人々が良い生き方をしているとは思っていなかったのでした。けれども、彼はその事に気づきながら何もしないで生き続けていたのでした。「今晩は泊めてあげるけれども、明日早くにこの町から出て行きなさい」というロトの言葉は、町の人々に変化を与える言葉ではありません。むしろ、内側にこもって被害に遭わないように身を隠すような言葉のように思います。しかし、このロトの行為によって、ソドムの町の罪がはっきりと浮かび上がることになりました。


 二人のみ使いの到着はすぐに町に伝わり、その夜「まだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年よりもこぞって押しかけ、家を取り囲んでわめきたてた」のです。彼らは、「今夜、お前の所へ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしやるから」と言いました。この「なぶりものにする」というのは、性的な暴行を加えるということです。つまり、男たちが男に対して集団で性的な暴行を加えるということが、このソドムの町の慣わしだったのです。これに対してロトはどうしたでしょうか。彼は、二人の客を何とか守ろうとしました。しかし、そのために7,8節にあるように、まだ嫁いでいない二人の娘を彼らに差し出し、好きなようにさせようとします。けれども、これもまたソドムの罪の問題を根本的に解決することには全く繋がらない行為です。町の人々が神さまを知り、今までとは違う新しい生活を始めることが出来るような事には繋がらない行為です。ロトの客人を守る方法は、罪に罪を重ねさせるような方法なのでした。信仰を生きる事をせず、この世の中に浸かって生活している。けれども心のどこかで、アブラハムと共に過ごした時の信仰生活を忘れないで生きている。客人を守り、二人の娘を差し出そうとしたロトの行為にもまた、かれの中途半端さが現れているのです。彼のこの姿もまた、神さまの言葉を知らないこの世界で、その罪をどうすることも出来ず、だまって見てしまったり、おろおろしてしまったりする、私たちの姿のように思います。


 戸を破って乱入しようとしたソドムの人々から、ロトの家族を救ったのは、二人のみ使いでした。無力な客人だと思われていた二人のみ使いが「手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、戸口の前にいる男たちに、老若を問わず、目つぶしを食らわせ、戸口を分からなくした」(10)とあります。ロトの弱さが露わになったまさにそこで、神さまが御業を行ってくださったのでした。しかし、このことによって、ソドムの罪は神さまの前に決定的なものとなったのでした。ロトは、この時初めてこの客人たちがただの人ではないという事を知ります。ロトが神さまのみ使いを知ったのとほぼ同時に、み使いたちはロトに向かって言います。「ほかに、あなたの身内がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい。実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです」(12,13)

み使いは、「あなたの身内がこの町にいますか」と聞きました。この「身内」(イディオン・イディオム)という言葉は、その集団だけに通じる仲間言葉をもつ人々、つまり同じ言葉を使う人々を意味するそうです。神さまは、滅びの中からロトとその家族、つまり同じ言葉を使う人々を救い出そうとしてくださったのでした。しかし、ロトの家族たちは、神さまが町を滅ばされると言うロトの言葉を「冗談だ」と思ったのでした(14)。なぜなら、それまでのロトは神さまを信じ、神さまに従い、祈り、神さまを証する生活をしていません。そのため、子どもたちも、その伴侶たちも、ロトが急に来て「神さまがこの町を滅ぼされるのだ!早く逃げなさい!」と言ったところで、「冗談だ」と思うのは当然なのでした。神さまを証してこなかったロトにとって、同じ言葉を話す身内とは、神さまの言葉を語らない、祈りの言葉を知らない、神さまを知らない身内となっていたのでした。そして、「早く逃げなさい!」という神さまの言葉は、この身内には、全く通じない言葉になってしまったのでした。


 この世の言葉を語る事によって、神さまを知らないこの世の人たちに身内として受け入れられるという事が、私たちの経験にもあるのではないでしょうか。また、信仰を語り、神の言葉を語る事によって、この世に属する人たちと身内でなくなってしまうという経験もあるように思います。ロトも同じだったのだと思います。同じ言葉を話す身内が欲しい、身内がいるから安心できる。この安心感を求めた結果、ロトは神の言葉を語らない人々に属して、その人たちと同じ言葉を話し、身内を作っていったのだと思います。ロトと私たちの優柔不断で中途半端な信仰がここにもまた現れているのです。そして、この信仰のあり方が、ロト本人だけでなく、家族の生死にも関わってくるのだと、み使いたちは教えてくれるのです。


 自分の信仰のあり方が、家族の生死をも分けてしまう。このような現実を目の前にしたロトを、み使いたちはせきたてます。「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町にくだる罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう」(15)。しかし、ロトはこの後に及んで、まだためらうのです。神さまが与えてくださった救いの道を歩むことをためらうのです。しかし、神さまは、そのような中途半端な信仰を持つロトを豊な憐れみを持って救ってくださいます。聖書には、ためらうロトを「主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた」(16)とあります。神さまは、ためらうロトのとその妻、そしてまだ嫁いでいない二人の娘の手を取って、救い出してくださるのです。神さま自らが、中途半端の信仰により、神さまの導きの中を歩めない私たちの手をひいて、救いの中に入れてくださるのです。私たちは、このような神さまによって命を頂いています。主の方から私たちに歩み寄って来て下さり、私たちを教会の交わりの中に入れてくださった。神さまが私たちを引き寄せてくださり、祈り、神の言葉を語る身内としてくださった。そういう救いの経験が私たちにはあると思います。私たちは、この神さまの御業を思う時、感謝せずにはいられなくなります。

その私たちを救い出してくださる神さまが、言われるのです。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはならない」(17)。「命がけで逃れよ」というのは、「あなたの命のために逃げよ」と訳される言葉です。神さまによって救い出された命のために逃げよ。神さまによって新しく与えられた命を大切にするために逃げなさい。そして、生きなさいというふうに聞こえる言葉です。神さまの憐れみによって救いへの道へ押し出された私たちは、命がけでこの命を生きなければならないのです。後ろを振り返らず、止まることなく、神さまの示してくださるビジョンに向けて走り続けなければならないのです。

 

 神さまは、ロトが逃げたのを見届けて、「天から硫黄の火を振らせて、これらの町と低地一体を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼされ」ました(24)。わたしたちは、この事だけを見る時、なぜソドムは滅ぼされてしまったのかを知ろうとするように思います。神さまが行われた罰の原因を知ろうとし、またその罰は正しかったのか、間違っていたのかを判断しようとするのです。しかし、神さまの裁きは神さまの熱心な憐れみによる救いの中で行われているということを私たちは見つめなければなりません。神さまは、私たちの罪を決して放ってはおかれません。そうしておくと、私たちは死んでしまうからです。ソドムの罪は、男たちが旅人に性的な集団暴行を加えるという罪であった事が、前に記されていました。これは、罪の一つの現れですが、この行為は神さまが与えて下さった命を破壊する行為であると言えます。隣人を破壊し、そして自らをも破壊していく行為です。神さまは、だれよりも人間を大切にしてくださいました。だからこそ、人間が人間を破壊し、自分自身をも破壊していくことをお赦しに成らなかったのです。ソドムの滅びは、私たち人間が隣人と自らの命を破壊していく事を悲しまれた神さまの憐れみによる救いであったと見る事ができます。この救いが決定的に起こったのが、イエスさまの十字架です。十字架において、人間の罪に対する神さまの厳しい裁きが行われました。神さまに逆らい、神さまをも隣人をも、そして自らをも憎んでしまう罪人である私たちは、この十字架に架けられて裁きを受けなければならない者です。しかし、神さまは、その裁きを、私たちにではなく、神の独り子であるイエスさまに下したのでした。イエスさまが、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかってくださったのです。そこに神さまの私たちへの憐れみがあります。この神さまの救いによって、私たちは今、神さまの民として新しく生かされています。


 今日の聖書箇所の最後にはこのように書かれています。「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」(29)。ロトが破滅のただ中から救い出されたのは、神さまがアブラハムを御心に留めてくださったからだと聖書は教えてくれます。なぜ神さまはアブラハムを御心に留めてくださったのかというと、それは、アブラハムが執り成しの祈りをしていたからです。18章において、神さまは、十人の正しい者がいればソドムを滅ぼさないとアブラハムに約束してくださいました。神さまは、アブラハムの執り成しを聞いて下さったのです。では、救い出されたロトは正しい者だったのでしょうか。そうとは思えません。彼は、隣人を破滅に追い込むソドムの町に混じろうとしていました。ソドムの町の人々と同じ言葉を話し、祈り信仰を証する言葉、神の言葉を話そうとはしませんでした。彼もまた、ソドムの町の人と一緒に滅ぼされる対象となっていたように思います。しかし、ロトは彼自身が知らないうちに、正しい人であり、後に「信仰の父」と呼ばれるようになるアブラハムと同じ言葉を話す、アブラハムの身内とされていたのでした。アブラハムの言葉の根源には、神の言葉があったのかもしれません。そのため、アブラハムと会話をする人々は、自然に神の言葉を耳にし、神の言葉を知っている人となっていったのでした。だからでしょうか、アブラハムといつも言葉を交わしていたロトは、自然にアブラハムと同じ言葉、つまりその根源に神のさまの言葉があるような言葉を話すようになっていました。それは、今日の聖書箇所の冒頭でロトが言った言葉に現れています。「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊り下さい」。見知らぬ隣人を破滅させるのではなく、隣人の命を救う神さまの言葉をロトはアブラハムによって教えられていたのでした。アブラハムと同じ言葉を話す、神の民である身内として、ロトは神さまの救いに与る者とされたのでした。アブラハムの執り成しとは、日常において神さまの言葉が通じる身内を作るための祈りの作業なのでした。

 

そして私たちも、またこの執り成しによって救われています。私たちのために神さまに執り成してくださるのは、ロトの子孫としてエッサイの根からお生まれになった主イエス・キリストです。このことは、私たち人間にとって大きな喜びです。なぜなら、ロトの子孫として生まれてくださったイエスさまは、優柔不断で中途半端な生き方しかできない私たちの弱さを知ってくださる方として、この世に生まれて下さったからです。イエスさまは、この私たちの弱さと罪をすべて背負って十字架によって死なれ、復活して私たちの罪を贖い、私たちを神さまの恵みの中で、新しく生きる者としてくださいました。そして、今もイエスさまは、神さまと私たちの仲立ちをしてくださり、また私たちの分かる言葉によって、神さまの言葉を聞かせてくださいます。このことによって、イエスさまが私たちの執り成しをしてくださっているのです。このイエスさまの執り成しによって、私たちの信仰の歩みは守られ、支えられているのです。そのことを感謝し、私たちもまた隣人の救いのために、真の執り成しをするものとなりたいのです。私たちが話す日常の言葉の根源が神の言葉でありたいと願うのです。そのために、祈り続けたいと思うのです。そして、その言葉によって、隣人を神さまと私たち信仰者の身内にしていきたいのです。アブラハムがロトのために執り成しをし、そのアブラハムの執り成しに神さまが御心を留めて下さったように、神さまは私たちが執り成しをする人を、破滅から救い出してくださいます。


 私たちはの命は、破滅のただ中から救い出された命でした。この命に対して神さまのみ使いは「あなたの命のために逃げよ」「あなたの命を生かしなさい」と、私たちに叫び続けています。救い出された命を生きる私たちは、イエスさまと、イエスさまに教えていただいた神のみ言葉を語る身内に祈られながら、日常の言葉として神さまが教えてくださった言葉を祈り、語るものとなりたいのです。私たちの語る祈りと証しの言葉は、本当につたない言葉ですが、このような執り成しの言葉が日常の言葉となるまで私たちが語り続ける時、私たちを含めた、全ての人間が神さまの言葉を語る神さまの身内となり、神の国を待ち望む者とされます。私たちは、そのようにして御国を目指して、神さまに助けられた命を生かしたいのです。