荒れ野へと脱出する民

2022/05/01 復活節第二主日聖餐礼拝 

「荒れ野へと脱出する民」(使徒言行録説教第20) 717-37 

牧師 上田彰


 *「荒れ野」について

 「荒れ野」と聞くと、どういうものを想像するでしょうか。石が転がる荒涼とした大地を想像することも出来るに違いありません。そこに住む人々の様子に思いを向けてみるのも面白いかも知れません。ドイツ時代の友人で、最近久しぶりにコンタクトを取ったルーマニア人がいます。彼は荒れ野で3世紀に修行をした修道士(「砂漠の師父」と呼ばれる)に関心を持ち、その研究をしていました。その研究はドイツで認められ、大学で教授として教える資格を得ました。社会的に認められるエリート中のエリートコースに間違いなくいた彼は、私と学生寮で一緒に住んでいた時によく口にしていた希望通りの道を、その後進むことになります。それは修道院に入り、修道士として一生を過ごすという道です。恐らくそう聞けば、ほとんどの人が「なんで、もったいない!」というに違いないようなことを平然と(少なくとも見た目は)やってのける友人でした。

 修道院に入ることを志願するというのは、恐らく二通りの志があって、一つは修道院に入って、一時的には苦労するけれどもその後豊かな生活や政治的権力を持つことを目指す、という志と、もう一つが一生禁欲的な生活をしたいといって、文字通り荒れ野に生きるような生活をするという志です。修道院を持たないプロテスタントにおいて、どういうことが起こるでしょうか。私たちの教会は、修道院を持たないタイプの教会です。日本基督教団の牧師になる場合、総合大学の神学部で学んで牧師になることも出来ます。極端なケースですが、神学部を卒業して伝道師になるまで、教会生活をきちんと送っていない人というのも中にはいるようです。総合大学神学部で学ぶ以外に、区別をして「神学校」で学ぶという道もあります。東京神学大学は、制度上は単科大学神学部ですが、意識でいうと、「神学校」という響きが似合う学び舎です。ICUの敷地の一部を譲ってもらう形で作られた東京神学大学は、裏の出口を出て森のような道を抜けると、ICUのキャンパスに出ます。その道はICUの側か 右下の写真が「出家の道」

らは「出家の道」と呼ばれています。


 私はドイツで東京神学大学について紹介する時に、「修道院のような神学大学」という風に説明をすることがありました。帰国後に東神大の学長である芳賀先生と雑談でそのことを話したら、少し苦笑いを浮かべ、「うーん、修道院か。むしろ地域に根ざしてそこに教会を建てるということを目指すわけだから、修道院のように閉じこもっていてはいけないのだけれど」と言っておられました。昨日教会役員会で、将来の建て替えの議論の際に旧会堂、1990年までこの地に建っていたヴォーリスによって設計された礼拝堂についての話題になりました。その中にあったご発言で、こういうものがありました。「小さい頃から教会の前は良く通っていた。しかし教会に通うようになるのは多少大きくなってからで、小さい頃はそこが聖なる場所だということだけ知っていた」。神秘的なところだというのです。現在私たちの教会は一方で、中が見える、クリスマスの時期には夕方に礼拝堂のツリーの灯りが町行く人の心を温かくするようなものでありたいと願っています。コロナのこともありますが、ドアを開放して礼拝を守ることに意味があると思っています。教会は地域に根ざすものとして開放されていなければなりません。しかしそのことは、教会が神秘的な性格であることを失うことにはならないはずです。

 そのような、信仰共同体が持つ神秘的な性格を聖書の中の言葉で言い表す場合、「荒れ野」という言葉に突き当たります。「荒れ野」というのは、神様がおられるところ、という意味があります。モーセが十戒を神様からいただくシナイ山も、荒れ野にそびえ立つ山です。普通に考えたら、「教会が荒れ野である」というのはおかしな言い方に聞こえるかも知れません。一般的な感覚でいえば、教会を荒れ野というよりは、せめて荒れ野の中のオアシスぐらいであってほしい、と思うところです。しかし、教会が荒れ野の中にある、あるいは荒れ野そのものである、ということは、しばしば教会のあり方として私たちの背筋をただすような意味合いで用いられます。有名なのがクリスマスの讃美歌106番です。この讃美歌は元はフランス語で、そこでは「牧場に天使が」という歌なのですが、日本では「野辺」または「荒れ野」というように、人里離れたところというニュアンスになります。

 人によって何が荒れ野にあたるかというのは違っていて、ある人にとっては文字通り砂漠のような人里離れた場所が荒れ野である場合もあれば、例えば人混みが苦手な人にとって、都会が逆に荒れ野だということだってあるに違いありません。そしてどんな人にとっても、つまりやがては富と権力を手にしたいと願う場合であっても、そして普通に人並みに生活が出来ればよいと願う場合であっても、あるいは祈りに専念するために荒れ野に暮らし続けたいと願う場合であっても、荒れ野に住む期間というのが人生の中に必ず必要であるような気がしています。イエス様ご自身、宣教の生活に入る前に荒れ野にいて悪魔の誘惑を受けました。


 *ステファノにとってのモーセ

 執事ステファノの説教を何回かに分けて聞いています。旧約聖書を説き起こすことを得意としていたようです。私たち自身が、旧約聖書の物語を思い出しながら、ステファノが命を懸けて語った最後の説教に耳を傾けたいと思います。今日はモーセの話の前半です。アブラハム、モーセ、ダビデと語る中で、モーセに力が入っています。ステファノの説教の中に、ギリシャ語訳の旧約聖書のそのまま引き写しの表現がありますので、恐らく彼自身聖書に触れることが出来た可能性があります。印刷された聖書がない時代、聖書に触れることが出来るのは特別の立場の者だけでした。例えば修道院に入れば筆写された聖書を読むことが出来ます。ペトロが説教で引用するのが詩編だけであるのに対して、ステファノは旧約聖書に触れる機会が、もっとあったのでしょう。聖書に出てくる表現をそのまま引用できるほどに聖書に親しんでいる様子が分かります。

 その一方で、今日と次回に扱いますモーセの生涯が、聖書を追っていきますと部分的に大雑把で不正確であることに気づかされます。つまり出エジプト記に出てくるモーセについての資料を手元に置きながら、ステファノが語るモーセについて見ていくことで、彼が伝え聞き、また自身憧れるモーセとは何者であるかが分かります。 いつものモー

  セと少し違う

 一つ勝手な憶測を先に申し上げますと、ステファノは自分自身の生涯とモーセを重ね合わせるような意図があったのではないか、ということを、調べていく過程で思いました。例えば、20節ではモーセは生まれたばかりの時に、三ヶ月は父の家で育てられた、とあります。しかし出エジプト記には「父の家で」という表現はありません。何らかの理由でステファノはモーセが父の家で最初育ったということを強調したかったのでしょう。それに対して出エジプト記が関心を持つのは、モーセを育てた母親は誰か、ということです。つまり、赤ん坊であったモーセを隠しきれなくなって、籠に入れてナイル川に浮かべておいたところ、それが葦に引っかかってエジプトの王女に拾われ、その世話役としてモーセの実の母親が選ばれるのです。旧約聖書自身は明らかに母親のことを中心に語られているのが、ステファノの語りでは「父」が強調されます。結局はっきりした理由は分かりませんでしたが、何かあるな、ということをうかがわせます。同じように、29節ではモーセの子どもは男の子が二人だと書かれていますが、出エジプト記では男の子は一人だとなっています。

 謎を残したまま話の筋に戻しますと、ステファノのモーセは、十戒を神様からいただく様子がほとんど記されていません。モーセの生涯を語る時に律法に関する記述がほとんど無いということは、注目に値します。さらに、今日の箇所で23節の言葉は旧約聖書には全く出てきません。ステファノが考えるモーセ像を読み解くのに重要な箇所であることがうかがわれます。こうです。「四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました」。40歳という言葉も、助けようと思い立った、という表現も、出エジプト記には出てこないのです。こういう推測はなり立つと思います。それは、120年の生涯を三つに分けて、最初の四十年が経ち、自分自身はイスラエル人としては例外的にエジプトの教育を受けて豊かな生活を送っていたが、それをかなぐり捨てて、イスラエルの同胞を救おうと思いたった。しかしそういう思いの中にある傲慢な部分がイスラエル人には受け入れられず、失意のままにさらに40年を過ごす羽目になった。そしてその後80歳になってから神様に用いられ、本当の意味で同胞を救うわざに、つまりエジプト脱出に赴くことになる、そして40年経ち、カナンの地を目前にして召される。ステファノ自身がそのようにモーセの生涯をまとめ、指導者として活躍したのが最後の40年で、一生が120年であったということも分かっているので、あとは最初の80年を二つに分けた、ということです。

 死を目前にしているステファノ自身が、自分の生涯を三つに分けて考えていると考えていた可能性もあるのではないでしょうか。恐らく彼が殉教を遂げる際の年齢は40才以下です。従ってきれいに三等分をして人生を整理することは出来ないかも知れません。しかし大雑把にいって、教会を知らなかった第一期、教会にかかわるようになった第二期、執事としてキリストと教会に仕えるようになった第三期、ということは言えるかもしれません。そして自分の人生とモーセの人生を重ね合わせようとしていた、という訳です。

 私たちの人生でいえば、人生を三つに分けるとしたらどうなるでしょう。まずはステファノの計算に習って、三等分してみます。現在、世界全体の平均寿命は73歳だそうです。それに合わせてステファノが語るモーセの生涯を再現すると、こうなります。24歳を過ぎたところで他人の役に立ちたいと志す。ところがその思いは人々に受け入れられない。失意のままに荒れ野に出ざるをえなくなった。ここまでが第一期です。そしてそこで身を隠していて、ひっそりと家庭をもうけ、一人か二人の子どもを育てる。これがモーセの第二期ということになります。そして50歳手前の頃にシナイ山のそばに行ったところ、燃える柴のところで神様に出会い、残り20年余りの人生を本当の意味で他人のために用いる第三期に突入する。


 *荒れ野で主に出会うまで

 モーセの場合に、なぜ第二期は必要だったのでしょうか。一番青春に燃え知恵と体力が盛んな時に、かれは用いられることがないのです。ふりかえってみるとこのようなことになります。第一期の終わりの時期、自分の同胞であるイスラエル人が支配民族であるエジプト人にいじめられているのを見かけ、義憤に駆られてエジプト人に手をあげてあやめてしまう。モーセには余り罪の意識はなく、むしろ正しいことをしたというつもりでいた。そのようなわざを通じて、自分はイスラエル人の味方だということを分かってもらえるはずだという思い込みがあった。ところが、支配される立場であるイスラエル人には、モーセは同じ民族とは言え支配者層に属する、向こう側の人間だった。

 誤解が明らかになるのは翌日です。モーセは今度はイスラエル人同士で喧嘩をしているのを見た。そこで、自分の仲間意識で仲裁が可能なはずだ、そう思って介入していったところ、一歩後ずさりをされてしまう。あなたは裁判官なのか、私たちのことも殺そうとするのか、吐き捨てるように言われてしまうのです。このことをきっかけにモーセは荒れ野に逃げ込むのです。そのことについて語るステファノ自身が衝撃を受けている様子がうかがえます。というのは、出エジプト記では、荒れ野に逃げ込む理由は、誰も見ていないことを確認して人を殺したのに、それがイスラエルの人々にばれていた。それなら、自分を逮捕できる立場にあるエジプト人にばれていても不思議はない。そういって、ファラオから逃れるために荒れ野に逃げ込んだことになっているのです。それに対して、ステファノの説教では、そうは書いていません。自分はイスラエル人の仲間だと思ってもらえているつもりでいたのに、後ずさりされていた。自分は救う仲間としては受け入れられていないことに気づき、絶望して荒れ野に住み着いた、というのです。そして40年間、家庭はもうけるものの寂しい思いを持ち続けていたのが荒れ野生活前半期です。そのあと80才の時に指導者としてイスラエルの人々を荒れ野へと導き、彼の荒れ野生活後半期が始まります。

 今日はその前の、荒れ野第一期に注目をするわけですが、そこにおけるハイライトは、「燃える柴」の所です。30節から見て参りますが、彼はある時にシナイ山近くを通っていました。彼は荒れ野で羊を飼っていたので、恐らくその羊を追っている内に知らないところに踏み込んだのでしょう。すると柴の間に燃えている炎が見えました。天使の姿も見えたというのです。そこでもっとよく見ようと近づいていったとステファノは語ります。この「もっとよく見ようと近づく」という部分、またもや出エジプト記には出てこない表現です。何を意味しているのでしょうか。恐らくこれは、その後モーセが神様の声を聞いた後の様子と連動しています。「モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした」というのです。そして、そこが聖なる場所だということに気づかされ、履き物を脱いで礼拝者としての姿勢を整えるに至るのです。


   ※サイト「絵画で学ぶ旧約聖書」



 *私たちにとっての荒れ野  より抜粋

 もう一度燃える柴を見かけたところから思い起こしてみます。火が燃えているのに柴が燃え尽きない。不思議なことがあるものだと思って近づいていく。もっとよく見て自分の目でこの不思議な出来事を観察しておきたいと思った。ところが近づいていくと、目、つまり視覚ではなく耳、つまり聴覚に何かがとどいた。それは主なる神の声であった。『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神』、その声を聞いた時に、彼は目を伏せるのです。少し深読みをすることをお許し頂けるなら、こうなります。彼は目で神様の臨在のご様子を見ようと思って近づいた。しかし神様は目で見える仕方ではなく耳で聞くような、いえ、心で聞くような仕方で自分に迫っておいでになった。そこで彼は目で見て自分の力で確認をしようという考え方をやめるようになった。それまでの荒れ野の前半期、いえそれまでの三分の二の人生全体が、自分の力で生きようとするような歩みだったのではないか。しかし今からは神様の力によって導かれるような生き方をしたい。自分が神様によって導かれるのと同じように、イスラエルの人々全体が神様によって導かれるべきではないか。そのために何かお役に立てるのであれば、主よどうか私をお用い下さい。

 これがモーセ齢80歳の時に達した宗教的見地だというのです。かつて彼はエジプト人の立場から同胞イスラエル人を見ていた。連帯しているつもりでいた。見下しているつもりなど一切無かった。しかし彼はいつもイスラエル人に対して観察をする立場でいた。民の声を聞いていなかった。そのような時の40歳時点のモーセは、受け入れられることはなかった。しかし民ならぬ神をもっとよく見ようと思った80歳のモーセは、神というのは見るものではなく心を傾けて聞くことでご臨在を知ることが出来るものであるということに気づくようになる。

 モーセにとって、荒れ野に足を踏み出すというのは、40才の時と80才の時とで、二回あります。それぞれに意味があることに気づかされます。今日の説教題は「荒れ野へと脱出する民」といたしました。信仰者が、いえ教会が荒れ野に脱出するというのは、一体どういう意味があるのでしょうか。それは人間的な衝突を経験し、人のいないところのとりあえず緊急避難する場所として荒れ野に足を踏み込むという意味でしょうか。むしろ、神様とともにある生き方に価値があると気がつき、神様に全てを委ねて出発する第三期、荒れ野生活後半期のような40年の生活を始めるということなのではないでしょうか。


 私たちは、これから聖餐に与ります。主とともにある交わりによって、私たちは命を回復します。その意味で、聖餐そのものがオアシスです。かつてモーセは、自分がオアシスになってイスラエル人をもてなすことが出来ると考えていました。しかしそうではなかった。自分自身がオアシスである主との交わりによって命が与えられた時に、初めて他者の役にも立つことが出来る。主にある交わりが真に人を生かすものであることを思い、感謝を献げたいと思います。