真の神殿

2022/05/22 復活節第五主日 

「真の神殿」(使徒言行録説教第22) 745-60 牧師 上田彰

 *「継承すべきもの」について

 よく、信仰の継承の業を「バトンのリレー」と表現することがあります。ちょうど娘が小学校に入って以降最初の大きな行事である運動会の準備たけなわです。小学校一年生が参加する種目は、ダンスとリレーのようです。どちらも、皆で心を合わせなければ成功しません。特に娘が気にしているのがバトンの受け渡しのようで、トイレットペーパーの芯が練習道具になって、練習の手伝いをさせられます。トイレットペーパーの芯がバトンになるというあたりが少し微笑ましいわけですが、本人は真剣です。バトンを落とさないで受け渡しが出来るか、日頃の成果が試されます。

 数あるオリンピック競技の中でも陸上400mリレーはマラソンと並んで花形競技の一つです。昨年のオリンピックの男子リレーは、見ていた日本人が恐らく全員頭を抱えたであろうミスがありました。バトンパスの失敗です。インターネットで当時の動画を探しておりましたら、リレーの様子そのものを収録したものよりも先に、後日になってその当時の状況を検証する目的で制作されたテレビ番組の動画がヒットしました。東京オリンピックの悪夢から二ヶ月経って、当事者四人を集めて行ったインタビューやその日の競技の様子によって作られた番組です。当事者四人というのは、リレーに参加した四人、正確には参加した二人と参加するはずだった二人のことです。番組の進行役のアナウンサーがそれぞれに聞きます。あのリレーの場面の録画を見返しましたか。さすがに第一走者だけは何度か見た、と言っていました。しかしそれ以外の三人は、一度も見ていない、と答えました。日本短距離を代表するアスリート達の晴れ舞台で、バトンが渡らない悲劇が起こった、それは二ヶ月経っても見返すことが出来ないほどの大きな出来事だったのです。

 なぜバトンミスが起きてしまったか。それは戦略上やむを得ないものであった、という風に説明されます。遅くなっても安全にバトンを渡すやり方を採用せず、多少冒険をしてでもタイムを縮められるバトンの受け渡しにすることでしか金メダルを狙いにいくことはできなかった、という風に番組は展開するのです。

 細かくいうとこうなります。予選を一番遅いタイムで通過した日本男子チームが、予選一位との差である0.34秒を取り返して優勝するためには、バトンの受け渡しの区間を狭くせざるを得ない。第二走者は20センチ遠くから出発したのだそうです。番組の中の構成では、この設定変更を、「ギャンブル」と表現していました。彼らのチームは予選最下位から逆転で優勝しようとしていた。他の人に勝つという目的のための最も現実的な手段が20センチ遠い場所でのバトンパスであったのだ、これはやむを得ない選択だったのだ、と四人の選手の一人が話しています。オリンピック開催国、地元での優勝へのプレッシャーもあったのだということは推測できます。

 

 しかしその番組には競技結果を振り返る際のもう一つの見方があることを示していました。それは、バトンパス失敗の第一義的な責任を負う第一走者が、競技の直後涙を浮かべているのを他の三人が慰めている様子です。失敗を犯して突っ伏して動けなくなってしまうかも知れない、今後の競技者としての人生を全て棒に振るかもしれない失敗を犯したランナーに対して、他の三人が声をかけ、励ますのです。涙を拭いながら第一走者が歩き続ける様子をカメラがとらえます。

 走ることのなかった第四走者が語ります。彼は、別の公式大会でバトンミスを経験しているのだそうです。その時の様子を思い出し、どのように声をかければあの時の自分は楽になっただろう、そう考えながら第一走者に声をかけたと言っているのです。そこには、「競争なのだから勝たなければ意味が無い」というのとは別の次元の交わりがあることを示唆しています。

 一方でオリンピックの男子リレー決勝レースというのは、現代世界における、一つの価値観が最も先鋭的に表れている部分であることは間違いありません。それは、勝利こそが全て、という価値観です。言うまでもないことですが、今やオリンピックはお金で出来上がっている大会です。彼ら四人の優勝のためにどれほどのお金が動いているのか、想像もできないほどです。本来勝たなければならないレースでもありました。

 しかし他方で、優勝できなかった四人が、次の勝負に挑戦するために前向きになっているという番組のメッセージは、決して負け惜しみではないだろうと思います。一度失敗したら終わりというわけではありません。挑戦し続けることに意味があります。

 少し長くオリンピックについて語りました。このことは、私たちの信仰とどのように関係するでしょうか。オリンピックの話は実質的なプロの話であって、子どもたちの運動会とは関係なく、ましてや私たちの生活と関係のない出来事でしょうか。そうではありません。そのいずれにおいても、バトンを落とさないことに意味があるのです。

 信仰に置き換えてみますと、信仰を一度持って熱い思いで洗礼を受ければいいというのではなく、その後も教会に通い続け、また周囲の人に信仰を伝えることによって私たちで言えば伊豆伝道の灯を消さない、そんな信仰の継承を私たちは旨としています。

 

 *「継承すべきもの」について――信仰か神殿か

 ここまで、ステファノは3回にわたって、自分たちに委ねられてきた信仰について語ってきました。ステファノを訴えた者たちは、もともとは敵対する関係ではありません。それどころか、ステファノがパンを配ることを通じて信仰を共にしてきた仲間でさえありました。イスラエルの外で生まれ育ったユダヤ人達です。ところが信仰についての理解を巡って対立し、敵対者達はあろうことか最高法院に訴えたのです。

 三つのグループがいることになります。まずはステファノ達と、彼ら執事を選び出した使徒ペトロ達。いわば教会の中心的なメンバーです。

 ステファノを訴えたのは二番目のグループです。イスラエルを心のふるさとと信じる外国生まれのユダヤ人達で、当時力強く活動をしていた教会に身を寄せていたのですが、イエス・キリストを信じるというのではなく、むしろ教会のことをユダヤ教ナザレ派だと考えていた人たちで、ステファノが説く説教が伝統的なユダヤ教の教えと違うといってステファノを三番目のグループに訴えてしまいます。

 三番目のグループは、ユダヤ教の伝統的なグループです。福音書に出てくる、ファリサイ派とサドカイ派という対立は恐らくあったと思いますが、ここではサドカイ派が中心で構成されている最高法院のメンバー達です。最高法院というのは議会と裁判所を兼ねているところで、ユダヤ教社会における最高権力者達の集まりです。二番目のグループの訴えにより、一番目のグループの中で目立っていたステファノを呼び出し、刑に値することをしたのかどうか尋問を始めたところ、長い弁明の説教を始めたのでした。今日はその四回目になりますが、ステファノは自分たち一番目のグループと三番目のグループには本来は違いはない、目指すところは同じなのだということを言っています。「本来は」違いはないのだけれども、あなた方三番目のグループが本来の信仰が目指すところと違う状態にあるから私たち一番目のグループがきちんと信仰のバトンを受け継いでいる、そんな話をしているのです。

 

 この話をする時のステファノの眼目がよく分かるのが、ここまでの説教の中で、一度も「神殿」という言葉を使っていない、ということです。実は今日の聖書箇所で49節でしょうか、イザヤ書の引用があります。「どんな家を建ててくれると言うのか」というイザヤが取り次ぐ神様の言葉ですが、イザヤ書を見ますと、「どんな神殿を建ててくれると言うのか」となっています。つまり、ステファノは、彼ら第三のグループである最高法院のメンバー達が命よりも大事だと思っている、エルサレムの町の中心にある大きな庭付きの、司祭が沢山働いていて人が多く集まっている建物を、「神殿」とはあえて呼んでいないのです。「神殿」とはその中に神様が住むところ、という意味です。その箇所を「神殿」と呼んでしまうと、「神殿の中には神様は住んでいない」ということになるのですが、そうではなく、あえて「あなた方が神殿と呼んでいるところ、その中に神様が収まりきってしまうと本当に考えているのか」という風に問題提起をしているのです。

 そこで気づかされることがあります。神殿という言葉を使うことを意識的に避けているステファノですが、紀元前10世紀頃にソロモン王によっていわゆる「神殿」が建てられるようになる、その前に礼拝所として用いられていた施設については積極的にその名前を挙げているということです。神殿以前の礼拝施設の名前は、幕屋です。仮庵という言い方もありますが、今風にいえばテントです。少し誤解があるといけませんので丁寧に説明をしますが、ステファノは、神殿はいらない、幕屋の方がいいという風に今日の箇所で言っているわけではありません。しかしもしかするとそのように誤解を受けてステファノは訴えられ、死刑になった可能性もあります。丁寧に見るとそうではありません。例えばステファノが、神殿の中には神様はいないが、幕屋の中にはいて下さったという風に言っていれば、第三のグループとステファノとの間にはかなりの距離があることになります。しかし、ステファノはそういう話はしていません。神殿は神様が中にお入りになるには小さすぎるのではないかと言っているのですから、幕屋にも入りきることはありません。そうではなく、私たちが真の神様を拝んでいるのか?拝んでいるなら幕屋であっても神殿であっても同じではないのか?という問題提起をしているのです。その証拠になる言葉が46節にあります。「ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、神のために家を建てたのはソロモンでした」というのです。ダビデの時までは質素に幕屋を使っていたがソロモンになってからいきなり豪華絢爛な神殿を建てた、信仰が別のものになってしまった、という訳ではありません。例えばソロモン以来の神殿における礼拝の仕組みは、父ダビデが命じたものでした。神殿を建てたのはソロモンですが、その制度設計をしたのはダビデなのです。神殿建設のわざを通じて、信仰の継承がなされていることが分かります。

 そこまで踏まえた上で、ステファノは尋ねるのです。私たちが継承しなければならないのは、神殿そのものなのだろうか、それとも神殿を通じて与えられた神様への信仰なのだろうか、と。

 私たちで申しますと、教会将来計画を立案するに当たって何度も確認しているのが、教会将来計画とは、建物を四半世紀後に建て直しましょうということを目的としているのではなく、四半世紀後かそれよりもっと後にまで、私たちの信仰を手渡すことが出来るような、骨太の設計書を幻として与えられるように願おう、ということです。ちょうどリレーでいいますと、皆リレーというのはバトンを落とさないで次のランナーに渡すことだと思っています。形式的にいえばそうかもしれません。しかし大事なのは、バトンを見ないで走り出す次の走者にあわせてバトンを受け渡す、相手と自分との信頼関係なのではないでしょうか。ステファノがいいたいのは、私たちにとって大事なのは神殿そのものではなく、神殿を受け渡す際のバトンタッチの信頼関係なのではないか、もしバトンにだけ目が行ってしまうのなら私たちの信仰の継承の業はうまく行っていないことになるのではないか、という問題提起だということになります。ステファノは、仮庵という、未完成のものにあえて視線を向けました。ちょうど、出エジプトを導いたモーセが、約束の地であるカナンの地を見渡すことが許されつつも、そこに足を踏み入れることが出来なかったことと似ているかも知れません。私たちの信仰はいつも、現実化する一歩手前のところで神様から示されるヴィジョンのようなものによって生かされています。

 

 *「気づき」にいたる清貧について――現代の課題

 色々考えさせられてしまいます。ちょうど最近、ウクライナ関係の祈祷会をしたために、正教会、つまりロシアやウクライナなどに展開する旧東ローマ帝国に広がる教会の信仰に少し触れることになりました。私たちは旧西ローマ帝国に広がる教会の信仰を受け継いでいます。この正教会の人たちが非常に重んじているのが、自分たちの教会が聖書に出てくる使徒達によって建てられた教会である、ということです。ローマ・カトリック教会についてもペトロが建てたという風にされていますが、正教会はいずれも自分たちがどの使徒によって建てられたのかということを意識しています。例えばロシア教会はペトロの兄弟であるアンデレによって建てられたということになっています。アンデレ以来、按手礼によって信仰的な衣鉢を受け継いで今の教会に至っていると考えています。それに対して私たち福音主義教会は、聖書をよく読めば、イエス様がペトロに対して語っている「教会の約束」は、「あなたペトロが今告白した、信仰告白の上に私の教会を建てる」(マタイ16章)という約束ですから、信仰の継承をするという意味では全く同じです。そして今回、彼らが重んじている修道院の最も大事な決まり事が「清貧」であるということから今の戦争の出来事までを見渡す視点を語る一人の司祭へのインタビューを通じて、私たちが同意し、学ぶことの出来る信仰的視点を聞くことが出来ました。インタビューの一部をご紹介したいと思います。

 

上田:ヨーロッパでは「お客」と「お客でない人」の線引きが強い。これは日本もそうなんだけど、ヨーロッパ的な病と言えるのでは。困っている人に気付けない傾向。しかしある神学者が言っている。困っている人がいたら助けるというのは大前提だが、助けを求めている人がいることに気づけるように努める、ということも大事だ、ということだ。気づきの重要性。これをどういう風に表現したら良いだろうか。

司祭:そういう視点は大事だ。特に私のような修道士にとって。修道院のモットーといえば、「清貧」、「従順」、「貞操」。「清貧」は決定的に重要。もし清貧のうちにいなければ、家のこと、車のこと、畑のことで頭がいっぱいになる。

修道士としての「清貧」は実は「義務」ではない。しかし貧しくなければ、神を見失うのも事実だ。財産管理で忙しくなるからね。神様の価値観ではなくて自分の価値観で動いてしまう。だから清貧は重要なんだが、これは所有を放棄しようという意味ではない。神のヴィジョンが第一で、自分のがその後となっていれば良い。

上田:だから「禁欲」なんだよね。

司祭:そうだ。だから断食を時々すべきだ。訓練になるからね。「肉を絶つ」ってのはあくまで一例であって、現代において控えた方がいいものは変わってきた。facebookinstagram、色々な習慣...。そういうのを脇に置くことで隣人に向かい合う時間がとれる。助けを必要としている人がいることに気づける。これがアスケーゼ(禁欲)だ。(ここで大きなため息)しかし、現代にアスケーゼを実践する人がどれだけいることか!

 

この視点の延長線上に、今二つの国の間で起こっている戦争の解決を理解する道筋もあると思います。経済制裁をもっときつく行うことを提言する声があります。しかし重要なのは、その制裁とやらを通じて、相手が何かに気づくかどうかなのではないでしょうか。この戦争で本当に重要なのは、制裁とか武器の供与ではなく、気づきのための祈りであり、そこに教会の役割もあるのではないかと思っています。

 このような話を聞きながら、正教会の信仰継承の秘訣を聞いたような気がしています。正教会がこれまで2000年続く信仰を誇り、これから2000年続く信仰を展望するやりかたに私たちも学ぶことができるのではないかと思います。その信仰継承の秘訣とは、彼ら自身が考えている、いわゆる使徒継承ではなく、むしろアスケーゼ(禁欲)とも関係する清貧の思想なのではないか、ということです。もしかするとそこで私たちはよく、ああ正教会の人たちは信仰の継承を、私たちのように信仰告白の継承ではなく、信仰告白をした人の継承だと勘違いしている、精神ではなくバトンそのものの継承だと勘違いしているという風に誤解をしているかも知れません。それは、時々人が「教会」というと「信仰」ではなく「建物」のことであると勘違いするのに似ているかも知れません。しかし気づかされるのは、彼らがバトンであるところの使徒以来の按手礼の継承をしているということと同時に、使徒以来培ってきた清貧の思想もまた継承しているということです。

 ステファノが実際に殉教を遂げるところについては次回に扱いたいと思いますが、私たちはこのステファノが発言する最後の言葉に注目をすることが出来ます。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」。ステファノもまた、神様から幻を与えられ、それによって生かされた信仰者です。「心の清い者は幸いである、彼らは神を見る」。この主イエスの言葉に立ち戻りたいと思います。