信じる事ができる幸い

2022/05/29 昇天後主日礼拝 

「信じることが出来る幸い」 創世記9:1-17            牧師 上田文


最近、我が家は「鎌倉殿の13人」という大河ドラマを見るのが、一週間の楽しみとなっています。このドラマの中で、娘が関心を持った場面があります。それは、源頼朝が弟の義経と、弓矢の練習をしながら会話をするシーンです。娘はこのシーンが格好良く感じたのでしょう。次の日に、早速、お父さんと百円均一の店に行き、おもちゃの弓矢を買ってきました。そして、何度も何度もこのシーンをお父さんと繰り返しやっていました。ところが、最近、この弓矢を見かけなくなったのです。どうしてだろうと思っていたのですが、彰牧師がその理由を教えてくれました。私たちは、相変わらず「鎌倉殿の13人」を家族で見ているのですが、以前に壇ノ浦の戦いの場面がありました。娘は、この壇ノ浦の戦いのシーンで、人が弓矢に刺さって次々と死んでいくのを見たのでした。彰牧師は、それから、娘が弓矢を全く触らなくなったというのです。きっと、彼女はこの弓矢が、命を奪う道具である事を知ったのだと思います。この弓矢の弓はヘブライ語で虹を表す言葉としても使われます。今日の聖書の話は、神さまが人間との間に虹の契約をしてくださった話です。神さまは何故、命を奪う「弓」を表す言葉、「虹」によって人間と契約をしてくださったのでしょうか。この契約の恵みを、今日は聖書から聞いてみたいと思います。


虹の契約。これは、ノアの洪水の物語の最後の締めくくりの部分です。ノアの洪水物語、又はノアの箱舟として良く知られているこの物語はとても長い話ですので、少し前の部分を振り返りたいと思います。

天地創造によって神さまにかたどって造られた人間は、神さまの祝福によって、全地に広がりました。しかし、人間は、神さまから離れてしまい、地上には人の悪が満ちるようになっていました。人の罪は、善悪を知る事のできる木の実を食べる事によって始まりました。しかし、善悪の知識の木の実を食べた人は、善を知る事なく、悪ばかりを行うようになったのでした。神さまはこの事をご覧になり、とても悲しまれ、人間を創造したことを後悔されました。そして、この地上から悪を無くすために、洪水によって人間と動物をぬぐい去ることを決意されました。しかし、その中でノアを選び、大きな箱舟を造らせてノアの家族と生き物を乗せ、生きのびさせて、新しい世界をはじめようとされます。そして、その一年後、洪水の水が引いた後、ノアの家族と生き物たちは地上に降り新たな歩みを始めたのでした。その後の話が今日の話です。


 神さまは言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」。創世記の1章にも同じ言葉が出てきます。神さまは、人間に与えられた祝福が再び与えられました。洪水による裁きが終わり、祝福に満ちた世界が再創造された事を、神さまご自身が喜んでくださるのです。けれども、洪水によってすべての悪が洗い流されたわけではありません。神さまは、洪水以前の世界に生きていたノアを残されています。6章には、このノアについて「ノアは神に従う、無垢な人であった」とあります。決して、全く悪の無い人であったとは書かれていないのです。ノアは、自分の心に悪がある事を知っていたのでしょう。だからこそ、神さまにその赦しを求めて礼拝を捧げ、神さまに従おうとしていたのです。そのため、ノアは箱舟に乗せられ、神さまと共に、新しい世界を造る者として選ばれたのでした。ノアは、特別な人ではありません。彼が、もし神さまから離れてしまうのならば、洪水でぬぐい去られた、人間と同じようになるでしょう。悪に支配されてしまうのです。彼は、神さまとの交わりに生きる事においてのみ、神さまの祝福の中に生きる、新しい世界の人間とされているのでした。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」。ノアに与えられたこの祝福は、神さまが、神さまと繋がる人間が生きて行くことを根本的に喜んで下さる言葉です。神さまは、神さまに繋がるノアにも、そして今礼拝に集まる私たちにも、あなたたたちが生きている事は、良いこと、すばらしいことだと言って下さっているのです。


 この新しい世界は、それ以前と全く同様の世界が再創造されたという訳ではありません。幾つかの点で違うところがあり、新しいことが起こっています。2節には、このようにあります。「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うものと海のすべての魚(うお)と共に、あなたたちの間に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる」。神さまは、再創造以前の世界では「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(1:28)と言われました。神さまは人間に、この世に生きる被造物を支配し、管理する務めをお与えになっていました。しかし、善悪の木の実を食べ、善も悪も知っているはずの人間は、なぜか、善を行うことができません。被造物を支配し、管理する務めを与えられることは、善い事、正しい事、世界の為になることをより多く行うことが出来る力を与えられているという事です。しかし、人間は、支配し管理する務めを与えられると、それによって悪い事をしてしまう。神さまから離れて、自分の命を伸ばす事だけを考えてしまったのかもしれません。人間は、善悪の知識を得たとしても、それを正しく用いる事が出来ないのでした。そこで、神さまは新しい世界に出て来たノアに言われました。すべての被造物は「あなたたちの前に恐れおののく」。動物たちと人間との間に、恐れおののきが生まれるのです。両者の関係がうまくいかなくなるのです。なぜかというと、「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食料とするがよい。わたしはこれらすべてを青草と同じようにあなたたちに与える」とあるように、神さまは、動物を、つまり肉を、人間の食料にすることを許可されたからです。しかし、人間が洪水前の世界で動物を殺していなかったとはとても考えられません。きっと、自分たちのお腹を満たすために、むやみに動物を殺していたと考えられます。善悪を知りながら、悪ばかりを行ってしまう、ねじ曲がった罪人。それが人間です。しかし、このようなねじれのある人間に神さまは、許可という形で、その歪みを正そうとしてくださったのかもしれません。


だから、神さまはこう続けられます。「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」。レビ記や申命記などでも、血は命であるので、肉と共に食べてはならない。血はすべて地面にながさなければならないと記されています。血は命そのものであり、神さまのものであるということです。そして、人間が食べることが出来る、自分のものとすることが出来るのは、肉であって、神さまが息を吹き入れ与えられた命ではないと言われるのです。人間は、動物を殺して食料とすることを許可されましたが、その命は神さまにお返しすることが求められているのです。生きるために、共に生きている被造物である動物を殺すのは、人間だけではありません。動物たちもしていることです。しかし、動物に恐れられ、その動物を支配し、管理する者とされたのは、人間だけです。神さまは、神さまから離れ、自分が神となり、新しい世界を支配しようとする、人間が持つねじ曲がり、罪をこのようにして、未然に防いでくださったのでした。そこには、人間に罪を犯させたくないという、神さまの配慮があります。神さまは、動物の命も神のもの、人間がむやみに殺したり、命を自由に扱ったりしてはいけないと、すべての動物の命の尊厳を、人間に教えられたのでした。


 このような、神さまの憐れみは、5節6節にも記されています。「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。人の命である血が流される、つまり、人が殺され、命を奪い取られることがあるのならば、神さまご自身がその賠償を要求すると言われるのです。ここには、ねじ曲がりのある人間でも、人間の命はわたしのもの、わたしの大切な命であるという神さまの宣言が込められています。そして、その理由を教えてくださいます。「人は神にかたどって造られた」。ねじ曲がりがあり、罪がある人間は、神さまにかたどって造られたと言われるのです。神さまは、ねじ曲がりのある人間は、ねじ曲がりのある神さま自らの姿であると言ってくださったのです。このことにより、「人の血が流す者は、人によって自分の血を流される」という言葉は、神さまの深い愛の込められた言葉である事であることが分かります。神さまは、洪水によって流された罪人の血をとても悲しんでくださいました。どのような人間であっても、人の命を大切にしてくださる神さまが、自らが行った裁きの洪水よって流された血を悔やまれるのです。しかし、神さまの後悔は、人間の後悔とは違います。人間の後悔は、もう手遅れ、何ともならない現実に折り合いをつけてやっていくしかありません。しかし、神さまは、その状況を根本的に改める行動をされるます。「人によって自分の血をながされる」。神さま自らが、ねじ曲がった人間のために血を流してくださると言われるのです。神さまが、自らに似て、弓のようにねじ曲がった人間と、そして自分を、真っすぐになるように、正しくなるようにしてくださるのです。(?)


 再び創造された、新しい世界。この世界は、神さまご自身が人間の罪を引き受けてくださる世界です。そして、この新しい世界で神さまは契約をしてくださいました。もう二度と、洪水によって地の全ての生き物を滅ぼすようなことはしないと、約束してくださったのでした。そして、神さまは、この約束である契約の印として、雲の中に虹を置いてくださいました。また、この虹が現れると、神さまは、神さまと人間、そしてすべての生き物との間に立てた契約を心に留めてくださるとあります(15)。神さまが虹を見て、この契約を思い起こしてくださるのです。

 洪水以前の世界で、神さまは、人間のこの上ない堕落と罪の姿を見られました。そして、洪水を起こされました。裁きを行われたのです。しかし、新しい世界では、人間の歪みと堕落に心を留めるのではなく、虹に心を留めると言ってくださるのです。「虹」それは、歪みや罪を持つ人間を、神さまがそれでも愛してくださり、罪を引き受け救おうとしてくださる契約のしるしです。


 説教の冒頭で、虹は「弓」を表す言葉だという話をしました。弓は、敵を攻撃し、命を取る武器です。神さまはこの契約において、ねじ曲がった人間を裁き、命をぬぐい去る武器である弓を置いて下さったのです。善悪を知りながら、善を行えない人間に弓を向けるのではなく、人間の歪みを自らの物として引き受けてくださったのでした。

また、弓はアーチのように曲がっています。それになぞらえて、ある牧師はこのように言います。虹のあのアーチが弓であるとして、そこに弦が張られ、矢が放たれるのならば、矢はどちらに向かっていくか、それは、神さまがおられる天へ向かっていく。アーチのように曲がった弓は、曲がった人間と言えるかもしれません。神さまは、曲がった人間である弓矢を、天に向けて置かれることで、人間の悪を引き受けてくださったのでした。矢は天へ、神さまご自身の方向に向けられるようになったのでした。


 神さまが、曲がった弓を人間の方向ではなく、御自身の方向に向けられる。それは、神さまの独り子イエス・キリストが、全世界の全ての人間の罪を負って十字架について死んで下さったことにも繋がります。イエスさまは、私たちの身代わりとなり、犠牲の供え物となって死んで下さいました。そして、神さまは、その独り子を復活させてくださり、私たちの罪を赦し、新しく造り替えてくださり、神の国を目指す者としてくださいました。

その事を覚える時、神さまが心を留めてくださる虹は、私たちにとっても神さまの良き知らせと恵みを指し示しているものとなります。


 この良き知らせ、福音を信じる信仰を神さまが今も聖霊によって私たちに与えてくださっています。私たちは今、この福音を受け継ぐ者として、教会に召し集められています。私たちの信仰は、イエスさまの十字架と復活によって与えられたものですが、それは、洪水の後の新しい世界の始まりにおいて与えられた祝福を受け継いでいる者です。ノアに与えられた、罪人への憐れみと祝福が、イエスさまを通して、今ここにいる私たちにも与えられています。


最後に福音書の言葉を読んで終わりたいと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。私たちは、この神さまの憐れみ信じ、イエスさまによって与えられた新しい命を大切に生きたいのです。神さまが造られた全ての命を大切に生きたいのです。そして、いつか乳飲み子は、毒蛇の穴に戯れ、幼子が蝮の巣の手を入れることが出来るような、全ての事が完成された、神の国が来ると信じ、希望をもって新しい世界の中を歩み続けたいのです。