人が独りでいるのは良くない

2022/05/15 復活節第四主日礼拝 

「人が独りでいるのは良くない」 創世記218-24         牧師 上田文

 

先週は、母の日でした。娘は、教会学校で作った首飾りをプレゼントしてくれました。そして、いつものようにお手紙が付いていました。なぜ、いつものようになのかというと、娘は、ほぼ毎日お手紙をくれるからです。「ママ大好き。一緒にいようね。あゆみより」。だとか、「ママ、今日も楽しかった。あゆみより」だとか。最近は、「ママ、幸せになりますように。アーメン」と書かれているリボン付きのカードを作って、部屋に飾ってくれました。そして、このお手紙には、必ずお母さんの笑っている顔が描かれています。お母さんは、いつもヘラヘラ笑っているからなのか、それとも、怒らないで笑っていて欲しいという願いが込められているのか、分かりません。私は、このお手紙をもらいながら、ある事に気づきました。娘のお手紙についている絵には、自分の顔ではなく、お父さんやお母さんや、大切にしているクマの人形が多いという事です。そして、自分を描く時には、その隣に必ず、お父さんやお母さんやクマのぬいぐるみが一緒に笑っている絵を描くのです。

 娘は、なぜ、自分ではなく両親やクマの絵を描くのでしょうか。それは、自分の顔を鏡でのぞき込むよりも、両親の顔を見る機会が多いからかもしれません。だから、顔を描く時には、いつも見ている顔を描くのです。彼女がいつも見ている顔は、自分の顔ではなく、両親の顔であり、友だちの顔であり、クマの人形の顔なのです。この事は、娘だけに限られたものではありません。私たちは、自分の顔を見るよりも、さまざまな他人の顔を見ている時間の方が多いと思います。むしろ、自分の顔を見るというのは、自分が写っている鏡をのぞき込むという、特殊な事のようにさえ思います。このように考えると、相手を見て生活するというのは、神さまが天地の創造と共に私たちに与えてくださった、とても自然な空間のように思います。今日の話は、神さまが「人が独りでいるのは良くない」と、共に生きる人を造られた話です。神さまが造られた、人が人の顔を見て生きる世界とはどのような世界なのでしょうか。

 

 今日の聖書には、人間の話が書かれています。神さまが、人間を創造され、その人間をエデンの園に置かれ、そこで人間が植物に養われ、動物たちに出会い、女と出会っていく物語です。人がさまざまな出会いを経験していくのです。ここで言う「人」とは、神さまが土の塵で形づくり、その鼻に命の息を吹き入れ「生きる者」となった「人」のことです。この「人」は「アダム」と呼ばれています。皆さんは、この「アダム」と聞いて、男だと思うでしょうか、女だと思うでしょうか。2章の前半を読む限りでは、まだ「アダム」が男だとは言い切れません。「アダム」は、神さまによって「女」が造られてからは、「男」として出てきます。しかし、神さまによって「女」が造られるまでは、ただ「人である」としか言えないのです。なぜ、このような事を言うかというと、しばしば、この部分を使って「男から女は創造された」とか、「女は男を補助するために造られた」という話を聞くからです。しかし、この聖書箇所はそのような単純な話をしているのではありません。神さまが造られたエデンの園に、神さまが造られた人間が置かれ養われるというこの物語は、人間が自分と異なった者とどのように生きて行かなければならないのか、その秩序を教えてくれる物語です。

 

 18節をもう一度読んで見ましょう。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」。神さまの御心が表された言葉です。神さまは、人は独りでいるのは良くない、彼に合う助ける者と共に生きるべきだと思われたのでした。そこで、神さまは、「女」を造られたのです。「人が独りでいるのは良くない」。この「良くない」という言葉は、「良い」の反対の言葉です。「良い」という言葉は、創世記に沢山出てきます。「神はこれを見て、良しとされた」という言葉です。神さまは、ご自分が造られた物を見て「思っていた通りになった」。「完成した。」「良い出来だと思われた」。これが、「良い」という言葉の意味です。ですから、「良くない」は、「未完成だ」「不完全だ」「まだ、神さまのご意思とは何か違う」と言うことになります。だから、神さまは続けて言われます。「彼に合う助ける者を造ろう」。この言葉を「彼にふさわしい助け手を造ろう」と書いている聖書があります。苦労して日本語に訳した言葉だと思います。しかし、何だかスッキリしません。「彼に合う」や「彼にふさわしい」と聞くとき私たちは、何かとても世俗的な価値判断がそこに入っている気がするのです。彼、アダムに相応しいとか、アダムに似合うといった、アダムという主体とその補助のような価値判断がそこにあるような気がするのです。しかし、この「合う」という言葉は、「フィットする」とか「整合する」というように、片方がなければ、もう片方は意味をなさないような相手として、互いがとても重要な存在で、それが無いと死んでしまうような相手として「合う」という言葉が使われているのです。そのため、次の「助ける者」も、アダムが生きやすいように助ける者という意味ではなくなります。「助ける者」とは、互いに顔と顔を合わせる者、真正面から向き合う者という言葉です。対等に向き合う存在という意味です。神さまは、人が人として生きて行くためには、人と対等に真正面から向き合う存在が必要であると思われたのでした。

 

 けれども、神さまはとても不思議な事をなさいます。人と対等に正面から向き合うパートナーとして、直ちに「女」を造られたわけではありません。野のあらゆる獣と空のあらゆる鳥を造られるのです。そして、聖書には、「それらを人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」と書かれています。(19)。名前を付けるというのは、どのような意味があるのかと思います。 

そこで、娘が、頂いたお人形たちに名前を付ける時の事を考えてみました。娘は、幾つかのクマの人形をとても大切にしています。その中には「クマラ君」という名前の人形がいます。白いクマで、おしゃれな外国の柄のリボンをしています。娘は、このおしゃれなリボンを見て、海外の事を想像したのかもしれません。そこで、「コアラ」をもじって「クマラ」という名前を付けたのです。もっと、ややこしくて、それでいて見事に表現した名前のクマがいます。「おとうと」という名前です。この「おとうと」という名前のクマの人形は、いつも彼女と一緒にいて、彼女はこの人形のお世話をしたり、いろいろな事を教えたりします。娘は、きっとそれぞれのクマの人形に名前を付けて、自分とその人形の関係を作っているのです。人形に名前を付けて、名前を呼ぶことによって、自分が生きている世界の中に人形を迎え入れているのです。神さまは、「人がそれぞれの動物をどう呼ぶか見ておられた」(19)というのは、人が動物たちとどのような関わりを持つのか、また人は動物たちをどのように受け入れるのかを、見ておられたということなのかもしれません。

人は、動物たちとの出会いを喜び、互いに正面から向き合う関係を求めて次々に名前を付けました。しかし、その動物たちの中には、共に向かい合って、助け合うような関係の者を見つけることは出来ませんでした(20)。人は、とても残念で疲れたと思います。しかし、この事を通して、神さまは、人の心を育てられたのでしょう。神さまが造られたエデンの園で、その地を耕し守る事は、独りではとても難しく、寂しく、辛いと、自らの不完全さを自覚させたのかもしれません。そして、共に生きるパートナーが欲しいという心を育てられたように思うのです。人はきっと、自分と同じような人間をパートナーとして探し始めたのではないでしょうか。

 

 しかし、主なる神さまは、「人を深い眠りに落とされた」とあります。神さまは、人の心を育てられた上で、深い眠りに落とされるのです。この深い眠りというのは、人の心、意志は全くない状態、仮死状態を表しています。人の心を育てられた神さまは、人の意志が全く関与しない状態の時に、人のパートナーを造られたのでした。人のパートナーつまり、正面から向き合う関係の者は、人は自分で見つけ出したわけでも、人が自分で作ったわけでもないという事です。人と共に生きる人は、神さまが造ってくださったのです。また、神さまは、人のあばら骨の一部を抜き取り、その骨で女を造りあげられたとあります。あばら骨というのは、心に一番近い所にある骨です。神さまは、動物たちとの交わりを喜び、エデンの園を独りで治める厳しさや寂しさなどを人の心に教え、真のパートナーを求める人の心を育てた後で、その人の心に一番近い所から、もう一人の人である「女」を造られたのでした。しかし、先ほども言ったように、この「人」、「女」の創造に、人は全く関与していません。人は、神さまによって造られ、生きる者です。そのため、人が人を支配することなど出来ません。人が思いのままに、人を動かすことも出来ないのです。そこに、神さまが求められる、人と人との関係が表されています。

 

 人であるアダムは、神さまによって一度仮死状態になり、再び命を与えられた新しい人となっていました。そして、新しい人となったアダムに、神さまは真のパートナーとして「女」を連れて来られました。聖書には、「主なる神が彼女を人のところへ連れてこられると」(22)と書かれています。神さまは、アダムからもう一人のアダムを造られたのではなく、「女」を造られたのでした。この「女」が造られたことによって、新しいアダムは「男」となりました。男と女、それは、同じ性質をもった別の存在です。神さまは、アダムの心の近くのあばら骨から、心を持った、全く別の人を造られたと言えるかも知れません。

 

 心を持った別の存在。それは、私たちの隣人とも言えます。私たちは、アダムと同じように新しい命を与えられた者です。私たちは、洗礼を授けられる時に、一度死に新しい命を与えられています。そして、新しい人とされています。この私たちに、神さまが隣人を与えてくださるのです。教会にも、そして世の中にも私たちと同じように心を持った、しかし全く別の人が集められています。神さまはこのようにして、人に正面から向き合うパートナーに出会わせ、神の国を完成させようとされているのです。

 

 アダムは、女に出会いました。そして、名前を付けるのです。相手を認識して、相手を自分の生きる世界のどこに置くか位置づけをするのです。しかし、この正面から向き合うパートナーは、今まで出会った動物とは、全く違っている事が分かります。人と同じ「心」を持っているのです。アダムは、ここで初めて話をします。人は喜びに溢れて、自分の心を伝えるのです。「ついに、これこそ私の骨の骨、わたしの肉の肉」(23)。日本語でも、「骨肉」というのは、肉親や親子を表す言葉として使われますが、「骨の骨、肉の肉」とは、さらにそれ以上の強い結びつきを言い表しています。アダムは、パートナーをこれ以上強い結びつきは無い相手として迎え入れたのでした。そして、言います。「これこそ、女(イーシャ)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)からとられたものだから」。イーシャとイシュは、ヘブライ語です。日本語では、女と男は違う言葉ですが、ヘブライ語では、イーシャを男性形で読むとイシュとなり、イシュを女性形で読むとイーシャとなります。つまり、男と女、イシュとイーシャは、全く対等な関係、互いに助け合う事の出来る関係です。アダムは、神さまが「彼に合う助ける者を造ろう」と望まれた通りに、互いに、対等に正面から向き合えるパートナーとして、女を受け止めたのです。そして、この事によって人は不完全な者から、「良い者」「完全な者」とされたのでした。これは、女も同じです。女が造られた時に、独りであった人は男となりました。神さまは、心の近くのあばら骨から「女」を造りました。「女」も心を持ち、互いに愛し合い、互いの愛を受け止めるためにそう造られたのです。24節には、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。女は、神さまのご意思の通りに、男の愛を受け止めたのでしょう。この事によって、女もまた完全な者となりました。

この事は、私たちも同じです。正面から向き合うパートナー、同じ人間の心を持っているけれども、全く違う存在。それは、男女だけの事ではありません。神さまが私たちに与えてくださる、親も子も友だちも、仕事先の同僚も、全ての隣人を含んでいます。私たちが顔を合わせる全ての者は、神さまが造ってくださり、与えてくださったのです。神さまは、私たちを愛し、命を与え、良い者とするために、隣人を与えてくだっています。私たちは、そのひとりひとりによって、完全な者とされ、神の国を目指す者とされるのです。

 

 しかし、私たちはどうでしょうか。私たちは、普段どのように隣人と関わっているでしょうか。冒頭で娘の話をしました。彼女はママ大好き、今日も楽しかったと、一緒にいる事をとても喜んでくれて、大切にしてくれます。だから、彼女は自分と一緒にいる相手の顔を必ず笑顔で描くのです。しかし、私たち大人は、どうでしょうか。疲れれば、疲れるほど他者といる事が煩わしくなるような気がします。疲れると、自分が不完全になる事を実感する事があります。イライラしますし、怒りっぽくなります。放っておいて欲しい、独りにしてほしいと思う事があります。不完全であるのに、さらに不完全になるような事を望むのです。教会でも同じです。新しく教会に来た人や、自分と違う考えを持った人に、親切にできません。それは、私たちが神さまの御心から離れてしまっているからです。「人が独りでいるのは良くない」と言うわれる神さまのご意思から離れているのです。それは、神さまの祝福から離れてしまっていると言えるかもしれません。そのため、他者との関係は喜びをもたらすのではなく、罪をもたらし、苦しいものとなり、互いに傷つけあうようなものとなってしまうのです。私たちは、神さまに「良い」と言って頂けない、不完全な人間のままのような気がします。

 けれども、神さまはこのような私たちの心を知り、真に正面から向き合って共に生きてくれる方を与えてくださいました。イエスさまです。イエスさまは、不完全な、隣人と共に生きる事の出来ない私たちと共に生きる事を選んでくださいました。そして、隣人と共に生きる事の出来ない私たち人間が、再び助け合って生きる事ができるように、また、再び神さまによって完全な「良い者」とされるために十字架に架かってくださいました。私たちは、このイエスさまを信じ、真に愛し、イエスさまと共に生きる時に、日々完全な新しい人とされていきます。神さまが私たちを、作り替えて下さいます。そして、そのことによって世界が、また私たちが何か根本的な所から変えられていくのです。神さまがもたらしてくださる、イエスさまと隣人との出会いというのは、そのような事です。

 

イエスさまを信じ、洗礼を受け、新しい命を与えられた私たちは、その命を生きるために、協力し、愛し合う者とされています。隣人の命は、神さまが造ってくださった尊い命なのだと、伝えなければなりません。この命は、争い、殺し合うための命ではないのです。イエスさまは、神さまから離れようとしてしまう私たちの手を握り続けてくださっています。私たちが離れても、イエスさまは私たちの正面から向かい合う者として、側に居続けてくださっています。真の隣人となってくださるのです。そして、人と人との関係も、神さまとの関係も修復し続けてくださっています。私たちは、このイエスさまによって再び完全な者とされるのです。イエス・キリストの十字架によってこそ、私たちは神さまが造られた世界で生きる本当の喜びを回復する事が出来ます。イエスさまが、今日も私たちの名を呼び、礼拝に集めてくださり、私たちを助ける者、本当に正面から向かい合うパートナーとなってくださるからです。イエスさまとの交わりに生きる時、私たちは初めて、隣人と交わりに生きる事が出来ます。イエスさまによって、私たちは他者である隣人と交わる喜びが回復されるのです。そして、このような交わりが、この教会からこの国に、そして、世界に広がる事を神さまは望んでいてくださいます。私たちは、多く人の名を呼び、今日もあなたといて楽しかった。一緒にいて良かった。あなたが幸せでありますようにと、言い合いたいと思います。